臨床パストラルケア(スピリチュアルケア)の一日研修会に参加して
2015年2月8日(日)、NPO法人臨床パストラル教育研究センター主催、南関東ブロック一日研修会に参加してきました。
一日研修会は2年ぶり2度目の履修です。
この法人は、臨床パストラル・カウンセラーと臨床パストラル・ケアワーカーを育成している団体で、その教育課程はとても充実していると思いますし、やはりキリスト教は臨床でのスピリチュアルケアに対しての蓄積が非常に豊富。多くの病院や介護施設で、ここで学んだスピリチュアルケアの専門家とボランテイアが働いています。資格を売り物にしていません。資格を喧伝することもあまりない。それだけで、私は好きです。
■心に刺さったキッペス先生の言葉
講師は、臨床パストラル教育研究センター理事長のヴァルデマール・キッペス神父(哲学博士)。
キッペス先生はご高齢ですが、9:30~16:30の長丁場を、ほとんど立ちっぱなしで一人で語りました。「目的を持っていれば疲れない」と仰いました。余談ですが、キッペス先生は昨晩寝られず、午前4時に寝て、御前6時に起床されたそうです。
「眠れないときは瞑想をします。時間が無駄にならない」
キッペス先生の講義のテーマは、「心(スピリチュアル)な痛みと他の痛みの区別」。
先生による痛みの区別
①身体的な痛み
②知的な痛み
③社会的な痛み
④心理的な痛み
⑤心の痛み
⑥スピリチュアルな痛み
⑦魂の痛み
心理と心、スピリチュアルと魂が区別されているのには、ちょっと驚きました。
キッペス先生の講義から、心に重く残ったキーワードを紹介します。
メモをもとに、いくつかのキーワードをつなげています。
◎ 「『ただ傾聴する』というのはやめなさい。それは傾聴ではない」
※ひたすら聴く、ということよりも、必要に応じて相手に響くスピリチュアルな声掛けを厭わない、という姿勢。
◎ 「自分の心」がないと病室には入れません。
◎ 「私は役に立った」「私は何かをなしえた」という言葉が出てきたら本物ではありません
◎ 「『この人は悪い人』と判断したら、あなたにとってその人は『悪い人』でしかなくなってしまう。ありのままに受け入れる。そのためにはあなたに余裕が必要。ありのままに受け入れて、相手を(自分の中に?)活かすのがスピリチュアル。それは戦いです」
◎ 「思い通りに生きられなくなったときこそ、すべてのものが与えられられているというありがたさに気づき、スピリチュアルに満たされます」
◎ 「観音様のよさに気づいた。しかし中心課題は観音様ではなく、観音様による心の平安。観音様は手段です。手段は問わない。心の平安を得ることが大切」
◎ 「善を発見するためには、当たり前のことを当たり前と考えない。自分の周りにあるものは当たり前ではない。すべて、与えられたものです。意識的に考えるのです。それは訓練です」
◎ 「ホスピスは死ぬ場所ではありません。今、生きている人々がいる場所です。人生を卒業するための研修の場でもある」
◎ 「故人に出会わないならば、墓参りという行為は、墓石参り」
◎ 「あなたはあなたをよく見なければなりません。そうしなければ相手を見られません。あなた自身を毎日、チェックしていますか? 完璧でなくていいんです」
◎ 「宗教者は教えをもらっただけ。それを人に与えるのが本物。本物ではない人は、権力・権威の誘惑に負けて、ただで頂いた教えを、自分たちの権力・権威のために人々に示そうとする」
◎ 「ある寝たきりの人はいいました。『こうやって寝ていることが、皆さん(訪問者)の日常と同じ、私の日常なんですよ』」
◎ 「カトリックは自殺を禁止しています。しかし、それは罪ではない。この点を間違っている」
◎ 「ネガティブな言葉を使わないようにするのは訓練が必要(でも先生は、相手のいないところで「おばかさんよねー」というディスる歌を歌うらしい)」
◎ 「人間のエネルギーは有限です。悪ではなく善に使いましょう」
◎ 「祈りでスピリチュアルケアできるわけではない」
◎ 「許すことは忘れることではない。傷をなくすことはできないから。悪口は残るから」
◎ 「自分が自分の心の善のパワーを育てるべき。それには正直であること。他者を尊敬することです」
◎ 「訪問者が時計を見るなら、もう病室から出るべき。その人はそこにいるべきじゃない」
