最強の睡眠薬
私はいつの間にか6つの心療内科やメンタルクリニックにかけ持ちで通うようになっていた。好きだったのは霞ヶ関近くのビジネスビルの9Fにあるメンタルクリニックだった。まだ出来てあまり年月が経っていないのか、患者は少なく場所がら夜間まで診療していた。医師も同じ年齢ぐらいで話しやすく私はここで唯一患者らしく若干医師との話に時間を割いていた。しかしオーナーとの確執やネイル事業による目くらましと保険会社設立という本心までは話さず、単にいろいろ雑用で忙しいと世間話に終始した。そして処方される薬を昼飲んでいることも話せていなかった。
平成17年11月15日夜間 私はここを訪れた。
「あいかわらず貧乏ゆすりがひどくて、気が付くと足が震えています。注意しているつもりでも周りからも言われます。・・・それから、睡眠がやはりいまひとつで何度も目が覚めてしまいます。以前よりさらに周期がみじかくなっています。」
「う~ん。どうしようかな・・最近、新しい睡眠薬が入ったんだけど使ってみる?」
「ハイ 飲んでみます。なんていう薬ですか。」
「 ベゲタミン 」
「べゲタミン?」
「そう。ベゲタミン。ただ翌日も残るようだったらやめてね。」
のちに刑務所に入って知ったが、ベゲタミンとは’最強の睡眠薬’といわれる睡眠導入剤だった。
11月15日。
それは私が浅草寺を襲撃する3日前だった。
平成17年11月15日夜間 私はここを訪れた。
「あいかわらず貧乏ゆすりがひどくて、気が付くと足が震えています。注意しているつもりでも周りからも言われます。・・・それから、睡眠がやはりいまひとつで何度も目が覚めてしまいます。以前よりさらに周期がみじかくなっています。」
「う~ん。どうしようかな・・最近、新しい睡眠薬が入ったんだけど使ってみる?」
「ハイ 飲んでみます。なんていう薬ですか。」
「 ベゲタミン 」
「べゲタミン?」
「そう。ベゲタミン。ただ翌日も残るようだったらやめてね。」
のちに刑務所に入って知ったが、ベゲタミンとは’最強の睡眠薬’といわれる睡眠導入剤だった。
11月15日。
それは私が浅草寺を襲撃する3日前だった。浅草観音
私を正気が戻った瞬間が橘寺で薬師如来像が祭壇から落ちた瞬間であったとしたら、私が狂気の側に堕ちた瞬間はいつだったろう。警察が全国の宗教協会に問い合わせてすら、そのお寺は唯一、被害を名乗り出なかった。私と刑事さんたちが事件から6カ月経った8月に東京に現場検証に行き、見つけ出し、届けに行くまでその仏像は無くなったことすら誰にも気付かれていなかった。
本覚寺 釈迦如来坐像。
この仏像との出会いこそが私に聖林寺の`あの声を確信せしめ、この直後、浅草寺本堂に乱入せしめ、白昼堂々と都内の仏像が消えるきっかけとなった。あるいは私は`声を信じるきっかけを無意識のうちに求めていたのかもしれない。11月10日の新井薬師での出来事以来、私は四谷のビルの2Fにあるだろう仏像のことが気になっていないわけではなかった。気になって仕方なかった。(どうやって返そう)昼休み 私はあいかわらず食事もとらず、常務室のソファに横になりティシュの箱を枕に、額に冷えピタを張ってまどろみながら、書類にあわただしく目を通していた。珍しく、男子ばりに働く明るい子で、いつもお茶を運んでなんかこない女子社員が役員室におぼんを持って入ってきた。彼女はお茶を差し出しながら言った。
「常務いろいろあるでしょうけど、頑張ってください!」
しばらくして、今度は課長以下何人かがどっと役員室に入ってきた。私はあわてて姿勢を正した。私と歳が近い課長が先頭を切った。
「今、常務に倒れられたら俺たちどうすりゃいいんですか。」
「私たちはみんな常務にどこまでもついて行きます。なあ。」「もちろん。」
私はだれの目にも憔悴して見えるのだろう。みんな真剣だった。既に保険加入者7千名超を抱え、小規模保険会社への申請準備を正に行っているこの団体は、実は私以外は素人の集団だった。素人が素朴な疑問を私にぶつけ、損保のプロの私がそれに真面目に答えて、それを繰り返して行くうちに、高齢である加入者にとっても、どこよりもわかりやすく、それでいて精密な保険制度が出来上がった。
そしてその頭脳は私ひとりだ。たしかに今、私に万一のことがあれば保険会社化は水疱に帰す。しかし、その犠牲を払ってでもオーナーは財務内容の公開に否定的だった。みなもそのことを感じているのだろう。私は目頭が熱くなった。
「大丈夫。みんなが頑張ってくれてるから。必ず保険会社になれる。僕への心配はいらない。ちょっと最近、寝不足だっただけだから。少しこうしていたら治るから。さあ。さあ。」
「常務。本当にお食事召し上がらないんですか。私のお弁当食べてください。」
「いいよ(笑) 〇〇さん。それよりまた加入者さんからお礼の電話もらえるように頑張って。」
私には宝物があった。
ガラスの写真立てに挟んだ、一枚のメモ
〇〇町の〇〇さんより 軍手ありがとうございました。と涙で電話がありました。
わたしも涙が出ました よかったですね 常務 〇〇
新潟中越沖地震が発生したとき、私はただちに保険事務局のスタッフを夜間招集した。冬だった。被災地にいる加入者全員をすぐに調べ、封筒を作り、お見舞状を書き、軍手を同封し発送した。
突貫作業だった。通常佐川便が行かないところはバイク便を使って、避難先の小学校にも届けてもらった。そのほかにもスタッフのアイデアで、無いと困るであろうものを、翌日も順次配達した。トラウマだった。
阪神大震災直後の御影地区の住宅街の割れた道路にひとりひざをつき、私は10年間なんておろかな損保マンであっただろうと啼いた。自分は損保マンでなかったのだと啼いた。救援物資は足りすぎているのかもしれない。しかし、便りはなによりの救援物資のはずだ。軍手は二の次なのだ。言葉を届けろ!。
`私たちが付いていますから大丈夫というメッセージ‘こそが損保会社として最も大切な事とだと信じた。
自分のために誰かがいてくれるという安心感。それが損害保険だ。この写真立ては私のこの職場での心の支えになった。オーナーとの確執が強くなり、私はひとり夜間にこの写真立てを見つめることが多くなった。
今、全員が役員室から出たあと私はふたたび、写真立てを手に取った。
「必ず理想の保険会社を作る。この良心的な彼らを保険会社の社員にする。どんなことをしても・・」
社員達の熱い思いを感じる。万難を排して保険会社化する覚悟はもちろんあるが、私の身体が限界が近付いているのも確かだ。あのお告げは本当なのだろうか。仏の声なのだろうか。本当の声であれば・・もし本当なら・・・・・・助かる・・・・・・。私は仏像を返す気が「とりあえず」と遠のき始めた。かぶりを振って考えないようにし始めた。
