飯は味なく、夜は眠れず。 | レールは、こころをつなぐ道。

先日の伏見チンチン電車の会の「活動再開」動画で三度もブンちゃんが嘆いていた「飯は味なく、夜は眠れず。」とは…

 

明治21(1888)年実業家高木文平(45歳)と田辺朔郎技師(27歳)の二人の琵琶湖疏水工事に関する渡米視察時の回顧漫才ですが…
 

時代は変わり…

平成8(1996)年 高木文平の故郷、丹波の神吉で、古びた数冊の印刷物の小冊子が見つかり、それは、明治27(1894)年に行われた水電協会の発会式における高木文平の講演の要旨である事が分かった。
 

この小冊子を読んだ高木文平の孫の高木誠(当時71歳)は…

百年ほど前の、日本最初の電気鉄道が京都に走る前年の講演で、明治21(1888)年の二人の視察渡米からまだ5年半しか経っていない頃で、この講演内容には大きな誤りや作為が存在するとは考え難い…

ところが、現在ほとんどの関係書物は、この文平の小冊子とは異なり「アスペンで水力発電が成功したとの情報を得て二人が渡米した」としている事。

それらをはじめ多くの相違点があることに疑問を抱いたのでした。

 

 

その小冊子の中に「飯は味なく、夜は眠れず。」と有り、本来の視察最終目的地ホリヨークで、間もなく帰国のはずの二人が大変失望落胆していた事が分かったのです。

※小冊子では下記の記述となっている。

「想フニ我京都市民ノ熱望ハ前代未聞ノ工事ニシテ其工既ニ央ハ(半ば) ニ進ミ、好模範ヲ海外ニ採ントシテ我等ヲ派遣シタルニモ拘ラス、一モ模範ノ採ル可(べ)キナキニ至ツテハ、実ニ労シテ功ナク、五里霧中ニ彷徨シ、徒ラ(いたずら)ニ旅費ヲ費シタルノミ。此時ノ失聖ハ殆ト名状ス可(べ)カラス。食卓前ニアルモ飲食味ナク、深夜臥床ニ就クモ一睡モ貧(むさぼ)ル能ハス。実ニ進退維(これ)谷(きわま)ツタリ。於此乎(ここに於いてか、ここで)一層旅ノ疲レヲ覚エタリ」

 

 

そして高木誠は、「水力電気の起源をめぐる今日のいわゆる通説と、文平の小冊子の内容のどちらが真実なのか? 一見異なった二つの説は、どこで交わり、どこが反するのだろうか?」……

つぎつぎと湧く疑問に、その真相を知りたいと、二人が歩んだアメリカでの足跡を、その年、平成8(1996)年に自分もたどって、現地に残る資料を自身で検証しようと旅立ったのでした。

 

つづく

 


Wikipediaより

第3代京都府知事 北垣国道(きたがきくにみち)⇒ こちら

1836(天保7)年~1916(大正5)年

幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家

琵琶湖疏水工事計画
高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任


 

土木技師 田辺朔朗(たなべさくろう)⇒ こちら

1861(文久元)年~1944(昭和19)年

土木技術者・工学者 琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた 

北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手した

1890(明治23)年第一疏水完成後、北垣国道の長女と結婚

 

 

 

実業家 高木文平(たかぎぶんぺい)⇒ こちら

1843(天保14)年~1910(明治43)年
丹波国北桑田郡神吉村(現・京都府南丹市)の豪農
明治維新後、地元で学校教育の指導などを行っていたが実業界に転じ、1882年には京都商工会議所の初代会長
1888年には米国視察を経験し、電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走し「京都電気鉄道会社」を立ち上げ、自ら社長に就任
府議会議員、市議会議員として活躍