◎ 「必要のない時は関わらなくていい」
◎ 「病気の人、心が傷ついている人のおそばにいるには訓練が必要。訓練なしにできると思う人は相手に対して大変失礼です」
◎ 「10年以上入院した人が、『一番嬉しかった見舞い客は、ただ黙って、そばにいれくれた人です』と語りました」
◎ 「自分の心を健全な方向へ導くことは、戦いです」
パストラルケア(牧会ケア)はまさにキリスト教の伝統に基づくものでしょう。なぜそこに僧侶の私が行くのかというと、仏教系の学びの場は「居心地」がいいからです。
わたしにとって、キリスト教のスピリチュアルケアは、まったくの異質です。きょうも、講義の中で「善と悪」の対比が多かったし、講師のキッペス先生の仏教分析(批判?)や墓文化分析(批判?)は、そこに囚われてしまう僧侶もいるだろうなあ、と思われるものです。
そういう居心地の悪い中での学びだからこそ、先生の言説が先鋭になり、私の脳足りんな脳内でも強く意識化できるのです。
それに、幾ら現場に出ているからといって、フォーローアップは欠かせません(これを欠いたら、評論家)。私は実は理論が苦手で、理念と実践だけの人間です。理論をもとに動いたら、それに囚われる。太田宏人は、お相手の、たとえば山田太郎さんと出会いたいのであって、何かの理論の実践のために訪問するわけではない。それに、出会いや講演、講習会、読書等で知り合えた理論が、すべてそのまま適用する現場には、まだ出会っていません。しかしながら、現場という『フロント』ではなく、『バックヤード』において、理論的に、検証的に学ぶ必要はあります。
前回から2年が経過したのは、この2年が忙しかったから。それから、前回のワークで、同じ組の年配の金持ちそうな女性から「あなたはまだ若いから、病気の人の話は分からないでしょう?私はキリスト教の信仰を持っているから、傾聴できるのよ」といきなり宣言されて、かなり辟易したからです。
こういうレベルの人に多く出会えるのも、この一日講座の特徴です(ほとんどの方が洗礼を受けている。キッペス先生は「私は司祭服を着ません。私は司祭というモノではなく、キッペスです」といっていたのに、参加者は「司祭様ww」という眼差しで先生を仰ぎ見ている。あの空気感は、慣れるのに時間が掛かるが、他者批判をせず、彼らと話をすると、垣根はなくなる。二項対立は意味がない)。
ちなみに、きょう、となりに座っていた方は、ボランティアで受刑者との文通をしている。とても聡明な人で、教えていただくことが多かった。この人も一時期、教会から離れていたそうだ。理由は、「教会に通っているだけで、『人の心のお世話ができる』と勘違いしている人が多くて、そりが合わなくなった」為とか。彼岸の火事ではない。耳に痛い話である。
臨床パストラル教育研究センターは、法人定款によると、
「この法人は、広く一般市民を対象として、日本におけるスピリチュアルケアの普及及びそれに携わる人材の養成を通して、病者に対する全人的ケアを広く可能になるようにすることにより、身体の健康のみならず心の健康が保たれ、例外なく誰にでもいつかは来る「死」を心安らかに迎えられるような健全なる社会の実現に寄与する事を目的とする。」
とあります。
仏の教えは、他者を矯正・指導するための、
理論武装の道具ではありません。
そもそも、論理的な学問でも哲学でもなく、
感情を動かす芸術でもありません。
素朴な、出世間の視座、ただそれだけです。
在世間の視座に立って仏教を眺めていたら、
どれほど高尚な知識・理論・正論を
もっていても、それは仏教ではありません。
いやあ、今、おなかに落ちてきました♪
仏ってなに?
「あなた」であり「わたし」そのもの。「たましい」を動かすもの。
言葉でも感情でもなく。「生」そのもの。根源といってもいいみたい。
そして「あなた」の生を通して、「わたし」の生がよりよく観える。
それは、唯一無二の「おのれ」を依拠とする、
いのちの実践。論理を超えたいのちの実践。
もっと簡単に言うと、
己の主張をするときに、
いちいち「だれだれちゃんがどうしたこうしたから」という
理由をつけている以上、「わたし」が観えていないってことでしょう?
仏教のきょうだいたちへ。おのれがおのれの灯明になっていますか?