あの日 11月18日は中国メーカーと総代理店契約を締結した新型ネールプリンター`マイカラーネ-ル`の商品発表
と代理店募集の説明会を渋谷マークシティビル22F大会議室で行う予定だった。
私はそもそも保険会社設立のための隠れ蓑としてこの副業を手伝い関わっているだけだったので、手間もお金もかけず一挙に販売を軌道に乗せかった。そのために説明会をプレスリリースに乗じて広告したのだ。慣れないネールの説明をするため、原稿を作った。しかし原稿は不要になった。応募者は定員をはるかにオーバーした。マークシティビルの会議室では収容しきれなくなった。私は応募者ひとりひとりに延期のお詫びの連絡を入れた。私は若い女性ばかりを予想していた。ところが違った。
「ぜひ何かやってみたいんです。」いう20代後半の男性。「子供がいるんですが手がかからなくなったので働きたいんです。」という40代の女性。会社から独立しようと思っているサラリーマン。これはまさに損害保険の研修生あるいはセールスレディーとして入社希望してくる人たちと全く同種の人たちではないか。私はひらめいた。損害保険の代理店制度を準用して、販売すればネールプリンターも売れる!保険というのは形のない商品である。空気を売っているようなものである。誰でも十分間に合っている。親戚ですら断られる。生保に「断られてからがはじまり」と言う言葉があるほど保険というのは売りにくい商品だった。その売りにくい保険という商品。大手保険会社ほどセールスの外交員やセールスレディーに巧みに`売れない商品を何年も販売させ続けるシステムを構築している業界はほかにあるまい。資格・アドバイザー・教育係・独立・開業・代理店会 入社からその所属期間に応じてあらゆるステップが本人の向上心を満足させ、次への希望が用意されていた。しかし、それを超えていくには一定のノルマ販売消化し続けなければならなかった。他の業界も似たり寄ったりのノルマ制度はあるだろうが、保険業界の研修制度ほど露骨でなくしかし、巧みで、月単位で細かく規定されているノルマ制度はなかった。コンプライアンスという殻をかぶせたネズミ講のよう。東大や一流大学を出たエリートが如何に自分たちが直接販売せずに研修社員やセールスレディーにその気にさせて保険を売らせるかだけをエアコンの利いたデスクの上で一年中考え、仕組みを作っているのだから良い制度のはずであった。私は損保会社の中にいてこの制度がとても嫌いであった。社外からの年長者が多い`研修生に上司ずらしてもっともらしい訓話をしてハッパをかけ、結局 本音は予算消化のために保険を親戚・縁者にコネで売ってきてほしいだけなのだ。私は損害保険というものを馬鹿にしているとずっと思っていた。私はひとりで新しい仕組みを作り、保険と関係のない人々に保険を売ってもらおうと努めてきた。
しかし、私はこの「保険代理店制度」をネール機械販売にあえて準用しようと思った。ネールプリンターは保険と違い、新しい商品であるためセールスマンにステップ販売を課しても保険のようなノルマ達成営業には陥らず、応募者がうまく起業できると考えたのだ。
この日は説明会のため午後不在する旨、従業員達にあらかじめ連絡していた。念入りにその日の行動を指示し、携帯をマナーにしていた。私は管轄である損害保険ジャパン上野支店に行き「代理店委託契約」関連の書類をもらった。
「どうしたんですか。常務。自らいらっしゃるとは。ところで。本当のところどうですか。保険会社化はできそうなんですか。」私の部下だった駅前留学NOBAオタクの課長代理が退屈な仕事から抜けるいい話相手がやってきたとばかりに、応接室に入ってきた。
「常務なんて呼び方じゃなくて、前のようにくまさんでいいよ。保険会社化はここまで来たらには必ずやる。従業員たちも頑張っているし。それから〇〇君。例のグランマ・モーゼス財団の件。協力してくれてありがとう。」
「ほかならぬくまさんの頼みじゃしょうがないからやりましたよ。美術財団への金銭フォロー頼みますよ。」
私は100歳を超える長寿をして、晩年から絵を描き始めたアメリカ女性画家グランマ・モーゼスをどうしても、あたらしい保険会社のイメージにしたかった。(イメージガールは厚生省の再生医療のイメージキャラクターになっていて清潔感のある関西の女優 いとうまいこ事務所に直接依頼して保険会社の主旨に賛同し快諾を得ていた。)
`100歳を超えても入れます`こそはこの新しい保険会社のキャチフレーズ。結局、男性は先に逝ってしまう。婚姻年齢差の大きい日本では特にそうだ。高齢者のための保険会社は=長生きする女性のための保険会社ということができた。グランマ・モーゼスはアメリカを代表する人気画家であり、他界してしまっていて絵画や肖像を使用する権利が複雑だった。私は新宿本社の東郷青児美術館の担当者に話しをし、可能であることを確認し、営業店を通じてアメリカの財団に肖像許可を打診していたのだ。肖像使用料は私が出した。絵は私の半生でもあるのだから・・・・・
そのあと、また身体がだるくなり、損保ジャパン上野支店の近くのインターネット喫茶でソファに沈み、まどろみ、そのまま上野に待機した。本日のネールプリンター説明会延期の連絡を入れたにもかかわらず、間違って渋谷説明会の会場来る人がいないかどうか心配だったからだ。説明会の予定は13:00からだった。14:00まで待機して会場を管理する秘書会社から連絡が来なければもう大丈夫だろう・・・・
「電車に乗ってしまうと移動している間、携帯を使用できないから渋谷との連絡が取れないのが怖い。」というのがそのまま上野に留まる自分の理由だった。しかし私を上野に待機させている気持ちはもうひとつあった。無意識の気持ち・・・・。上野は浅草が近い・・。新井薬師の仏像を取ってしまってからのこの一週間・・・・。不思議なことにそれまでの周期的に襲ってくる絶望感、希死感に悩まされることがなかった。
抗うつ剤や睡眠剤の日中量も一定で平静を保てたし、通院数が増えるということもなかった。社員とも一層きずなが強くなっている。仏像を取って隠してしまった翌日。理事が珍しく私に声をかけてきた。理事というのは団体に5名ほどいる監査役の参与5名ほどを率いており、オーナーとの関係は30年近かった。だからこの団体で監査とは名ばかりだった。
「常務。オーナーは無茶ばかりを言っているようですが、心の底では常務を最も必要としているのです。今は耐える時です。どうか我慢してください。」
理事がこんなことを自分から声をかけてくるのは、何らかのオーナーの指示以外考えられなかった。私は風向きの変化を始めて感じた。仏像を集め始めたからなのか?
