浮かぶ顔
平成17年10月。私の周りに変ものがいくつも浮かび始めた。最初はひょうたんに見えた。目の表面の網膜がおかしくなっているのだろうと思った。デスクとデスクの間にも見えた。車の窓から外を見てもいた。明るいところにも金色にいくつか浮かんでいた。私以外誰も気にしていない。やはり目のしみ?ファミレスのトイレ。電車の窓の外。ひょうたんは離れなかった。布団の横にもいた。手を伸ばせば届きそうだが腕に乳酸菌が溜まったようで力が入らず動かない。眸だけ動かして、それを追うと視界から消える。追う。消える。現れる。追う。消える・・。眠れないことを知っていてこちらを見ているのだろうか。
3つ 4つ 6つ
下に見えるのは閉じた貝のようにも、人間のくぼんだ両眼のようにも見える。
なんだろう?

平成17年10月8日 のぞみで大阪に向い,全国の損保ジャパンの同僚たちと懇親会、翌日はゴルフ。帰りの夜行バス。高速の流れる光とその向こうの闇の間に彼らはまた現れている。見るものは人間化すると聞く。たくさんの仏像のようなもの?10日の週。小規模短期保険会社申請のために財務局へ申請書を提出する期限は10月19日必着であった。

今週中に作成しなければならない。`周りにかまっているひまはなかった。私は`それ`とともに事務所に籠った。もはやこの協会のオーナーが小規模短期保険会社になることを望んだいないのはたしかだ。それは財務内容をオープンにしたくはない?私有団体?団体を消滅させてでも何かを守ろうしている。オーナーに対抗しこの団体をどうしても小規模保険会社に格上げする方法は?
私はその為の手を2つを考えた。
1つは保険だけではなく、さらに金融業界を巻き込み、個人的思惑で運営ができないほど大きな公共的制度を新らたに導入してしまうこと。損保会社だけで守れない団体のオフィシャル化も隣接業界も協力して包囲すればできる!その決め手はクレジット業界!アメックスとの提携による日本初の後期高齢者専用カードの開発と発行だった。これは1年前、私がアメックスに企画提案し、水面下で進めてきたものだ。



アメックスの資産家向けカードにブラックカードと呼ばれるセンチュリオンカードがあった。私はそれをベースにして就労収入はないが年金収入生活者、実質的に日本の個人資産1500兆円を保有するシニアのための`ブラックカードを作れないか打診した。セコムのGPSによる居場所特定システム(ココセコム)など高齢者同居世帯のためのバリアサービスを付帯して、年金収入者のための世界初の「無審査」ブラックカードを作れないかと。インドからアジア責任者が来たとき私は強調した「together passed is only mean!」=このカードは`一切審査しない`。申し込んだ年金生活者`全員にブラックカードをいったん発行する。審査は発行してから消費状況を見て行う。高齢者は加齢とともに消費活動が一般的に落ちる。カードを発行した場合、実質的に買い物などで使用が期待されるのはするのは息子などの第二世代だった。家族カード。だから従前の審査システムは無意味だった。アメックス社は私のアイデアによくついてきた。担当者も京大からコロラド大を出た最優秀の社員が充てられた。カードに付帯するサービスとしてカード提供者が万が一認知症などにかかった場合、任意後見人を頼む弁護士費用を補てんする保険サービス特約も三井住友海上の協力で開発できた。
1年後、社内的に検討に検討を重ね、ついにアメックスは業界のルビコン河を渡った。前身が旅行会社というサービス業から発展したため、このような‘無審査‘のカード認可が社内決定されたのだ。カード業界初の無審査カード!
しかもブラックカード以上のサービス。カード使用の度に0.2%のマージンが入り、保険料の収納代行手数料もアメックスを通じればかからない。これほどオフィシャルな既成事実があるだろうか。オーナーはこの現実から逃げられないだろう。団体はもはや私物ではなくなる。
2つ目はこの団体本体での保険会社設立をもはや諦め、切り離して`保険会社設立させてしまうことだった。私が損保ジャパンの同期から頼まれ、たった20名の保険契約者を管理する小さな保険代理店があった。この法人は協業違反にならないよう常務理事に就任して以降は手数料をすべてこの団体に還元していた。この法人の主たる業務から保険をいったん外す。しかし何かほかの存続理由をつけて、法人廃止はしない。そして、私はもうこの団体の本体でコンプライアンス上かばうのをやめる。私という守備がいなければ、協会として受賞記念品販売などで強引な販売を続けるこの団体は早晩、法令違反を起こし、必ず、強制的な行政処分を受けるだろう。そのとき厳格な保険部門までも影響を受け、法人として一定期間募集が一切できなくなる。そのとき、ノアの方舟となるのが保険会社との取引を廃止していない小さな保険法人である。コンプライアンスと顧客保護のため契約者移管が行われる。これで実質的にオーナーの支配下から外れることができる。そのあと、その法人を保険会社申請すれば良い。2つ目の方法の方が、法人として団体とのしがらみもないため、将来的に団体加入者だけでなく、日本の高齢者に広く募集できる本当の保険会社にすることができるような漠然とした希望がもてた。私はあやしまれない業態変更を模索した。しかし仕事人間で生きてきた私に思いつくことは限られていた。大学時代からの陶芸?阪神大震災からこだわっているボランティア?
