興味深い映画だった。あのアウシュビッツ収容所の隣に住む家族の話だ。彼らは立派な家に住み、ポーランド人を家政婦に使い、犬を愛し、子どもを愛している。この家の主婦、ヘートヴィヒ・ヘスは、夫であるナチス親衛隊の収容所長のルドルフ・ヘスには、イタリアのスパへ行きたいだとか、家庭のことで要求はしても、夫の仕事には無関心だ。でも、この一家は隣の収容所で何が行われているかを知らない訳はない。

 ルドルフは如何に効率よく死体を灰にするかの会議も自宅で行っているし、妻も知らないではない。ユダヤ人から奪った服を分け合っているし、川遊びをする川の水の、殺人ガスの材料による汚染を気にしている。しかし、そこには行かないだけだから大丈夫。自分たちは、立派な暮らしを手に入れて、無関心でいられるのだ。隣からは黒い煙が上がっているし、時折発砲音も聞こえてくる。でも妻の心配事は自分の庭の美しさを保つことだし、夫は出世と胃の不調くらいだ。

 で、本作を淡々と見ていると不思議な感覚に陥ってくる。この映画を観に来る観客で、アウシュビッツが何なのか知らない人はいない。植物の土を改良する灰のことまでが気にかかってくる。この家族が無関心でいればいるほど、見えない向こうが気になってくるのだ。想像できる人には、時折通る汽車の汽笛すら恐怖を感じる。

 映画の最初には、粗末な服を着た男たちが、荷物を運んだりブーツを磨いたりしているが、あれがアウシュビッツの労働力・ゾンダーコマンドだろう。「サウルの息子」に出てくるユダヤ人だ。

 基本的に本作ではドキドキハラハラの事件は起きない。いやもっと大きなことが起きているのだ。「血が流れた時、悲劇は終っている」は三島の「金閣寺」だったか?考えが及ぶほどに背景の恐ろしさと、気にせず生活が出来る彼らの無関心の恐怖を、「冷静な」観客の頭で感じるのだ。

 最初に興味深いと書いたのは、この点である。冷静に向き合える映画なのだ。だから、観終わってもカタルシスはない。暴言を吐くが、私に言わすと「カタルシスを利用する映画は、すべてプロパガンダ映画」な訳で、それを排除して映画が作れる人に感謝したい。

 監督は「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のジョナサン・グレイザー。夫ルドルフにクリスティアン・フリーデル。妻のヘートヴィヒにザンドラ・ヒュラー。「落下の解剖学」と「関心領域」の2作で2023年カンヌ映画祭コンペ作品に主演したことになる。ちなみに本作は2023年カンヌ映画祭グランプリ(審査員特別賞)を受賞している。

 アウシュビッツで思い出したけれど、マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩というのがある。一度検索されることをお薦めする。

 2024年5月公開。

 幼い娘がある日突然帰ってこない。公園から家までの数百メートルの間に消えてしまったのだ。あらゆる手を尽くすも、見つからないまま3ヶ月が過ぎていたところから本作は始まる。

 娘の無事を待ち続けるも両親だが、少しずつ世間の関心が薄れていく。小さなことや、夫の言葉のいくつかに反応してしまう妻。傷つきながらも耐えなければならない夫。娘がいなくなった日、妻はたまたま、弟に娘を預けて、アイドルのライブに出かけていて、そのことも彼女の負い目になっていく。頼るのは唯一取材を続けてくれる地元テレビ局のディレクター砂田だ。

 SNSでは、誰が犯人だとか、ライブに行っていた妻を中傷する書き込みなどが酷くなってくる。さて、そんな日々を丹念に見つめていくのが本作だ。ここに「見つめていく」と書いたのは、言葉で説明したり、綺麗ごとで解決できる問題ではないからだ。

 そう、SNSで日常の身勝手な正義感を満足させたい弱者、報道と言う名のもとに暴力をふるっているのは自分達ではないか?と悩むTV局員。あるいはこの悲しみに耐えるしかないし、娘にたどり着けない怒りをどこにも向けられない両親。まさに「悪は存在しない」のである。

 娘を探す母・沙織里に石原さとみ、夫に青木崇高。テレビディレクターに中村倫也らが好演している。特に、突然の理不尽な悲しみと、情報がなく(あってもいい加減なもの)娘の存在すら忘れられていくような怒りを体現する、いわば「悲しみのモンスター」へと変容する石原さとみの演技には魅せられる。砂田とのロングインタビューのシーンでは、彼女の鼻だけが充血し、内面からの渾身の演技を見ることができる。

