THOUSAND WINDS -194ページ目

某旭山動物園から本屋に出かける(空想)

昔あのうさうさのブログで(フリースペース参照)
ネコマタの男の子のおかしなお話を書いていた。
かの旭山動物園内に住んで、と言うか飼育されていて、
猫の手も借りたいと飼育員の仕事も無料でさせられ、
マイオリを自分で勝手に出たり入ったり出来て、
自由なご身分の彼であったが、
一応保護動物扱いなので、
許可なく動物園の外に出られない。
そんな彼がある日閉園の時間が来てから、外の町に買い物に出かけるシーンを無理矢理
でっちあげてみた。
一度は確かに旭山動物園に行ったものの、
そんな歩いて山をおりた事がない。
googleマップを手がかりに、最寄りの本屋さんまで子供一人がムフフな本を買って来る経路を
空想して書いてみた。
途中下山時の車道は歩道すらない場所で、うす暗い夕暮れに一人で歩くのはかなり危険そう。
民家のある所までかなり離れていて、何か寺がありその次に郵便局かあって、レストランが道道筋にある。
名前忘れたがお近くの本屋が確かにあったが、
どんな規模の本屋か知らない。
きっとムフフな本など売っていないだろうし、さらに道道を下って繁華街の方まで行く。
最寄り駅の東旭川の周辺も、倉庫みたいなのばかりであたり何もない。
駅へ別れる道の角にようやくセブンイレブンが見つかる。
やれやれやっとお目当ての本に巡り会える。
でも考えてみればこのネコマタ君、設定では中学生程度の年齢だったから、
ムフフな本が果たして売ってもらえたかどうかは
別の話

99%はゴミ

悔しい事に何か用事をしてる時とか、通勤の移動中にたいてい
いいネタが生まれるのにその
ほとんどが無駄に捨てられる。
丸一日家にいて寝転んでいて思い付いた事を書き付けていっても、
何かつまらないよた話ばかりになりがち。
私がそちらに意識を傾けていない時、つまりブログを書けない状況の時ほど
いいネタが生まれるのはどう言うわけだろうか。
いくらかはメモを残し、後日書けるようにしてるが、
その思い付いた時に書けなければ、やっぱりつまらない話になる事が多い。
私にとってブログネタはタイムリーな事が多い。
旬なうちに記事に仕上げないと腐ってしまうみたいな。
だが現実にはそんな思い付いた時にすぐ書けるもんじゃない。
しかるに私の書く記事の99%は明らかにゴミだろう。
毎日大量に書いて、残しときたいものなど少数に過ぎない。
かつての別ブログで書いた記事の再利用しようとしたが、
以外と使い回し出来るものがなかった。

ぐるっぽに書くのは

限定されたメンバーの間だけで取り合わされる情報。
メンバー以外から閲覧機能ついたがまだごく少数。
ブログ見に行ってもアメンバー限定記事とかある。
限られた人の間でしか取り交わされない秘密みたいなのが
横行する。
2ちゃんねるだったら完全にオープンな掲示板だったと思う。
MIXIは私はやった事がないし、
その存在すら外部に明かされなかったりする。
確かに限定された人の間で取り交わされる情報と言うのもある。
それによってより親密な交流がなされたりもするに違いない。
私にそんなクローズされたメンバーが、仲間がいないと言うだけの事に過ぎない。
ぐるっぽに書き付けた内容が必ずしも外に口外しちゃまずいような事など一度も書いていない。
ぐるっぽへの更新がとどこおってるのは
自分のブログに書けばよいようなものをあえてそちらに書く必要がないから、
仲間内だけで隠蔽しとかないといけないみたいなものがそんなにはない、
あとどうしても参加メンバーが少なければ閲覧される数も限られてしまうみたいな
問題があるだろうから、
この所ぐるっぽもあまり気乗りしていない。

今思い付いた

私の声はベースで一番低い音なんだが、
笛の種類だとバスーン位の巨大な笛でないと釣り合わないのはなぜ。
アルトですらもフルートは長大なものとなるのにそれよりは
コンパクトな私の喉笛で
ベースの低音が出るのはなぜ。
歌声のベーシストです、ええ。
また明日にでも

たまに思う

たまに思う。
宗教とは結局の所、経験則みたいなものだろうか。
先人の生きた知恵みたいなのを受けて少しでも生きやすくする為の方便みたいなのか。
仏教とかを見てるとそんな気がしてくる。
キリスト教ことに旧約聖書にも箴言とかがある。
キリスト教にもそうした教訓とか戒めみたいなものは
ないとは言えない。
ただ私的には本当の宗教はそうした自己啓発的なものではない。
むしろあえて苦しみを買っていくみたいな、決して修行みたいな、
見返りを期待するものじゃなくて、
ただ神のみこころのままにあれかしみたいな感じ、
よお分かりませんね。
スピリチュアルなんかでよく願い事がかなう方法みたいな本があったり、
天使にお願いするみたいな本があるけど
天使にしたら迷惑だろうと思わなくない、おっと。
人間側にどうしても世界の支配権が欲しい、ギブアンドテイクな宗教はみんな人間本意。
例え願いが叶わなくたって祈る。いや願わずにただ祈る。祝う。
神との関係性において、因果律などないと言うのが私の持論です。
全て神様本意、人間はただかなおうがかなわまいが、
祈り続けるしかない。
こざかしい努力が必ずしも身を結ぶとは限らない。
だからやれるだけは真面目にやり、後は結果を期待せず
神様任せ、私にはそれしか思い浮かばない。