江戸時代には「士農工商」という身分制度があったと言われています。これは支那の古い書物の呼び方で、実際には「武士」「町人」「百姓」の3つが正解のようです。実際には商と工の間には身分差はありませんでした。

 

漁業や林業に従事する人も百姓であり、必ずしも百姓=農民ではありません。町の鍛冶屋は町人ですが、村の鍛冶屋は百姓です。百姓とは、土地を所持して自立した経営を営み、領主や村に対して年貢や役などの負担を果たし、村と領主の両方から認められた者に与えられた呼称です。百姓というのは、そもそもはたくさんの姓という意味であり天皇から姓を与えられた公民の総称です。

 

職業や住んでいるところによる身分の区別はありましたが、血統ではなく厳しいものではありませんでした。農民の子供は永久に農民ということでもなかったようです。農民の次男や三男が町へ出て商人になったり、職人になったりということは珍しくなかったようです。

 

血統による身分ではなく職業による身分でしたので、武士から百姓になるものもいれば、百姓から武士になるものもいましたし、町人が金を積んで武士になることも可能でした。没落した武士の中には、自分の身分を売りに出すこともありました。その場合、養子として家系に迎える形をとったことが多かったようです。

 

「南総里見八犬伝」の作者である曲亭馬琴(滝沢馬琴)は、孫を御家人の養子にしてその家督を相続させました。そのときに200両という大金を払ったようです。

 

新撰組局長の近藤勇は、農家の三男でしたが、剣の腕を見込まれて剣術家の養子となり、その後新撰組での働きが評価されて幕臣になりとりたてられました。勝海舟も、曽祖父は庶民でしたが金貸しで儲けて、海舟の父親を武士にしています。

 

身分制度というと、身分による差別があったと思いがちですが、身分によって役割が定められていたというのが実態であったようです。それは、将軍家であっても妻の身分を問わなかったことから分かります。生類憐みの令で有名な5代将軍綱吉の母親は京都の八百屋の娘でしたし、八代将軍吉宗の母親は農民出身の風呂番でした。

 

また、江戸時代は武士が威張っていて、武士と町人がすれ違うときは町人が道を譲ったり、武士が通りかかったときに町人が土下座をしていたりということを聞いたことがあるかもしれません。しかし、実際はそうではなかったようです。江戸時代の浮世絵や挿絵には、武士が威張っている様子は描かれていませんし、町の往来の様子を描いた絵を見ると、武士が通っていても、誰一人として土下座している人はいませんし、町人は普通に武士とすれ違っています。

 

 

西洋型封建制度は貴族が農民を搾取していました。日本の封建制度についても、歴史家がマルクス主義史観を通してみたことにより、厳しい身分制度の下で武士が庶民から搾取して差別をしていたと思い込んでいたのでしょう。そういう意識を持った人達が、そのように江戸時代を見たことが、学校の歴史教科書にも反映されてしまっています。


(日本人が知らない江戸時代)
○日本人が知らない江戸時代
○江戸時代の農民は収入が増えたが年貢は増えなかった
○大規模な治水工事が江戸時代に行われていた
○都市が発達し街道が整備された江戸時代
○江戸時代は法治社会だった

○江戸時代に整備された上水道
○江戸時代に森林が保全された
○教育が盛んに行われていた江戸時代