この世のすべてに意味(縁)がある。
そして、すべてに意味(意義)を見出すことができる。
奪われることで与えられることもある。
死別だって、その人からの最期の贈り物だから。
人生のすべてがギフトだ。
きょうも、足掻きながら、
生き抜こうか。
(写真:福島市 茶屋沼 .)
この世のすべてに意味(縁)がある。
そして、すべてに意味(意義)を見出すことができる。
奪われることで与えられることもある。
死別だって、その人からの最期の贈り物だから。
人生のすべてがギフトだ。
きょうも、足掻きながら、
生き抜こうか。
(写真:福島市 茶屋沼 .)
「植樹の神様」と言われる宮脇昭先生(横浜国立大学名誉教授)の、
教え子だなどとは口が裂けてもいえないし、
実際のところ、仕事で、なんどか先生の植樹指導のさいの講義を聴いただけなのだが、
教えを受けた
と、ありがたく思っている。
道を究めた方というのは、そこいらに転がっている、
(愚生のような)パートタイマーのごとき宗教者よりも、
ずっとずっと、
いのちの本質を識っている気がする。
「生きているだけで有り難いんですよ」
なんども言って恐縮だが、私は昨年、悪性腫瘍を摘出するかなり大きな手術を受けて、
文字通り生死の境をさまよってしまったのだが、
その手術の前後の「みんなの鎮守の森植樹祭」は一回も休まず、現場に出ていた。
これは日本財団が出資し、被災神社に宮脇方式で植樹、「鎮守の森」を復活させる、
という事業だ。事務局をしている日本文化興隆財団の嘱託で、植樹神社との交渉、
前々日からの現地作業、当日の現場作業などをしている。
手術10日前、石巻市雄勝の新山神社植樹祭(5月3日)まで、
私は、一部の親しい方々以外には、手術のことは言わなかった。
働くな、といわれかねなかった。
これも何度も言って申し訳ないが、私は貧乏だ。性格的に問題があるのだと思う。
(坊主が収入のことを語っちゃいけないらしい。そうなの?)
手術後、生き延びたあとも、むしろ怖かった。
働けない期間、無収入になるからだ。
だから、働きたかった。働かざるを得なかった。
それに、復興に関われることが嬉しくもあった。特に去年の植樹祭は、
一から関わった神社が多かったから、特に思いいれが深かった。
どうせ死ぬなら、最後までやりたかった。
じつは、周囲には「自覚症状はない」といっていたが、アレは嘘で、
実際には、肺が腫瘍に押し上げられ、息苦しかった。
正直なところ、死への恐怖はあった。
しかし、それを受け入れる日もあり、静と動の間を揺れていた。
手術へのプレッシャー、家族を残すことへの葛藤、
それがないまぜになって、心身ともに疲労困憊だった。
そんなとき、植樹祭で、宮脇先生が、こう言った。
「生きているだけで、ありがたいんですよ」
この言葉は、すでにもう何回も聴いていたはずなのに、
この日の先生の台詞に、涙がこぼれた(私、泣き虫)。
先生にはガンのことなど言ってなかったし、
たぶん、今でも私のことなど認識できていないと思われるのだが、
なぜかツーショットで写真を撮ろうと言い出された。
嬉しかった。
そうして生還し、7月6日の植樹祭で、また、あの台詞に接した。
「生きているだけで、有り難い」
有り難い。ほんとうに。
生きるか死ぬかというギリギリにいると、いのちの有り難さが見えてくる。
ところが、生きることが当たり前のような日々を過ごしていると、
生き様だの、
自己実現だの、
何をやっただのやらなかっただの、
付加価値みたいな「おまけ」ばかりが頭をもたげてくる。それもまた、人間なんだが。
オウム真理教事件から20年が過ぎたが、
当時の若者たちは、優秀なるがゆえに、「よりよいいのち」という阿片に魅了されてしまった。
いのちに優劣をつけ、劣なるものは淘汰されてもいいという思想に盲従した。
こんなものは宗教ではない、という人もいるのだろうが、
宗教という権威が、悪逆非道な行為を正当化するのは、歴史が示すとおりだ。
しかし、
「いのちはあるだけで、ありがたいのですよ」
と説くこともできるはずだ。こんなのは、優秀な人たちから見れば、
実にくだらない「教え」かもしれない。
しからば、宮沢賢治をみよ。
デクノボーの人生が、ありがたいではないか。
みなが凡愚になればいいとは思わない。
頭脳明晰理路整然な人は、それがその人のいのちの素直なありようなら、それでいい。
ボンクラでもいいじゃないか。
賢くてもいいじゃないか。
貧乏でもいいじゃないか。
セレブでもいいじゃないか。
本質は、そんなところにはない。
誰もが、死と生の接点に到れば、いのち以外、無。本当の素っ裸。
いのちだけの状態になる。その場に、有価証券も、
生前の肩書きも、ブランド物のスーツもGUのシャツもシマムラのセーターも、
もっていけないのだよ。
そのことが分かれば、
「こちらがわ」にいるありがたさを味わえないだろうか。
同時に、
「あちらがわ」にいることの貴ささえ味わえないだろうか。
宮脇先生は、樹を植え、森を作ってきた。
その植樹思想に、いっぽんいっぽんへの変なこだわりはないようだ。
個にして全。全にして個。
いのちのみぎわを見ている。いのちの本質を識っている。
先生は、「いのち」の達人だ。
さてさて。
宮脇先生の名言のひとつに
「捨てればゴミ。使えば資源」というのがある。
実に、深い。
宮脇昭先生、心から感謝申し上げます。
■掬水月在手(水を掬(きく)すれば月、手に在り)
掬とは「すくう」こと。両の手のひらに水をすくうと、そこに月が映じる様を表している。
この月光は、どんな人にも分け隔てなく注がれる仏の大慈悲の比喩として禅の世界では語られてきた。
だが、こうも考えられないか。手に掬った水、という触媒(メディア)がなければ、我々凡夫には、仏の大慈悲は気づかない、見えないものだ、と。そして、手から水がこぼれてしまえば、また、見えなくなる。蒙昧たる我らの悲しさよ。
しかし、この水があろうとなかろうと、仏の大慈悲は、ある。
ただ、「眼」という感覚器官で認識できないだけだ。
つまり、心の「眼」を開くことが一大事だ。愚生は、そのように考えている。
そして蛇足で あるが、大慈悲というモノは外部にあるのだろうか。
否。手のひらの水は各各の内面を映す鏡でもある。
まさに「分け隔てなく」どんな者の内面にも、―賞賛されない人生を送るどのような人、人生の重みに独り潰されそうな人、世の代受苦のごとく生きる人の内面にも―仏性の光は、またたいているのだ。
しかし、その様は、なんと孤独で、儚いものであろうか。