何も私にはなかった。しかし、天は私に味方した。安田火災の時代から上野で取引先の接待二次会のなどに使う、融通がきく中国カラオケスナックがあった。そこに海華という女性がいた。この女性の目はいつも遠くを見つめていた。小学校の先生を務め、90年台の中国での東京ブームに乗って来日し、日本人男性と結婚して子供をもうけたものの、生活を支えるためこのスナックを経営して生活を支えていた。
「いつか夜の仕事をやめて子供に自慢できる仕事を自分で始めたい。」という意気込みが強く感じられた。
損保会社の社員を通して知る日本の色々な業種の仕事のことを目を輝かせて聞いた。個人的関係はなかった。ある日、私は彼女から「時間のあるときに相談に乗ってほしい。」を言われた。喫茶店で約束して会った。
「中国でネールプリンターというものが発売されはじめて日本で総代理店を捜しています。「ネール」というのはまだ言葉すら知らない人が日本では多いのですが、アメリカや中国、韓国では非常なブームです。このブームは日本にも必ず来ます。私はこの日本総代理店をやりたい。でも募集しているのは日本の会社で当てがありません。どこか紹介してくれませんか?」仕事をしながら時間の合間にパソコンを見て、調べて、ようやく見つけた宝物のような情報。誰にも教えたくない。という気持ちが彼女の真剣なまなざしに籠っていた。私は彼女の話を聞きながら、別のことを考えていた。彼女が`大事件に巻き込まれた瞬間だった。
ネール?。私すら一見、訳の分らない中国の美容用品の輸入代理店!これほど保険とアンマッチでオーナーの目をくらますのに適した業務があるだろうか。オーナーは私がようやく保険会社化を諦めて、転職活動を始めたのか とまで都合よく解釈するかもしれない。私は一応、知りあいの社長等を彼女に紹介したが、それが当然のように断わられるとただちに自分が協力する旨告げると彼女は大喜びだった。水を得た魚のように準備を始めた。つかさのウイークリーを借り、人が一人やっと入れるような狭い部屋でネール機械の勉強をし始めた。私がある日尋ねると゛くの字になり、そのまま床に眠っていた。スナックの上品な姿とは全く違った。化粧もしていなかった。この仕事に賭けていた。パソコン教室に通い、HPを作り、上野駅近くにマンションの一室を借り、手作りの看板を1Fに出していた。すべて彼女がこれまで貯めてきたお金だった。私は人事(ひとごと)ながら少し彼女が心配になった。中国企業に投資して失敗した例をエコノミストなどでいくつか記事を見ていたからだ。私は彼女に現地企業を確認したほうがいいとアドバイスし、旅費を出し連れて行った。一泊で往復する強行軍だった。その企業は成都にあった。成都といえば三国志の蜀の都があったところだ。劉備玄徳、諸葛孔明、関羽、超飛・・・。その企業は日本で想像していた以上にハイカラだった。工場も清潔でりっぱだった。合格だ。いかにも風通しの良いサロンのような社内オフィス。

堅い金融機関である損保会社の雰囲気しか知らない私には、何か眩しかった。海華は目を輝かせて、熱心にネールケアの指導を受けている。彼女はここまで連れてくれば大丈夫だろう。私はひとり、町へでて陶器店や書画など見て回った。新と旧。
建築ラッシュ。活気溢れる街でパートで働く若者たち。日本で失われた光景。私は焦った。あるいは岩倉具視使節団はこんな気持ちだったのでは。私はあるこの国にカルチャーショックを受けた。
「日本は抜かれる!」直感した。
東京に戻ると同時に、この仕事に関してても積極的に関与し出した。思えば、私は、希死に対して、何をするにも生き急いだ。生命保険の受取人変更したとき妻は単刀直入に言った。「こうすけ。へんなこと考えてるんじゃないでしょうね。死ぬ気じゃない(笑)。」小規模保険会社の設立、財務局への提出資料の作成と格上げ申請、業界初の無審査クレジットカードの企画・作成準備、畑違いの中国ビジネスへの参画、一企業人生でサラリーマンがやっとひとつ成せばいいような仕事が一挙にこの数か月で加速している。
