イランのジャファル・パナヒ監督が2025年カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した作品だ。本作はパナヒ監督作品のユーモラスな部分はやや抑えられていて(といっても笑うシーンもあるが)、やや重苦しいサスペンスでもある。

 自分を投獄して人生のすべてを奪った男と偶然出会ったワヒド。ワヒドは相手の声と義足の感じから、復讐の相手だと思い、荒野に埋めようとするのだが、相手は人違いだというし、ワヒド自身、投獄中は目隠しされていたので確信がない。

 彼はひとまず復讐を中断し、同時期に投獄されていた反体制派の人物を訪ねていくことになる。最終的にワゴンに乗り込むのは、復讐すべき男以外に5名となる。その5名は確信が持てないまま、1日中車でさ迷うことになる。

 本作はきわめてストーリーテラーな部分があるので、これ以上は書けないが、面白いシーンがある。それは、時間がなかなか過ぎない荒野のような場所で、「昔見た芝居を思い出したという」それは「ゴドーを待ちながら」だ。この話は、タイトルだけで終わるのだが、「ゴドー」から考えることもある。ベケットの劇作は、木が一本生えた荒野で、男たちは、意味のない話をしながら、ゴドーを待ち続ける話だ。

 まさに本作も、誰が誰に復讐しても憎しみの連鎖となり意味はない。が、それを待ち続けるのも人間かも知れない。それぞれが心の中に隠し持つ秘密や語れない何かを持ちながらさ迷う1日はスリルに満ちている。そして、それほど悪人も出てこない。ワヒドに至っては偶然のように「善行」まで。

 反体制的な活動を理由にイラン政府から映画制作を禁じられながらも活動を続け、2度にわたって投獄された経験をもつジャファル・パナヒ監督。本作は彼自身の思いと同じ境遇の人々の言葉から発想した作品だという。

 監督は「チャドルと生きる」、「熊は、いない」でベネチア国際映画祭金獅子賞、「人生タクシー」でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。本作でカンヌ映画祭のパルムドールを受賞したことで、3大映画祭すべてで最高賞を受賞する快挙を達成したのだが、それ以上に何か重い想いを感じざるを得ない。

 ワヒドにワヒド・モバシェリ、女性カメラマン・シヴァにマルヤム・アフシャリ他が出演している。

 ラストシーンの不気味な描写の意味は誰かと話し合って欲しい。

 2026年5月公開。

 ろう者の妻、アンヘラと夫、エクトル。彼らは手話がコミュニケーションの中心。陶芸工房で働くアンヘラは、静かで平穏な日々を送っていたのだが、ある「幸せな出来事」がきっかけとなって、多くの悩みが・・・。公式HPにも「幸せな出来事」については記述がないので、ここでは書かないことにしよう。(そんなこと誰だって予想する事なのに・・)

 監督はエバ・リベルタ。彼女はマドリード・コンプルテンセ大学で社会学の学位も取得している劇作家である。

 監督メッセージで「主演のミリアム・ガルロは私の妹で、ろう者です。数年前、ミリアムは母親になろうと考え始めました。(略)ミリアムは『聴者による、聴者のための世界』で母親になることへの不安や期待を打ち明けてくれました。(略)今回の長編作品は、ろう者の世界と健聴者の世界との複雑なつながり方をさらに深く探求したいという思いから生まれました」と述べている。(公式HPから)

 ろう者と聴者の関係を描く映画は多くあるが、本作では、良く尽くしてくれる夫との間にも次第に感じる違和感を、丹念に描いている。そしてやがては、互いが本音をぶつけてしまう諍いに。

 そしてラストの15分ほどは、アンヘラの聴覚世界に映画は突入する。だから観客も、アンヘラの表情、周囲の人たちの仕草や手話をしっかりと見るしかない世界を体験する。そのあたり、「映画をセリフでしか捉えないで、見てよ。映画はイラスト・ラジオじゃないんだから」とでも言うように・・・。もちろん名セリフを否定するわけではないが、私にとって興味深い体験だった。

