大隈光祐`アントワープの絵へ` -9ページ目

野望

大隈光祐の”アントワープの絵”平成14年2月 私は傷害保険の分野で著しい成果を上げたということで社長賞を受けた。社長賞というのはえてして全社的に行われたキャンペーンや部支店を挙げて長年取り組んだプロジェクトに対する慰労としてメンバーが受賞するケースも多かったが、私はいつもひとりでの受賞だった。私にとって会社とは何か新しい仕事を創るためのバックグラウンドに過ぎなかった。新しい仕事に取り組んでいないと心が痛んだ。私はこのころ高齢者にとっての完全な保険制度を作り上げることをずっと考えていた。高齢者の保険引き受けでいつも問題になったのが年齢だった。アリコなどの外資系保険会社が唯一、75歳限度の引き受けをしていたばかりだった。高齢者は受傷率が高く、入院や通院も長引いた。つまり損害率が赤字になるのだ。私は財物の保険をセットで引き受けることにより、個人単位では黒字にできるのではないかと仮定した。しかし、保険会社の損害率管理は種目担当部署が縦割りで行っており、高齢者の傷害保険引き受けは困難であった。私は傷害担当部長宛てに稟儀を上げ、80歳超の高齢者をある団体の構成員として引受けをした。日本最大の予算店舗の次席からの引受申請を本社は断ることができなかった。損害率は私の思ったとおり安定した。承認の入り口が出来たその団体にどんどん高齢者を引き受けした。ある程度、数字ができると会社は容認せざる得なくなる。高齢者が望む介護保険や賠償保険を組み込むことで保険料単価はあがり、損害率はさらに安定していった。傷害保険の引き受けとしては業界初の加入年齢無制限となり、それが加入をさらに促進した。そして会社は社長賞というお墨付きを与えた。しかし、私には野望があった。従来の保険会社では範囲外の後期高齢者の病気保障の引き受けをしたいという考えだった。
火災保険や賠償保険、生命保険の損害率は30%以下と低かった。いわば何もしなくても儲かる分野である。中でも財物の保険=物保険は保険料の多くが保険会社の利益だった。保険会社は損害率の安定しない自動車保険や収入の大きい生命保険ばかりに営業コストを使っていた。私が考えたのは種目の融合だった。物保険と人保険をひとつの保険として収支管理しながら発展させる。それによって外国会社のキャッチセールスでない、日本の高齢者にとって本当に有意義な従来にない「保険制度」を創り上げる。『100歳でも加入できる安定した病気の保険制度』それは私が求める保険のあるべき'美しさ'だった。しかし日本の生命保険、損害保険会社とも長年規制に守られ、一律保険料で護送船団方式でやってきたため、業界体質が古かった。保険料が自由化になり、生保と損保の相互販売が可能になって以降も種目別の縦割体質、収支思考に変わりはなかった。
大隈光祐`アントワープの絵ヘ
一方、外資系の保険会社は儲けの大きい2、30代の自動車保険、団塊世代向けのシニア生命保険など日本人からの個人資産つまみ食いに終始していた。自社の儲かる保険商品のみへの営業展開と戦力集中。それは保険会社の体質そのものだった。
わたしは早すぎた。そして、それは一サラリーマンとしては明らかに会社業務を逸脱し始めていた。