私はもはや見えているものを気にしている余裕すらなかった。絶えず、ポケットいっぱい睡眠薬と抗うつ剤を入れておいて、油断すると堕ちていくまどろみの世界のなかで覚醒と睡眠を自由に司る神になろうとした。正座ができなくなったり、よく転んだり、変なものがみえるのはささいな代償だ。今の私ならシルバーシートで寄りかかり、まどろむことも許された。10月27日11:00ロイズジャパンと打ち合わせしたあと、私はまだ世間に認知されていない「ネールプリンター」の宣伝広告を掲載する媒体を捜しに池袋のジュンク堂書店に行った。
私は新しい保険のアイデアにつまるとよくここに来た。この書店は椅子に座って本の下見ができるので便利だった。そして何十分もいるといつも便意を催した。池袋本店は1Fの奥に日本中の雑誌が手に取れるように並べてあった。1Fで慣れない女性誌ばかり10分もめくっているとやはり、小便をしたくなった。(そういえば`書店に行くとなぜトイレに行きたくなるのか`って題名の本を吊革広告で見たことがあったっけ。)私はエスカレータで上の階に上がって行った。
当時仏像コーナーはなかった。宗教のコーナーを通りかかったとき・・・
その本は私の目に飛び込んできた。真黒い表紙に金色の模様「仏像100選」・・それはパンフレットと言ってもよい冊子だった。私はなにげなくぱらぱらとめくった。
「いた!」「これか。」
「ひとりだった。」
いくつも見えていた顔。
「ひとりだ。」わたしはふたたびつぶやいた。

林の中の聖堂
仏教で「聞即信」という言葉がある。「聞こうと言う心も起きないのに聞こえる 聞こえてくる」ことをいう。「聞く」とはこの場合、宗教体験です。自我意識がすっかり脱落したとき、自然に聞こえたり、見えたりするのです。罪悪や煩悩におののき悩み、疲れ果てたとき、自然にめぐり会えるのです。観音菩薩は、さまざまな姿に変身して、人を救ったり、苦しめたりするといいます。(法話より)
この事件の捜査資料、公判資料に最も多く登場する寺名は法隆寺でもなければ浅草寺でもない。
`聖林寺`
被害寺でも関係者でもない。飛鳥寺から2Kほど離れた多武峰麓の麓にある真言宗の寺である。
そして、おそらく聖林寺の誰もそれを知らないまま私は精神異常者として保護独房へ2年間監禁され続けた。
平成17年10月30日(日)、私は新幹線でこの寺をひとり訪れた。
「せいりんじお願いします。」
「せいりんじ?」
「・・・・・・」
「ああ。`しょうりんじ`さんね。」「小林寺?拳法の?」
私は、この数か月、毎日、そうするようにタクシーに乗ったや否や全身脱力し、まどろみ、シートに沈み込みながら、運転手に尋ね返した。間違っていたのはタクシーの運転手ではなく私だった。私は不思議だった。タクシーの運転手に「東京から日帰りで来た。」と言ってはみたものの、ある意味私はここの住人であった。私は小学校6年、中学1,2年と多感な時期、この飛鳥に魅せられ、史跡や寺を自転車で何回も回り、子供がてら遠方まで巡礼までするようになった。30代の働き盛りには、偶然からこの地に赴任することになり、5年間を損保マンとして過ごし、この桜井地区も担当していた。いわば第2の故郷のような場所であった。この半径数キロは日本中で私が特に詳しい場所のはずである。私が知らない寺が存在していたこと自体が非常に不思議だった。だから、運転手の質問は違和感があった。しかも台風で倒壊し、損保マンとして私が直接、再建に携わった室生寺派の寺という。タクシーは香具山方面から多武峰の麓の川沿いにある古い家並みに縫うように入って行った。その先には「猪の顎を切るが如く、いつの日か、自分が思っているあの人を切りたい。」とおっしゃたため、逆に時の権力者蘇我馬子に殺された崇峻天皇の陵がある。その崇峻天皇を暗殺した東漢直駒も用済みとなった直後に馬子に処刑された。
・・・
私はこの1、2カ月で私は急速に希死感が強まっていた。精神的に追い詰められていた。蜜月はたった2年間だった。