それとも偶然?単なる気のせいなのだろうか?
`たしかめたい という無意識の何かが、私を上野にどどまらせていた。今週のこの体調ならば、なんとか半年後の保険業法改正まで身体が持つだろう。精神科やメンタルクリニックへの通院ももう今が限界数だった。これ以上増やせない。もし、仏像を取る前のようにふたたび体調が悪化したら・・・・・・・
とりあえず私は仏に対してポーズだけは取るべきだろう。
それが無難だ。「怒り」を買いたくない。私は新井薬師寺以外で`ひとのあつまるこうめいなてら`は東京で゛浅草寺しか知らなかった。だからほど近い、この上野から身体が離れなかったのだ。
(お参りだけでも行ってみよう)
14:00が過ぎた。アクシデントの連絡はなかった。
抗うつ剤とハルシオンのまどろみ、明かりを落としたインターネット喫茶のソファから身を起こし、私は上野駅前を抜け、浅草寺へと車を走らせた。境内へ入り、本堂境内内の浅草寺交番横の駐車スペースに車を止めた。
境内内はひとで溢れかえっていた。
`人の集まる高名な寺`
あの声にここほど合致する寺は日本中にここしかないだろう。私は何かをかつて子供の時、巡礼を始めたときそうしたように受付所で「納経帳」を買った。
それは何かの覚悟だったのだろうか。お告げを実行するには私はまだ`正気過ぎた。8日前・・・・酒とハルシオンとマイスリーとパキシルを同時に大量に服用し・・・仏像は車の中にあった。
そして翌日から私の周囲の環境はたしかに変わった。
(お参りだけ。声を無視していると`思われて`暗転されたくない。身体が保険業法改正まで保つよう`お参りするだけだ。・・・でも)
とりあえず、あのときと、同じ状況を作り出してみたらどうなるだろう・・・・あの日、何が起きたのだ?
私のいる境内に付近に自動販売機は見当たらなかった。
雑踏をかき分け、仲見世通りの方に出ると定食屋があった。店に入り席に着くとメニューにビールを見つけた。うどんを注文し、しばらくして持ってきてくれたビールでハルシオン2錠とマイスリー2錠を飲み干すと、うどんには手を着けずに店を出た。私は保険業法施行が近付くにつれこの数か月ほとんど日中は自ら食事を取ることがなくなっていた。日中食べるのは抗うつ剤と睡眠薬、そして身体を冷やすアイスクリームだけだった。
まだ薬は効いてこない・・・・・。「そうだ!とりあえずお供え物を何か買おう。さっき本堂で日本酒の2本組みが供えてあった。あれがいい。」私は酒屋を探して、仲見世通りを右に折れ、ひたすら歩きはじめた。歩く。歩く。
・・・頭がボーっとしてくる。
とりあえず日本酒だけは買わなければ・・・・
・・・・・・・
私は歩き続けた。私は既に浅草寺をかなりはずれ、カッパ橋通りを超え、住宅街の中にいた。

前方にこんもりした茂みが見えた。読経が近づいてくる。早いテンポの力強い読経だった。
jhan nom zhon kra jhon nom ~ Poku! Poku! noon Kra
saka ~ yooon zhara noom jhon nom ~ Poku! Poku!
黄色い鮮やかな袈裟姿の僧侶の見えた。
一心不乱にお経をあげつづけている。その左横の祭壇に仏像があった。
「もし聖林寺の`あの声‘が真実なら今、この僧侶の横を通り、仏像を取っても咎められないはずだ。」
どっく どっく どっくどっくどくどくどく
私は僧の真横を通り、仏像に向かい、祭壇に安置されている仏像(釈迦如来像)を抱えあげた。
「咎められない!」
「`声`は本物だ。私は護られている。」
ハア ハア ハア ハア
「始まった!こうなったら集めるしかない。」
`三十三 仏体数? 寺数?
一寺2体までなら、「33」が寺数の意味で解釈を間違っていたとしても3月31日までに間に合う!集められる!ハア ハア ハア ハア 私は境内を歩きまわり、もう一体の仏像を祠から取った。
(3カ月後、2体目祠から取っていたのは`仏像ではなく、刑事さんに言わせると「後ろから見ると△で仏像に見えなくもない木製の台座にさされていたただの銅鏡」だったことを知る。)
私は、ふらふらと茂みから住宅街に這い出た。私は仏像をふたつ胸に抱いたままカッパ橋を戻っていた。
・・・・重い・・・・もう歩けない・・・・カッパ橋通りは東京の道具屋街と言われ、厨房道具からのれんまで飲食業を始めるのに必要なものが何でも揃う、古くからの専門店街だった。
私は一軒に飛び込み仏像を載せるための台車を購入した。仏像を載せ、台車を押して東京の下町をさまよう。
・・・・・・浅草寺はどこ?゛゛゛゛゛
もう駄目だ。パワーが足りない・・・・。私は昨日初めて処方された`最強の睡眠剤`と言われた`ベゲタミンを口に入れた。私は大通りを歩き、タクシーに手を上げた「浅草寺の境内までお願いします。」仏像と台車はトランクに積まれた・・・
(あっ 日本酒)
私は乗ってから、もともと゛酒屋を探していたこと゛を思い出した。タクシーは戻る 酒屋は見つからない・・・・。何か`お供え物`になるものは?。それは浅草寺の正面で見つかった。雷おこし本舗!
