Love&Sick~不倫生活
現在、夫婦として、家族として再構築中です。日々の葛藤も含めて日記としていますので、
時に混沌としていますが、よろしくお願いします。
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2018-08-29 12:52:21

「どこかここと違う場所」

テーマ:日記

8月も後半とはいえ今年はまだまだ暑い日が続く。

昨日から子どもが一人で海外旅行に出かけて行った。

時間の流れと子どもの成長を感じながら、ふと自分の大学生時代を思い出していた。

 

 

もうずいぶんと昔、大学生だった頃の夏休み。

バイトでお金を貯めてアジアを旅行するのが好きだった。

初めて見る風景や聞く言葉、食べ物、円高のギャップ、文化、出会うもの全てが目新しいものだった。

 

今と違い、インターネットや携帯電話もない時代。

「地球の歩き方」と旅で出会う日本人の口コミだけが情報源だった。

 

行き先への不安よりも好奇心が上回る年頃だ。何も考えてはいないといえばそれまでで、

とにかく「どこかここと違う場所」へ行きたい。それだけを考えていたことを思い出した。

 

実際、当時のアジア諸国(現在もそうなのかもしれないが)は計画を立てても思い通りには進まず、

時にトラブルでイラついて弱気になったり、些細なやりとり(値段交渉とかね)で喧嘩になったり、

日本では考えられないほどの緊張感、警戒感を強いられることが多かった。

それだけ自分が未熟だったんだろうし、現地の文化や習慣を理解できていなかったんだろう。

途中でなぜこんな旅を続けているのか意味も分からず、あらゆる葛藤と向き合う日々だったように思う。

 

それでも帰国すればまた「どこかここと違うこと」を求めて、旅行の計画を密かに? 練っていた。

 

時が経過すれば、自立せざるを得ず、自立とはこれ生活をしなければいけない訳で、

つまり何か仕事なりをして生業を立てざるを得ない。

 

しかし、世の中には修行僧の「雲水」的な一箇所にとどまらない生活をする人も数多く存在していた。

それはインドの海岸の宿で出会った日本青年であったり、脱サラしてタイとマレーシアを往復しながら生活するバックパッカーであったり。25年以上前からこういう生活する人はたくさんいた。

 

彼らは自分の憧れの姿ではあったが、どうにも将来への不安で自分は「雲水」にはなり得なかった。

 

今彼らが何をしているのか知る由もないが、思うのは人の生き方にはおおよそ善し悪しなどではなく、自分が思い描いて実行した現実が目の前にあるのみ。

 

「当たり前だと思いこんでいる幸せ」が生活に埋没して見にくくなる瞬間があるんだろうと思う。

旅行へ行くっていうのはこういう何気ない幸せを確かめるために行ってるんじゃないかと思うことがあるってこと。

 

変わり映えしない毎日で埋没する感情、思い、行動、見失った自分の姿。

こういうものから客観視して向き合えるのも旅行のいいところなんだと思う。

普段とは違う空気を吸うだけで、実は自分もまた変化していることを実感できる。

 

ここでいう「どこかここと違う場所」は近くて遠い。永遠に見つからない場所なのかも知れないけど。

 

大学生の頃見えていた「どこかここと違う場所」と今見えている「どこかここと違う場所」は、

一体何が違うのか自分にはまだよく分からない。

 

確かなことは、子どもが成長していく過程で、自分を投影していること。

 

こうして昔を懐かしむ行為もそうだし、これからもう一度旅に出たいと思う衝動もある。

きっと、何気ない幸せを見失っている時、「どこかここと違う場所」を考えてしまうのだろう。

 

きっとそれは旅行に限らず、あらゆる現状に対してもいえること。

 

それが、他人を苦しめたり、傷つけてしまうものなら何気ない幸せもまた見失ってしまうだろう。

まさに元も子もない。

そんな時に必要なのは、旅行ではなく治療が必要なのかも知れない。

 

 

また、「どこかここと違う場所」に行こうかと思う。

何気ない幸せを一緒に感じることが至上の喜びだから。

一人でフラフラは行かない。

 

 

覚書8月29日

2018-03-03 02:50:57

20th

テーマ:日記

ふと深夜にログイン。

ここ数年見向きもしなかったこのブログ。

 

