再会した人。

それは同郷のM子ちゃん。
彼女は私より10歳年下ですが、しっかり者で即行動派の
ツワモノです。

彼女と私は偶然にも同じ日、同じ時間に結婚しました。

お互い東京の人と結婚したので同じ都には住んでましたが、
離れた場所だったので会う機会はありませんでした。
ところが、旦那さんの仕事の関係で私の住んでいる市に
引っ越してきたのです。
彼女はすでに二人の子持ちでした。

彼女が初めてうちに遊びに来た時には、すでに私たちはその時
4年間住んだアパートを出て隣りの市に引っ越す荷造りを
していました。

彼女の住んでいる位置からはそのアパートでも新しい
引っ越し先でも距離はほぼ同じでしたので、引越し後に
家族を招待しました。

その後、M子ちゃんから連絡があり、うちの子たちにピアノを
教えてほしい、というのです。

私は7年間ヤ〇ハで音楽講師をしていました。
専門はエレクトーンでしたが、ピアノも中級者まで教えていました。
それから退職して東京でボランティア活動をした後、
アメリカへ語学留学しました。
帰国する時にはヤ〇ハへの復帰資格はもう失っていたので、
東京の外資会社へ就職しました。
大家さんが孫娘(当時小3)にピアノを教えてほしい、というので、
一人だけ教えていました。
仕事をしながら、帰宅してもう一つ仕事、というのは疲れた体では
しんどかったです。小さい子だからこそ、すごく神経使って
集中して教えないといけないからです。

結婚半年後には夫の実家の近くのアパートに引っ越したので
その時教えるのをやめて以来、人にレッスンすることはなくなりました。
お願いされてもしない、と決めていました。
もう演奏技術は完全に衰えていましたし、音楽に対する情熱も
すっかりなくなっていたからです。

ところが夫は結婚後から執拗に「ピアノを練習するように」、と
言い続けてきました。
自律神経がおかしくなったり、流産や不妊で精神的に疲れきって
いた私にとって、相当なエネルギーを使う音楽は、楽しいものから
労力を使う面倒なもの、という意識に変わっていました。

もう一つの理由がやがてハッキリわかってきました。
私にとって音楽は避難所だったんです。
親と同じ部屋にいようが、干渉されることのない私だけの世界。

言葉で表現できない気持ちを代弁してくれる音楽。

私にとって抑圧されたエネルギーを発散する場所だったのだと。


そういうわけで、干渉は続いても距離的に離れてましたから

自分の世界にこもる必要はなくて、それで音楽に没頭したり

することもなくなってしまったため、やれって言われても

気持ちが乗らなくて大変でした。


けれども、引っ越し先の大家さんが隣りに住んでらして、大の
音楽愛好家だったんです。結局見ることはありませんでしたが、
地下にはオーケストラが入って演奏できるくらいのスタジオを
お持ちの方でした。
実際、地鳴りがする時があったんで、今みんなで演奏してるんだなあと
わかるほどでした。
相変わらず夫はピアノ習うようにしつこく勧めており、私もとうとう
根負けして行くことにしました。
その大家さんの奥様のお友達にピアノの先生がいて、紹介して
いただき、2月から習いに通い始めたところでした。

(習い始めるとやっぱりすごく楽しくなっちゃって。

こんなことならもっと早くからやるべきだった、と後悔しました。

ここでも夫の勧めに素直に従わない残念な人になっちゃってました。

私って自分の感情に邪魔されてすごく損してる人だなあって思います。

これからは「打てば響く」くらいの素直さを持ちたいです・・・。)


とにかく。その矢先に「ピアノを教えてほしい」という依頼が。
正直、その時は彼女の頼みでなければ断っていました。
彼女には九州時代に恩義があり、彼女のお願いならば聞かねば
なるまい、という状況があったからです。
(そのエピソードは割愛しますが、私が悩んでいる時にこれまた

偶然街でバッタリ遭遇して、事情を説明したらお願いしたわけでも

ないのに「私にまかして」と言って助けてくれたんです。

この時彼女20歳だったけど、本当に昔から姉御肌だったんだなあと

しみじみ思います・・・。)


たしか3月から教え始めたと思います。
小さな子供たちと向き合って接するのは5年ぶりでした。
ヤマハ時代からすると実に11年ぶり。
M子ちゃんのお腹には新しい3番目の命が宿っていました。

4歳前のお姉ちゃんと2歳の妹。こんなに小さい子の個人レッスンは
初めてだったので(この年齢の子達はグループレッスンしか経験したことがない。)
独自のカリキュラムを作ったり、児童の発達期についてもう一度
勉強しなおしたりと忙しくなりました。