「運転手さん。ここでいいです。」
私は台車に仏像を再び載せ、雷おこしを5箱買い、それも台車に乗せた。仏像2体と雷おこし5箱・・・・通りを渡り・・台車を押しながら浅草寺の境内の中へ入って行った・・・・・。
境内に入ると私の車が見えた。私はハッチバック式のデミオを開け仏像をシートにふたつ乗せた。両手いっぱいに木屑やほこりが付いている。
「何かくるむものは?」
スイミング道具が載せてあるビニールシートをはがし取った。そしてふたたび台車を押し、本堂へ向かった。本堂の柱に台車を建てかけ、石段を登り本堂へ入った。多くのお供えものが見えた。私はそこに持参した雷おこしを加えた。
「祭壇はどこだ!」
私は本堂内をさまよった。ぐるぐる回った。頭がボーっとする。何も見えなくなりそうだった。多くの人が見える。人、人、人。お告げの通りだ。
「祭壇だ!あそこに仏像があるはず。」
私は黒漆に彩られた祭壇を上り・・・・・木の柵に阻まれた。仏像っ どこだ?私はふたたび本堂の床に降り立ち、堂内を回る。なんと仏像は`そこにあった。その頭上、1.5mちかい奥まった祠の中。私がさっき雷おこしを置いたまさにその場所・・・。`お供え物を見上げるとそこに仏像はあった。
浅草寺正観音像。
本堂の祭壇と背中合わせ。祭壇は南を向き、この仏像は北を守るように安置されていた。
(これこそが実質、秘仏を開帳していない浅草寺本堂の観音仏。「裏観音」と通称呼ばれていたことを、私はのちに知った。)
私は観音さまを抱いて、そのまま本堂をかけ降り、車の後部座席に寝かせた。それはハリウッド映画で見る女性をベットに運んで寝かせるのにように優しくゆっくりと。私にはもう車を運転する力は残っていなかった。
境内を出た道路脇に車を止め、そのまま、溜めていた眠りに一気に堕ちた。目覚めたのは夜中だった。昼間あれほどにぎやかだった境内付近とはまるで異なる闇があたりを包んでいた。私はもう、新井薬師の時のように仏像を返そうとは思わなかった。四谷まで走ると居酒屋はまだ開いていた。私はせまい階段を上り3体の仏像を2階の部屋に置いた。
(5体揃った。揃ってしまった。)
ちらりと新井薬師の日光・月光菩薩が見えて私は目をそむけ、急いで階段を降りた。私はこの2日後、交通事故に遭い、レスキューに救出されることとなる。まさに`浅草寺の`仏罰が下ったのか!?
しかしそれも聖林寺のあの十一面観音に導かれる次の宿命(さだめ)の始まりに過ぎなかった。
本覚寺 釈迦如来坐像。
この仏像との出会いこそが私に聖林寺の`あの声を確信せしめ、この直後、浅草寺本堂に乱入せしめ、白昼堂々と都内の仏像が消えるきっかけとなった。あるいは私は`声を信じるきっかけを無意識のうちに求めていたのかもしれない。11月10日の新井薬師での出来事以来、私は四谷のビルの2Fにあるだろう仏像のことが気になっていないわけではなかった。気になって仕方なかった。(どうやって返そう)昼休み 私はあいかわらず食事もとらず、常務室のソファに横になりティシュの箱を枕に、額に冷えピタを張ってまどろみながら、書類にあわただしく目を通していた。珍しく、男子ばりに働く明るい子で、いつもお茶を運んでなんかこない女子社員が役員室におぼんを持って入ってきた。彼女はお茶を差し出しながら言った。
「常務いろいろあるでしょうけど、頑張ってください!」
しばらくして、今度は課長以下何人かがどっと役員室に入ってきた。私はあわてて姿勢を正した。私と歳が近い課長が先頭を切った。
「今、常務に倒れられたら俺たちどうすりゃいいんですか。」
「私たちはみんな常務にどこまでもついて行きます。なあ。」「もちろん。」
私はだれの目にも憔悴して見えるのだろう。みんな真剣だった。既に保険加入者7千名超を抱え、小規模保険会社への申請準備を正に行っているこの団体は、実は私以外は素人の集団だった。素人が素朴な疑問を私にぶつけ、損保のプロの私がそれに真面目に答えて、それを繰り返して行くうちに、高齢である加入者にとっても、どこよりもわかりやすく、それでいて精密な保険制度が出来上がった。
そしてその頭脳は私ひとりだ。たしかに今、私に万一のことがあれば保険会社化は水疱に帰す。しかし、その犠牲を払ってでもオーナーは財務内容の公開に否定的だった。みなもそのことを感じているのだろう。私は目頭が熱くなった。
「大丈夫。みんなが頑張ってくれてるから。必ず保険会社になれる。僕への心配はいらない。ちょっと最近、寝不足だっただけだから。少しこうしていたら治るから。さあ。さあ。」
「常務。本当にお食事召し上がらないんですか。私のお弁当食べてください。」
「いいよ(笑) 〇〇さん。それよりまた加入者さんからお礼の電話もらえるように頑張って。」
私には宝物があった。
ガラスの写真立てに挟んだ、一枚のメモ
〇〇町の〇〇さんより 軍手ありがとうございました。と涙で電話がありました。
わたしも涙が出ました よかったですね 常務 〇〇
新潟中越沖地震が発生したとき、私はただちに保険事務局のスタッフを夜間招集した。冬だった。被災地にいる加入者全員をすぐに調べ、封筒を作り、お見舞状を書き、軍手を同封し発送した。
突貫作業だった。通常佐川便が行かないところはバイク便を使って、避難先の小学校にも届けてもらった。そのほかにもスタッフのアイデアで、無いと困るであろうものを、翌日も順次配達した。トラウマだった。
阪神大震災直後の御影地区の住宅街の割れた道路にひとりひざをつき、私は10年間なんておろかな損保マンであっただろうと啼いた。自分は損保マンでなかったのだと啼いた。救援物資は足りすぎているのかもしれない。しかし、便りはなによりの救援物資のはずだ。軍手は二の次なのだ。言葉を届けろ!。
`私たちが付いていますから大丈夫というメッセージ‘こそが損保会社として最も大切な事とだと信じた。
自分のために誰かがいてくれるという安心感。それが損害保険だ。この写真立ては私のこの職場での心の支えになった。オーナーとの確執が強くなり、私はひとり夜間にこの写真立てを見つめることが多くなった。
今、全員が役員室から出たあと私はふたたび、写真立てを手に取った。
「必ず理想の保険会社を作る。この良心的な彼らを保険会社の社員にする。どんなことをしても・・」
社員達の熱い思いを感じる。万難を排して保険会社化する覚悟はもちろんあるが、私の身体が限界が近付いているのも確かだ。あのお告げは本当なのだろうか。仏の声なのだろうか。本当の声であれば・・もし本当なら・・・・・・助かる・・・・・・。私は仏像を返す気が「とりあえず」と遠のき始めた。かぶりを振って考えないようにし始めた。