協会のオーナーが財務内容を公にする小規模保険会社設立に反対で、危機感を抱き、私を排除しようと躍起になり始めたことは「もはや明白!」だった。彼は私という損保現役社員による利益拡大だけが目的で、それ以上は望んでいなかった。・・・・すべては順調に軌道に乗り、作品の完成は間近なのだ・・それなのに。日常業務への介入、妨害は日に日に強烈になっていく・・・。私は暴風雨の中を港へ向かう帆船から落ちないだけに必死だった。相談しようと頼んだ弁護士は毎月の高い顧問請求書が届くだけで身の上相談さえできない。私は従業員達に損保時代から5年にわたり「一緒に保険会社の社員になろう!」と夢を与え続けた。今更、裏切るわけに行かなかった。ヘッドハンティグした従業員もいる。責任がある。何千もの高齢者は何のために保険制度に加入してくれたのだろう。来年平成18年4月1日の保険業法改正で規制を受けるのであれば、保障は著しく小さく限定され、この5年間の全国規模の募集の意味はなくなる。80歳以上のお年寄り介護や病気の補償は消滅する。
お願い・・
もう少しだけ・・・
この嵐を乗り越え、金融庁への格上げ申請が無事終わり、4月を迎え、何事も起きなければ、オーナーは保険会社化を認めるざるえないだろう。彼が恐れているのは保険会社化による財務健全化が協会に及ぶことであり・・・それはたぶん・・・杞憂だった。この政治的色彩の濃い大団体が将来も存在するために受けなければいけない外科手術。それに気づくまで私は踏ん張らなければならない。たどり着けない家路・・。今も震える手足・・・・。大量の睡眠薬だけで、毎日、かろうじてこのようにタクシーの中かネット喫茶などで睡眠をとっている自分。`覚悟`に`からだ`が付いて行かない・・・。だから私は今月、生命保険の受取名義を妻に変えた。鞄の中には段ボールを縛るビニルのひもを入れ持ち歩くようになった。強い「希死感」が毎日、周期的に私を襲う。それに対抗するのは「薬」だけだ。為にカバンの中には私を支える色とりどりの薬が見える。
人生で三度訪れた飛鳥村。自分は何をしているのだろう。こんなに忙しいのに。たびたび見えるものは薬の副作用のせいじゃない。
「たしかめるだけ」
もうすぐ分かる。そこは私の飛鳥での過去からずっと小高い林の山間に隠れていた。タクシーがローギアで少しうねると「聖林寺」の看板が見えた。私は瞬間、戻りたい衝動にかられた。
「お客さん。ここからは歩いて登ってください。」
私はタクシーを降り、石垣でできた急なこう配を山門に向かった。
本堂に行くとなぜか受付の職員や僧侶さえ見当たらず、かわりにそこにいた小学校3,4年生ぐらいの男の子が拝観券を切ってくれた。
彼は私ににっこり笑った。私はそれまでの緊張が少しなごんだ。檜の細い階段がまっすぐ小山の上の林の中に建つ白っぽいお堂の入口に向かって延びていた。ひとりがやっと通れるぐらいだ。自分の動悸が聞こえる。
階段を上がり見え始めるにつれて、「こんなところに仏像が納められているのだろうか。」と疑問を抱くほど、前方に見えてきた「聖堂」は何の装飾もないただ小さな白い、四角い「箱」だった。
私は階段を一段ずつ登りながらの瞬間、瞬間、何度か、理由をつけて戻りたい衝動にかられた。
「何故、今、この寺境内の中には私とあの子供しかいないのだろう?」
風を感じない。
私は回廊を登り切り、その堂の扉を入っていった。
・・・・・異常な静寂・・・・・
彼はたしかにそこにいた。
ゆうに2mはあるであろう・・・・圧倒的な威容・・・彼は金色の大きな蓮の花のうえに浮いている。
浮かび続けている顔と両目がその最上部にあった。ひとつひとつの顔・・・くぼんだ大きな目・・・眼前にあるのは・・・まさしくその仏像だった。茫然自失のなか、自然に両手が前方に動きだし、わたしは十一面観音像を拝ん・・。
と。その刹那それはいきなり聞こえてきた。
ひとのあつまるこうめいなてらからさんじゅうさんたいのぶったいをあつめなさい。
そうすればあっかするくるしみからすくわれるだろう。

私は合わせようとしていた両手がびくっとなり、思わず振り返った。誰もいない。あいかわらずの`静寂・・・この狭い堂の中には私しかいない。それはたしかだ。何もない。気のせい?いや 声が大きすぎる。床をたたいて足をどんどんしてみる・・・・なにも鳴らない。気のせい。私は気を取り直して、手を合わせめをつぶったとたん。
ひとのあつまるこうめいなてらからさんじゅうさんたいのぶったいをあつめなさい。 そうすればあっかするくるしみから救われるだろう。
そんなことをすれば信者の人に迷惑でしょ
ほとけはひとのこころのなかにあるもの。だからあんしんしてあつめなさい。
声が大きすぎる!
