以前、「陸前高田の一本松」にケチをつけたら白眼視されたことがある。
(部外者が口を出すな、という意味ではなく)


そんなに「頑張ろう」を叩き売りするなと思った。
復興のシンボルといっても、枯れたものをサイボーグみたいに保存するとは。
自然を舐めるな、自然に学べ、といっておきながら、
自然を否定する。死んだいのちに鞭を打つ。
結局はこれだ。
死と再生こそ、自然の摂理だろうに。


しかも1億5000万円とは。いや、仮に費用がもっと安くても、
「自然の摂理への挑戦」と「がんばろう」に
う~む、と思う。とはいえ、まさに「よそもの」が口を挟むことではない、
それは分かっております。すみません。


それにしても、であります。
復興というものは、住民全員の思いが一致することはないにしても、
結局は、「がんばれ」という声、声、声のオンパレードである。


その一方で、「がんばれ、なんてメッセージはいけません」という
これまた真逆ではあるが、しかし、れっきとした同調圧力も蔓延している。


「がんばろう」が蔓延する娑婆の中で、
「がんばんなくてもいいんですよ」というメッセージが放たれるとき、
ぽきんと折れてしまう人が何人もいる。


頑張れる人はがんばればいい。
でも、頑張れない人だっている。


復興イベントを否定はしません。炊き出しもいいでしょう。
それに参加できる人は参加すればいい。
でも、そこに出られない人まで引っ張り出す必要はない。


そういった方たちの下に通う人間がいてもいい。
その人間に光が当たらなくてもいい
(と思っていましたが、最低限、仲間同士で認め合うこと、
感情を共有することは大事でしょう?)


明らかに、震災孤独死が増えています。
ですが、それを無縁社会とか、コミュニティーの崩壊・再生産の過程のおちこぼれ、
みたいなレッテルを貼ってはいけない。


「がんばれ」でも「がんばらなくてもいい」でもない、
なんとも形容し難い「あわい」にこそ、
傾聴という双方向のコミュニケーションは存在するのではないかと思うようになりました。
なんともまあ、しまりのわるい、ゆるゆるな活動ではありますが。


先の震災からあと数時間で20年。
わたしはもっと、学ばなければならない。


どうも、ペルーで人としての基礎を練ってしまったせいか、
良くも悪くも、私はテキトーです。そして、日陰者です。
100にもゼロにもなれません。おんもにも出られません。

しかしながら、まだやることはあるようです。
おはようございます。