何でかって、理由は様々。

ともあれ明日、久しぶりに大阪へ。

ログインした理由はそういうことにしておこう。

 

昔、一緒に働いていた部下が一時帰国するとかで、飲み会のお誘いがきてスケジュールなんかのこともあって悩んだが出席することにした。

 

今、一時帰国した彼の働いている国に興味があって、その現状も聞きたいっていうのもある。

でもそれより仕事じゃない理由で大阪へ行くって何か特別なことに思えて。

 

大阪での出来事がこのブログを書くきっかけになったことは間違いない。

もうあれから10年以上の月日が経過した。

 

それでも何もかもを忘れることはできないし、あの日々を美化するなんて自分にはできない。

今だって、どう解釈していいかも分からないし、本当に人を傷つけてしまった。

 

このブログを未だ書いてしまうのは未練や郷愁といったおセンチな理由ではなく、家族や人生を深く見つめ直すためなんだと思う。

 

ふと。

 

「人の幸せとは何か?」

 

この数年、いつもいつもこの問いを自分に確かめるクセがついた。

 

すると

 

「お前はどうしたいのだ? 今、何にワクワクしている?」

 

いつものようにこう自分が自分自身に問いかけてくる。

 

深呼吸して。

 

子供たち、家族のこと。週末のこと。

近い未来のこと。遠い未来のこと。

 

少し不安になったならワンクリックで手に入るMusicを大量に漁る。

 

いつものこと。

 

レコード屋さんは僕にとってもうはるか遠くの記憶。

 

昔聴いていた曲。今興味のある曲。

昔自分がCDで聴いていて今、自分の子供がレコードを買ってきて聴いている曲。

日本語、英語、どこか遠くの外国語、歌詞がない曲、両耳から全身に注ぎ込まれる。

 

また深夜。

 

いつだってアイデアは夜にあふれてくるものだ。

 

便利なようで不便な世の中になった。

時間は歳とともに確実に縮んでいることを実感する。

 

あの頃。

 

10数年前ならタバコをふかして酒を飲みながら本を読んだ。

そして、時折届くメール着信の合図。

若さは睡眠を遠ざけ、ひたすら欲望へ忠実に。

そして、身の丈に合わない節制は精神を蝕み自分の正体を隠してしまった。

 

今は世界とつながるこのちっぽけな箱と向き合っている。

だが、ここには何もないことを誰もが知っている。

 

だが手元には、酒もタバコも今はもうない。

 

だからベッドの縁に座って、イヤフォンで耳を塞いで音楽を流し込む。

変わらないのは隣で安らかに眠る妻。

 

お互いに歳を重ねたよ。

でも何も変わらない。お互いにね。

 

僕はさらにバカになり、あなたは自分を解放する。

子供たちは生きる術を覚えてどんどん成長する。

毎日あなたとその成長を見守り楽しむことができる。

 

もうしばらくすればまたライフサイクルは繰り返し受け継がれて行くだろう。

 

それは退屈ではない。いつも毎日は新しい。

やがて夜は明けて、朝を迎える。

 

少し憂鬱な朝も、その先のワクワクする未来には影を落とさない。

自分しか現実を創ることはできないのだから。

 

 

 

 

今年、僕らは入籍してから20年を迎えた。

子供は成長して今や大学生に成長した。

 

10年前は山奥の温泉に出かけた。

20周年の今年は南の島へ行ってきた。

 

 

 

こんなに寒い沖縄は初めてだったけど、これほどワクワクした時間を共有したのは久しぶりだった。

 

CDにして4枚分の音楽を詰め込んで。

それを浴びるほど聴きながら古くて新しい自分たちをまた発見したんだと思う。

 

沖縄は自分にとってかけがえのない場所。

スピリチュアルな感覚で言えば「命」を実感できる場所。

ここに来なければ、妻との出会いもなかった。

 

そして入籍して20年目に妻と沖縄に来るなんて想像もしていなかった。

この先10年。何があるのだろう。

 

でも、不安になったらまた深呼吸して。こう自分に問う。

 

「お前は一体どうしたいのだ? 今、何にワクワクしている?」


何が一番楽しいか。ワクワクするのか。

一番それを知っているのは自分自身。

 

それを理解してくれる人がいるだけで幸せだ。

 