 また、最初から少し怪しく感じる弟の森優作も彼以外に考えられないキャスティングだ。

 監督・脚本は𠮷田恵輔。東京ビジュアルアーツ在学中から自主映画を制作する傍ら、塚本晋也監督作品の照明を担当したというツワモノ映画作家。企画に河村光庸の名もある。2022年6月に亡くなったが、「新聞記者」「茜色に焼かれる」や「月」などのプロデューサーだ。面白くない訳がない。人物たちの内面を大切にする映画だが、次々と心が揺さぶられるようなシナリオ的な配慮もされていて面白い。まあ、ラスト少しくどい部分もあるけれど、それがないと観た気がしないという観客への心遣いだろう。

 普段、こういったシネコン系のメジャー作品を紹介することはないが、その辺のテレビドラマの画面が大きくなっただけのペラペラの日本映画じゃないので是非!というところ。

 熱心で不寛容を嫌う女性教師のカーラは、生徒の信頼を得ていたが、校内で盗難事件が相次ぎ、彼女の教え子が犯人として疑われる。学校側の対応は、教育的に解決する手段の筈が、犯人特定が中心となり、学級委員の生徒までに誰が怪しいかを探るような、まさにカーラが一番避けたい方法をとっていく。「さあ、一人ずつ教室に入ってお金を返そう」みたいなことは、日本の学校でもあったが、そんな「ありふれた」昭和のような学校ではない。

 クラスには違う宗教の生徒もいるし、他の国から移民してきた家族の生徒もいる。第一、カーラ先生だって、ドイツ生まれだがポーランドからの移民一家で育っている。不寛容と分断は心が痛い筈だ。

 学校側に反発したカーラは、ふと思い立って、ノートPCの隙間から椅子に掛けた自分の上着を撮影。何と映像に、ある人物(ブラウスの袖)が盗みを働く瞬間が収められていた。というもの。それを校長に相談し・・・。という物語だ。ドンドン問題は大きくなっていき、まさに教師間の分断や、それ以前の盗難に関して生徒を巻き込んだことからPTAには責められるし、カーラが一番恐れる、クラス内の生徒の分断と差別的憎悪を生んでいくというもの。そこに生徒たちの学校新聞までもからんで、とんでもない展開をしていく。

 「ありふれた教室」は数日間で、まさに社会の縮図となっていく。さすがドイツ映画、良く出来ている。本作は、2023年ベルリン国際映画祭パノラマ部門でワールドプレミアされドイツ映画賞主要5部門(作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞、編集賞)の受賞を達成。2024年アカデミー賞国際長編映画賞に選出されている。

 監督のイルケル・チャタクはトルコ系移民の息子としてドイツに生まれた経歴の、注目すべき映画作家だ。主役のカーラにレオニー・ベネシュ。母親を泥棒と疑われ心を閉ざす少年オスカーに映画初出演のレオナルト・シュテットニッシュ。ものすごく注目していきたい。

 監督は本作について「社会の鏡についての作品です。それを表現するのに、学校は絶好の舞台なのです。なぜなら、私たちの社会の縮図であり、ひな型みたいなものだからです」と述べている。

 ドイツ語の原題は「Das Lehrerzimmer(教師の部屋)」。充実した99分。何かが解決するわけではないが、上手い終わり方にも注目して欲しい。

 2024年5月公開。

 「ドライブ・マイ・カー」でアカデミー国際長編映画賞、カンヌ映画祭脚本賞、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞するなど海外でも高く評価されている濱口竜介監督の最新作。音楽家の石橋英子と濱口監督による共同企画として誕生したという。

 舞台は長野県、ある村。自然が豊かな高原に、代々そこで暮らす巧と娘の花は自然に囲まれた慎ましい生活をしている。花を幼稚園に預け、巧はその間、便利屋として働き、夕方からは花と共に過ごす。花の母親はいないらしい。写真が出てくるので、どうぞ想像してくださいという事だろう。花も豊かな自然を楽しんでいる。親は木の名前を教え、子どもは知識を豊かに吸収していく。ある種、理想だ。

 しかしそんな場所にグランピング場(贅沢なキャンピング場)を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものらしいが、環境への影響の懸念と、その影響が巧たちの生活にも及んでくるというもの。

 コロナ補助金目当ての芸能事務所なのだが、その担当者は意外と真摯に問題に向き合っていく。このあたりが、タイトルの意味なのかとも考えるが、そんなに単純ではない。「どうなる、どうなる」とハラハラさせて、理解しがたい光景を投げかけて、観客にそれぞれの考え方、生き方、思想で対応することを要求する。