私は扉を飛び出し裏に回った。ラジカセなど何もない。戻ると階段の下の方から女性に案内されて、若いカップルが階段を上ってくるのが見えた。私は堂にふたたび入り、聖堂内の右脇に寄り、彼らが上がってくるのを待った。
・・・・・・上品なお顔立ちは東洋のミロのビーナスとも言われ・・・・・日本で最初の国宝に指定され・・・どうぞごゆっくり拝んで行ってください。」
上品そうな中年女性が解説し、それが終わる声が間近で聞こえ、そしてカップルが入ってきた。
「どないしてこんな仏像こんな狭い部屋に入れたんやろ。」「すごい。」そのあと、ふたりとも日本人の多くがするように手を2回たたき、目をつぶり、しばし何かを祈っている。
とにかく何も起きない。
私はふたたびひとりになるのを逃げた。
彼らと一緒に扉の外に出た。風がきちんと吹いている。遠くに三輪山が見えた。
私はその日のうちに、また東京に帰った。仕事に戻るため。
この事件の捜査資料、公判資料に最も多く登場する寺名は法隆寺でもなければ浅草寺でもない。
`聖林寺`
被害寺でも関係者でもない。飛鳥寺から2Kほど離れた多武峰麓の麓にある真言宗の寺である。
そして、おそらく聖林寺の誰もそれを知らないまま私は精神異常者として保護独房へ2年間監禁され続けた。
平成17年10月30日(日)、私は新幹線でこの寺をひとり訪れた。
「せいりんじお願いします。」
「せいりんじ?」
「・・・・・・」
「ああ。`しょうりんじ`さんね。」「小林寺?拳法の?」
私は、この数か月、毎日、そうするようにタクシーに乗ったや否や全身脱力し、まどろみ、シートに沈み込みながら、運転手に尋ね返した。間違っていたのはタクシーの運転手ではなく私だった。私は不思議だった。タクシーの運転手に「東京から日帰りで来た。」と言ってはみたものの、ある意味私はここの住人であった。私は小学校6年、中学1,2年と多感な時期、この飛鳥に魅せられ、史跡や寺を自転車で何回も回り、子供がてら遠方まで巡礼までするようになった。30代の働き盛りには、偶然からこの地に赴任することになり、5年間を損保マンとして過ごし、この桜井地区も担当していた。いわば第2の故郷のような場所であった。この半径数キロは日本中で私が特に詳しい場所のはずである。私が知らない寺が存在していたこと自体が非常に不思議だった。だから、運転手の質問は違和感があった。しかも台風で倒壊し、損保マンとして私が直接、再建に携わった室生寺派の寺という。タクシーは香具山方面から多武峰の麓の川沿いにある古い家並みに縫うように入って行った。その先には「猪の顎を切るが如く、いつの日か、自分が思っているあの人を切りたい。」とおっしゃたため、逆に時の権力者蘇我馬子に殺された崇峻天皇の陵がある。その崇峻天皇を暗殺した東漢直駒も用済みとなった直後に馬子に処刑された。
・・・
私はこの1、2カ月で私は急速に希死感が強まっていた。精神的に追い詰められていた。蜜月はたった2年間だった。
協会のオーナーが財務内容を公にする小規模保険会社設立に反対で、危機感を抱き、私を排除しようと躍起になり始めたことは「もはや明白!」だった。彼は私という損保現役社員による利益拡大だけが目的で、それ以上は望んでいなかった。・・・・すべては順調に軌道に乗り、作品の完成は間近なのだ・・それなのに。日常業務への介入、妨害は日に日に強烈になっていく・・・。私は暴風雨の中を港へ向かう帆船から落ちないだけに必死だった。相談しようと頼んだ弁護士は毎月の高い顧問請求書が届くだけで身の上相談さえできない。私は従業員達に損保時代から5年にわたり「一緒に保険会社の社員になろう!」と夢を与え続けた。今更、裏切るわけに行かなかった。ヘッドハンティグした従業員もいる。責任がある。何千もの高齢者は何のために保険制度に加入してくれたのだろう。来年平成18年4月1日の保険業法改正で規制を受けるのであれば、保障は著しく小さく限定され、この5年間の全国規模の募集の意味はなくなる。80歳以上のお年寄り介護や病気の補償は消滅する。お願い・・
もう少しだけ・・・