そして、不安な気持ちを抱いても道はこの先も続く。

その先に何があるかなんて今は興味はない。

ひたすらに楽しい音のする方へ歩いて行く。

疲れたらまた少し休んで音楽を聴けばいい。

 

楽しそうな音のする方へ。

 

 

 

夜想3/3 2018

 

 
2016-01-29 13:26:42

覚書1/29

テーマ:日記
久しぶりにこのブログをログインしてみた。
何がどうということもないけれど。

*

それにしても芸能人の不倫だとかスキャンダルは相変わらずで枚挙に暇がない。

およそ、倫理観だとか法律では人の欲望など抑えられるはずもないのだろう。
人の本質とは楽しく生きることだから、その心理に従っているにすぎない。


誤解を恐れずに書くなら、現実を作るのが本人の意識だとするなら不倫する方もされる方も何らかの不足感が背景にあるのだと思う。

「足るを知る」…とでもいうのだろうか、不足があるからこそ充足もある。

不足がなければ、幸福もまた感じられないのだとしみじみ思う。

もし、毎日が日曜日なら日曜日の意味すらもない。平日があるからこその日曜日なのだ。

つまり、そこに人間の本質的な部分が顕れる。それが生きるということ。

本来、欲望はいつもむき出しだ。

「今日は何を食べよう、仕事をしよう、コーヒーを飲もう、今日はもう寝よう」

すべては自らの欲望から行動の原理が見出せる。

それが本心だから、隠したって無駄。神様はみんなお見通しだ。

みんな自分の中に答えが全てある。

素直に自分の欲望を認めると不思議とそれが叶う。
人間はそれができる生き物だ。

だから全て自分の中にあるからこそ、それが急速で劇的なことをリクエストすればその分強烈な不足感がある現実が開く。

また、幸福を受け取れるだけのキャパがなければ幸福もまた受け取れない。

例えば。

「お金持ちになりたい」のではなく、「大金を受け取ったら何をするか」なのだ。

お金は単なる手段なのであって、単に目的がお金持ちになることではあまり意味がない。
お金もちになりたいとリクエストすれば、また強烈な不足感を味わう現実が開くだけ。
幸せとの相関関係で考えるとお金は手段でしかなく、ましてやすがるものでもない。

自分が何をしたいのか問いかけることで、自分の中の答えが見つかる。
要するに、固定概念にとらわれない心。いや、固定観念に気づく心があると人生は楽しい。

現実とは自らが望んだ世界しか開かない。
それを今、実感している。



覚書1/29/2016
2015-02-06 16:45:59

心象百景

テーマ:日記
季節は巡って、春の匂いもまだ遠く感じるこの頃。
不安と闘いながら生きる毎日が続く。
それでも自分自身の心象風景は毎日面白いように変化をとげる。

*

「こうなるといい」とイメージした時点でそのことはもう叶っているという。
善し悪しは全て自分が創り出す現実なのだという。

長い間に生きてきた習慣で「こうしなければいけない」、「生きるために備えなければならない」、「転ばぬ先の杖」などなど、将来を不安視した動機付けで行動することが何と多いことか。

しかし心象とは内なる感情が描き出す幻影に過ぎない。
違う角度からみればそれはそこにただ「あるだけ」なのだ。

不安から創りだされる心象はエゴイズムそのもの。
内なる自分に堂々巡りを繰り返すのみ。
だから、不安が支配する心象は現実は同じことの繰り返しになる。


自分がどう生きたいのかを確かめる作業を忘れると不安は際限なく広がっていく。
不安を解消するための現実逃避が何であるかを不倫で学んだはず。

そして、現実を認めないことで起きる不幸の数々よ。
それとて、自分自身が創り出した世界。

自分自身でネガティブもポジティブも内包していることを認めてみる。
湧き上がるすざましい抵抗感と嫌悪感。
生きてきたことすらも否定しかねないネガティブな感情の数々。