 この表現は、コーダを扱った映画でいくつか見られるが、本作が最長時間かも知れない。で、再び監督の言葉を引用。「私はアンヘラをろう者全体の代表として考えたこともありません。アンヘラは母親になる過程を歩んでいる女性であり、パートナーとの関係に問題を抱え、両親との関係も複雑で、娘に自分のことを知ってもらい、また愛してもらいたいと願う女性です」

 いわゆるスペインのアカデミー賞ともいえる第40回ゴヤ賞では、最優秀新人監督賞、最優秀新人女優賞、最優秀助演男優賞を受賞、またベルリン国際映画祭にて観客賞とアート・シネマ賞を受賞している。

 ろう者と聴者の間にある誤解や嫉妬、あるいは劣等感や敗北感のような感情。映画の最後に何かが収まるわけではないが、ただ少し微笑んで見ていたのは事実。本作の原題は「Sorda」英語題は「Deaf」である。

 2026年5月公開。

 イギリスのケン・ローチ監督の「わたしは、ダニエル・ブレイク」「家族を想うとき」に続く「イギリス北東部3部作」最終章だそうだ。ケン・ローチというとカンヌやベルリン国際映画祭常連という印象のある労働者階級や移民に目を向けた作品が多い。

 本作「オールド・オーク」はイギリス北東部にある炭鉱の町で唯一のパブの名前。そこへ、シリア難民が移住してきたことで、店主のTJ・バランタインのパブは、彼らに対する嫌悪などから諍いの場になってしまう。その中でカメラを持ち、英語を話すシリアの女性ヤラと出会い、友情を育むことになる。

 TJ・バランタインの人生はうまくいっていない。妻は出ていき、息子は口も利かないらしい。そして、父親は炭鉱の事故で死んでいる。彼自身、炭鉱の規模縮小で労働運動をした経験がある。また、村の男たちも似たようなものだ。パブでビールを飲む以外は、あえて希望など持たないような生き方をしている。そんな、彼らが、命からがら海を渡って来たシリア人を差別する。「そんな慈善は、もっと金持ちの街でやれ」とでも言うように。

 本作では、TJの孤独な戦いが主な物語だが、最後には少しだけ希望を見せてくれる。

 TJ・バランタインを演じたのはデイヴ・ターナー。ケン・ローチ作品には出演しているが、元々は労働組合役員だそうだ。ヤラにエブラ・マリ。彼女はシリアのゴラン高原、マジュダル・シャムス村出身でオーディションを経て抜擢されたという。さらに、難民役の出演者の多くはシリア人々らしい。だから、リアルなのだ。

 本作では、難民を憐れむのではなく、監督が意識し伝えるのは、「分断を生む社会の構造」だ。「慈善ではない連帯だ」というセリフに在るように、社会の底辺ともいえる炭鉱労働者の搾取側への怒りと不信、そして命までも奪われかねない難民の存在。

 分断は権力者にとって都合の良い統治の形。階級を分け、分断させれば、自分たちはすぐ下の階級だけを脅し、少しの喜びを与えて掌握する。そして彼らは別の階級を管理、掌握するというシステムだ。そんな本質も感じるのだが、人の感情にも触れられる作品に仕上がっている。脚本は、「家族を想うとき」で英国アカデミー・スコットランド賞の脚本賞を受賞しているポール・ラヴァティ。

 最後に、本作公式HPに書かれている言葉を引用しよう。本作は「現実社会にも起こっている分断や争いと、違いを受け入れながら共存していくことへの希望についての考察を我々に促すだろう」とのこと。フィルムで撮影された柔らかい画面も楽しめる。

 2026年4月公開。

 国籍を奪われ世界で最も迫害されている民族といわれるロヒンギャ。バングラデシュの難民キャンプで暮らす5歳のシャフィと9歳の姉ソミーラは、家族との再会を願い、叔母とともにマレーシアへ向かう。その旅路が本作だ。パスポートを持つことができないから、すべては密航業者の手助けが必要となる。もちろん善意で助けてくれる人々もいるのだが、その移動は過酷極まる。

 ロヒンギャについては、自分で調べて欲しい。(また同時にクルド人やパレスチナ問題も)

