オカルト
備忘録。
最近、深夜になると必ず目が覚める。
決まって深夜1時頃から4時あたりまで。
寝室を出て、リビングでまんじりともせず過ごす。
やがて朝が近づいてきて、ようやく眠りにつく。
気がつくともう数ヶ月こうした毎日を過ごしている。
年を重ねたせいもあるのだろう。
仕事の内容も大きく変わり、以前とはまるで違う生活を送っている。
あれから自分の病的な部分はやはり根本からは完治せず、相変わらずどこか居場所のなさ、自己肯定感の低さ、希死願望などの未整理な感情も常にどこかにある。
完治しない病と割り切って生きていく他ないのだろう。
※
今日書くことは今に繋がる誰にも理解できない話。
幼い頃から連綿と自分自身に起きたことを整理しようと思い書く。
※
4歳の頃。
毎日、毎晩同じ夢を繰り返し見ていた時期があった。
床につく、目を閉じる。
すると瞼の裏に暗闇は広がらず、自分が寝ている姿を天井のあたりから見ている自分がいた。
やがてその「浮遊」した感覚がクセになり、毎晩床につくのが楽しみになった。
最初は天井だった高さも、そのうちに屋根を突き抜けるようになり近所を俯瞰して「飛行」する自分がいた。
ある日、そのことを母親に告白したことがある。母親はまともに取り合わず一笑に付された。
この時、自分なりに母親に全てを拒否されたような気がして、とても悔しく思ったことを覚えている。
その日から自分に起きていることをどうにか母親に見せたくて、押し入れから飛び降りて見せるという行動に出た。
何度も繰り返すうちに、より高い場所から飛び降り左足首を骨折。
それ以来、この「浮遊」する遊びを僕は止めてしまった。同時にこうした「浮遊」体験もしなくなった。
※
8歳の頃。
小学生になり、たまにおもちゃや本を買ってもらえる機会があり、書店や模型店などに連れて行ってもらった。
当時といえばやはりウルトラマンやヒーローものなどのおもちゃが全盛だったが、僕はあまりそういうものに興味がなかった。
いつも買ってもらっていたのは、第二次大戦中の戦記物の書物や、旧日本海軍などの飛行機をはじめとするプラモデルばかりを買ってもらっていた。
実際の遊び方も今考えればかなりおかしかった。
せっかく買ってもらい、その上自分が作れない部分を親に手伝ってもらって完成した飛行機を使い、
これまた、親に手伝ってもらって作ってもらった艦船のプラモデルに突っ込ませて全てを破壊する
「特攻」と名付けた遊びを繰り返していた。
身内に戦没者はいなかったが、親戚に海上自衛隊の隊員がいた影響はあったかとは思う。
※
10歳の頃。
登校途中、毎日通り抜けていた神社の参道を出た瞬間車に突っ込まれ、左大腿部を骨折。
結果、3ヶ月の入院。
この神社について、実は毎日通るのがなぜか苦手だった。
皆、一礼するなりして神社を通り抜けていたのだが、僕は「どうせ神様は何もしてくれない」という不遜な態度を子供ながらに考えていた。
当時は「バチが当たった」と考えていて、ずいぶんその神社を恨んだものだが、
その後は神の存在を信じるような出来事が多発したために寺社仏閣には敬意を払わざるを得なくなった。
余談だが3ヶ月の入院をしている間、様々な体験を病院でしたように思う。
病気やケガに群がる新興宗教の人たち。
夜中の大人の事情(外科病棟だったため、ナースと患者がお盛んだった)。
そして、深夜に現れる(深夜以外も)見えざるモノたちの存在。
病院は自分にとって長くいてはいけない場所だ。
※
13歳の頃。
この年、迎えた冬に例の不幸な事件が起きる。
人生の価値観がこの時期に激変したことを自覚している。良くも悪くも価値観はこの時破壊されたといっていい。今につながることは全てここからスタートしている。
※
1985年8月12日。
お盆時期で僕は両親と在所で過ごすために帰省していた。
少し前に僕はとても好きだった彼女に別れを告げられて失恋していた。何をしていても彼女を忘れることができず、また例の不幸な件も。
とても心は荒れていた。
この日の夜、テレビから日航機墜落事故がニュースで流れた。
飛行機が墜落する恐怖。
想像を絶する絶望、痛み、死。