ミニ保険会社

「伊羅保」大隈光祐`アントワープの絵ヘ私は大学時代から伊羅保焼を特に好んだ。「土味」ということばが日本にある。「土」という原料そのものを器の鑑賞対象とするという日本陶芸独特の言葉で、欧米などにない。イラボとは茶碗の表面がイライラボツボツしているから名づけられた感触名称であり、黄色い土と灰だけの釉薬を掛けて出来る褐色の器で、仕上がりは不均衡であちこちに玉状や条痕が出て一見すると失敗したような器である。平成12年5月、重得の信用金庫元役員である保険代理店社長から「勲章に損害保険を付けれるか?というある団体代表の昔から知人がいるので会ってみないか。」と依頼をうけ、同行した。その団体は何もかも異常だった。電話が並び、老若男女がひたすらダイヤルを回し、何かの売り込みをしている。一方を見るとぴしっと背広を着た60代から70代ぐらいの高齢者数名が何かの事務に余念がない。
話を聞くと叙勲の受賞をした人に記念メダルや名簿を電話で売っているらしい。30代前半と思しき幹部社員数名はまるでその代表者の兵隊のように左右に寄り添って応接室の中に起立して手帳とペンを片手に緊張して立っている。
「そうだろ。おい。〇〇」「いいか。よく聞いとくんだぞ。」代表者の言う一言一言に反応し、私のする話を直立したまま紅潮した顔で懸命に手帳に書き込んでいる。
(普通の法人組織ではない。)
どの損保会社の総合職が訪問したとしても丁重に新規取引をお断りしていたであろう。しかし私はイラボが好きだった。私はこの初めてみる雰囲気の組織内風景と恐縮する部下をうしろに声大きくワッハッハッと笑っているこの人物に興味を持った。大隈光祐`アントワープの絵ヘそして新規取引を引き受けた。引き受けたばかりか法人を作り、保険代理店を始めないかと勧めた。私は直観した。この団体のエネルギーを使えば、なにか新しい創作ができる。と。そして2年後、この団体は法人を作り損害保険業界で注目されるシニアマーケットの一大団体の別働体保険代理店となっていく。東京海上、三井住友やアリコ、アメリカンファミリー、当時シニアマーケットを志向し始めていたあらゆる保険会社がこの新しい法人との新規取引を進んで望み保険会社担当者が日参するようになった。
土は練りあがった。あとは釉薬を調合し、焼くだけだった。平成15年。小泉内閣による金融規制改革が始まり、一定規模以上の保険代理店やペット共済など特殊な保障を扱う団体法人は戦後、新たに「保険会社」として格上げしてもいいのではないかという検討審議会が金融庁で始まった。
"100歳でも加入できる保険会社"
私の新しい創造が始まった瞬間だった。しかし私は分からなかった。この土の中にはオーナーという大きな石があり、窯で焼き上げようとすると爆発してしまうということを。私はよく新しい釉薬や器の形に挑み、窯のなかで爆発させた。創作に夢中で気がつくと窯の中に自分が入ることになった。平成16年4月。私は保険会社設立準備のため、常務理事としてこの団体に就任した。

