土木技師 田辺朔郎を知っていますか? | レールは、こころをつなぐ道。

 

先日の記事で伏見チンチン電車の会の活動再開告知をしていたブンちゃん(左)・サクちゃん(右)コンビは高木文平と田辺朔郎で…

 

 


二人は京都に日本最初の電気鉄道を走らせた功績者で、実業家高木文平については以前紹介しました。

 

もう一人の田辺朔郎は「活動再開」動画でブンちゃんが「キミはええね。京都では知らん者はおらん。」と言ってますが…

青年技師として琵琶湖疏水を開通させ、水運をはじめ京都の水事情を画期的に改善した功労者として、小学校で習うので京都市民で知らない人はいない人物なのです。 ↓田辺朔郎紀功碑(蹴上)

 

田辺朔郎は1861(文久元)年生まれで、科学者を志して工部大学校で土木工学を専攻し、在学中に京都府知事・北垣国道が京都の活性化のため、懸案だった琵琶湖疏水工事をすることを知り卒業研究として京都へ調査旅行をして卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させ、学長の推薦により1883(明治16)年に卒業と同時に京都府に採用され、21歳で琵琶湖疏水の担当となりました。

工事途中の1888(明治21)年に高木文平とともに渡米し、各地の現状を視察し、当初予定の水車動力を水力発電に変更して蹴上発電所を建設し、この変更が京都の近代化に大いに寄与しました。

 

「活動再開」動画で二人はその頃のことを話していたのです。

 

 

Wikipediaより

第3代京都府知事 北垣国道(きたがきくにみち)⇒ こちら

1836(天保7)年~1916(大正5)年

幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家
高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任


 

土木技師 田辺朔朗(たなべさくろう)⇒ こちら

1861(文久元)年~1944(昭和19)年

土木技術者・工学者 琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた 

北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手した

1890(明治23)年第一疏水完成後、北垣国道の長女と結婚

 

 

 

実業家 高木文平(たかぎぶんぺい)⇒ こちら

1843(天保14)年~1910(明治43)年
丹波国北桑田郡神吉村(現・京都府南丹市)の豪農
明治維新後、地元で学校教育の指導などを行っていたが実業界に転じ、1882年には京都商工会議所の初代会長
1888年には米国視察を経験し、電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走し「京都電気鉄道会社」を立ち上げ、自ら社長に就任
府議会議員、市議会議員として活躍

 

 

 

そして「活動再開」動画でブンちゃんが「飯は味なく、夜は眠れず。」と三度も言ってますが…

 

この言葉は1888年二人の米国視察旅行の後半、予定をほぼ終えた時の言葉で、視察も終わろうとしているその時期に高木文平は何を嘆いていたのでしょうか…

 

つづく