自己嫌悪、自己否定、欺瞞に満ちた感情、そしてどこかくるのか被害者意識。

そんな時は不安を直視してそれを認める。…深呼吸する。
そこから不安は期待へとつながり、その先にある自分のリクエストを受け取る準備に入る。

つまり、長く望んだ心象が現実として顕れている。
神は祝福し、僕が喜ぶ感情を共に栄える明日へとつなげていく。

僕は一人ではない。

未来への希望を止めることはできない。
心から楽しむのはこれからだ。

覚書2/6
2014-10-31 04:41:40

夜想 覚書10/31

テーマ:日記
毎月のことながら月末は忙殺に忙殺。
どこに自分の心があるのかも分からなくなる。

背中はもうずっと痛いし、右親指から手首にかけての腱鞘炎も治らない。
心の闇は晴れたかといえば完全に晴れたわけではないが、毎日自分を客観視するように心がけている。

毎度ながら書くことで整理をつけている。頻度は以前より減ったことを考えれば、精神的に安定しているのだと思う。





不倫のブログだからそういうことに興味のある人がこのブログを読むのだろう。

不倫は善か悪か、道徳か背信か、法律や制度は正義か不義か、被害者か加害者か。
愛情の回復、関係の崩壊、再構築は可能か否か、そして無関心と不誠実。

答えはそれぞれの尺度でしかないし、国や宗教や法律が変わればその価値観も全く違った意味になる。

このブログにはいろいろな質問をぶつけられているが、今は返信を控えている。
忙しいということもあるが、たいがいの場合、メールの答えはステレオタイプになるし、最終的には「自分がこれからどうしたいか?」が質問の答えになるから。


それで究極的に考えることがあって、もし、再構築や離婚といったテーマで物事を考えている方がいるのだとすれば、一つの基準としてまず将来に対して、

「ワクワクしたり、喜びあふれることとは何か?」

このことを優先的に考えてみると方向性が決まると思う。

僕の場合、

パートナーがすぐそばで寝息をたてて穏やかに眠り、朝起きてもまだそこにパートナーがいて、仕事をして家に帰るとまたパートナーがそこにいる。

ただそのささやかな願いが自分にとっての第一の希望だから、少しだけ深呼吸して天にリクエストする。

あまり細かいこと、例えば事の善し悪しの判断や起きてもいない未来のこと心配して不安になっても始まらないので、「自分がどうなりたいか」をイメージするようにしている。


例えば「お金が欲しい」と願えば意識はそう現実に対して働きかけるので、結果は大なり小なり出るとは思う。
しかしこの場合、重要なのはその金額ではなく「お金を手に入れた先にあること」。

お金はあくまで手段であって、自分が主体となって考える時「どんな自分になりたいか?」という目的の達成のためにお金が必要だと考えることがとても重要なのだと考えている。

お金が主体の人生はそれを守るために何もかもが不安や恐怖と戦う結果に陥るだろう。

不倫の場合であれば、不倫発覚からいきなり深い悲しみや不安、怒りや恐怖と戦いながら、被害、加害で断罪し、お金で清算を図るなどして家庭に戻る。

そして、そこから再構築だ、と。

しかし、語弊を恐れずに書くならば再構築とは、誰かのためにすることではない。
ましてや、打算や体裁が目的なら何も変わりはしないだろう。

望むべき方向が関係の再構築であったとしても、一度壊れた関係の修復は容易ではない。
怒りや悲しみ、不安や恐怖、これまで持っていた価値観をすべてを破壊されたような気分にもなってしまうだろう。


だからこそ、そこから「自分がどう生きたいか?」がつながっていくのではないだろうか?


おこがましいのかもしれないが、不倫をした側もまた様々な感情を抱いている。
例えば自分自身を見捨ててしまうような罪悪感からくる恐怖や不安との葛藤とも戦っている。

それぞれの不安は期待の裏返しでもあるから、そういう不安や恐怖、怒りや悲しみがきたら「ともに成長しましょう」と自分自身に確かめながら、不安と向き合うようにすると少しずつ落ち着くということを最近では覚えた。