あの日 11月18日は中国メーカーと総代理店契約を締結した新型ネールプリンター`マイカラーネ-ル`の商品発表

と代理店募集の説明会を渋谷マークシティビル22F大会議室で行う予定だった。
私はそもそも保険会社設立のための隠れ蓑としてこの副業を手伝い関わっているだけだったので、手間もお金もかけず一挙に販売を軌道に乗せかった。そのために説明会をプレスリリースに乗じて広告したのだ。慣れないネールの説明をするため、原稿を作った。しかし原稿は不要になった。応募者は定員をはるかにオーバーした。マークシティビルの会議室では収容しきれなくなった。私は応募者ひとりひとりに延期のお詫びの連絡を入れた。私は若い女性ばかりを予想していた。ところが違った。「ぜひ何かやってみたいんです。」いう20代後半の男性。「子供がいるんですが手がかからなくなったので働きたいんです。」という40代の女性。会社から独立しようと思っているサラリーマン。これはまさに損害保険の研修生あるいはセールスレディーとして入社希望してくる人たちと全く同種の人たちではないか。私はひらめいた。損害保険の代理店制度を準用して、販売すればネールプリンターも売れる!保険というのは形のない商品である。空気を売っているようなものである。誰でも十分間に合っている。親戚ですら断られる。生保に「断られてからがはじまり」と言う言葉があるほど保険というのは売りにくい商品だった。その売りにくい保険という商品。大手保険会社ほどセールスの外交員やセールスレディーに巧みに`売れない商品を何年も販売させ続けるシステムを構築している業界はほかにあるまい。資格・アドバイザー・教育係・独立・開業・代理店会 入社からその所属期間に応じてあらゆるステップが本人の向上心を満足させ、次への希望が用意されていた。しかし、それを超えていくには一定のノルマ販売消化し続けなければならなかった。他の業界も似たり寄ったりのノルマ制度はあるだろうが、保険業界の研修制度ほど露骨でなくしかし、巧みで、月単位で細かく規定されているノルマ制度はなかった。コンプライアンスという殻をかぶせたネズミ講のよう。東大や一流大学を出たエリートが如何に自分たちが直接販売せずに研修社員やセールスレディーにその気にさせて保険を売らせるかだけをエアコンの利いたデスクの上で一年中考え、仕組みを作っているのだから良い制度のはずであった。私は損保会社の中にいてこの制度がとても嫌いであった。社外からの年長者が多い`研修生に上司ずらしてもっともらしい訓話をしてハッパをかけ、結局 本音は予算消化のために保険を親戚・縁者にコネで売ってきてほしいだけなのだ。私は損害保険というものを馬鹿にしているとずっと思っていた。私はひとりで新しい仕組みを作り、保険と関係のない人々に保険を売ってもらおうと努めてきた。
しかし、私はこの「保険代理店制度」をネール機械販売にあえて準用しようと思った。ネールプリンターは保険と違い、新しい商品であるためセールスマンにステップ販売を課しても保険のようなノルマ達成営業には陥らず、応募者がうまく起業できると考えたのだ。
この日は説明会のため午後不在する旨、従業員達にあらかじめ連絡していた。念入りにその日の行動を指示し、携帯をマナーにしていた。私は管轄である損害保険ジャパン上野支店に行き「代理店委託契約」関連の書類をもらった。
「どうしたんですか。常務。自らいらっしゃるとは。ところで。本当のところどうですか。保険会社化はできそうなんですか。」私の部下だった駅前留学NOBAオタクの課長代理が退屈な仕事から抜けるいい話相手がやってきたとばかりに、応接室に入ってきた。
「常務なんて呼び方じゃなくて、前のようにくまさんでいいよ。保険会社化はここまで来たらには必ずやる。従業員たちも頑張っているし。それから〇〇君。例のグランマ・モーゼス財団の件。協力してくれてありがとう。」
「ほかならぬくまさんの頼みじゃしょうがないからやりましたよ。美術財団への金銭フォロー頼みますよ。」
私は100歳を超える長寿をして、晩年から絵を描き始めたアメリカ女性画家グランマ・モーゼスをどうしても、あたらしい保険会社のイメージにしたかった。(イメージガールは厚生省の再生医療のイメージキャラクターになっていて清潔感のある関西の女優 いとうまいこ事務所に直接依頼して保険会社の主旨に賛同し快諾を得ていた。)
`100歳を超えても入れます`こそはこの新しい保険会社のキャチフレーズ。結局、男性は先に逝ってしまう。婚姻年齢差の大きい日本では特にそうだ。高齢者のための保険会社は=長生きする女性のための保険会社ということができた。グランマ・モーゼスはアメリカを代表する人気画家であり、他界してしまっていて絵画や肖像を使用する権利が複雑だった。私は新宿本社の東郷青児美術館の担当者に話しをし、可能であることを確認し、営業店を通じてアメリカの財団に肖像許可を打診していたのだ。肖像使用料は私が出した。絵は私の半生でもあるのだから・・・・・
そのあと、また身体がだるくなり、損保ジャパン上野支店の近くのインターネット喫茶でソファに沈み、まどろみ、そのまま上野に待機した。本日のネールプリンター説明会延期の連絡を入れたにもかかわらず、間違って渋谷説明会の会場来る人がいないかどうか心配だったからだ。説明会の予定は13:00からだった。14:00まで待機して会場を管理する秘書会社から連絡が来なければもう大丈夫だろう・・・・「電車に乗ってしまうと移動している間、携帯を使用できないから渋谷との連絡が取れないのが怖い。」というのがそのまま上野に留まる自分の理由だった。しかし私を上野に待機させている気持ちはもうひとつあった。無意識の気持ち・・・・。上野は浅草が近い・・。新井薬師の仏像を取ってしまってからのこの一週間・・・・。不思議なことにそれまでの周期的に襲ってくる絶望感、希死感に悩まされることがなかった。
抗うつ剤や睡眠剤の日中量も一定で平静を保てたし、通院数が増えるということもなかった。社員とも一層きずなが強くなっている。仏像を取って隠してしまった翌日。理事が珍しく私に声をかけてきた。理事というのは団体に5名ほどいる監査役の参与5名ほどを率いており、オーナーとの関係は30年近かった。だからこの団体で監査とは名ばかりだった。
「常務。オーナーは無茶ばかりを言っているようですが、心の底では常務を最も必要としているのです。今は耐える時です。どうか我慢してください。」
理事がこんなことを自分から声をかけてくるのは、何らかのオーナーの指示以外考えられなかった。私は風向きの変化を始めて感じた。仏像を集め始めたからなのか?