そうすると私の心に大きな変化が起き始めたのです。

連日紹介している7年越しでようやく妊娠したMちゃんは、
不妊治療もして受精の段階まで成功したのに、着
床出来ずに終わってしまったそうです。
何回トライしたのかまではちゃんと確認してませんが、最後に

「ああ、うちには子供はこないんだな。二人で生きていくんだな。」

ということを事実として完全に受け入れて、治療もやめて、
前向きに生きていくと決めて1ヶ月過ぎた時に体調がおかしくなり、
病院に行ったところ

「おめでたです」と言われ、最初に叫んだ言葉が

「そんなはずはありません!!!!」

だったそうです。もう絶対に出来ないんだと思ってた矢先の
突然の出来事。
ずっと治療してもできず、身も心もボロボロになって、
ようやく腹をくくったら自然にふっと出来た。

だから自分はその執着を手放して壁を乗り越えて
初めて神様から与えられたんだよね。

というようなことを話してくれたと思うんですが、
その話を聞いたのが2006年とかですから、3年後に自分が
同じその境地に立つことになるとは当時は思いも
よらなかったことでした。

でも彼女のそのストーリーはその3年間ずーっと
私の頭の片隅でエンドレスに再生されていました。

「執着」を手放す。そうすると何が起きるか?

私はそのことを以前の経験からずっと知っていました。
一つの執着を手放すと新しい「何か」を手に入れることが
出来ます。
でもその「手放す」ことが怖かったり、辛かったりするから
余計に握り締めてしまうんですよね。
でもそれだと物事は進まない。むしろ停滞してしまうんです。


そして2009年2月、私はずっと長年私の前に
立ちふさがっていた壁を一つ乗り越えることが出来ました。

自分の中で執着していた思いを手放せる時がきたのです。

それはある人との再会でした。

気功の記事 のラストで紹介した話の続きにようやく
到達しました~~~。

でもこの続きは次回に。く(笑)


このブログタイトル「白い雲の向こう側」にまつわるお話を

したいと思います。



これは先日書いた7年越しでようやく子供を授かったお友達Mちゃんが

教えてくれたのですが、娘のNちゃんに3歳くらいのときに彼女を

寝かしつけながら尋ねたそうです。



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2006年4月5日の記事


「Nはどうしてすぐに来てくれなかったの?パパとママは

ずーーーっとNのこと待ってたんだよ。なかなか

来なかったからママたちはとても悲しかったんだよ。

と言うと、


「Nもずーーっと待ってたんだよ。でも順番を待っていたの。

寂しかったけどずーーっと待ってたらNの番がきて

行ってもいいよって言われたから来たんだよ。」


と、答えたそうです。


だからきっと私達のところにも白い雲の向こう側で
待っている子供達がいて、私達が待っているように
子供達も待ちわびているんですよね。

赤ちゃんに出会う日まで今は私がもっといい母親になる

ための準備期間として与えられている時間なんだっていう

思いと順番を待っている私達の子供のことをいつも

忘れないように新しいタイトルにしてみました。


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それが影響してるのかどうかわかりませんが、

2009月1月30日に次のような日記を書いています。


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今日は七田式の右脳開発の本に触発されて再び目をつむって

映像がみれるようトレーニングを試みてちょっと興味深いことが起きた。

青空に白い雲、そして新芽が見えた。

もう長いことクリアな映像をまぶたの奥にみてなかったので

あまりの鮮明さに驚いた。

このことを忘れたくなくてスケッチブックに残した。


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ということなんですが。

私はこのブログをもう書いてなかったし、このタイトルのことも

まったく頭になかったです。(潜在意識にはあるでしょうけどね・・・。)

ちなみに私は七田式のなんの本を読んだか、どんな

トレーニングをしたのか全く覚えてません。

七田式をよく知らなかったので勉強してみたのか、夫から

勧められて読んだのか、それも記憶なし。

もう少し具体的に記録しないとダメですね~~~~。汗

 

とりあえずその時スケッチしたもの。

 
白い雲の向こう側
写実的には描かずにイメージだけ残すように描きました。



ゆいとは新しい芽が次々と出てくる春に生まれました。

白い雲の向こう側からもう少ししたらやってくるよ、という

お知らせだったのかなあと今は思います。


これを描いてすぐ、岩手でのカラーセラピーを思い出し、

自分が描きたいままに頭で考えずに描いたのが

次の絵です。

 
白い雲の向こう側

タイトル「子宮と愛音」


 描いた後に、子宮みたいだ・・・って感じたんです。

斜めってますが、三角形みたいなラインがみえるでしょうか?