四谷ビル

「吉川さん。あんなもの表に張ってたらお客さんこないんじゃない?」私は仕事が小休止したタイミングでちょっと気になってたことを話しかけた。大隈光祐の”アントワープの絵”彼女は事務局の経理庶務をしていて、居酒屋を何軒か経営していた。根っから働くことが好きそうな活発な40代後半の独身女性だった。私の四谷の3階建てのビルも、着任そうそう彼女から1Fの厨房設備を貸してほしいとあっけらかんと頼まれたので、ビルごと毎月20万円で貸す契約書を作ってあげて、くれるときには家賃をもらっていた。このビルは大手損保を退職し、より理想とする保険制度を作り上げるため、常務理事就任するにあたって、万が一のことがあった場合も、何か商売ができるように、都内を見て即決したものだった。店の看板が妻の名前だったで購入を決めた。「昔は道場六三郎が自分の店を閉めたあとで弟子を連れてたまに来てた。」と近所の人は言った。そんな店に小泉純一郎のポスターをそれも建物の正面外に張るのはどうだろう。さすがに築50年の建物は、選挙事務所には見えないだろうが・・
私は昔から政治色的なものが嫌いだった。ましてこのビルは郵便局の隣でいろいろな人が来る。しかも創価学会の人の店が多い信濃町と道路を隔てた向かいだ。支持政党がないのに「あの店の大家は自民党か」なんて思われるのも嫌だった。「どうでもいいことなんだけど、あの小泉総理の顔のポスターは目立ちすぎだよ。外した方がいいんじゃないかな。」「何言っているんですか、常務、かっこいいじゃないですか。今、小泉さんは大人気なんですよ。私もすきなんです。」「そうなの?」小泉総理の靖国神社公約参拝や物議を呼ぶ発言により、中国での反日感情はひどくなり、日本人は中国人、韓国人に対して排斥感情が高まっていた。ネットには日本人が近隣諸国人よりいかに優秀か、隣国の経済がいかに幼稚で何十年も遅れているかといったスレや書き込みが溢れていた。週刊誌や単行本上では中国は毎月のように来月にでも崩壊することになっていた。私は昔から中国をなんとなく身近に感じていた。陶芸部だったせいもあるが、主任時代の30代前半に読んだ吉川英治の三国志や山崎豊子の小説「大地の子」の影響が大きかった。大地の子では中国の残留孤児はみな戦後、奇跡の成長を遂げ世界一裕福な国 日本で人生を送りたいと思っているという前提により小説が成り立っていた。当時、残留孤児と判明し、日本に帰国できることは宝くじに当たるのと同じようなものだった。残留孤児と判明したのに実親が分からず、帰国できない人は末尾の番号だけ違った哀れな人だった。
日本人は彼らをタイタニック号で救命ボートに誰を乗せるか決める立場にいる乗船者のように見つめた。
日本側親族との孤児の面会場での外務省職員はまるで杉原外交官のように見えた。日本人の幸せ感とは明治以来、多分に隣国との心理的一国優位に根付いた。そういう幸せの感じ方しか上手くできなくなった。
世界一の核の傘の下で非核を訴えつづけ、ベトナム戦争、ソ連崩壊、残留孤児、北朝鮮の飢餓、その都度、自分達の裕福さ(電化製品やコンビニ、それをTVで見ている自分など)を顧みることで幸せを感じた。昨年、世界恐慌になってさえ、暴落した隣国ウォンと円との差益を活用したお得グルメ旅行番組で隣国と比較'幸せ感'を維持しようとしていた。かつて天安門事件が若い学生の血で鎮圧されたとき、TVでそれを見ていた世界の人たちは中国はこの政府が消滅しない限り、当分後進国から脱出できないだろうとため息をついた。
日本はそんな可哀そうな国に円借款をし続ける優しい経済大国であり、中国はビルの高窓からの見える広い雑踏だった。たしかに日本人は優しい平和を愛する民族だろう。しかし国際感覚的に強い優しさではなかった。余裕がなくなると隣人にヒリテリーを生じた。関東大震災、太平洋戦争後半、沖縄上陸戦・・・
国家の一時代経済体制が衰退するとき、それを察し本能的に逆に支えようとする断固たる政治家が現れるのは井伊大老みたいなものか。北京オリンピックが決定するころからこの国の一文化を担い、特に時代に先取な石原氏や桜井氏などは100年周期の文明変化を敏感に感じ取り、発信し始めた。私は小泉改革を機に大企業を見切り辞めたおそらく最初の人間だろう。損保業界には将来はないようだった。マーケットが縮小していくなかで、自由化を理由に代理店を選別し、中小損保を合併リストラしながら、体裁のみを維持する事実上の業態縮小が進んでおり、コンプライアンスの大義のもと自社既存顧客の抱え込みにのみ莫大な人力を使っていた。その病は銀行、証券、地銀に至るまで同じだった。金融機関だけではなく、明治官僚制以来、川下にある日本の仕組みすべてが疲労し始めていた。大企業では人事評価制度の導入により得意先より上司との関係が大切になり、戦後からの猛烈社員という言葉は死語となった。中小企業や個人事業種は創業者が高齢化し、世襲化し始めていた。サービス業は年収水準が下がりそれ自体で自活できなくなり、タクシーの運転手などに見られるように高齢者の年金補填職種となり始めていた。若者は資格による世代厚遇を求め、駅前留学NOBAと派遣パソナの看板が町中にあふれていた。翌日、協会の保険事務局に総務省の監察官が視察に来た。保険会社格上げの候補団体にできるかどうかの事前ヒヤリングのためだった。
私は常務理事として無難に応対を終えた。私は結局ポスターを黙認することにした。大隈光祐`アントワープの絵ヘ