 自由に、まるでセッションのように作られた本作。と公式HPにあるが、どうだろう。シナリオ上では、かなり綿密に仕掛けが作られている気がする。

 俳優たちも、有名俳優を使わないので、登場人物たちの内面などに既成のイメージを抱くことはない。それも狙いだろう。音楽もワザと粗く切る部分もあり、美しくゆったりした映画の中に、何か異質な感覚をもたらす。北川喜雄の撮影も、ここでこんな苦労する必要ある?というような撮影方法をとったり、常に樹の間から人の移動を見つめるような撮影は、「これは野生の鹿の目だな」などと観客に思わせたりする。

 映画は観客の解釈を加えて完成する。グランピング場を作ろうとする会社も、自然と折り合いをつけてバランスを取りながら生きている人々も悪い人はいない・・・ように見えるが。さあ、どう考えるか。木を切って薪にすることだって・・・。と考えると、いつまでも楽しめる映画だ。

 最近思うのだが、今、映画は大きな転換期に来ている感じがある。AIが書けてしまうような企画は「もう、うんざりだと」でも言うように。

 大阪ではシネ・ヌーヴォと第七藝術劇場だけなので、しばらくは満席が続くようだ。若い観客も多く、嬉しい限りだ。

 2024年5月公開(関西)。

 なんと長いタイトルだろう。原題もRabiye Kurnaz gegen George W. Bush。同じだ。ドイツ版の「肝っ玉母さん」という感じだが、この調子のいいコメディは、何と実話の映画化だという。

 アメリカ同時多発テロ(2001.9.11)の一か月後。ドイツに暮らすトルコ移民の一家の長男、クルナスが、旅先のパキスタンで「タリバン」の嫌疑をかけられ、悪名高きキューバのグアンタナモにある米軍基地の収容所に収監されてしまう。なんで、パキスタン、からキューバなの。しかも裁判もなく収監された訳だが、本作は、そこから息子を救い出そうとする1786日の戦いだ。

 同時多発テロ後、ブッシュ大統領は直ちにビン・ラーディンらアルカイダの犯行と断定したが、その引き渡しをアフガニスタンのタリバン政権が拒否。それを理由にアメリカ・イギリス軍(有志連合)はアフガニスタンへの空爆を開始したことは記憶している。

 その最中の出来事が、本作が生れるきっかけだ。イスラム教徒への差別や偏見が多く生まれたのもこの時期だ。

 本作のミセス・クルナスはトルコからドイツにやってきた移民家族の母。日々の生活とベンツにしか興味はなく、遠く離れたドイツに暮らしていて、全く政治には無関心なままに生きてきた。そんな彼女が息子を取り戻す戦いをはじめなくてはならない。協力者は電話帳で見つけた人権派の弁護士ベルンハルト。二人は最後にはアメリカ合衆国最高裁判所でブッシュ大統領を相手に訴訟を起こすことになるというもの。

 2022年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(主演俳優賞)と銀熊賞(脚本賞)を受賞しているが、うーん、ベルリン国際映画祭はなんで?という印象。良い意味でも悪い意味でも、まるでテレビドラマのように説明的で、アップテンポで観客を飽きささない作りになっている。要は、説明があって行動して、トラブルがあって・・・の連続。いわゆる古典的なエンタメのセオリー。

 脚本はライラ・シュティーラー。監督はアンドレアス・ドレーゼン。主演のミセス・クルナスにメルテン・カプタン。ベルンハルトにアレクサンダー・シェアー。

 まあ、見やすい作品だ。ちなみに、ウインドウズに登場したCopilotで「グアンタナモ収容所」について質問してみると「この施設は法の適正プロセスを規定したアメリカ合衆国憲法修正第5条や修正第14条に違反すると批判されており、キューバ政府は基地の返還を求めています。収容されている人々は、しばしば裁判にかけられることなく長期間拘留されることが問題視されてきました。バラク・オバマ大統領は、2009年に収容所の閉鎖を命令しましたが、議会の反対により完全な閉鎖には至っていません。ジョー・バイデン大統領も任期中の閉鎖を公言していますが、現在も完全な閉鎖には至っていない状況です」とのこと。

 楽しくコメディタッチで見せたいという思いはわかるけれど・・・どうなのかなあ。でもね、良くも悪くも、ある種の正義が貫かれる感動はある。エンタメとプロパガンダの関係を考えるのも良いかも知れない。

 2024年5月公開。