どうも、はちごろうです。
ここ数日、また肌寒くなりましたね。週末まで雨模様だとか。
本当に体調管理が難しくて困ってます。
さて、映画の話。
「別離」
本年度アカデミー賞外国語映画賞を含め、
世界中の映画祭で絶賛されたイラン映画。
イランの裁判所にひと組の夫婦が離婚調停を申し出る。
教師をしている妻のシミンは一人娘のテルメーの教育のため
国外への移住を計画していたが、銀行員の夫ナデルはこれを拒否。
ナデルの父がアルツハイマー病を患ったため
父を置いて国外に移住することはできないと主張する。
裁判所での話し合いは平行線をたどり、結局シミンは家を出る。
ナデルは父の介護のためラジエーという女性を雇う。
敬虔なイスラム教徒で男性の身体に触れられないラジエーにとって、
ナデルの父の介護は想像をはるかに超える重労働だった。
ある日、ナデルがテルメーとともに帰宅するとラジエーの姿はなく、
ベッドに縛り付けられた父がベッドから転落して気を失っているのを発見する。
そこにラジエーが戻ってくる。ナデルは怒りにまかせて
彼女の事情も聞かずに自宅アパートから追い出してしまう。
その晩、ナデルはラジエーが入院したことを知る。
シミンと二人で病院を見舞ったナデルは
夫のホッジャトから彼女が流産したと聞かされる。
後日、ナデルはラジエーの流産の責任を問われて逮捕される。
彼女の妊娠を知って突き飛ばしたとすれば
彼にはお腹の中の赤ん坊に対する「殺人罪」が適用されるからだ。
一方、ナデルも父親に対する仕打ちに対してラジエーを告訴。
裁判の応酬は二組の家族とその周囲の人間を巻き込んでいった。
未来を見つめる女、過去を守る男
イランの映画と言われてもピンと来ないかもしれない。
日本とは文化も社会システムも大きく異なる、まさに異国だからである。
だがこの映画はあるひと組の夫婦の離婚訴訟をきっかけに、
イランという国の抱える構造的問題から、
はては世界中の現代人が抱える課題まで浮き彫りになっていく。
例えば映画のきっかけとなる「離婚訴訟」。
シミンは娘の将来のために国外移住を計画する。
つまり彼女にとってイランという国は子供の教育、
とくに女性の教育には適さないという現代的な価値観を持っている。
だが夫のナデルは父親の介護を理由にシミンの提案を拒否する。
そこには家族の存続を第一義とする伝統的な価値観が垣間見える。
「子供の将来」という未来を大事にする妻と、
「一族の長だった父親」という現在、もっといえば過去を守ろうとする夫。
二人の主張が平行線をたどるのはまさにそんな、
社会における男と女の役割の差からくるものであり、
それが女性の社会的地位の向上に伴ってその力関係が変化してきた、
イランだけではない、多くの社会の現状を物語っている。
既存の価値観が妨げる介護の現実
さて、シミンが実家に帰り、ナデルはラジエーという女性を雇う。
彼女は敬虔なイスラム教徒で、あくまで戒律を守ろうとする。
だが老人介護の現場では多くの場面でその戒律が妨げになる。
それを象徴するのがナデルの父親がベッドで失禁してしまうシーン。
すぐに身体を洗って着替えさせなければいけないが、
イスラムの戒律では女性は男性の身体に触れてはいけない。
そこで彼女はイスラムの寺院に電話をかけ、
介護する場合は身体に触れても大丈夫かと確認をとろうとする。
高齢化に伴う老人介護の問題はイランでも深刻な問題であること、
そして介護の担い手となる人手の不足と、
職業としての「介護」と信仰心との対立がこの場面で見えてくる。
しかも彼女はこの仕事に就くことを失業中の夫に言えずにいた。
それはイランという国が厳しい家父長制の残る国であり、
失業中の夫に替わり妻が働くということは
夫の自尊心を傷つける行為であると同時に、
夫の社会的地位を損なう行為でもあるからだ。
職業としての「介護」の存在が必要になっている現状に対し、
「親の面倒は子供が観るべき」という前時代的価値観が
いまだに社会の中で払しょくできていないことは、
日本の介護の現場でも問題になっていることである。
真実に口を閉ざすことで生まれる悲劇
さて、映画はラジエーがナデルの父親をベッドに縛って外出した事件、
そしてラジエーの流産という二つの事件によってサスペンスの様相を呈していく。
ここで彼らは互いを守るため、ある者は本当のことを言わず、またある者は嘘をつく。
ラジエーはなぜナデルの父親をベッドに縛り付けて外出したのか?
