仏教を学ぶということは、自己を学ぶということ。


すべての飾りも鎧も理論武装も権力も地位もフレームもはがして、

いのちのままの自己、いいところもわるいところもそのまま、
ありのままの自己に向き合うこと。

自己の物語の読者になること。どんなときでも。
どんなに醜くて辛い物語でも、
読者を辞めない。それは、時に辛いです。
そんなに楽ではないかもしれない。
だけど、そのぶん、成長する。

反省すべきところは反省しつつも、自己を承認してあげること。



死者と生者を分けて考えない。
死者の成道を祈るなら、
等しく生者の成道を祈る。
浄土と娑婆を分けて考えない。
浄土を大事に思うなら、
等しく娑婆を大事に思う。
自と他を分けて考えない。
自の仕合わせを願うなら、
等しく他の仕合わせを願う。

山川草木悉皆成仏

木のように生きたい。
いつも緑をたたえ、
紅葉もしないで、
見た目地味な、常緑樹。
台風にも津波にも動じず、
ただそこにあり続ける。


そんな生き方がいい。

辛く悲しく、耐えられないことに遭遇するとき、
己の不運を嘆き、「なんで私がこんな目に?」と
落ち込んでしまいがちですが、
「私だからこそ、この役目を背負わせて頂けるのだ」と
意識が転換したとき初めて、潜在能力が発揮されるようです。


いのちそのもののちからなのかもしれませんね。


ノーベル賞を取れない人生だったかもしれない。

けれど、あなたのいのちは唯一不二

輝いていました。


大昔、人は星が動いていると信じていた。16世紀にコペルニクスは、地動説を唱えたが、星が動くと信じていた人々は、にわかには信じられなかっただろう。
科学的には天動説は間違いで、地動説は正しいというのは、もはや常識だ。
しかし、人間の認識というもので考えると、存外、どちらも正しいし、間違いでもあるのだ。
天動説的世界観の人には、科学的な知見だのは意味をもたない。間違いでもなんでもない。その人の認識がその人の世界を作るからだ。
幽霊を見た、という人には(虚言ではないかぎり)、そこに幽霊はいたのだろう。
そんなんいるか、という人には、いないわけだ。
いくら正、不正を論じても虚しい。イデオロギーや観念の対立が不毛なのは、このためだ。
お互いに科学や正義、倫理を振りかざしても相手は屈服されはしない。

だから民主主義は、一応のルールとして、多数決を採用している。つまり、多数決に、もとより正義はない。ルールがあるだけ。

話はそれたが、自分の世界観など、かように儚いものと知るべし、なのだ。そこから羽ばたくために、もっとも有効なのが、歴史的に見ると、瞑想や坐禅である。魂を、自由にしていたい。

白く見えている世界は、本当に白か。

しょっぱいという味は、本当にしょっぱいのか。