在家も出家も関係ない。
仏教を学ぶ(つまり、いい意味で真似る)ということに、
立場の違いなんか関係ない。
あー。晴れた。
そっか。こんなに単純なことだったのね♪
以前、「陸前高田の一本松」にケチをつけたら白眼視されたことがある。
(部外者が口を出すな、という意味ではなく)
そんなに「頑張ろう」を叩き売りするなと思った。
復興のシンボルといっても、枯れたものをサイボーグみたいに保存するとは。
自然を舐めるな、自然に学べ、といっておきながら、
自然を否定する。死んだいのちに鞭を打つ。
結局はこれだ。
死と再生こそ、自然の摂理だろうに。
しかも1億5000万円とは。いや、仮に費用がもっと安くても、
「自然の摂理への挑戦」と「がんばろう」に
う~む、と思う。とはいえ、まさに「よそもの」が口を挟むことではない、
それは分かっております。すみません。
それにしても、であります。
復興というものは、住民全員の思いが一致することはないにしても、
結局は、「がんばれ」という声、声、声のオンパレードである。
その一方で、「がんばれ、なんてメッセージはいけません」という
これまた真逆ではあるが、しかし、れっきとした同調圧力も蔓延している。
「がんばろう」が蔓延する娑婆の中で、
「がんばんなくてもいいんですよ」というメッセージが放たれるとき、
ぽきんと折れてしまう人が何人もいる。
頑張れる人はがんばればいい。
でも、頑張れない人だっている。
復興イベントを否定はしません。炊き出しもいいでしょう。
それに参加できる人は参加すればいい。
でも、そこに出られない人まで引っ張り出す必要はない。
そういった方たちの下に通う人間がいてもいい。
その人間に光が当たらなくてもいい
(と思っていましたが、最低限、仲間同士で認め合うこと、
感情を共有することは大事でしょう?)
明らかに、震災孤独死が増えています。
ですが、それを無縁社会とか、コミュニティーの崩壊・再生産の過程のおちこぼれ、
みたいなレッテルを貼ってはいけない。
「がんばれ」でも「がんばらなくてもいい」でもない、
なんとも形容し難い「あわい」にこそ、
傾聴という双方向のコミュニケーションは存在するのではないかと思うようになりました。
なんともまあ、しまりのわるい、ゆるゆるな活動ではありますが。
先の震災からあと数時間で20年。
わたしはもっと、学ばなければならない。
どうも、ペルーで人としての基礎を練ってしまったせいか、
良くも悪くも、私はテキトーです。そして、日陰者です。
100にもゼロにもなれません。おんもにも出られません。
認知症の方の傾聴ケア。
『教科書』外のことばかり。
【特養またはショートステイ】
・喋る方...
喋る内容が(事実に照らせば)虚実ないまぜ。しかし、それをジャッジするのが仕事ではない。しかし、ただ聴いていればいいかというと、そうではない。
こちらのうなづきが、認知症の方の妄想や撞着を加速させて、深刻な不穏状態をもたらすことは珍しくない。
だから、(誤解を恐れずにいえば、そして、一般的な傾聴ではNGであろうが)、
どこかテキトーさや切り返し、話題のスライドは必要だ。
認知症の方(なかには、終末期の方もいる!)の傾聴には、高度なスキルが要求されると思われる。
ーーーーーー
テキトーではあるが、かと言って、相手にちゃんと対峙していなければ、傷つける。
・喋らない方
目でものすごく訴える方々がいる。そこを傾聴ならぬ、『傾視』する。その感覚が、少しずつ、つかめてきた。敬視、とでも言おうか。。。
※居室訪問をもうすこし増やしてもいいかもしれない。
【デイサービス、グループホーム]
理解力のある方々には、こちらから「お話」もありかと思う。
デイは、たいがい、自席について、トイレの時以外は、あまり動かない。その場で個別傾聴が成り立つときもあるが、そうではないときもある。『個室』が、ない場合、グループ傾聴ならぬ談話になる。
わたしの力不足を感じている。なかなか難しい。
しかし、わたしは傾聴の原則は、相手がひとり乃至二人くらいだと思っている。
なかなか、難しい。
デイは、とくに施設のスタッフとの連携が重要。
【お泊りデイ】
「自室」が、ある方は、読経ケアも有効。
自宅でできていたことが、
削ぎ落とされている方々だから。
【サービス付高齢者住宅】
これまで仮設住宅でやってきた傾聴戸別訪問、読経ボラのメソッドに通じる。
以上、備忘録として。
