かつて、対馬の農家には対州馬が飼育され農耕や運搬などに

使役されていました。住民と共にあり暮らしを支えていたのです。

近年、島も高齢化し農林業は衰退、対州馬の活躍する機会は失われ

ました。

 

 

 戦後、しばらくは対馬の女性は対州馬に乗って野良仕事や

磯場へ行っていました。当時は女性の騎乗は全国的に珍しく

好事家らが写真雑誌などに掲載していたようです。

 

 それでも集落内での乗馬は皆が遠慮していました。住民を

高い所から見下ろすとして不文律になっていました。

そのため、村はずれで乗馬したそうです。

馬上は、気分もよくラクチンです。

 

 仕事を終えると対州馬の背にはタキモンや農作物などが

オセられるので人様が乗るスペースはありません。

 

  昭和50年代までの対馬沿岸は豊穣の海でした。

海岸には、ワカメやヒジキ、カジメが繁茂し、ウニやアワビ、

サザエは小学生でも取ることができたようです。

 

 そしてご婦人方もテボをカライ磯カギを手にして、颯爽と

磯に向かいます。昭和60年、豊玉町唐洲で磯場に急ぐ

ご婦人を見かけて話を聞きました。

 

 対馬市上県町佐護恵古の旧佐護小中学校の校舎に隣接した

岡の上に氏神様が鎮座しています。境内には二本の大杉が

並立して天空を突き破るように真っすぐに伸びていました。

住民が誇る村のシンボルツリーでした。樹齢は不明。

 

 巨大な杉の幹回りは五メートルはあったでしょう。

高さを計測した人はなかったでしょうが、恐らく対馬一だったでしょう。

その容姿は秀麗にして神妙、傷んだ枝は一本も見えないのです。

台風などの大嵐にも数百年の耐えて、奇跡的に威厳を損なっていません。

 

 超然とした大杉の姿を、奈良県天理市の磯上神宮の国宝「七支刀」に

例える人がいたほどです。かつて対馬には杉は自生していませんでした。

住民が最初に植樹した場所は、神社や寺院だったのでしょう。厳原の

万松院などにも大杉があります。

 

 そんな偉大な杉巨木もかなり以前に伐採されてしまいました。

残念です。

 

 かつて対馬の農家では子供が手伝いをするのは当たり前でした。

農作業はもちろん、ハミ切り、ニワトリの世話、子守りなど、など。

島では、野良仕事や磯稼ぎに行くときの必携品は「テボ」でした。

 

 戦後しばらくは、子供がテボを背負う(カラウ)姿は日常のことで

珍しくありませんでした。しかし、今日では高齢者でもテボを使用する

頻度は激減しているようです。使用されないテボは絶滅危惧種かも?

 

 約40年前、厳原町豆酘でテボをカラウた姉妹?を偶然、発見。

咄嗟にシャッターをきりました。磯場に行く途中でしょうか。二人の

背中には小さなテボが背負われています。家の手伝いでしょうか。

親孝行な姉妹ですね。