特に投資に対する居心地の悪さとして、「ねばならない思考」があったように思う。

 

バフェットと同じようにしなければならない

長期投資でなければならない

優良株でなければならない

売ってはならない…

 

こんな思考に囚われて、投資の可能性を失うばかりか、どんどん悪循環に陥ってしまっていたように思う。顧客からも「誰よりも頑固」と言われたのは、このせいもあるのではないか。

 

ねばならない思考に陥ると、自分で自分の行動を縛ってしまう。結果、論理的な思考・行動を取ることができなくなってしまう。

 

自分の良さといえば、論理的な思考とゼロベースで考えられるアイデア力である(これもねばならないを避けたいところだが)。ならば、ねばならない思考は、これらを帳消しにしてしまうものに他ならない。

 

逆に言えば、YouTubeでうまくやれたのは、これらの制限がないからである。自由に発想し、論理的思考に基づいて適切な結論を出す。これが多くの人の共感を生んだのだ。

 

顧客に対しても同様の価値を生まなければならない。広範に考え、論理的思考の下最適解を導き出す。おおまかなポリシー(長期投資)こそあるが、打てる手は無限である。要は、価格ではなく価値に重きをおくということだ。

 

もっと自由に、自分を信じて、楽しく行こうではないか。

ゲームは1日1時間まで。

 

昔からよく言われた話だが、これを仕事に応用してみよう。

 

すなわち、仕事をゲームだと考える。

いろいろとうまくいかないこともあるが、そもそもすんなりクリアできるゲームなど全く面白くない。

1つの面をクリアすれば、次の面はもっと難しくなる。

それでこそ、さらにクリアできる面白みが増していくのだ。

 

ゲームだと考えると、例えば顧客からの苦情など深刻に悩む必要はない。

もちろん、それを解消する努力は必要だし、誠意を持って取り組まないのは言語道断だが、そもそも顧客のニーズは多岐に及んでいる。それらをすべて満足させるのは土台無理である。だからこそ、その中で「最適解」を求めて、ポイントを上げていくのがゲームのクリア条件だ。とにかく、機がゼロにならないように進めていくことである。

 

「1日1時間まで」という原則を守れば、プライベートも守られる。

ゲームはセーブして、また次スタートする時まで取っておけば良いのだ。

もちろん、「その時しかプレイできないもの」もあるだろう。しかし、大半の時間はそうではない。予定を決めて、着実に動くことが重要である。

 

ゲームをクリアするには、様々な要素が必要だ。

RPG的に言うなら、仲間をどんどん見つけていかなければならない。

「勇者」だけでRPGが完結することはない。魔法使いも、剣士も僧侶も必要だ。

 

必要な仲間をうまく使うには、自分の弱みを認識することが大切だ。

僕の弱み、特に株式投資分野について言えば、前向きに考えることができていない。つい割安な銘柄ばかり選んでしまう。ここは、他の人にやってもらったほうが「良い面」を見つけられるに違いない。

また、自分ひとりでやるとどうしても客観性を失ってしまっていた(意固地になる、自分が選んだ銘柄は捨てられない、より良い銘柄になかなか動けない)。

自分の良いところは、客観的・論理的に考え、ドライに動けるところだと思っている。

そこに他の人の調査が入ることにより、客観性を担保できるのではないか。

今そんなことを考えている。

 

勇者の役割は、前に進むことだ。

「顔」として内外に方向性を示し、倒すべきボスを見つけ、プレイヤーとして出てくる選択肢を選ぶ。

あ、今思いついたけど、経営者としての自分はプレイする人、働き手としての自分は「勇者」ということか。

この感覚でやると良い。

 

このゲームはフィクションではなく現実だ。

しかし、そもそも人生をフィクションみたいなものだと考えると、だいぶ気が楽になる。

最後はハッピーエンドを迎えられるよう、日々レベル上げを行って面を進めるだけだ。

日々色々な問題が発生して気持ちが滅入ることがある。

 

こんなとき

「なぜこんなことになっているのだろう」

「あのときYouTubeをはじめなかったら、人を雇わなかったら良かったかもしれない」

と考えることがある。

 

その決断をしなかったとしたら、少なくとも今の悩みには振り回されれず、穏やかな日々を過ごせた可能性が高いと思ってしまうとなおさらだ。

 

ではもう一度あのときに帰って考えてみなければならない。

自分はなぜYouTubeをはじめたり、人を雇う決断をしたかを。

 

YouTubeをはじめたのは、Kさんの誘いがあったのはもちろんだ。

しかし、それ以前からやってみたいという気持ちが強かった。

いわば「渡りに船」。

これをやらなかったら今も「やるべきかどうか」で悩み続けただろう。

 

したがって、選択肢としては「やる」しかなかったのかもしれない。

それがなかったら、本を出すこともなかっただろうし、

今出逢えていた多くの人たちとの出会いもなかっただろう。

しょぼい存在で終わっていたかもしれない。

 

人を雇うのだってそうだ。

それまでの悩みは「会社を大きくすべきか、小さく終わるべきか」だった。

小さい会社はすでに分かっている。

大きくしたときにどうなるかは、経験してみないとわからない。

 

今まさにその経験をして、見事に悩みに振り回されているわけだ。

しかし、経験するまでは、結局これもわからなかっただろう。

(あるいは、その予感はあったかもしれないが、いずれにしろわからない。)

 

これらの決断をしなかったら、平穏な日々を過ごしていたかもしれない。

しかし、それは本当に人生においてやりたいことだろうか?

