書けない事を平気で書いてしまう罪
心臓がマリモ状態です、私。
寒くなって来たのに心臓の回りだけ、暖かい。
いつからか無神経の厚顔無恥になってしまいました。
深刻な事態を通過してしまって麻痺している。
コメントなしは自己防衛でしかない。
人から避難されるような事も、
無自覚で平気で書くかも知れない。
それが個性だとは言わない、
人間としての欠陥だろうと。
そんな人間失格な人でなしが、
時おり周りを騒然とさせるような、
とんでもない事を、
無自覚に書くかも知れませんので、
その場合はどうぞご遠慮なく。
コメントはこれまで通り止めさせて下さい。
BBSの方にて不当な書き込みが見つかれば、
問答無用で削除して頂けたら幸いです。
本人自覚なしに、人を傷つけているとしたら、
その事が一番つらい。
少し自粛します。
寒くなって来たのに心臓の回りだけ、暖かい。
いつからか無神経の厚顔無恥になってしまいました。
深刻な事態を通過してしまって麻痺している。
コメントなしは自己防衛でしかない。
人から避難されるような事も、
無自覚で平気で書くかも知れない。
それが個性だとは言わない、
人間としての欠陥だろうと。
そんな人間失格な人でなしが、
時おり周りを騒然とさせるような、
とんでもない事を、
無自覚に書くかも知れませんので、
その場合はどうぞご遠慮なく。
コメントはこれまで通り止めさせて下さい。
BBSの方にて不当な書き込みが見つかれば、
問答無用で削除して頂けたら幸いです。
本人自覚なしに、人を傷つけているとしたら、
その事が一番つらい。
少し自粛します。
ラッツィンガーさんにまでも
以前ラッツィンガーさんの書いた本を図書館で読んで一気読みした。
共有できる箇所は多分にあったのだけど、
いくつか納得がいかない。
ことにヨハネの福音書の解釈について、
カトリック的にどうよとは思うのだが、
この人ヨハネの福音書は、福音原理主義的に読んでいる、みたいに思える。
その世にも奇抜な最後に作られた福音書の、内容が全部史実に基づいているかのように話す。
確かにどの福音書もそのまま事実として扱うにはどうかと言うのがあるが、
ヨハネのそれは多分にアポフテグマと言うか、
後世の聖書記者が教化の為に挿入したものである可能性が強い。
先にQ文書と呼ばれるイエス語録があり、マタイとかルカはそれを一部採用したが、
ヨハネのそれには入っていない。
その代わりにヨハネ独自の口伝の資料があったのだろう。
別にヨハネのそれが史実通りでなくとも、その価値は失われないのだが、
あえて史実であるように語っていた。
「不可謬」がどうたら言うのもあるが、
私は例え自分の方が間違っていたとしても、
一応は違うとは言う。
それが例え神そのものであったとしても、
ヨブのように異議申し立てる
共有できる箇所は多分にあったのだけど、
いくつか納得がいかない。
ことにヨハネの福音書の解釈について、
カトリック的にどうよとは思うのだが、
この人ヨハネの福音書は、福音原理主義的に読んでいる、みたいに思える。
その世にも奇抜な最後に作られた福音書の、内容が全部史実に基づいているかのように話す。
確かにどの福音書もそのまま事実として扱うにはどうかと言うのがあるが、
ヨハネのそれは多分にアポフテグマと言うか、
後世の聖書記者が教化の為に挿入したものである可能性が強い。
先にQ文書と呼ばれるイエス語録があり、マタイとかルカはそれを一部採用したが、
ヨハネのそれには入っていない。
その代わりにヨハネ独自の口伝の資料があったのだろう。
別にヨハネのそれが史実通りでなくとも、その価値は失われないのだが、
あえて史実であるように語っていた。
「不可謬」がどうたら言うのもあるが、
私は例え自分の方が間違っていたとしても、
一応は違うとは言う。
それが例え神そのものであったとしても、
ヨブのように異議申し立てる
ゲッセマネのキリストの絵
ルカの福音書第22章43節
「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」
この箇所は後世の加筆とも言われている。
そんな1シーンを描いた西洋画を見ている。
うずくまって祈るイエスを、慈しむように、名前の分からない天使が抱き締めている。
何か神々しさよりは、ただの「人の子」のように見える。
人間の弱さがかいま見える。
変更不可能な神の計画にとまどってるように見える。
あくまでも
人間として、十字架につけられたのか、
神の子として、十字架につけられたのか、
どちらを選ぶかにより、信仰の正当性も決まってしまう。
むしろ教会的には、後者を選ぶだろうか。
絵の中の天使を見てると、私には前者しか考えられない。
画家は一体どちらを選択したのだろうか。
うがった見方をすれば、この天使、ピエタの絵の中の聖母マリアに似ている。
「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」
この箇所は後世の加筆とも言われている。
そんな1シーンを描いた西洋画を見ている。
うずくまって祈るイエスを、慈しむように、名前の分からない天使が抱き締めている。
何か神々しさよりは、ただの「人の子」のように見える。
人間の弱さがかいま見える。
変更不可能な神の計画にとまどってるように見える。
あくまでも
人間として、十字架につけられたのか、
神の子として、十字架につけられたのか、
どちらを選ぶかにより、信仰の正当性も決まってしまう。
むしろ教会的には、後者を選ぶだろうか。
絵の中の天使を見てると、私には前者しか考えられない。
画家は一体どちらを選択したのだろうか。
うがった見方をすれば、この天使、ピエタの絵の中の聖母マリアに似ている。
スレッド立ててみたけれど
こちらから書くものがないのは困り者です。
特にあんな真剣なコメント載せられた日にゃ、何かスレッド立てたものとしては恐縮してしまう。
あんなの立てなきゃ良かったんだろうか。
自己紹介スレだけあればよかったんだろうか。
一度書いてしまえばもう用のないスレしかなくて、
でも所属意識だけは得られてそれだけで満足すれば、
私なんかそんなの出来ないから、
つい無駄かなと思いながらも、
スレ勝手に作ってしまったりする。
今このブログでのテーマみたいに、何でもかんでもごちゃごちゃあるけど、
人によっちゃそれ煩わしいんじゃないかと思わなくない。
自然の流れに身を任せます。
「1逃げ」じゃ決してないと思う・・・
特にあんな真剣なコメント載せられた日にゃ、何かスレッド立てたものとしては恐縮してしまう。
あんなの立てなきゃ良かったんだろうか。
自己紹介スレだけあればよかったんだろうか。
一度書いてしまえばもう用のないスレしかなくて、
でも所属意識だけは得られてそれだけで満足すれば、
私なんかそんなの出来ないから、
つい無駄かなと思いながらも、
スレ勝手に作ってしまったりする。
今このブログでのテーマみたいに、何でもかんでもごちゃごちゃあるけど、
人によっちゃそれ煩わしいんじゃないかと思わなくない。
自然の流れに身を任せます。
「1逃げ」じゃ決してないと思う・・・