そうすることでまた前に進める気がして。

「どう生きたいか?どうしたいか?」を考えることは純粋に想うだけのことで現実逃避でも何でもない。

むしろ、喜びをあふれさせるためのリクエストをまとめる作業。
もちろん、何を願っても何を妄想してもひたすらに自由。
それが「なりたい自分」なのだから。

つまり、心の中心とは間違いなく自分で全ての現実を作り出しているということ。

その現実に善し悪しは自分で判断しない。

なぜなら起きてもいないことにとらわれると不安もまた増大し、そういう現実を創り出すから。

何度も悲しいことや苦しいことが繰り返すこと、それは自分の意識に気づきを与えるために繰り返し引き起こされていることなのだ、と。


自分をひたすらあるがままに認めること。そして愛して許すこと。
自分を愛せない人間に他人を愛せるわけがない。

そのことを客観的に自分自身が認めたらきっとまた前に進める。
もうあれからずいぶん前に進んでいるのだ。

形にはこだわらない内的にあふれでる喜びの感情を認める作業をしている。
誰かのためにではなく、自分がどうありたいかをいつも意識していきたいから。

それは自分自身にとどまらず、隣人やパートナーを喜びを共有する基礎になる。
きっとそれがお互いのよろこびを増幅させると信じる。








夜想

覚書10/31

2014-10-02 14:11:13

慰謝料請求

テーマ:日記
何気ない日常の中に不倫はごくありふれたことなのかもしれない。

とある人から「不倫による慰謝料請求をされている」と相談された。
この人に僕は不倫をカミングアウトしていないので、何も知らないふりをして聞き役に徹していた。

まぁ、本当にごくありふれた不倫の内容だった。

不倫相手は数年来のセックスレスで家庭内別居中。

ご夫婦ともどもアラフォーということもあり、妻が子供を作りたいと再三にわたり協議していたという。
ところが、夫はその気はさらさらなく、この数年来、相談者であるこの女性と不貞を繰り返していた。

それで、先日子作りをせがまれた夫が逆ギレして不貞を暴露したらしく、この相談者のもとへ慰謝料請求の内容証明が届いたというわけらしい。

ドライなことをいえば100%有責になるパターンなので、こちらが何もアドバイスなどできない。
せいぜいできるとすれば、丁寧に謝罪し慰謝料の減額をすることぐらいだろう。

現在、この夫婦は離婚協議に入ったところで慰謝料や財産分与が決まれば晴れて!?離婚に相成るそうで、その後この相談してきた女性を籍に入れるのだとか。


身につまされる話で、この男のなんと身勝手なことよ。
かつての自分がそうだったように、一体何を守っているのか分からない。
自分の身を重ねながら、その話を聞いていた。

相談してきた女性は体調を崩し、仕事に復帰できないでいるという。

これからどうしたいのかは彼女次第なのは言うまでもない。

仮に協議離婚が成立したとしても、何とも後味の悪い結末ではある。
むしろ、その結末からがスタートになるのだから考えることは山ほどあるだろう。

が、人生の善し悪しは法律や制度だけで割り切れるものではない。
もちろん、お金で完全に人の心を癒すことはできないだろう。



不倫の話を聞いていると不倫する側の人間の生い立ちを聞く中で「親子関係」が深く関わっていると感じることがある。

共通していると感じるのは、

「どこか埋められない孤独」
「どこか自信のない自分」
「誰かに愛されたい、愛したい欲求」
「無条件で受け入れられることの渇望」

そして、決定的に思い描けていないと感じるのが「幸せの形」だ。

僕は幸せの根源とは家族にあると信じて疑わないが、こうした人たちに「あなたにとっての幸せとは?」と聞いてみると、なぜか考え込んでしまったり、答えに窮する人が多い。

なぜだろうか?

相談を受けた人は、親の過干渉と過保護が背景にあると思われ、心療内科に長い間通院しているのだという。

その親もまた幼い頃に父親と母親を失い、子供に対する距離感や具体的な「幸福像」が分からずにここまできたことをジェノグラムを作成した家族療法で医師から指摘されているのだという。

その不倫相手の男性は幼い頃に両親が離婚。再婚した父親へ「お父さん」と呼ぶように母親から強要されたのだという。
彼もまた親との距離が測れず、無条件に甘えることを知らずに育った人なのかもしれないと感じた。おそらく、彼の孤独はそこからきているのだとも思った。





さて、このことで体調を崩してしまったこの相談者。果たして救いはあるのだろうか?

