江戸時代では主君(藩主)は絶対的な存在で、家臣は主君に忠誠を誓っていたというのが通説です。しかし、主君が悪行を行ったり暴政を行ったりして、家臣などからの諫言を聞き入れなかった場合、家老や重臣など家臣たちが主君を監禁し、その後に主君を隠居させて新しい主君を擁立するようなことがありました。

 

このような行為を主君「押込(おしこめ)」と呼ばれていました。「押込」の具体例を幾つか紹介します。

 

①久留米藩有馬家

藩の財政が逼迫したため、第6代藩主有馬則維(のりふさ)は藩政改革のため強力な機構改革を行ないました。身分は低いが財政手腕に長けた新進の官僚を重用し、従来からの役人48名を解任した上、家臣団に対してはそれぞれの村の所領を全て大名の直轄地としました。領民に対しては新税を課して、米以外の収穫物の税率を引き上げる措置をとりました。

 

しかし、有馬則維の強引な諸施策に対して、家臣や領民から怨嗟の声が高まり、税率の引き上げが契機になり農民一揆が勃発して久留米藩は収拾不能な状態になりました。久留米藩家老の稲次正誠(まささね)が事態の収拾に乗り出し、新税を停止させ、藩主の有馬則維を強制的に隠居させ、有馬則維の子を新藩主に擁立して久留米藩の危機を救いました。

 

 

②加納藩安藤家

美濃国(現在の岐阜県)の加納藩主である安藤信尹(のぶただ)は浪費癖があり酒と女の遊興にうつつを抜かして藩政を省みなかったので、役人の綱紀も乱れて藩内政治は機能不全に陥っていました。また、年貢を増やす一方であり、藩内では紛争や農民一揆が繰り返し勃発するなど、混乱状態になっていました。

 

家老や重臣たちは、このままの状態を放置すれば藩は滅亡を迎えてしまうと考え、合議の上で藩主の「押込」の執行を決定して、彼らによって安藤信尹は座敷牢に監禁されました。

 

 

家臣が主君である藩主を監禁したり強制的に隠居させたりするようなことは、忠義を重んじる武士がするとは信じられないと思う人もいるのではないでしょうか。しかし、いくら主君といっても、藩政に重大な悪影響が及ぶ事態になれば、家臣らによって「押込」されてしまうことがありました。

 

この「押込」は、家臣が勝手にやっていいというわけではなかったようです。家臣や重臣たちの間で合意があった場合のみ執行されました。「押込」の執行は、家老たちの私欲による陰謀や政治的暗殺行為ではなく、藩の公式的な政治決断であり、家老たちの職務的行為に属したものであったようです。

 

「押込」を執行された藩主は、強制的に隠居させられることがありましたが、改心したと認められると監禁が解除されて藩主の地位に復帰することもありました。これを「再出勤」と呼んでいたようです。「再出勤」するためには、「押込」に処された主君が改心し誓約書を書いて家臣たちに提出をすることが条件となっていました。

 

 

江戸時代は身分制度が厳しく、家臣が主君に対して反逆的なことを行うことはないと思っていましたが、そうでもなかったようです。むしろ、悪政を行う藩主を「押込」にすることは、江戸時代の慣行といってもいいくらい正当な行為として認識されていたようです。むしろ、戦後の日本の方が、悪政を行った首相を野放しにしていたことがあったかもしれませんね。


(日本人が知らない江戸時代)
○日本人が知らない江戸時代
○江戸時代の農民は収入が増えたが年貢は増えなかった
○大規模な治水工事が江戸時代に行われていた
○都市が発達し街道が整備された江戸時代
○江戸時代は法治社会だった

○江戸時代に整備された上水道
○江戸時代に森林が保全された
○教育が盛んに行われていた江戸時代
○江戸時代には武士になった農民もいた