この嵐を乗り越え、金融庁への格上げ申請が無事終わり、4月を迎え、何事も起きなければ、オーナーは保険会社化を認めるざるえないだろう。彼が恐れているのは保険会社化による財務健全化が協会に及ぶことであり・・・それはたぶん・・・杞憂だった。この政治的色彩の濃い大団体が将来も存在するために受けなければいけない外科手術。それに気づくまで私は踏ん張らなければならない。たどり着けない家路・・。今も震える手足・・・・。大量の睡眠薬だけで、毎日、かろうじてこのようにタクシーの中かネット喫茶などで睡眠をとっている自分。`覚悟`に`からだ`が付いて行かない・・・。だから私は今月、生命保険の受取名義を妻に変えた。鞄の中には段ボールを縛るビニルのひもを入れ持ち歩くようになった。強い「希死感」が毎日、周期的に私を襲う。それに対抗するのは「薬」だけだ。為にカバンの中には私を支える色とりどりの薬が見える。
人生で三度訪れた飛鳥村。自分は何をしているのだろう。こんなに忙しいのに。たびたび見えるものは薬の副作用のせいじゃない。「たしかめるだけ」
もうすぐ分かる。そこは私の飛鳥での過去からずっと小高い林の山間に隠れていた。タクシーがローギアで少しうねると「聖林寺」の看板が見えた。私は瞬間、戻りたい衝動にかられた。

「お客さん。ここからは歩いて登ってください。」
私はタクシーを降り、石垣でできた急なこう配を山門に向かった。
本堂に行くとなぜか受付の職員や僧侶さえ見当たらず、かわりにそこにいた小学校3,4年生ぐらいの男の子が拝観券を切ってくれた。
彼は私ににっこり笑った。私はそれまでの緊張が少しなごんだ。檜の細い階段がまっすぐ小山の上の林の中に建つ白っぽいお堂の入口に向かって延びていた。ひとりがやっと通れるぐらいだ。自分の動悸が聞こえる。
階段を上がり見え始めるにつれて、「こんなところに仏像が納められているのだろうか。」と疑問を抱くほど、前方に見えてきた「聖堂」は何の装飾もないただ小さな白い、四角い「箱」だった。私は階段を一段ずつ登りながらの瞬間、瞬間、何度か、理由をつけて戻りたい衝動にかられた。
「何故、今、この寺境内の中には私とあの子供しかいないのだろう?」

風を感じない。
私は回廊を登り切り、その堂の扉を入っていった。
・・・・・異常な静寂・・・・・
彼はたしかにそこにいた。
ゆうに2mはあるであろう・・・・圧倒的な威容・・・彼は金色の大きな蓮の花のうえに浮いている。
浮かび続けている顔と両目がその最上部にあった。ひとつひとつの顔・・・くぼんだ大きな目・・・眼前にあるのは・・・まさしくその仏像だった。茫然自失のなか、自然に両手が前方に動きだし、わたしは十一面観音像を拝ん・・。
と。その刹那それはいきなり聞こえてきた。
ひとのあつまるこうめいなてらからさんじゅうさんたいのぶったいをあつめなさい。
そうすればあっかするくるしみからすくわれるだろう。

私は合わせようとしていた両手がびくっとなり、思わず振り返った。誰もいない。あいかわらずの`静寂・・・この狭い堂の中には私しかいない。それはたしかだ。何もない。気のせい?いや 声が大きすぎる。床をたたいて足をどんどんしてみる・・・・なにも鳴らない。気のせい。私は気を取り直して、手を合わせめをつぶったとたん。
ひとのあつまるこうめいなてらからさんじゅうさんたいのぶったいをあつめなさい。 そうすればあっかするくるしみから救われるだろう。
そんなことをすれば信者の人に迷惑でしょ
ほとけはひとのこころのなかにあるもの。だからあんしんしてあつめなさい。
声が大きすぎる!
私は扉を飛び出し裏に回った。ラジカセなど何もない。戻ると階段の下の方から女性に案内されて、若いカップルが階段を上ってくるのが見えた。私は堂にふたたび入り、聖堂内の右脇に寄り、彼らが上がってくるのを待った。
・・・・・・上品なお顔立ちは東洋のミロのビーナスとも言われ・・・・・日本で最初の国宝に指定され・・・どうぞごゆっくり拝んで行ってください。」
上品そうな中年女性が解説し、それが終わる声が間近で聞こえ、そしてカップルが入ってきた。
「どないしてこんな仏像こんな狭い部屋に入れたんやろ。」「すごい。」そのあと、ふたりとも日本人の多くがするように手を2回たたき、目をつぶり、しばし何かを祈っている。
とにかく何も起きない。
私はふたたびひとりになるのを逃げた。彼らと一緒に扉の外に出た。風がきちんと吹いている。遠くに三輪山が見えた。
私はその日のうちに、また東京に帰った。仕事に戻るため。返せない!