僕には善し悪しも含めてよく分からない。ひたする傾聴するしかない。
ただ、愛情の形、幸せの形は1つではない。

同じ日は二度と来ない。

もし今がターニングポイントならば、何かにとらわれずに生きるべきだ。
自由や愛情を渇望するならば、意識も変化し行動も変化し、結果も変わってくる。

物事の判断を善し悪しではなく、自分らしい生き方としてとらえる他はない。
たった一度の人生なのだから自分らしく生きるだけ。
何かにとらわれているならもう一度振り返ってみる。

もし、絶望的なことだと感じてもそれを受け止めてそんな自分でも自分自身を愛していくしかない。
そして、いつか自分自身を祝福して、喜びあふれるものにできたらいい。
その時に喜びを共有できる家族がいるならば、それは至上の幸福であると信じる。

すべては、自分のリクエストを明確にすることから始まる。



覚書10/2




2014-08-14 01:16:45

覚書8/14

テーマ:日記
天候不順で予定通りに行事は進まず呼応するかのように思い通りによもやまのこともうまくいかないことが多い。
こうして書かないと落ち着かないレベルにまで弱っていると感じている。

結局、立ち止まることも許されず休みといえど心は休まることを知らず、またどこに自分が歩いているのか分からない。
どこか他人事のようなこの無責任さ。
いつだってこんな自分を許したことはない。
自己嫌悪、自己愛、どこまでも身勝手で自分のことしか頭にない。

それでも、先祖帰りのお盆だ。

前世の記憶といえば、思い当たる節がいつも夏にある。
自分のみ知るサインや思いを残したことの記憶、痛み、苦しみ。
見えない存在に導かれ、悟り、失望し、また救いを求める日々。
そのことを身を以って知らしめるかのような現実での出来事の数々。

現実に起きることは「それ」、過去とのつながり、未来への道筋を認識させるために起きるという。

何を犠牲にして、何を失って、何を得るのか。
それすらも僕は自覚できず時間が過ぎていく。
そもそもそんなことを知りたいと思ってもいのかもしれない。

もちろん逃げたって無駄なこと。

理不尽に降りかかる不幸ですら他力本願のままでは救われるはずもない。
いつだって人生は後払い。先払いは意味がない。自分の足でしっかりと歩かなければ。

人のつながりの中で自分のいい加減な生き方は留まることを知らず、頭のどこかで安定や平凡をうわべでは求めていても、常に変化させることを望んで生きてきたように思う。

そのための幸福の原点が家族にあるのだとすれば、あまりにも力なく無知すぎた。

夕闇がやがて迫るように、人生はいつも太陽が降り注ぐ毎日があるわけではない。
太陽としっかりと向き合うからこそ、夜の大事さを知る。
夜の闇の深さに絶望し恐怖したなら、その闇に目を閉じて己の鼓動を感じてみるがいい。
太陽のありがたみを闇の中で感謝してもただ過ぎ去った日々を悔やむだけ。
闇は僕にとって優しすぎるほどに愛おしく、これこそが己の生きる道と自覚する。


頭の中がずっとストレスを抱えたままだとお約束通りおセンチになる。
明日もお天気は悪そう。何をしようか。
また夜を待って想いを巡らそう。

Fred Hersch - Down Home


覚書8/14
2014-04-14 17:36:31

ご先祖様

テーマ:日記
過去とのつながりを示すものの一つに家族の系譜があると思う。
系譜を図式化し、過去とのつながりや相関図を表したものはジェノグラムと今では呼ばれ、
家族の問題解決やルーツを探るのには欠かせないベンチマークになっている。

*

つい先日、春を前に齢100を越した祖母が他界した。

覚悟していたこととはいえ、僕にとって祖母は血のつながった祖母である。
いうまでもなく彼女がいなければこの世に僕は存在せず、彼女にとってのひ孫たちの存在もない。


今でこそこうしてようやく何かを発信しようと思うぐらいに回復したが、祖母が亡くなった直後からは内心は穏やかでなく、母親とつまらないことで喧嘩し、妻とも冷戦となり、それはそれは不穏な空気が流れていた。

思った以上に祖母に死が衝撃的だったのだ。
悲しみを受け止めきれず、現実逃避する様はまるで不倫の日々を思い出させてくれた。

こんな時、感覚はどうにも愛情とか好意的な態度を受け入れる機能が麻痺してしまうようで、
何も信じられなくもなり、おおよそ優しさや愛情を拒否してしまうネガティブな自分がいた。


愛情を拒否するには理由がきっとあって、僕の場合不幸な過去を背負わされた部分をうまく親に話すことができず、「どうせ言っても無駄」ということが身にしみついていた。
だから、この悲しみもまた誰とも共有できず、さりとて自分で解決するには自分が弱すぎることにあらためていらついてしまっていた。