ナデルはラジエーが妊娠していたことを知っていたのかどうか?
同時に、この物語の中では多くの登場人物が真実を口にすることを拒む。
例えば裁判所で「なぜイランで子供を育てないのですか?」と訊かれたシミンは、
「いまのイランでは女は幸せになれないからだ」という言葉を飲む。
ラジエーは失業中の夫ホッジャトの名誉を守るため、
夫に仕事に就いたことを黙っている。
そしてこの事件をきっかけにナデルの父親は言葉を発しなくなり、
全てを見つめる娘のテルメーは両親に自分の思いを口にしない。
それまでの人間関係や、社会の常識、信仰心などが
真実を口にすることで壊れてしまうことを恐れ続けた結果、
事態はさらに深刻な状況に陥っていく。
そして最も弱い立場の人間がその被害をこうむっていく。
そうした構図もまた、イランだけの特有の問題ではなく、
日本でも震災以降、特に鮮明に見えてきた光景でもある。
ひと組の離婚訴訟の行方をきっかけに
多くの普遍的な社会問題を浮き彫りにしたその手腕は見事。
手持ちカメラによるドキュメンタリー的な撮影手法も
この二つの事件をさらに緊迫感のあるものにしていて効果的だった。
「イランなんて馴染みの薄い国の話だから」という先入観は
少し脇に置いて観ることをお勧めします。
世界中の現代人の生活が垣間見える一本でした。
ここ数日、また肌寒くなりましたね。週末まで雨模様だとか。
本当に体調管理が難しくて困ってます。
さて、映画の話。
「別離」
本年度アカデミー賞外国語映画賞を含め、
世界中の映画祭で絶賛されたイラン映画。
イランの裁判所にひと組の夫婦が離婚調停を申し出る。
教師をしている妻のシミンは一人娘のテルメーの教育のため
国外への移住を計画していたが、銀行員の夫ナデルはこれを拒否。
ナデルの父がアルツハイマー病を患ったため
父を置いて国外に移住することはできないと主張する。
裁判所での話し合いは平行線をたどり、結局シミンは家を出る。
ナデルは父の介護のためラジエーという女性を雇う。
敬虔なイスラム教徒で男性の身体に触れられないラジエーにとって、
ナデルの父の介護は想像をはるかに超える重労働だった。
ある日、ナデルがテルメーとともに帰宅するとラジエーの姿はなく、
ベッドに縛り付けられた父がベッドから転落して気を失っているのを発見する。
そこにラジエーが戻ってくる。ナデルは怒りにまかせて
彼女の事情も聞かずに自宅アパートから追い出してしまう。
その晩、ナデルはラジエーが入院したことを知る。
シミンと二人で病院を見舞ったナデルは
夫のホッジャトから彼女が流産したと聞かされる。
後日、ナデルはラジエーの流産の責任を問われて逮捕される。
彼女の妊娠を知って突き飛ばしたとすれば
彼にはお腹の中の赤ん坊に対する「殺人罪」が適用されるからだ。
一方、ナデルも父親に対する仕打ちに対してラジエーを告訴。
裁判の応酬は二組の家族とその周囲の人間を巻き込んでいった。
未来を見つめる女、過去を守る男
イランの映画と言われてもピンと来ないかもしれない。
日本とは文化も社会システムも大きく異なる、まさに異国だからである。
だがこの映画はあるひと組の夫婦の離婚訴訟をきっかけに、
イランという国の抱える構造的問題から、
はては世界中の現代人が抱える課題まで浮き彫りになっていく。
例えば映画のきっかけとなる「離婚訴訟」。
シミンは娘の将来のために国外移住を計画する。
つまり彼女にとってイランという国は子供の教育、
とくに女性の教育には適さないという現代的な価値観を持っている。