それとも偶然?単なる気のせいなのだろうか?
`たしかめたい という無意識の何かが、私を上野にどどまらせていた。今週のこの体調ならば、なんとか半年後の保険業法改正まで身体が持つだろう。精神科やメンタルクリニックへの通院ももう今が限界数だった。これ以上増やせない。もし、仏像を取る前のようにふたたび体調が悪化したら・・・・・・・
とりあえず私は仏に対してポーズだけは取るべきだろう。
それが無難だ。「怒り」を買いたくない。私は新井薬師寺以外で`ひとのあつまるこうめいなてら`は東京で゛浅草寺しか知らなかった。だからほど近い、この上野から身体が離れなかったのだ。
(お参りだけでも行ってみよう)
14:00が過ぎた。アクシデントの連絡はなかった。
抗うつ剤とハルシオンのまどろみ、明かりを落としたインターネット喫茶のソファから身を起こし、私は上野駅前を抜け、浅草寺へと車を走らせた。境内へ入り、本堂境内内の浅草寺交番横の駐車スペースに車を止めた。
境内内はひとで溢れかえっていた。`人の集まる高名な寺`
あの声にここほど合致する寺は日本中にここしかないだろう。私は何かをかつて子供の時、巡礼を始めたときそうしたように受付所で「納経帳」を買った。

それは何かの覚悟だったのだろうか。お告げを実行するには私はまだ`正気過ぎた。8日前・・・・酒とハルシオンとマイスリーとパキシルを同時に大量に服用し・・・仏像は車の中にあった。
そして翌日から私の周囲の環境はたしかに変わった。
(お参りだけ。声を無視していると`思われて`暗転されたくない。身体が保険業法改正まで保つよう`お参りするだけだ。・・・でも)
とりあえず、あのときと、同じ状況を作り出してみたらどうなるだろう・・・・あの日、何が起きたのだ?
私のいる境内に付近に自動販売機は見当たらなかった。

雑踏をかき分け、仲見世通りの方に出ると定食屋があった。店に入り席に着くとメニューにビールを見つけた。うどんを注文し、しばらくして持ってきてくれたビールでハルシオン2錠とマイスリー2錠を飲み干すと、うどんには手を着けずに店を出た。私は保険業法施行が近付くにつれこの数か月ほとんど日中は自ら食事を取ることがなくなっていた。日中食べるのは抗うつ剤と睡眠薬、そして身体を冷やすアイスクリームだけだった。
まだ薬は効いてこない・・・・・。「そうだ!とりあえずお供え物を何か買おう。さっき本堂で日本酒の2本組みが供えてあった。あれがいい。」私は酒屋を探して、仲見世通りを右に折れ、ひたすら歩きはじめた。歩く。歩く。・・・頭がボーっとしてくる。
とりあえず日本酒だけは買わなければ・・・・
・・・・・・・
私は歩き続けた。私は既に浅草寺をかなりはずれ、カッパ橋通りを超え、住宅街の中にいた。

前方にこんもりした茂みが見えた。読経が近づいてくる。早いテンポの力強い読経だった。jhan nom zhon kra jhon nom ~ Poku! Poku! noon Kra
saka ~ yooon zhara noom jhon nom ~ Poku! Poku!
黄色い鮮やかな袈裟姿の僧侶の見えた。

一心不乱にお経をあげつづけている。その左横の祭壇に仏像があった。
「もし聖林寺の`あの声‘が真実なら今、この僧侶の横を通り、仏像を取っても咎められないはずだ。」
どっく どっく どっくどっくどくどくどく
私は僧の真横を通り、仏像に向かい、祭壇に安置されている仏像(釈迦如来像)を抱えあげた。
「咎められない!」

「`声`は本物だ。私は護られている。」
ハア ハア ハア ハア
「始まった!こうなったら集めるしかない。」
`三十三 仏体数? 寺数?
一寺2体までなら、「33」が寺数の意味で解釈を間違っていたとしても3月31日までに間に合う!集められる!ハア ハア ハア ハア 私は境内を歩きまわり、もう一体の仏像を祠から取った。
(3カ月後、2体目祠から取っていたのは`仏像ではなく、刑事さんに言わせると「後ろから見ると△で仏像に見えなくもない木製の台座にさされていたただの銅鏡」だったことを知る。)
私は、ふらふらと茂みから住宅街に這い出た。私は仏像をふたつ胸に抱いたままカッパ橋を戻っていた。
・・・・重い・・・・もう歩けない・・・・カッパ橋通りは東京の道具屋街と言われ、厨房道具からのれんまで飲食業を始めるのに必要なものが何でも揃う、古くからの専門店街だった。

私は一軒に飛び込み仏像を載せるための台車を購入した。仏像を載せ、台車を押して東京の下町をさまよう。・・・・・・浅草寺はどこ?゛゛゛゛゛
もう駄目だ。パワーが足りない・・・・。私は昨日初めて処方された`最強の睡眠剤`と言われた`ベゲタミンを口に入れた。私は大通りを歩き、タクシーに手を上げた「浅草寺の境内までお願いします。」仏像と台車はトランクに積まれた・・・
(あっ 日本酒)
私は乗ってから、もともと゛酒屋を探していたこと゛を思い出した。タクシーは戻る 酒屋は見つからない・・・・。何か`お供え物`になるものは?。それは浅草寺の正面で見つかった。雷おこし本舗!