元から秘密を自分の中で作りやすい体質ではあったが、成長期に良好な親離れ、子離れができなかったのかもしれない。しかし、今となってはよく思い出せないでいる。

考えてみると「どうせ~」、こういう自己否定感はいつしか常に付きまとっていて、よくできた姉との比較からくる単純な劣等感だと理解していたが、どうやらそれだけでもないようだ。

不倫をしてしまったのも、この劣等感から逃れるためだと認識していたこともあったから、どこかに罪の意識があったとしても、それが何に対して罪の意識かがわかっていなかったのだ。
何度も繰り返してしまうのは、その罪の意識がどこからきていて、いつそれが壊れたかを理解していないのだと思う。

もう一ついえることは、「どうせ~」、という自己否定感は自己主張をあきらめさせ、何事に対しても開き直る態度につながりやすい。つまり、自分自身を見捨ててしまう。

自分自身を見捨ててしまうから、周囲はなおさらおかまいなしだ。
結局、どうなってもいいわけなので、。人の迷惑顧みず。これまでの関係すらも見捨ててしまう。

そこで、寂しさに気づいているはずなのに、周囲の愛情を拒否してしまうのは今でも自分でよくわからない。


*


祖母の死は意外にも周囲にいた人間の様々な意識を顕在化させている。

特に妻には心境の変化があるようだ。
妻は家族の長い分断があり、その中で自己肯定感を子供や母親、仕事に求めてきたんだと思う。

それでもやはり自己のジェノグラムは否定をすることができず、今もそのジレンマの中にあるといえる。
これまで認めたくなかった自分がいて、長く長く封印していたこともあったんだと思う。

しかし、現実を見ないということはまた現実を気づかせるために事象が起きるとも言われている。

平たくいえば、「意識が変われば行動が変わり、行動が変われば結果も変わる」。

よく言われている件のそれである。

さて、もうすぐゴールデンウィーク。
今年は少し脚を伸ばして妻の祖父が眠るお墓に行こうと思う。

穏やかな家族のやりとりや笑顔は当たり前の風景、光景ではない。
不倫で家族が分断してしまうことは、家族の穏やかな時間を奪うこと。

それを強く強く感じた祖母の死だった。

また少しずつ、愛情が受け取れるようになってきた。
これも、過去のつながりがあるからこそなんだと思う。

ご先祖様に感謝しつつ、今日も乗り切ります。


2013-12-02 18:06:13

覚書12/2

テーマ:日記
気がつけばもう冬。
春に記事を書いたきりここに何かを書くことはなかった。
生活は淡々と過ぎて、いよいよ時間の流れるのが早い年齢になったと実感する。




この冬、妻と知り合ってから今年でちょうど20年が経過した。

妻は自分の進むべき道を悟ったようで、ちょっと最近ワーカホリック気味だと自嘲するほど自分の仕事に邁進している。

お互い仕事で忙しい中、何とか様々な危機を乗り越えてきた。
これからいよいよ子供を世に送り出すため、情熱も愛情も資金も全身全霊で関わらなければいけない時期にさしかかっている。

自分の親たちが悩んだように、自分もまた自分の子供の将来について考える歳になったかと思うと感慨深いものがある。
もちろん、20年の道のりは決して平坦な道ではなく、迷惑をかけた思いは相変わらずある。それは未熟な自分自身への問いかけでもあったように思う。



そんな生活の中で不倫という事態がどういう影響を与えるのかいつまでたっても気になってしまう。

かつて記事でも触れたことのある「不倫のある家庭」の子供が今中学二年になっている。

状況は思うに任せず、悪化する一方のように見える。
警察に厄介になることもしばしばあるようで、母親が警察に呼び出しを受けたり、児童相談所への通報や処分もあるのだ、と彼女はいう。
彼が14歳になれば、今度は少年鑑別所へ収容されるのだという。

彼の家庭では未だに不倫という現実がある。
それがどう彼の生き方に作用しているのか僕にはすべて理解できないが、家族という単位でそれを見た時子供が「ないがしろ」にされた思いを抱くことは容易に想像がつく。