 

もし、何の不安もなく、失敗もなく過ごしていたら、

結局はつまらないままで終わってしまったかもしれない。

自分のこれまでの人生の問題点は「やろうと思ったらだいたいうまくいった」ことだ。

それが簡単であるほど、人生はつまらなくなる。

 

すなわち、今自分が経験している問題は、人生を面白くするためのスパイスである。

ご飯だけ食べてても、死にはしないが楽しい食事にはならない。

いろいろなものを食べてみてから、「あれはおいしい、これはおいしくない」と言えたほうが楽しいだろう。

 

そう考えると、もはやこれは運命とも言えるものである。

人生は苦である―これが仏教における出発点だ。

それを前提にするなら、苦をとことん楽しめば良い。

 

その先に見えるものは、果たして極楽か地獄か。

いわばそのギャンブルを楽しむだけでも、短い一生をやり遂げる価値があるのかもしれない。

 

楽な道に逃げようと思うな。苦を楽しめ。

人生はドMの道である。

資金繰りを徹底できなければ、経営者としては失格だ。

こんなにも冷や汗をかくことになろうとは。

まさに肝を冷やす思いだ。

 

なぜこのようなことになったか。

  • 予測をしっかり立てていなかった
  • 口座に金があることで気が大きくなった
  • 節税を考え、先にお金を払いすぎた
こうならないためには、この逆をしなければならない。
  • キャッシュフロー予測を立てる(スプレッドシート)
  • 口座の金は幻。無駄遣いしない。
  • 入る金は早く、出る金は遅く。節税は徒労。
一方で、必要なお金は使わないと、それも経営を困窮させる。
「良いお金の使い方」は必ずある。
それが「投資」だろう。
 
投資とは、それによって長期的な見返りが期待できるものだ。
例えば、従業員にボーナスを出すことは、奮起につながる。
 
ただし、やるからには効果を最大にできるようにしなければならない。
ボーナスを出すにしても、その渡し方は大きく影響してくる。
 
「最大の効果を出す投資は何か?」
 
これぞまさに「資源配分」の問題である。
もちろん、「自分へのご褒美」も重要な資源配分であると思う。
経営者として、この感覚を磨きたい。

自分は何者なのか。この問題に答えを出さないと、自信を持って事業や人生を進めていくのが難しいと感じる。

経営者 vs 投資家

自分は経営者なのか、投資家なのか。

もともとどっちがスタート地点だったかと言えば、間違いなく経営者だ。

投資はあくまで手段、しかも好きなのは企業分析だ。

 

経営者の資質とは、適切な資源配分を行うこと。

人をうまく動かす、すなわち人の心をコントロールすることだ。

顧客にしても、結局は心で動いている。

 

一方で、投資家の資質は、人の心を捨てて、数字に徹することだ。

まさにロジカルシンキングである。

これをするには、一人で徹底的に考え抜く事が必要だ。

 

投資で成功するには、人の裏を行くのが有効だ。

割安株投資はまさにそうで、多くの人から見捨てられているからこそ、大きな成果が得られる。

しかしながら、それに徹していて、果たして人がついてくるだろうか?

 

おそらく、コロナ・ショック後の20年、21年、22年は経営としてしんどかっただろう。

周りが上がる中で、全く上がらないのだから。

これに確信を持って耐えられるなら良いが、そこまでの精神力を持つ自信はない。

自分で言うのも何だが、優しすぎる。

 

自分が持つ能力の一つは「最適解を見つけること」だと思っている。

すなわち、多くの個人投資家=一般人にとってできる投資は何か。

そして、それを使って人を集めることができるか。

 

普通の人は、株を買うことは難しくないが、売るのは難しい。

実際にそんな時間もなかなかない。

だったら、もはや「売らない」のが最適解になってくる。

 

要は、ゴリゴリの投資家を育てたいのか、それとも「普通の豊かな人」を作りたいかだ。

その意味では断然後者である。

経営として考えても、現実的についてくるのは一般的な感覚だ。

 

一般的な感覚でうまく投資をやるにはどうしたら良いか。

それに最も成功しているのがバフェットだろう。

「良い銘柄」を「適切なタイミング」で買い、持ち続ける。

自分が信頼した企業を買うわけだから、持ち続けるのに苦はない。

むしろ、持てば持つほと楽しくなる、コレクターの感覚だ。

割安株 vs 成長株(素晴らしい株)

投資としての成功のしやすさで言ったらどうだろう。

それはおそらく「割安株」だろうなと思う。

ボロボロになっている銘柄ほど美味しい。

 

しかし、それを多くの人に勧めるのは矛盾であろう。

多くの人が受け入れられないからこそ安いのであって、それを売るのはガラクタ市をやるようなものだ。

単にガラクタ市なら売ってその場で終わりだが、投資ではその後のメンテナンスまで請け負わなければならない。

それは現実的ではないだろう。

 

しかも、もし株価が上がったとして、売るタイミングも選ばなければならない。

うまく売れなかったら、結局は元の木阿弥である。

それに対し、素晴らしい企業なら放っておけば良いのだ。

 

あの様々な投資手法で成功したピーター・リンチでさえ、個人投資家は「素晴らしい株」を買えと言っている。

それが「対個人投資家」ということを考えたときの答えなのだろう。

 

もし機関投資家向けにファンドをやるなら、割安に徹底すれば良い。

その特性を理解してくれるからだ。

しかし、現実問題として個人にそれをやるのは厳しい。

 

だから僕は、仮に投資として難しかったとしても、「素晴らしい企業」を奬めることにする。

これが「経営者」としての答えだ。

ただし、投資と経営は表裏一体である。

多難ではあるが、最後は「投資家」としても、それが適切であったことを証明したい。