「運転手さん。ここでいいです。」
私は台車に仏像を再び載せ、雷おこしを5箱買い、それも台車に乗せた。仏像2体と雷おこし5箱・・・・通りを渡り・・台車を押しながら浅草寺の境内の中へ入って行った・・・・・。
境内に入ると私の車が見えた。私はハッチバック式のデミオを開け仏像をシートにふたつ乗せた。両手いっぱいに木屑やほこりが付いている。
「何かくるむものは?」
スイミング道具が載せてあるビニールシートをはがし取った。そしてふたたび台車を押し、本堂へ向かった。本堂の柱に台車を建てかけ、石段を登り本堂へ入った。多くのお供えものが見えた。私はそこに持参した雷おこしを加えた。
「祭壇はどこだ!」
私は本堂内をさまよった。ぐるぐる回った。頭がボーっとする。何も見えなくなりそうだった。多くの人が見える。人、人、人。お告げの通りだ。
「祭壇だ!あそこに仏像があるはず。」

私は黒漆に彩られた祭壇を上り・・・・・木の柵に阻まれた。仏像っ どこだ?私はふたたび本堂の床に降り立ち、堂内を回る。なんと仏像は`そこにあった。その頭上、1.5mちかい奥まった祠の中。私がさっき雷おこしを置いたまさにその場所・・・。`お供え物を見上げるとそこに仏像はあった。
浅草寺正観音像。
本堂の祭壇と背中合わせ。祭壇は南を向き、この仏像は北を守るように安置されていた。
(これこそが実質、秘仏を開帳していない浅草寺本堂の観音仏。「裏観音」と通称呼ばれていたことを、私はのちに知った。)
私は観音さまを抱いて、そのまま本堂をかけ降り、車の後部座席に寝かせた。それはハリウッド映画で見る女性をベットに運んで寝かせるのにように優しくゆっくりと。私にはもう車を運転する力は残っていなかった。
境内を出た道路脇に車を止め、そのまま、溜めていた眠りに一気に堕ちた。目覚めたのは夜中だった。昼間あれほどにぎやかだった境内付近とはまるで異なる闇があたりを包んでいた。私はもう、新井薬師の時のように仏像を返そうとは思わなかった。四谷まで走ると居酒屋はまだ開いていた。私はせまい階段を上り3体の仏像を2階の部屋に置いた。
(5体揃った。揃ってしまった。)
ちらりと新井薬師の日光・月光菩薩が見えて私は目をそむけ、急いで階段を降りた。私はこの2日後、交通事故に遭い、レスキューに救出されることとなる。まさに`浅草寺の`仏罰が下ったのか!?
しかしそれも聖林寺のあの十一面観音に導かれる次の宿命(さだめ)の始まりに過ぎなかった。
奇跡のシートベルト
仏罰なのか?
平成17年11月20日。浅草寺正観音像を本堂よりもち出した翌日の夜半。午前3時。
わたしは環八近くの路肩にいたらしい。
仕事が終わって、なんども仮眠を取りながら家に辿り着こうと家路と`格闘していた。
その日も通勤ルートもはずれ、別の道に迷い込んでいた。
本来、環七を北に上がらなければ家に近づかなかった。
「突然コントロールが利かなくなった。」という若者の車は私の車の後部に激突して大破した。
相手の若者本人は無事だった。
私のマイカー マツダデミオの後部はつぶれ、数十メートル前に押しつぶれ、ずるっーと止まった。
全損事故!
昨日、仏像が乗ったばかりのその後部座席はつぶされた。
私は大量の睡眠薬の効果でシートを倒し寝たままだった。
混沌としたまま救急車が来て、意識がはっきりしないまま車から救出され、スクラッチャーに乗せられ、吉祥寺秀島病院に搬送され、ベットに寝かされ、点滴を受け首周りを固定された。
全身打撲と頚椎捻挫で全治2週間と診断された。1週間は絶対安静といわれた。
しかし私には時間がなかった。
平成18年4月1日 新保険業法施行 保険会社設立。
休んでいる暇はなかった。
携帯で従業員に指示を出し、病院を抜け出し、コルセットをかばんに隠し朝礼を実施し、書類に目を通し、サッとベットに戻ってきた。
浅草寺の観音像を持ち出したとたんの事故。それともあの茂みの中の釈迦如来像?
やはり仏罰?
聖林寺の十一面観音は偽佛なのだろうか。私は幻を聞いたのだろうか。ふたたび希死感が襲い始めた。事故知った一部の社員が見舞いに来た。
「今、常務に何かあったら私達は途方にくれます。事務は大丈夫ですから身体を大切に少しゆっくり休んでください。」
営業部長と事務部門リーダーの女性職員は本当に心配そうにそう言った。
私が今、倒れたら保険会社化は彼らでは無理だろう。
なんとしてもやらなければ・・。荻窪警察に呼ばれて行った。警察官が言った。
「あそこは数週間前にも同じ場所で追突事故が起きてね。追突された運転手はそのままフロントガラスを飛び出し、地下道の階段に転げ落ちて亡くなった。今回の衝突のほうがひどかった。60mもサイドブレーキ痕があった。あんたはシーベルトしていたから命が助かった。」
エクソシスト 身代わりになった神父 悪魔を自らに乗り移らせ石段を落ちた・・。
よぎった。
事故日は私が聖林寺に向かったころのようだ。
私は寒気がした。
「その人間は死ぬはずではなかった。私が死ぬはずだった。」とっさにそう悟った。
私は普段からシートベルが嫌いだった。
胸を圧迫して、少しのことで喘息の発作を誘因させるからだ。
走っているときだけ仕方なく付けた。ましてシートを倒して仮眠するのにシートベルトをすることはあり得なかった。
そして今回も当然していなかった。
・・それだけはたしかな事実・・
・・私はシートベルトを誰かにさせられていた・・
ひとりで乗っていたのに
・・丑三つ時・・また不思議な現実・・・・
私は生かされている。
あの菩薩 十一面に
いや浅草寺・・・・いや・・いったい誰が私を生かしたのだ・・
数日後、病室で携帯がぶるぶる震えた・・。
「残念ですが、お車は全損状態なので直りません。新しい車をご用意させていただきたいのですが・・」保険代理店でもあるマツダ自動車ディーラーのサービスフロントマンは申し訳なさそうに言った。
私は既に佛の掌のうえにいた。
(昨日マイカーは仏像には窮屈だった?「声」の実行を続けさせるための事故?これも実は十一面観音のしわざ!)