やがてその思いは親に対して思春期も重なり、長い長い反抗期に突入してしまった感もある。
そのエネルギーは家庭に留まらず、公共の器物を損壊させたり、改造バイクで騒音を撒き散らしたりと「世の中の矛盾した大人たち」へメッセージがあるように思えてならない。

いずれにせよ、僕は彼に責任があるように思えない。むしろ彼は犠牲者なのだと感じている。

不倫がある家庭の中、真の意味で享受し得る愛情を受け取れず、不倫のために不在がちな父親に対する憎しみや悲しみが少なからず影響しているのだろうと思う。

僕は彼を鏡として見ていることは間違いない。この事態を見ていればなおのこと。
僕にとって不倫は重罪だ。あらためてそう感じている。

ただ顛末の善し悪しは誰にも分からない。
「神の審判」もまた死生観の一つとしか言いようがない。

不倫という行為は欲望の形に過ぎずその生き方や背景にはいくつものバックグラウンドがある。
合法ではあるものの不倫以外の形をとる場合も多くあるから。
例えば、アルコール依存やギャンブル依存は決して非合法ではない。また好きで依存症に陥る当事者もいないと思うから。

言うまでもないが不倫や依存症に同情はしないし、同情を求めない。それは善し悪しの本質ではない。

ただ言えることは、法律や常識を盾にして善し悪しを断じてしまえばそこから前には進めないということ。
共に前へ進む気がなければ孤独が待ち受けるだけだが、それは自業自得、というだけでは何らの解決を見ることはないだろう。

人間は堕ちきることからしか生きる意味を見いだせないのではないのかと思えるようになった。
世の中に精一杯反抗し、親と反目し、周囲とも対峙する。
やがて精神は瓦解し、孤独に耐えられなければ新たな恋をして新しい人生を生き、また家族が誕生することで人生は何度も再生していく。

こうしたことが分かるまでずいぶん時間がかかってしまった。
未だ道の途中で妻と歩くこの20年を考えるとあまりにも気が遠くなるような時間を費やしたと思う。

これからどんな人生が待っているのだろう?
あらためて妻の存在に感謝する。


覚書12/2


2013-04-19 21:37:31

時々

テーマ:日記
たまにこのブログにログインすると、不意にコメントをいただくことがある。
どんな人なのか分からないが、春になると毎年といっていいほどいただく。

内容は要するに「奥さんと仲直りは良いけど『傷つけた』不倫相手はどうするのだ?」と。

こういう指摘ができる人は基本的に優しい人なんだと思う。
言ってみれば、自らの立場で不倫した女性の立場に寄り添える人であり、不倫して「捨てられた」人の立場を理解できる人なんだと思う。

実際の不倫の現場というのは、悲惨という言葉に尽きる。
それぞれの立場で苦悶の中、物事を取捨選択し、それぞれの関係を漏れなくズタズタにしながら進んでいくから。

言うまでもなくそれは夫婦にとってもそう。
別れた不倫相手にとってもそう。

苦悶と苦痛しか生まない。
そのことを各々の立場で実感させられる。

つまるところ「1人勝ち抜け」などありえない。
だからその後の顛末と関係の再構築を美化するつもりは毛頭ない。

*

さて、ここからが本題。

僕はかつての交際相手に今もってひたすらに謝罪と感謝をする他にできることは何もない。

なぜ謝罪か?

これは言うまでもなく、苦痛を与え、心情を傷つけ、精神的にも追い込んでしまい、本当に申し訳なく思っている。

なぜ感謝か?

本質的な自分の価値観や苦しかった心境を吐露させてくれたことで、その後の人生に大きな示唆や気付きを与えてくれたからだ。


*

いただいたコメントから感じるのは、やはり不倫は自分の未熟さからそれは立場を問わず、非難されるに値する行為だということ。
それにはまだまだ十分ではないということをあらためて感じている。

ただ、今を生きるには前を向く他ない。
それは過去を粗末にすることではない。

様々な気付きを与えられたことでまた前に進もうと思う。
自分らしく生きるとは本当に難しい。だが、僕はあきらめない。

「ブログを更新して自分に酔っていませんか?」というコメントもあった。
こんなブログで酔えるなら安いもんだなと思う今日この頃。
意味があるかどうかなんて書いている本人ですら分からない。


覚書4/19
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