 映画に戻ろう。彼らの移動は、フィクションとして撮影されているが、200人を超えるロヒンギャたちをキャストとして起用しているというだけあって、リアルなのだ。ベネチア国際映画祭においても、最初はドキュメンタリーと紹介されていたという。

 だから、観客は、幼いシャフィとソミーラを連れて、痛いような日々を体験することになる。(一安心して、将来の夢を語る青年たちも、本作では描かれないが、想像しても痛い)

 監督は「僕の帰る場所」「海辺の彼女たち」で国内外において高い評価を受けて来た藤元明緒。本作で、2025年ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門で日本人監督初の審査員特別賞を受賞している。

 監督は「自然の脅威や越境ビジネスにおける搾取など、さまざまな困難に直面しながらも、生きる道を探し続ける彼らの姿を通じて、人間の尊厳と希望を見つめたい」と述べている。

 実は本作は企画段階から私自身知っていて、危険なロケになるのではと心配していた。確か初稿のタイトルは「名もなき旅路」だったと記憶している。

 彼らの名もなき旅路は、日々続いている。今日も安住の地を求めて命を落としている人もいるかも知れない。

 再び監督の言葉「遠い問題、遠い人々だと感じられがちなロヒンギャ、ひいては難民という存在が、この映画を通じて友情を育み、共に歩んでいく隣人として感じられることを願っています」とのこと。難民であろうが子どもたちは、日本と同じ遊びをするし、肉親と離れれば悲しい。劇中のシャフィとソミーラを「かわいそう」と哀れむのではなく、彼らを守ろうとする名もなき人々と連帯できれば、私たちの人生は美しいものになるのだろう。撮影も素晴らしいので是非!

 2026年4月公開。

 クロエ・ジャオ監督が、シェイクスピアの名作「ハムレット」の背景にあった悲劇の物語を、フィクションを交えながら描いた作品。原作は2020年に発表されたマギー・オファーレル著の同名小説。

 舞台は16世紀イングランドの小さな村。魔女の娘と噂されるアグネスは、貧しいラテン語教師ウィリアム・シェイクスピアと出会い結婚。彼らは、3人の子どもに恵まれるが、次に生まれた男女の双子の内、男の子ハムネットが病で死んでしまう。夫ウィリアムの不在のなかで起きた悲劇は、深い悲しみと夫婦間に亀裂を生じさせていく。

 本作の流れは「不思議」な感覚を観客に抱かせながら、物語として変化していくように作られている。まさに見事な映画的劇作術を持っている。まあ、シャークスピアを再考する訳だから幼稚なことは出来ない。双子が生れた時、死産だと思われた女の子が息を吹き返す。そして彼らが少し成長して、男女の服装を入れ替え、父親を騙すあたりから、観客は一切、スクリーンから目を離せなくなる。

 出演は「ウーマン・トーキング 私たちの選択」のジェシー・バックリーがアグネス(彼女は本作でアカデミー主演女優賞を受賞)、「aftersun アフターサン」のポール・メスカルがウィリアムを演じている。他の俳優たちの演技も完璧で、子役に至ってもしっかり演出が付けられている。

 最後には、「ハムネット」という亡き息子の名前の付けられた芝居をアグネスと彼女の弟は観ることになるのだが、「うーん」という感じ。劇中劇もそれなりにうまいし、アグネスの反応も・・・。これは、どうかな?という感覚もあった。と言うのも、彼女、結構独り言を言うのだ。それがどうも説明的で、英語のセリフを聞きながら「Enough, too much!」と心の中でつぶやいてしまった。そこは、観客の私に考えさせてほしい。とはいえ、泣くほど感動したのも事実だ。

 これほど完璧に作られた映画作品の欠点は、同じお芝居つながりで「国宝」でも同じだが、映画の中で完結してしまうことだ。なるほどね!良く出来ている。そういう事ね。で完結するのである。

 監督のクロエ・ジャオの「ノマドランド」では、企業町と夫との思い出の住処を失って、若くない女性がキャンピングカーで車上生活する映画だった。映画を観ながら、私たちは何を失い、その中で何を得ようとするのか?日々の風や風景を記憶し、追憶し、生きていく。観客に開かれた映画だった。そういった部分も残してほしかったというのは、無いものネダリだろうか?

 2026年4月公開。