描いた後でマジマジと眺めた時、それが私には子宮に見えたんです。

それで絵の裏に日付とタイトル書いたんですが

愛音というのは夫が一番最初の子につけたかった名前でして、

(実際にはつけてませんが。)最初に見た新芽の映像が
新しい命の芽生えのように感じて、思わずつけてしまった
タイトルだと記憶しています。


息子を授かった今、そのタイトルはもう変更していますが、

今回息子を授かるまでのことを書くにあたって、愛着のある

このタイトルを使おうという気持ちになりました。


まだまだ長々続きますがお付き合いくださいませ。


 

正確な日付は覚えてませんが以前書いた記事にあるとおり
2008年病院で「薬出せません」と不妊治療打ち切りされた
あたりの夏の出来事だったと思います。

教会では新婚さんや若い家族が増えていました。
そしてベビーラッシュも続いていました。
義妹夫婦も出産、義弟夫婦のところも妊娠中。

それでも私はベビハムたちの子育ても終わり、解放され
教会では心楽しく積極的に乳幼児のお世話をしていました。

当時、私ともう一人だけまだ妊娠してなかった人がいました。
その当時から1年半くらい前に結婚したばかりの新婚さんです。
ところがある時期から見かけなくなり、また来るようになった頃には
ふんわりした服を着るようになって、あれ・・・・??とは思っていました。
そしてある日妊娠しているという噂を耳にしたんです。

自分の中では吹っ切れたと思っていたのに、ガラガラと音をたてるように
心の中で何かが崩れ落ちました。



この中で私たち夫婦だけに子供がいない。
私だけが母親じゃない。


まるで最後の砦を失った兵士のような絶望感が私を襲いました。
治療打ち切りでうちのめされた後に続く第二弾です。

でも私はそのショックも悲しみも誰にも言わずに過ごしていました。



「子供がいないのは私だけじゃないのだし。」


その事実を支えにしていたことを、私はその時ようやく気がつきました。
恥を晒してしまいますが、、、、
新婚さんといっても、すでに奥さんはその時30代になっていたので
私みたいにすぐ妊娠とかしないかもしれないし、などという今思えば
相当失礼なことを考えてたのです。
だから心の準備が全然出来ていませんでした。

彼女の妊娠を知ってから翌週の日曜日。仲の良い友達Mちゃんと
朝、挨拶を交わしました。
私はいつもどおり笑顔で普段通りにふるまいました。
誰一人として私の異変に気がついていません。

ところが、彼女はしばらくしてから私のもとへきて
手をひいて廊下の隅っこへ行きました。

「ねえ、大丈夫?なんかあった??」
と心配そうに私を覗き込みます。
誰も私の変化に気づいてなかったし、私もそう見えないように
普段どおりに振舞っていました。
「え?別に~。何もないよ~。」と急にどうしたの?という風情に
笑ってとぼけました。
彼女は真剣な眼差しで



「うそ。」


と、すかさず言いました。


「わかるよ、私。なんかあったでしょう。
もし嫌じゃなかったら話してみて。」
と言うんです。

私は観念して理由を話そうと
「実は・・・」
と言い出すと同時に、ずっと隠してた気持ちが

涙になってどっと溢れ、何も話せなくなってしまいました。


不妊治療を医師から断られたショック、挑戦すら出来なかった悔しさ、

解決手段が見つからない焦りで精神的に立ち直れていない中での

この事実。
それを誰にも話さずに内側で溜め込んで膨らんでしまっていた

その気持ちを針でポンと突き刺されて、破裂してしまったように

なってしまいました。


Mちゃんは私の手をぎゅっと握って背中をさすってくれます。
その優しさが私の孤独な心に触れて、私は肩を震わせながら
泣きました。

誰も気がつかなかったのに彼女だけは気がついてくれた。
神様は彼女を天使として私に送ってくださり、愛を示して
くださった。
そのことが本当にありがたく心に染みました。

Mちゃん自身、7年もの間子供が出来ず、苦しみ、
多くの涙を流した人でした。

私はいまだに愛を示すのが下手な人間ですが、
彼女は本当に気配りが上手で愛をよく示してくれました。

だから私の悩みに理解を示し、経験を分かち合ってくれて
常にその孤独に寄り添ってくれた、どんなに感謝しても
しつくせないほどの存在として、彼女は尊敬する聡明な

女性として私の中でずっと君臨しております。

そしていつか私もそういう人になりたい・・・と願いつつ
まだ実現できず四苦八苦しているところです・・・。あせる

ハムスターシリーズ、思ったより長くなりました・・・。あせる
しかし今回はついに最終回です。

なっちゃんが亡くなって傷心だった私でしたが、一人息子を
亡くしたハナちゃんもその頃からめっきり老いていきました。

そして2009年2月14日。

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病院に連れていってお薬をもらい飲ませていたのですが、免疫も落ちていて
老化も進んでいた花ちゃんは回復できず、バレンタインデーの日に眠るように
亡くなりました。
何度も生きているかチェックしていたのに、チェックした3時間後くらいには
すでに亡くなっていました。予想していたよりも早い突然の別れに呆然としました。