「ふっ」こんなに参拝客が多いのにどうやって仏像を集めろっていうんだ。何やっているんだろう私は。
会社の近くの新井薬師の境内の脇へ車を止め、そんな考えが浮かんだ私という人間に呆れた。
`人の集まる高名なお寺から三十三体の仏体を集めなさい。そうすれば・・・・・
あれから東京に帰り、既に10日が過ぎていた。顔は見えなくなり代わりに変な`あの声が私にこびりついた。
東京に帰ったとたん、取材の申し込みが殺到し始めた、新聞社、テレビ、雑誌。保険会社に格上げする話ではない。先月末、あの十一面観音像を見つけた日。ジュンク堂で媒体を探し、「ネールプリンター」というものの新製品をリリースした結果だった。海華は日本側との対応は上手くできない。自然、私が受け持つことになる。
「わたしは何をやっているのでろう。」目くらましで始めたはずの業務に振り回されることになるなんて。
取材中もわたしの携帯には従業員から指示を仰ぐメールがひっきりなしに届く。保険業法改正の4月1日まであと5カ月。こまかい事務のミスも契約者からのクレームも許されない。社員はどんな細かいことも私に聞いてきたし、私も保険会社格上げまではそうするよう指導した。全員がなんとしても保険会社になる意気込みで、都市銀行にも負けないセンシティブでコンプライアンスを重視した顧客対応に徹していた。主婦、元左官、リストラでこの会社にたどり着いた中年営業マン、どんな人も保険会社の社員になれるかもしれないという夢を抱いて一生懸命だった。
保険会社化準備を進めれば進めるほどあらわになる強烈なオーナーの私有意識、強まる業務縮小への圧力、嫌がらせの中、そういう彼らを見るのが辛かった。私が半年前からこういう事態の時の相談のために毎月10万円づつ顧問料を支払ってきた弁護士事務所は紛争に巻き込まれるのを懸念して、相談に乗ってくれないばかりか、本件では相談しないよう念書を出すよう指示され、1日付で念書を提出していた。ではなんのために妻は生活費から10万円の顧問料を振り込んできたんだろう?
防御機能がない。どうすればいいんだろう。何をもがいているんだろう。私はどうなってもいい。なんとしても保険会社にだけは。その思いだけが強くなっていった。今日、11月10日は午後3時から日本印刷新聞社というところの取材で、私は午前中に従業員に一通りの指示を出し、書類に目を通してきたので余裕をもって取材を受けることができた。新聞記者に「特集を組むので社長さんの経歴と業界についての意見をまとめて送ってください。」と言われた。私は損保マンだ!ネールのことなんか何も分からない。(私はいったい何をしているんだ。)
こんなことがはたして本当に保険会社設立に結びつくのだろうか。私は空しくなった。また携帯のメールが鳴っている。私は急に鬱々として気持ちが強くなり、先日、医師に「一緒に服用してはいけません。」と言われていたハルシオン2錠を缶ビールで飲み込んだ。
車に乗って初めての体験だった。落ちていく心をいったん平常にして、しばらく休んでから帰ろうと思った。が、寝れない。気分はますます沈む。今日は特に落ち込みがひどい。堕ちる・・・・。手をつっ込むと、ズボンのポケットにマイスリーが2錠とパキシル数錠が残っていた。私はふたたび自販機に行き、ビールでマイスリーとパキシルを流し込んだ。これで、すこし寝れば気持も落ち着くはず。私はシートに沈み静かに目をつぶった。
・
・・
・・・
・・・・
・・・・・
・・・・
・・・
・
・
・
~ん
起きた。後部座席に何か積んだある。「あっ仏像だ!」私は頭を上にぶつけそうになった。
「なんで?どうして?」
折り重なるように2体置いてある。いつの間にかも回りは真っ暗になっていた。あの人ごみはどこに行ってしまったのだろう。柵が開かない。扉が開かない。どうすればいいのだろう。
動悸がすごい。どきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどき
私は分かっていた。私が取っただろうことを。
どきどきどきどきどきどきどきどき
返せない。こんな地べたや街道に仏像を置けば、いたずらされるか壊されるのが落ちである。お寺の中に置いてあるから゛仏像に見えるのだ。道にあったら一見ただの木のかたまりだ。どこか近くの交番に行って「すいません。仏像が車に・・・」と言おうか。いや危険だ。信じてもらえまい。第一お酒を飲んでしまっている。飲酒運転を疑われる。ひどい頭痛がしてきた。
「・・・・・とりあえず明日考えよう。」先送り思考が誘惑し、私はなんとなく積んだまま、走り始めてしまった。まさか埼玉の家に「仏像」を持って帰る訳にはいかなかった。たまたま先月より、四谷ビルの2階の住人が出たとの話を聞いていた。この偶然 私は神様に感謝した。私は日光菩薩・月光菩薩(半年のちに知った)を後部座席に乗せながら新宿西口の高層ビル街を抜け、タクシーが固まっている歌舞伎町前の新宿通りを皇居に向かって走った。夜間 仏像を後ろに乗せて都内を走る なんとも薄気味悪かった。やっと東京三菱UFJ銀行四谷支店の大きな看板が見えた。そこを曲がれば私の小さなビルだ。一階の居酒屋はお客さんはいなかった。私はその晩、2階に、仏像を一泊させることに決めた。
大家としての独断だった。わずか3カ月後。そのビルは世間から`仏像小屋と呼ばれるようになる。
