対馬の住民は古来より「国防の最前線」という十字架を背負って暮らしています。

元寇では最初に対馬を襲撃、住民は凄惨な戦いを強いられ大きな犠牲を払いました。

今はほとんど知られていないことですが元は侵略前に外交使節を日本に派遣します。

 

 海峡を渡り対馬に到着した使節は役人に大宰府に行きたい旨を話して通過させる

ように依頼。ところが役人は鎌倉幕府の指示で通行を拒否します。困った使節は

地元の住民、弥二郎よ藤治郎を拉致して帰国します。

 

 二人は大都(現在の北京)まで連行されフビライ皇帝に謁見、歓待されました。

元の高官らは大都などの大規模な施設を見せつけ国力の格差を知らしめて

服属させる狙いがあったようです。そして二人は無事に帰国しました。

島では大きな話題となり弥藤治伝説として語り継がれます。

 

 対馬では「弥藤治」伝説として上県町佐護や厳原町阿連に残っています。

両地区に共通するのは中世には外国に開かれた湊だったということです。

それぞれに湊の地名が残っています。阿連は中国と佐護は朝鮮と結ばれて

いました。


 作家井上靖は、二人がフビライに謁見したこに注目、重要な出来事として
短編小説集『天目山の雲』の中で「塔二と弥三」のタイトルで出版します。
昭和50年の発行なので書店での入手は困難なようです。

 

 

 

 

 20年ほど前、知人から対馬の柑橘の苗木を頂戴した。順調に生育し背丈は

4メートルにも伸びたが果実は実らなかった。大きくなった木を見るたびに

「背は伸びなくてもいいから果実を付けろよ」と毒突いていたところ4年前に

初めて5個の果実が付いているのを発見。その異形にタマゲタ。

 

 その時に直感したのは、「不老不死の果物・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)

が蘇った」であった。伝説の柑橘は時空を超えて「先祖返り」して現代に出現した

のであろう。奇瑞ともいえる贈り物を味わって驚嘆した。高尚な香りの中に野性味が

感じられ、口いっぱいにハーモニイが広がる至福の味である。

 

 不老不死の果物・非時香菓とは、『日本書紀』などによると千年以上もむかし、

田道間守(たじまもり)は垂仁天皇の命令により非時香菓を求めて常世(とこよ)

の国に遣わされた。しかし10年以上過ぎて帰国すると垂仁天皇は崩御されていた。

彼は悲嘆のあまり自殺した伝えられる。

 

 この説話にはいくつかの疑問点がある。まず常世国については定説はないが韓国

済州島が有力視されている。非時香菓は橘(タチバナ)とする説が有力という。

また帰国までに10年以上を費やした点については不明である。根拠のない

推論ではあるが彼は「苗木」を持ち帰り日本で栽培しようと試みたのかもしれない。

 

 国内で非時香菓を栽培できるようになると天皇も喜ばれると考えたに相違ない。

無理をして苗木や栽培法を入手して帰国する。途中で対馬に寄港し島の北西岸から

南東岸に移動、壱岐島への風待ちなどで半月以上も滞在を余儀なくされる。

彼は島でお世話になった人々に貴重な苗木を与えて感謝したことだろう。

 

 中世の対馬は柑橘類の生産地で住民は朝鮮半島に輸出していた。朝鮮半島は

冷涼な気候のため済州島を除いて柑橘栽培に適していない。対馬の村々には橘や

スイボウ、クネンボ、キンコウジ、ブシカンなどの在来種が現在も個人の

庭先で栽培されている。

 

かつての島では非時香菓も栽培されていたのであろう。

 

 

 かつて、対馬の農家では牛馬を飼育し使役していました。

屋敷内に馬屋があり家族同様に可愛がっていたものです。

対州馬は田畑の耕作、農作物や焚き木などの運搬、

乗り物などに重宝され生活の一部でした。

 

          厳原町尾浦

 

           豊玉町田

 江戸時代、対馬府中藩の城下町だった府中(厳原)には、金石城と

桟原城の二つの城があった。それぞれの城には門があったが残念なことに

当時の城や門は現存しない。

 

 金石城は中世の築城で石垣と心字池が残るのみである。維新を経て

跡地には厳原中学校や幼稚園などが設けられていたが移転している。

その後、市立博物館や体育館が設置されている。
 

 桟原城跡は金石城の北方約1㌔の国道沿いにあり自衛隊が駐屯している。 

桟原城は藩主宗氏の居城であり朝鮮通信使の応接などにも用いられた。

しかし訳があって桟原は館(やかた)と呼称したという。

 

 大手門跡は国道わきの税務署北側に現存する。門の両側石垣の表面は

研磨され威厳を感じさせる。桟原城はあくまで館であるので間口はそれほど

広くはない。幕府の目を気にしてこじんまりと造ったのであろう。

 

 高麗門にも変遷があり現在は宮谷にある幼稚園の門として新築復元されている。

門は平成までは自衛隊の敷地内に残されていた。門と石垣はよく似合うので

城跡に残すのが相応しい。しかし文化財の保存は社会情勢もあり困難を伴う。

 

 肝心の大手門の行方であるが『對馬志士』によると厳原町久田道の光清寺に

移築されたとある。先日、同寺を訪れたが格式の高そうな門構えである。

ただ瓦は葺き替えられたのか軒丸瓦などに「光」の文字があった。

 

 門の間口と大手門跡の間口は幅は合致しそうな気もした。もし大手門の門が

光清寺に移築され、そのまま現在に至っているのであれば貴重な遺構であろう。

江戸期の著名な門で現存が確認されているのは「客館」として建築された

国分寺の門くらいであろうか。

 

 金石城の櫓門や藩校「日新館」の門などは新築されており見ることができる。

散歩がてらに門巡りも一興かもしれない。

 

       光清寺の門

 

 対馬も車社会になって久しい。ちょっと出かけるにもハンドルを

握るのが癖になってしまった。「田畑道」「磯道」「山道」などの

地面を歩くことがめっきり少なくなっている。

 

 その結果、路傍に佇む石仏に参拝する伝統的な慣習も廃れている。

峠のお地蔵様には野花や小枝などを供え使用していた杖を奉納する。

地蔵尊は往来する住民の安全を守り村の安穏を支えてきた。

 

 島の地蔵様は粗削りで小ぶり、しかも朴訥な表情で風土に馴染んでいる。

ところが以前、対馬を特集した雑誌をめくると「少女像」ともいえる

石仏が掲載されている。両手を合わせて祈る姿は洗練された容姿で

気高ささえ感じさせる。

 

 多くの石仏を見てきたが「少女像」は島には馴染まない美しさがある。

参拝したいと思うが安置場所は記載されていない。知人にも問い合わせたが

不明だった。島のどこかにあるはずの謎多きお地蔵様である。

 

 いつ頃、誰が、何のために安置したのか知りたいこのごろである。

実物を拝見して静かに語りかけたいと夢見ている。

知っている方はご教示を願いたい。

 

                 少女像