■掬水月在手(水を掬(きく)すれば月、手に在り)
掬とは「すくう」こと。両の手のひらに水をすくうと、そこに月が映じる様を表している。
この月光は、どんな人にも分け隔てなく注がれる仏の大慈悲の比喩として禅の世界では語られてきた。
だが、こうも考えられないか。手に掬った水、という触媒(メディア)がなければ、我々凡夫には、仏の大慈悲は気づかない、見えないものだ、と。そして、手から水がこぼれてしまえば、また、見えなくなる。蒙昧たる我らの悲しさよ。
しかし、この水があろうとなかろうと、仏の大慈悲は、ある。
ただ、「眼」という感覚器官で認識できないだけだ。
つまり、心の「眼」を開くことが一大事だ。愚生は、そのように考えている。
そして蛇足であるが、大慈悲というモノは外部にあるのだろうか。
否。手のひらの水は各各の内面を映す鏡でもある。
まさに「分け隔てなく」どんな者の内面にも、―賞賛されない人生を送るどのような人、人生の重みに独り潰されそうな人、世の代受苦のごとく生きる人の内面にも―仏性の光は、またたいているのだ。
しかし、その様は、なんと孤独で、儚いものであろうか。