THOUSAND WINDS -65ページ目

レクティオ・ディヴィナ

宗教的感覚取り戻す為、ただ今試行錯誤中。
昨日うちにあるリビングバイブル久しぶりに読み返していて、
何かひらめいたような気がしたから。
英語版聖書も読んでみようかと思った。
我々はどうも翻訳に惑わされているみたいだ。
どちらかと言ったら福音派の持ち物みたいな、リビングバイブルですが、
あれの訳は結構よさげである事を発見しました。
新改訳聖書も所々いい所もあるが、
教会じゃ新共同訳を使っているから、
どことなく違和感が残っていたわけだ。
とりわけ朗読した時の何か違和感みたいなのがあって、最近読んでいない。
確かにリビングバイブルは訳文が長めになるし、
節の区切りも通常のとあわない事もある。
でも昨日詩編の箇所を読んだだけでも、
何か分かったような所もあった。
表題のやつ、私はあまりよく知らない。
聖書をお祈りしながら、
黙想しながら読むみたいな行いだと思うが、
これまでの聖書じゃ今一つイメージにひたれなかったが
リビングバイブルを掘り起こしてみて、
それ使って我流でやってみようと思う。
いつかは英語版聖書でそれやれる日を夢見ながら。

動物の哲学

哲学にのめり込んでいる一環で、書店でいろんな哲学書を読みあさっている。
そしたら動物の哲学みたいな本が売っていた。
つまり人間に限らず動物にも哲学的考察を行おうと言う趣向らしい。
一番印象に残ったのは、動物にも心があるかどうかみたいなもの。
自分の飼ってるペットとかだとどこか心が通ってる気がするものだ。
だとしたら牧場主の飼ってる牛や羊はどうだ。
やがて食用として売られてしまうのではないか。
そんなのにいちいち心をあてはめたら、人類が肉を食べられなくなってしまう。
確かに仏教にはそんな戒律もあるらしい。
しかし動物がだめだからと、植物ならどうなのか。
植物に心はあるのか、
それを拡張していったら、
ついこないだの新型ウィルスまで心を考えなくちゃならなくなる。
逆に言うと、そんな下等生物に心がないんだったら、
一体どこから、どの程度進化した生物から心があるのか教えて欲しいものだ。
同じような観念で魂みたいなのがあるが、
どの位の生物からその魂とかがあるのか、
生まれ代わりがあるとしたら我々はウィルスみたいなもんにまで生まれ変わるのか・・・きりがない。
まだ宗教に戻れてない。

それぞれの救いの手だて

キリスト教がそれでなくなったのが不思議でならない。
ただいま哲学に執心中なわけだが。
人によればそれがツイッターだったりするわけだ。
何かしら神様から救いの手だてがあてがわれているみたいな気がする。
自分にしか出来ない事とか人と分かち合える趣味とか。
ただこちらの私から見ると哲学はどうも孤独を強いられるみたいで寂しい。
一応クリスチャンみたいだからと、キリスト教どっぷりな記事がよお書かれへん。
てれみたいなものがあるのか。
何かそういうのは違うみたいに思っているらしい。
私てきな信仰の仕方が実はカトリック的なのだと言う事に最近気づいた。
だからかたまにプロテスタントの教会に訪れても何か救われない気がする。
いや別にプロテスタント自体をばかにしてるわけではない。ちなみにうちの教会も分類上はプロテスタントなので。
最近そんな疑問もあってか、信仰からは遠ざかってたわけだ。
しかし昨日少し聖書をかじり読みしてたら、
何か違う感触をえた気がした。
いきなりそれでまた宗教バカに戻るわけではないが
きっかけにはなるだろう

何て言うのか

言葉遣いです。
たぶん人一倍言葉のニュアンスについて
敏感な自信あります。
だから自分みたいな書き方してくる人かぎわけるのも得意です。
VINDURはお遊びで始めた感じがあって、
パソコン画面も騒がしい。
でもこっちのパソコン画面は至ってシンプル、飾り気がない。
初めから言葉だけで勝負しておりますゆえ。
ここに書かれた言葉の価値だけがこのブログの売りです。
ブーシェカに手を出したのはあやまちでした。
ここは純粋に書く為だけのサイトでないといけないと思われます。
確かにあちらでもかなりお気に入りの言葉を残しています。
でも哲学に関しても、元はやましい動機から始まっている。
最近いくつか読んだ本で、やはり心に残るものも見つかりました。
聖書にしても、内容は同じでも、
訳し方だけで全然違う感じかたになってしまう。
ただ意味が合ってればいいは、私の場合ありません。
原文に忠実である事が本当に大事な事なんだろうか。
分かりやすさもさることながら、
例え意訳であっても、
それが読んだ人に何かを気づかせるような
言葉の力を持った文章なら
ある意味原文をしのいでいると言える。
うまく書けなかったけど

ひっこし

私のもう一つのハンドル名である、VINDURのブログから、キリスト教関係やらいくつかテーマをぶん取って来ました。
あちらは哲学主体でこり固めようと思う。
本来の私はウサウサで、親元?のブログではそのハンドル名でやってるから、
ほんとはこっちの方がオリジナルに近い。
最近両者の区別が私の中でもつかなくなって来たので
思い切って整理しました。
これでさらにVINDUR側は軽くなったに違いない。
なかなかふたまたかけてもしんどいから、
こちらはキリスト教信者の私としてぶら下がってるものをテーマとして、
VINDURはあちらに残ったテーマだけに、限定します。
ある意味同じ人格のまま、
二つのブログ掛け持つみたいな感じ。
まだあちらじゃこんな別ブログやってるよって言ってない。
まあいいじゃんとは思ってなくもない。