この日の衝撃的な感覚は忘れることができない。
後の行動に影響を受けていたと思う。
そして中学、高校続けた野球の部活動は暴力が支配する世界。
「軍隊野球」と言われる野球が心底嫌になった時期でもあった。
このおかげで自衛隊に行く気持ちは全くなくなった。
※
1990年代は大学生活のため上京。
毎日が忙しなく、そういう体験をしたり意識する余裕がなかった。
通学のため中型バイクの免許を取得したあたりからまた少しそういう存在を感じるようになる。
免許取り立ての頃、早速事故に遭う。
よくあるバイク直進、クルマが右折の「右直事故」の衝突であっさり右鎖骨を骨折。
人生三度目の骨折だった。
この時、ふと「ある感覚」が蘇る。
強い衝撃を受けた感覚。
いつかどこかで体験した。
小学生の時の交通事故でもなく。
よく骨折する人生である。
※
1990年代の中盤。
ある時期から、過度のストレスや不安、ギャンブル依存などなど、例の「不幸な事件」が原因であろう嗜癖行動が顕著に現れていた。
ギャンブル依存克服のため、その代価行為として渓流釣りに置き換えてみようとした時期があった。
渓流釣りはシビアな釣りで、釣行はもちろん山岳地帯がメインだ。
釣れる時間帯はやはり早朝や夕まずめになるため、東京を出発するのはいつも深夜だった。
深夜0時から1時の時間帯に区内を出発。
埼玉の秩父を抜けて群馬の山中、長野の廻り目平方面へ抜けたりしていた。
深夜の山は怖い。見えないものが見える。
そもそも山そのものが御神体だ。
夏でもバイクでは体感温度が低く、体温を奪われ常に疲労する条件が揃う。疲労もあるが、とにかく山中では様々なもののけに出会った。
※
やがてこのギャンブル依存克服の「釣行」は様々な形で変調をきたすようになる。
ある日、ふと同じポイントに何度も何度も来ていることに気づく。
群馬県上野村の神流川上流。
当時は全く意識していなかったが8月は渓流でも毛鉤のハイシーズンのため、いつものようにバイクを走らせて群馬の山中に辿り着いた。
しかし、その日は異様で早朝にも関わらず次々と黒塗りの車が上野村へ押し寄せていた。
マスコミの中継車も来ている。これは何か事件かと思ったが、この付近は1985年8月12日に起きた日航機123便墜落事故の現場だったのだ。
この日は慰霊の日で関係者の皆さんがこの村に訪れていた。
ふと、事件当日のことを思い出すのと同時に、犠牲者の方が味わった恐怖や痛みというものが押し寄せてきて、呼吸ができなくなり、その場にへたり込んでしまった。
同時に犠牲者の方へ懺悔の念というか何も考えず何度も土足で入るような真似をしている気がして、思わず手を合わせてしまった。
そこからまた僕の人生は転機を迎える。
※
「釣行」はますます頻度を増していく。
なぜか夜中に目が覚めてバイクを走らせるという日々が続く。
常軌逸した行動だと自らが思っていても止められない。
これがアディクションというものなのだろう。
もはや、日常生活が送れるはずもなく身体的に無理がたたり呼吸器の病気にかかった。
肺炎から呼吸困難に陥り、当時同棲していた彼女がいなければ死んでいた、と言われた。
彼女の通報でとある大学病院のICUに緊急入院し、1週間ほど意識がなく生死の境をさまよった。
気がつけば両親がベッドのそばにいた。
この間の記憶は一切ない。何も覚えていない。
というのも、救急車が来る前に僕は生きるのをあきらめたのだ。
「もういいな」、と。
それだけは覚えている。
身体の力を抜くと、視界は急に白くなり、やがて無が広がった。
誰の迎えもなく、お花畑も三途の川もない。
真っ白い世界が広がり無音の世界が広がっていた。
今思えば、死ぬまではまだまだ道中長くて死の入口にも立てていなかったのだと思う。
脳に酸素がいかなかったため、医者は後遺症が出るかもしれないと言っていた。またこの病気であのステージでは6割が亡くなるとも言っていた。
いずれにしてもまだこうして生きている。
これはこれで幸運な人生なのかもしれない。
※
退院後、人生を考えるようになった。
人生、というか死を意識するようになった。
