ドイツ医師のシーボルトは、オランダ東インド陸軍軍医少佐となり、1823年に長崎出島のオランダ商館付医師として来日しました。

 

ヨーロッパの最新の医学を日本に伝え、患者を診察するとともに、薬草を採取するために来たと、オランダは幕府に説明をしていました。診療のかたわら、鳴滝塾を開き多くの日本人に医学と博物学を教え、蘭学の発展に大いに寄与しました。

 

当時オランダ人が活動できたのは出島の中だけでしたが、オランダ側はシーボルトについては長崎市内に自由に出入りできるように幕府に申し出ました。幕府はそれを快諾し、彼のために長崎郊外の鳴滝に宿舎を作りました。

 

シーボルトは重症患者を献身的に診察し多くの人を救済し、全国の医師が鳴滝を訪れてシーボルトの弟子になりました。

 

 

一方で、オランダはシーボルトに日本の総合的調査研究を任務として与えていました。シーボルトは弟子に様々な課題を与え、それをレポートに提出させるという形で日本の情報を収集していました。その中には、日本国外に漏らしてはいけない情報も含まれていました。

 

レポートはオランダ語で書かれていたため、役人にはどのような情報が書かれているのかが分からない状態でした。しかし、持ち出し厳禁となっていた日本地図をシーボルトが入手したことを、幕府の隠密によって発覚しました。

 

幕府は、任期を終えて帰国しようとしていたシーボルトの荷物から禁制の物を発見し、関係者を逮捕してシーボルトを国外追放しました。

 

シーボルトは入手した日本地図を事前に複写しており、それをヨーロッパに持ち帰り、学会に公表しました。

 

1858年に日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除されました。1859年に再度来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問に就任しました。


(日本人が知らない江戸時代)
○日本人が知らない江戸時代
○江戸時代の農民は収入が増えたが年貢は増えなかった
○大規模な治水工事が江戸時代に行われていた
○都市が発達し街道が整備された江戸時代
○江戸時代は法治社会だった

○江戸時代に整備された上水道
○江戸時代に森林が保全された
○教育が盛んに行われていた江戸時代
○江戸時代には武士になった農民もいた
○江戸時代は暴君を家臣が監禁することがあった
○武士は主君に盲従していたのではなかった