グリーフが注目されている。

グリーフとは死別の悲嘆、死別の悲嘆による心身のストレス反応で、ペットとの死別はなぜか区別され、「ペットロス」とも呼ばれる。


グリーフなる観念は、欧米由来のものであることを考える必要がある。


たしかに遺族の悲嘆は、あまりに強いと、日常を侵食する。

しかし、大切な存在を喪ったのだから、悲しくて当然だ。悲しみを否定する必要はない。

その遺族がもう一度、悲しみを抱えながら、生きていこうとする、その魂に寄り添うことがグリーフサポートなのだろう。


しかし、悲しみは遺族だけのものだろうか。

死にゆく本人、亡くなった人にも、悲しみはあり、悲しみがあった。


そのことに思いを馳せ、亡き魂に手を合わせ、歌舞音曲で供養たてまつってきたのが、極東の宗教風土だろう。


もう家族に会えない心の痛み、もう我が子を、身体的・精神的に抱きとめてあげられないという、心が裂けるような痛み、慟哭。

悲しみは、遺族だけのものではない。遺族が愛する家族との別れに涙するように、亡くなる人も、愛する家族との別れに涙する。


遺族はそのことに思いを馳せる。その想像が仮に「真実」とは違っていてもいい。思いを馳せることが大事なのだと思います。


悲しみを自分だけのものにしない。

悲しみを開く。悲しみを双方向に捉えなおす。


この先の心理学的な効能効果はさておき、故人の悲しみに思いを馳せることで、死別後でさえ、故人と遺族の交流が感じられる。

そうしていつしか、亡き魂との交流が、交歓となる仕組みが、我々の祖先たちが営々と紡いできた、死者と生者の再会の物語ではないだろうか。


再会の場はお盆であり、仏壇であり、墓。


遺族もやがて死んでゆく。そうして、あちらで再会する。


その再会の物語の中に、生者と死者双方の安心と救済があると思います。


願わくは、極東の「グリーフワーク」が忘れ去られぬことを。


         合掌

人生ってなんだろう?と考えると複雑。


いのちって、と考えるとシンプル。

俳優の今井さんが亡くなる前に「苦痛」と戦った、という報道に違和感を覚えた医師がいる(報道は確かに扇情的で、これはこれでちょっと…。しかし、報道ってのはそういうもの)。
私は、その医師が書いた記事にこそ、強い違和感を抱かざるを得ない。この医師は、苦痛を薬で取りきれると思っている。
だが、死を前にした「苦痛」は、薬だけで除去できるのか。自分が消えてなくなることや誰かと死別する魂の「苦痛」は、身体に現れる。それは、医療用麻薬では除去できない。心の痛みに麻薬は効かない。
こんな医師がごまんと居るのが怖い。それに首肯する僧侶がいるのも驚きであるが、実は、これが「ふつー」なのだろう。
だが、そのような感覚のままで、人の苦しみ、痛みを感知できるのだろうか。その人は、どんな葬儀をされているのだろうか。

...

医師「本来、医療用麻薬を含めた適切な鎮痛薬を用いることで、癌の痛みは確実に緩和されます。緩和ケアは癌治療中であっても必要であり、少なくとも夜に眠れないくらいの痛みを容認していたとすれば問題です」「本来、末期癌で亡くなる間際の苦痛もまた、しっかりとした緩和ケアを受けることで確実に緩和されます。」

こんな医者にはかかりたくない。
もちろん、『痛みは我慢するものということを助長するような報道』という批判は、そのとおりだと思いますが。

悲しみで心が病んでしまうことまで「素晴らしい」という気はないですが、

悲しみは、亡くなった存在からの大切なギフトだと思っています。


昨日の法要の施主さん、

「最近亡くなった存在」の死の間際の苦しみを直視し、

血を吐いて亡くなっていくとき、最期までずっと抱いていたそうです。

そうしたら、30年~40年前に亡くなった二つのいのちのことが思い出されて、

四十九日法要と一緒に、合同法要を依頼されたのです。

「(最近亡くなった存在)が、大切なことを教えてくれたんです」と、

その喪主さんは泣きながら告白してくださいました。
悲しみ=マイナスって、誰が決めたんでしょうか。


※グリーフ(死別の悲嘆)を克服するべきもののように喧伝する、

一部業界の行動で傷ついた知人がいて。

朝、知人からメールが届いていた。
その方の親しい人が急逝した、という。
「なんで、あんなにいい人が、
皆に必要とされている人が死ななければならないのか?」
とあった。

何でだと思いますか?

私は過去になんどか死に掛かったことがあり、
そのときに周りから「この世にまだやることがあるから」
「神仏が仕事を命じている」といった励ましをいただいた。

でも、そのことばには、ずっと違和感があった。

では、亡くなった人は、この世に不必要なのか。仕事はないのか。
震災死。事件被害者。不慮の事故。

生還者を必要、死者を不必要なんて、考えたくない。

だから、今朝の知り合いからのメールにも窮する。

悶々としていたら、気づきがあった。

「亡くなられた方は、あちらの世界で必要とされているのだ」と。

方便かもしれない。
ことばの置き換えかもしれない。

でも、それでいい。

私が黄泉返ったのだって、私がまだまだ、向こうには必要とされていないってこと。

もっと修行しなさい、と言っていただけたということなのかもしれない。

本当にありがたい。ご縁が最大の教師です。

さあ。きょうも一日、顔晴ってみせましょうか。