会社の近くの新井薬師の境内の脇へ車を止め、そんな考えが浮かんだ私という人間に呆れた。
`人の集まる高名なお寺から三十三体の仏体を集めなさい。そうすれば・・・・・
あれから東京に帰り、既に10日が過ぎていた。顔は見えなくなり代わりに変な`あの声が私にこびりついた。
東京に帰ったとたん、取材の申し込みが殺到し始めた、新聞社、テレビ、雑誌。保険会社に格上げする話ではない。先月末、あの十一面観音像を見つけた日。ジュンク堂で媒体を探し、「ネールプリンター」というものの新製品をリリースした結果だった。海華は日本側との対応は上手くできない。自然、私が受け持つことになる。
「わたしは何をやっているのでろう。」目くらましで始めたはずの業務に振り回されることになるなんて。
取材中もわたしの携帯には従業員から指示を仰ぐメールがひっきりなしに届く。保険業法改正の4月1日まであと5カ月。こまかい事務のミスも契約者からのクレームも許されない。社員はどんな細かいことも私に聞いてきたし、私も保険会社格上げまではそうするよう指導した。全員がなんとしても保険会社になる意気込みで、都市銀行にも負けないセンシティブでコンプライアンスを重視した顧客対応に徹していた。主婦、元左官、リストラでこの会社にたどり着いた中年営業マン、どんな人も保険会社の社員になれるかもしれないという夢を抱いて一生懸命だった。

保険会社化準備を進めれば進めるほどあらわになる強烈なオーナーの私有意識、強まる業務縮小への圧力、嫌がらせの中、そういう彼らを見るのが辛かった。私が半年前からこういう事態の時の相談のために毎月10万円づつ顧問料を支払ってきた弁護士事務所は紛争に巻き込まれるのを懸念して、相談に乗ってくれないばかりか、本件では相談しないよう念書を出すよう指示され、1日付で念書を提出していた。ではなんのために妻は生活費から10万円の顧問料を振り込んできたんだろう?

防御機能がない。どうすればいいんだろう。何をもがいているんだろう。私はどうなってもいい。なんとしても保険会社にだけは。その思いだけが強くなっていった。今日、11月10日は午後3時から日本印刷新聞社というところの取材で、私は午前中に従業員に一通りの指示を出し、書類に目を通してきたので余裕をもって取材を受けることができた。新聞記者に「特集を組むので社長さんの経歴と業界についての意見をまとめて送ってください。」と言われた。私は損保マンだ!ネールのことなんか何も分からない。(私はいったい何をしているんだ。)

こんなことがはたして本当に保険会社設立に結びつくのだろうか。私は空しくなった。また携帯のメールが鳴っている。私は急に鬱々として気持ちが強くなり、先日、医師に「一緒に服用してはいけません。」と言われていたハルシオン2錠を缶ビールで飲み込んだ。
車に乗って初めての体験だった。落ちていく心をいったん平常にして、しばらく休んでから帰ろうと思った。が、寝れない。気分はますます沈む。今日は特に落ち込みがひどい。堕ちる・・・・。手をつっ込むと、ズボンのポケットにマイスリーが2錠とパキシル数錠が残っていた。私はふたたび自販機に行き、ビールでマイスリーとパキシルを流し込んだ。これで、すこし寝れば気持も落ち着くはず。私はシートに沈み静かに目をつぶった。・
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~ん
起きた。後部座席に何か積んだある。「あっ仏像だ!」私は頭を上にぶつけそうになった。
「なんで?どうして?」
折り重なるように2体置いてある。いつの間にかも回りは真っ暗になっていた。あの人ごみはどこに行ってしまったのだろう。柵が開かない。扉が開かない。どうすればいいのだろう。
動悸がすごい。どきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどきどき
私は分かっていた。私が取っただろうことを。
どきどきどきどきどきどきどきどき
返せない。こんな地べたや街道に仏像を置けば、いたずらされるか壊されるのが落ちである。お寺の中に置いてあるから゛仏像に見えるのだ。道にあったら一見ただの木のかたまりだ。どこか近くの交番に行って「すいません。仏像が車に・・・」と言おうか。いや危険だ。信じてもらえまい。第一お酒を飲んでしまっている。飲酒運転を疑われる。ひどい頭痛がしてきた。
「・・・・・とりあえず明日考えよう。」先送り思考が誘惑し、私はなんとなく積んだまま、走り始めてしまった。まさか埼玉の家に「仏像」を持って帰る訳にはいかなかった。たまたま先月より、四谷ビルの2階の住人が出たとの話を聞いていた。この偶然 私は神様に感謝した。私は日光菩薩・月光菩薩(半年のちに知った)を後部座席に乗せながら新宿西口の高層ビル街を抜け、タクシーが固まっている歌舞伎町前の新宿通りを皇居に向かって走った。夜間 仏像を後ろに乗せて都内を走る なんとも薄気味悪かった。やっと東京三菱UFJ銀行四谷支店の大きな看板が見えた。そこを曲がれば私の小さなビルだ。一階の居酒屋はお客さんはいなかった。私はその晩、2階に、仏像を一泊させることに決めた。
大家としての独断だった。わずか3カ月後。そのビルは世間から`仏像小屋と呼ばれるようになる。