奈良博「空海 KUKAI (前期)」第3章② | 死ぬまでにすべての国宝を肉眼で見る

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2023年12月現在の国宝の総数1,137件。そのうち、美術工芸品906件。これをすべて肉眼で見ようという計画です。関西中心の情報をお届けします。

奈良国立博物館 特別展「空海 KUKAI - 密教のルーツとマンダラ世界


」のレポート、今回は第三章の2回目です。


第一章のレポートは、こちら


第二章のレポートは、こちら


第三章①のレポートは、こちら





では、始めます(^_^)/


第三章 空海入唐―恵果との出会いと胎蔵界・金剛界の融合


第三章では、空海が唐から持ち帰った様々な宝物を紹介しています。

前回の5件


に加え、さらに3件を紹介しますよ



・国宝 三十帖冊子より(仁和寺)【展示替あり】

  第二帖

  第二十帖(空海筆)

 ・国宝 宝相華迦陵頻伽蒔絵𡑮冊子箱【〜5/12まで】

・国宝 弘法大師請来目録【〜5/12まで】



では、ひとつずつレポートします。




・国宝 三十帖冊子より【展示替あり】

  第二帖

  第二十帖(空海筆)

 

仁和寺所有の国宝。平安時代の作。


遣唐使であった空海が、唐から持ち帰った経典集。

写真やコピーも無い時代、日本にお経を持ち帰るためには、書き写すしかありませんでした。

通常は巻子(かんす)装といって、巻物形式にするのですが、どうしてもかさばります。そこで空海は、少しでもたくさんのお経を持ち帰るため、手帳サイズの冊子形式にして持ち帰りました。持ち帰った当初は38冊あったらしいですが、現存するのは30冊なので、「三十帖冊子」の名があります。


この"三十帖冊子"、朝廷に献上せずに、空海が自分用に大事においていたようです。そのため、この後紹介する国宝 弘法大師請来目録にも、"三十帖冊子"は記載がされていないのだとか。


2冊とも見開きで展示されていました。

では、それぞれ見ていきましょう。


第二帖

最初のページを見開きで展示しています。

縦横15cmほどの、正方形の冊子に、細い界線を引き、楷書で丁寧に、キレイに、華厳経を書写しています。

唐の写経生が書写したものと考えられています。


第二十帖(空海筆)

こちらも、縦横15cmほどの、正方形の冊子。途中のページを開いています。

空海の直筆です。

楷書に近い行書で、書かれています。写経生だけでは、書写が間に合わなかったのでしょう。急いで書いたように見えます。界線も引かれていません。

金剛頂経関連の書物を、書写した箇所になるそうです。


元は東寺にあったのですが、仁和寺の守覚法親王に貸し出されたまま、未だに返されていないという、曰く付き。借りパク疑惑?!(゚д゚)!






・国宝 宝相華迦陵頻伽蒔絵𡑮冊子箱


【〜5/12まで】


仁和寺所有の国宝。平安時代 延喜19年(919年)の作。


「ほうそうげかりょうびんがまきえそくさっしばこ」と読みます。

先に紹介した、国宝 三十帖冊子を納める専用ケースです。蓋の中央にあるタイトル「納真言根本阿闍梨空海/入唐求得法文冊子之筥」からも、これが三十帖冊子の専用ケースであることがうかがえます。


に浸した麻布を、何重にも型に貼り付けて乾燥させ、黒漆を塗っています。木の箱に比べて、とても軽いそうです。仏像でいうと"脱活乾漆造"ってとこでしょうか。

そこに、最後の仕上げとして、金銀の研ぎ出し蒔絵で、宝相華と28人の迦陵頻伽、蝶々、小鳥を描いています。

非常に細かい、金銀の蒔絵が施された経箱です。


この国宝の見所ひとつめは、迦陵頻伽。上半身が人間で、下半身が鳥という極楽浄土に住む想像上の動物です。

リアルに足が鳥なので、結構気持ち悪い(>.<)ですが、いろんなポーズであちこちにいるので、探すのが楽しいですよ♪

迦陵頻伽の羽の先端部分と足、宝相華の花びら部分に、金の蒔絵を用い、その他の部分は銀の蒔絵を用いています。単眼鏡でよく見ていただくとわかります(^_^)微細に正確に作られています。