立て続けに愛する存在が去っていったのでちょっとへこみました・・・。
でも花ちゃんは20匹近い子供を産み、2度も子育てして母の喜びも経験できて
幸せだったんじゃないかなって思います。
ベビハムちゃんと幸せそうに寄り添って寝てる姿を見ると微笑ましくて
幸せそうで、私まで満たされる気持ちになりました。


白い雲の向こう側
老年のハナちゃん。

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一匹ずつ去って行ったとき、私の中で深い悲しみもあれば、
もう一方で、妊娠に近づいているような予感もありました。
この子たち3匹が元気でいたら、私はとてもつわりの期間を
乗り越えられなかったと思います。

私が赤ちゃんを迎えやすいように環境を整えてあげようと
去っていってくれたようにも思えたほどでした。

うーたんは相変わらず元気でしたが、つわり期間もこの子の
相手をするのが精一杯だったので、寂しいけどありがたかったです。

お腹の中にいるときから息子にうーたんだよってお腹に乗せてました。


白い雲の向こう側
妊娠5ヶ月目の頃。お腹もだいぶ出てきた頃。
うーたんは一匹になったせいか寄り添うようにして
うたた寝したりして甘えん坊になりました。


私たちの小さな長男でした。

うーたんは息子が生まれてくるまで待ってくれてました。
出産1ヶ月後まで生きていました。
息子はまだ新生児でしたが、息子にも「ほら、うーたんだよ」って
よく見せてあげていました。

そしたら。
今年の出来事ですが、ちょっと驚いたことがありました。
息子はペットショップが好きでよく動物を見に行くんですが、
ある日、いつものようにハムスターのコーナーに行くと
「これ!!」「これ!!!」と指を指すのです。
ちょうど宣伝のダンボール紙が貼ってあって私側からは
よく見えませんでした。
私の目の前にあるケージにはキンクマハムスターがいました。
去年から何度も来てますが、キンクマがいるのは初めてみました。
ああ、懐かしいなと思いながら
「どうしたの~?」と隣りのケージの前で背伸びしながらなにか
すごいものを見つけたかのように目をまんまるにして私をみつめて
「これ!これ!!」とガラスをトントン指で指してます。
覗き込んだらそこにはうーたんに瓜二つの真っ白なゴールデンが
いたんです!!!
しかも赤ちゃんとか子供じゃなくて大人サイズのハムちゃん。
もうかなりびっくりしました。
あまりにもそっくりで。私もしばらく見入ってしまいました。

というよりも、息子がまるで知っている人を発見したかのように
一生懸命私に教えてくれたのが不思議でした。
「うわ~~!!!うーたんそっくり!!!!」
というと、息子はじっとその子を見つめて動きません。
「すごいねえ、うーたんのこと覚えてたの?」
と聞いても返事はなし。
ただ振り向いて、「これ、これ」
と言ってまたじーっと見つめています。

お腹にいたときか、新生児の時かわかりませんが、
ちゃんとわかってたんだなあってちょっぴり感動しちゃいました。

ハムスターを飼ってから旅行なんて皆無になりました。
唯一シンガポールに行くときはハナちゃんが出産でこもってたし、
うーたんも出産時には邪魔になってはいけないと本能でわかるのか
冬眠のようにほとんど眠り続けていたので夜遊びさせずにすんだため
義両親に負担をかけずにすんだのです。
通常は夜、解放して遊ばせるので人にあずけることも出来なかったし。
旅行好きな私としては足かせに感じることもありました。

でも、それでよかったと胸を張っていえます。

そして子育てしているママさんたちの大変さもほんのちょっぴり
理解できたことは収穫でしたし、教会でも積極的に子守りするように
なりました。(当時ベビーラッシュがすごかったんです。)
卑屈になることなくほんの少しの時間でも母親の疑似体験がしたい、
という思いに加え、ママさんたちの負担を軽くしてあげたいという気持ちが
わくようになったからです。

そういう前向きな姿勢を持てるようになったころ、また一つ
ショックな出来事が起きたのでした。

それは次回の記事で。