死にかけた僕を救ってくれた彼女は僕の元を去っていった。
そして今の妻と新しい生活を送ることになった。
「残りの人生儲けもん」。
やがて妻が長男を身籠もり、生活の中心は子供へとシフトしていく。
僕の身の上に起きた不幸な事件のことなど忘れてしまった。
※
2000年代に入ると、いよいよワーカホリックになった。
「釣行」がモーレツ社員に置き換わり真面目を装うことで仕事に没頭した。
そして、大阪への転勤。これもまた一つの転換期だった。
大阪に転勤した頃まだ家族を呼び寄せる前で、少しの期間久しぶりの一人暮らしをしていた。
疲れもあったのだろう。この時あり得ない頻度で「金縛り」に遭っていた。
身動き一つ取れないが、意識だけはある。
耳元ではガサガサと虫が這い回るような音。
「金縛り」に遭うのはこれが初めてではなかったが、例の日航事故の直後に同じタイプの「金縛り」を体験していた。偶然の一致というか、えも言われぬシンクロニシティを感じていた。
それから数年、結婚してから初めての不倫。
そこから続く苦しみの日々。
※
大阪に転勤したことで、これまで知らなかった近畿地方の場所へ足を運んだ。
1つだけ不思議に思ったことがある。
郊外のある地方都市。もちろん初めて訪れる場所で丘陵地帯で眺めの良い場所があった。
そこにはお寺があり、もちろん併設の墓所もある。
あるお墓の前に通った時に不思議な感覚に囚われた。
強い意識というのか「ここです」と聞こえた気がして。
墓石を見てみると全く見覚えのない法名、名前。
しかし、入滅の日を見ると昭和60年8月12日。
偶然にしては出来すぎている。
だが疑う余地なく、彼がここに自分を連れてきたのだろう。なぜその役が自分だったのかいまだに分からない。
※
僕は目に見えないものを否定しないが肯定もしない。
できれば、気付きたくもないし意識もしたくない。
成仏できない霊に頼られると自分の命も危うくなる。そもそもそんな能力は自分にはない。
今でもそう思う。感じることはできてもどうすることもできない。
※
2010年代以降、LCCの登場で海外旅行や沖縄、北海道などあらゆる場所が以前と比較して旅行しやすくなった。
沖縄というのが、次のキーワードになる。
そもそも沖縄へ初めていったのは高校の修学旅行で、大学時代もフェリーを使いバイクも乗せて沖縄本島、石垣島、西表島と巡り旅行をしていた。
この沖縄旅行がなければ、今の妻とも出会えなかったし本当にご縁があると思っている。
会社の慰安旅行も含め現在まで何度となく訪れている場所だが、どうしても頭のイメージの中にあるのは「特攻」だった。
冒頭にも書いた幼い頃の「特攻」遊びは封印された黒歴史的な感覚が自分の中にあったのだが、沖縄へ行く飛行機の中で必ずと言っていいほど、恐怖が蘇るというか、ある地点を上空から眺めると目眩がすることがよくあった。
航空機事故で死ぬ瞬間と航空機を使用した特別攻撃で死ぬ瞬間はどう考えても恐怖に支配され絶望の瞬間だと思う。
この死への恐怖はやはり前世の記憶なのではないかと考えるようになった(認めざるをえなくなった)。
バイクの事故もまた追体験として十分に衝撃的で、身体的な損傷もまた記憶を呼び覚ます出来事なのではないかとさえ思うようになった。
何度となく行った沖縄旅行の中で、例の「不幸な出来事」で負ったトラウマ克服のため、ヒプノセラピーの治療を沖縄で受けた時、はっきりと死の瞬間、「特攻」のパイロットであったということを語っていた。
信じるも信じないもない。そうはっきりと語った。
またある時はやはりトラウマ克服のため、沖縄のユタを頼り、訪ねたところ今抱える悲しみはとても自分が癒すことはできないが、あなたの前世は沖縄に縁があり、三山時代の山田城に一族のお墓があるからお酒を持って訪れると良いとも言われ、言われる通りその拝所へ沖縄へ行く度に訪れている。
※
特攻
戦乱
兵隊
どうやら今世ではこの3つのキーワードを克服することが使命らしい(勝手にそう考えている)。
不思議な話をすれば数えきれないが、どうしてもこれだけは書いておかないといけない気がして。
備忘録3/23 深夜2時38分