ふたつめの見所は、蓋に書かれている文字です。「納真言根本阿闍梨空海 入唐求得法文冊子之筥」と書かれています。"空海が唐から持ち帰った冊子を入れる箱"という意味ですね。その冊子は、先ほど紹介した"国宝 三十帖冊子"です。空海が唐から持ち帰った後に、三十帖冊子は散り散りになってしまったのですが、醍醐天皇が再び集めて、この宝相華迦陵頻伽蒔絵𡑮冊子箱に納めたと言われています。三十帖冊子ともども、仁和寺所有の国宝です。


蓋を被せたままの展示です。被せ蓋が深いので、内箱は見えませんが、実は内箱にも蒔絵が施されているんですよ。





・国宝 弘法大師請来目録【〜5/12まで】


教王護国寺(東寺)所有の国宝。平安時代(9世紀)の作。

空海とともに、遣唐使として唐に渡った、もう一人の平安仏教界のスーパースター"最澄"の書です。

ここでは、国宝 弘法大師請来目録のバックストーリーを少し紹介します。

最澄と空海は、同時期に遣唐使として唐に渡りますが、顔を合わせることになるのは、帰国してからだったようです。
なぜなら、空海は第一船、最澄は第二船と別々の船で唐へ渡ったから。
(ちなみに、第三・四船は難破して海の藻屑と消えました……)
同じように見えますが、空海は自費で留学する"私度僧"で、滞在期間は20年。一方の最澄は国費で留学し、通訳まで付く超エリート。任期はわずか1年。

最澄は留学途中に、桓武天皇から「早く帰ってきてくれよ〜」との要請を受け、泣く泣く帰国します。
最澄はこの事によって、"密教"を学び切れずに帰国することとなりました💦

逆に空海は、唐で天才ぶりを発揮。
わずか2年で、真言七祖の一人 恵果から"密教"のすべてを学びます。
恵果からは「もう、そなたに教えることは何も無い。早く国に戻り"密教"を日本に広めなさい。」と帰国を促され、20年を2年に切り上げて日本に帰国しました。

ところが、遣唐使の期間をメチャクチャ早く切り上げたことが災いし、空海は何年も九州で足止めを食って、都に入れてもらえませんでした。

この、国宝 弘法大師請来目録は、最澄が、空海が許されて都にあがれるよう、この国宝 弘法大師請来目録を書き上げ帝に献上したと言われています。
「空海は、こんな素晴らしい密教の経典などを、唐から持ち帰ってきています。早急に都に来させるべきだ」と。

後に空海は都に上ることを赦されるので、最澄の影響(この弘法大師請来目録)は大きかったのでしょう。

前置きが長かったですね~
では、レポートします。


国宝 弘法大師請来目録は、巻子装(巻物形式)で、びゃーっと、ほぼ全巻展示しています。

巻きのタイトルは「沙門空海学法目録」。
「上新請来経等目録表」の書き出しで始まります。
薄い界線が引かれ、最澄の丁寧な字でササッと書かれています。
まずは、入唐の場面から始まり、その後に、空海が唐から持ち帰ったお経など様々なもののリストを、ズラ〜と記しています。
その中には、この展覧会でも同時に展示している「国宝 真言七祖像」「国宝 諸尊仏龕」も入ってます。
さらに巻末には、在唐2年の出来事を記しています。

さて、この時点で空海とは、ほぼ面識の無かった最澄は、空海に都に来て欲しかったのでしょうか?それとも、空海の持ち帰ったもの(弘法大師請来目録に記載された様々なもの)が欲しかったのでしょうか?




次回は、第四章です(^_^)/~~