THOUSAND WINDS -345ページ目

つながったりつながらなかったり

携帯電話を外で使っているといつも思うのは、
電波の状態によって、つながったりつながらなかったりすること。
地下鉄の走ってる電車の中じゃ間違いなく圏外になるし、
地上を走っている電車の中でも、つながらなくなったりする。
また家の中からかける時でさえ、アンテナの線が立っていてさえ、通信エラーになったりする。
よく言われているネットブック、あれはまだローカルディスクにあらかたプログラムを搭載しているが、
完全にネットワークごしにWEBアプリケーションに依存するようになったら、
こんなつながったりつながらなかったりするのは困らないだろうか。
かつて音声電話にしか使われなかった時代には、
多少つながらなかったりする事も仕方ないと割りきっていた感があったが、
扱われる情報量が増大して、大切な情報が取り交わされる事も多くなるのだから、
何かよさげなケータイばかり新しくこさえないで、
なるべく通信が途絶えないような、通信インフラを構築して欲しいと思うのだが。
今ちょうど電車の中、圏外中につき書き込み不可なり。

HTVとは何ぞや

朝TV見てて思った。HTVってなんぞや。
来年でスペースシャトルがなくなるらしい。
その代わりに宇宙ステーションに、物資を供給する為の、
無人衛星らしい。
きっとアメリカの予算のせいでスペースシャトルはなくなるのだろう。
でもあんなビール樽みたいな、無人の倉庫を打ち上げられても、
うまく拾い上げられないと、
宇宙ステーションにいる人にしたら、
とても不安なんじゃないだろうか。
どこか地上から見放されたような感じを受ける。
いつか衛星軌道エレベータが構築されるまで、宇宙空間に物資を送りつける手段が限られてしまうと言うのは、
宇宙開発そのものの後退を意味しないだろうか。
アニメのようなスペースコロニーみたいなものが、
作られる可能性はもはやなくなったような気がするのは
気のせいじゃないだろう。

どうせいつもしりきれとんぼ

これまで書いて来た小説みたいな書き物は、どれも中途半端な所で打ち切られている。
毎日何か書くこと、
無分別で無思慮なものを書かないように。
ほっといたって。
どうせ無分別で無思慮な書き物しか書けないし、
毎日完全な書き物が出来るわけじゃないし。
何で途中で終わってるんだろ。
それについては、あんたにゃ言われたかない。
本の中の文に文句言ってどうする。
私が小説みたいな書き物が出来るのはほんのつかの間、
自分では頭がどうかしたと思える時じゃないと、
思い切りエキセントリックな書き物は出来ない。
何かにつかれたみたいな感じで書かないと。
それ以外のただの駄文なら楽でいいのだが、
たまにとんでもないのが飛び出してくる。
毎日書けるにこしたことはないのだが。
たとえただの勘違いでも構わないので、ここで
受け入れられている、
そんな感覚が芽生えたらもはや
逆にここからいつか
さよならの刻が来ないとも限らない事に、
おびえたりして。

透明なことばとは

私が詩を書いてみたところでそれは私の偏見に満ちた
片寄った意見にしかならないのだろう。
窓ガラスをへだてて向こう側にユリの花が咲いていたとする。
詩人はあれこれ私見を交えながらその花を言葉によって、
描写するのを試みるけれども、
それは詩人の心のフィルターを通しているから、
そこに咲いてるユリの花そのものではない。
そうではなくて透明なことばと言うのは、
その花と私の間をへだててる、透明なガラスそのもののような
言葉であろうか。
一切読み手の感情による修飾が行われていないこと。
その詩を読んだ人が、あたかもじかに目の前に、
何の装飾もないただのユリの花を見るがごとくに感じられる事。
私は残念ながら詩人ではない。
だからあの詩のグループでは浮いた存在かも知れない。
もしもこの先何か詩みたいなのを書いてみるとすれば、
こんな透明なことばだけで世界を描写出来たらいいのに。

ただ静かなだけでいいのか

私には目も耳も聞こえない人の気持ちはどうしても分からない。
しかも生まれながらにそうであった人の。
まず景色が分からない。音も分からない。言葉が分からない。
自分が何であるのか分からない。
自分がどこにいるのか分からない。
夢を見てもそこに音も光も登場しない。
そんな身の上で生まれて来なくて良かったと思った。
聖書の中で目が見えない人が見えるようになる奇跡で思っていたこと。
生まれながらに見えなかった人が急に見えるようになったとしても、
その初めて目に映る光景が何であるか、分からないだろう。
目に見えている中でどれが人かと言うことさえ。
ある英語の聖書には、againと言う単語が添えられていた。
なぜか知らないが日本語訳聖書からは省かれている。
つまり元々目の見えなかった人が、再び見えるようになったと言う話。
私は再びと言う単語を見つけた時つい半泣きになってしまった。
耳の聞こえない人も急に聞こえるようになったとしても、
人の話を聞いて意味が分かるはずがないだろう。
ただ静かな世界を恋慕う傾向と言うのはただ健常な者の
おごりのように思えてくる。
聞きたくても聞こえないような人にしてみたら。