だが夫のナデルは父親の介護を理由にシミンの提案を拒否する。
そこには家族の存続を第一義とする伝統的な価値観が垣間見える。
「子供の将来」という未来を大事にする妻と、
「一族の長だった父親」という現在、もっといえば過去を守ろうとする夫。
二人の主張が平行線をたどるのはまさにそんな、
社会における男と女の役割の差からくるものであり、
それが女性の社会的地位の向上に伴ってその力関係が変化してきた、
イランだけではない、多くの社会の現状を物語っている。
既存の価値観が妨げる介護の現実
さて、シミンが実家に帰り、ナデルはラジエーという女性を雇う。
彼女は敬虔なイスラム教徒で、あくまで戒律を守ろうとする。
だが老人介護の現場では多くの場面でその戒律が妨げになる。
それを象徴するのがナデルの父親がベッドで失禁してしまうシーン。
すぐに身体を洗って着替えさせなければいけないが、
イスラムの戒律では女性は男性の身体に触れてはいけない。
そこで彼女はイスラムの寺院に電話をかけ、
介護する場合は身体に触れても大丈夫かと確認をとろうとする。
高齢化に伴う老人介護の問題はイランでも深刻な問題であること、
そして介護の担い手となる人手の不足と、
職業としての「介護」と信仰心との対立がこの場面で見えてくる。
しかも彼女はこの仕事に就くことを失業中の夫に言えずにいた。
それはイランという国が厳しい家父長制の残る国であり、
失業中の夫に替わり妻が働くということは
夫の自尊心を傷つける行為であると同時に、
夫の社会的地位を損なう行為でもあるからだ。
職業としての「介護」の存在が必要になっている現状に対し、
「親の面倒は子供が観るべき」という前時代的価値観が
いまだに社会の中で払しょくできていないことは、
日本の介護の現場でも問題になっていることである。
真実に口を閉ざすことで生まれる悲劇
さて、映画はラジエーがナデルの父親をベッドに縛って外出した事件、
そしてラジエーの流産という二つの事件によってサスペンスの様相を呈していく。
ここで彼らは互いを守るため、ある者は本当のことを言わず、またある者は嘘をつく。
ラジエーはなぜナデルの父親をベッドに縛り付けて外出したのか?
ナデルはラジエーが妊娠していたことを知っていたのかどうか?
同時に、この物語の中では多くの登場人物が真実を口にすることを拒む。
例えば裁判所で「なぜイランで子供を育てないのですか?」と訊かれたシミンは、
「いまのイランでは女は幸せになれないからだ」という言葉を飲む。
ラジエーは失業中の夫ホッジャトの名誉を守るため、
夫に仕事に就いたことを黙っている。
そしてこの事件をきっかけにナデルの父親は言葉を発しなくなり、
全てを見つめる娘のテルメーは両親に自分の思いを口にしない。
それまでの人間関係や、社会の常識、信仰心などが
真実を口にすることで壊れてしまうことを恐れ続けた結果、
事態はさらに深刻な状況に陥っていく。
そして最も弱い立場の人間がその被害をこうむっていく。
そうした構図もまた、イランだけの特有の問題ではなく、
日本でも震災以降、特に鮮明に見えてきた光景でもある。
ひと組の離婚訴訟の行方をきっかけに
多くの普遍的な社会問題を浮き彫りにしたその手腕は見事。
手持ちカメラによるドキュメンタリー的な撮影手法も
この二つの事件をさらに緊迫感のあるものにしていて効果的だった。
「イランなんて馴染みの薄い国の話だから」という先入観は
少し脇に置いて観ることをお勧めします。
世界中の現代人の生活が垣間見える一本でした。