「代車はすぐ用意できますか?”荷物”が運べるような”ワゴン車”はありますか?」
「ハイ それでしたらいい車がありますよ。」
加害者の若者は車は大破したものの身体は無事で私を見舞いに病室にきた。
彼の名前は日本できいたことのない名前だった。
「運天(うんてん)〇〇○」
私は悟った。
彼がこの事故を起こす`運転の役目だけ十一面観音に与えられた人間であることを。
夜間・・・・・・
静まりかえっている救急病院 秀島病院病棟内。仕事から解放されると私は`私に戻っていた。
私は昼間に大量に飲み続けている睡眠薬の残存作用`まどろみの海`のなかにいつもいた。
病院内を徘徊し、自分のベットを忘れ、階段の踊り場や外来のソファーで寝た。
1週間後、朝 「残念ながら、指示に従わず毎日外出し安静にせず、院内でも不適切な行動があったので本日付けで退院してほしい。埼玉へ紹介状を書くので。」との旨の話が担当医師からあった。
それで良かった。
(わたしには時間がないのだ)
私は紹介状を断り、そのまま病院を出て会社に向かった。
私はコルセットをタクシー内ではずし、かばんにこっそり入れたまま、業務を処理した。
そして午後、ふたたび池袋のジュンク堂の仏教コーナーに出かけた。
私は浅草寺以外の`人の集まる高名な寺`を 東京で知らなかった。
私はもはや十一面観音に従い'仕事を敢行することになんの迷いもなくなっていた。
当時、仏像の専門書は売っていなかった。
国宝などの本だけだった。
私は「全国有名寺院ガイドブック」という本を手に取った。
平成17年11月20日。浅草寺正観音像を本堂よりもち出した翌日の夜半。午前3時。
わたしは環八近くの路肩にいたらしい。仕事が終わって、なんども仮眠を取りながら家に辿り着こうと家路と`格闘していた。
その日も通勤ルートもはずれ、別の道に迷い込んでいた。
本来、環七を北に上がらなければ家に近づかなかった。
「突然コントロールが利かなくなった。」という若者の車は私の車の後部に激突して大破した。
相手の若者本人は無事だった。
私のマイカー マツダデミオの後部はつぶれ、数十メートル前に押しつぶれ、ずるっーと止まった。
全損事故!
昨日、仏像が乗ったばかりのその後部座席はつぶされた。
私は大量の睡眠薬の効果でシートを倒し寝たままだった。
混沌としたまま救急車が来て、意識がはっきりしないまま車から救出され、スクラッチャーに乗せられ、吉祥寺秀島病院に搬送され、ベットに寝かされ、点滴を受け首周りを固定された。

全身打撲と頚椎捻挫で全治2週間と診断された。1週間は絶対安静といわれた。
しかし私には時間がなかった。
平成18年4月1日 新保険業法施行 保険会社設立。
休んでいる暇はなかった。
携帯で従業員に指示を出し、病院を抜け出し、コルセットをかばんに隠し朝礼を実施し、書類に目を通し、サッとベットに戻ってきた。
浅草寺の観音像を持ち出したとたんの事故。それともあの茂みの中の釈迦如来像?
やはり仏罰?
聖林寺の十一面観音は偽佛なのだろうか。私は幻を聞いたのだろうか。ふたたび希死感が襲い始めた。事故知った一部の社員が見舞いに来た。
「今、常務に何かあったら私達は途方にくれます。事務は大丈夫ですから身体を大切に少しゆっくり休んでください。」
営業部長と事務部門リーダーの女性職員は本当に心配そうにそう言った。
私が今、倒れたら保険会社化は彼らでは無理だろう。
なんとしてもやらなければ・・。荻窪警察に呼ばれて行った。警察官が言った。
「あそこは数週間前にも同じ場所で追突事故が起きてね。追突された運転手はそのままフロントガラスを飛び出し、地下道の階段に転げ落ちて亡くなった。今回の衝突のほうがひどかった。60mもサイドブレーキ痕があった。あんたはシーベルトしていたから命が助かった。」
エクソシスト 身代わりになった神父 悪魔を自らに乗り移らせ石段を落ちた・・。
よぎった。
事故日は私が聖林寺に向かったころのようだ。
私は寒気がした。
「その人間は死ぬはずではなかった。私が死ぬはずだった。」とっさにそう悟った。
私は普段からシートベルが嫌いだった。
胸を圧迫して、少しのことで喘息の発作を誘因させるからだ。
走っているときだけ仕方なく付けた。ましてシートを倒して仮眠するのにシートベルトをすることはあり得なかった。
そして今回も当然していなかった。
・・それだけはたしかな事実・・
・・私はシートベルトを誰かにさせられていた・・
ひとりで乗っていたのに
・・丑三つ時・・また不思議な現実・・・・
私は生かされている。
あの菩薩 十一面に
いや浅草寺・・・・いや・・いったい誰が私を生かしたのだ・・
数日後、病室で携帯がぶるぶる震えた・・。
「残念ですが、お車は全損状態なので直りません。新しい車をご用意させていただきたいのですが・・」保険代理店でもあるマツダ自動車ディーラーのサービスフロントマンは申し訳なさそうに言った。
私は既に佛の掌のうえにいた。
(昨日マイカーは仏像には窮屈だった?「声」の実行を続けさせるための事故?これも実は十一面観音のしわざ!)
「代車はすぐ用意できますか?”荷物”が運べるような”ワゴン車”はありますか?」
「ハイ それでしたらいい車がありますよ。」
加害者の若者は車は大破したものの身体は無事で私を見舞いに病室にきた。
彼の名前は日本できいたことのない名前だった。
「運天(うんてん)〇〇○」
私は悟った。
彼がこの事故を起こす`運転の役目だけ十一面観音に与えられた人間であることを。
夜間・・・・・・
静まりかえっている救急病院 秀島病院病棟内。仕事から解放されると私は`私に戻っていた。
私は昼間に大量に飲み続けている睡眠薬の残存作用`まどろみの海`のなかにいつもいた。
病院内を徘徊し、自分のベットを忘れ、階段の踊り場や外来のソファーで寝た。
1週間後、朝 「残念ながら、指示に従わず毎日外出し安静にせず、院内でも不適切な行動があったので本日付けで退院してほしい。埼玉へ紹介状を書くので。」との旨の話が担当医師からあった。
それで良かった。
(わたしには時間がないのだ)
私は紹介状を断り、そのまま病院を出て会社に向かった。
私はコルセットをタクシー内ではずし、かばんにこっそり入れたまま、業務を処理した。
そして午後、ふたたび池袋のジュンク堂の仏教コーナーに出かけた。
私は浅草寺以外の`人の集まる高名な寺`を 東京で知らなかった。
私はもはや十一面観音に従い'仕事を敢行することになんの迷いもなくなっていた。
当時、仏像の専門書は売っていなかった。
国宝などの本だけだった。
私は「全国有名寺院ガイドブック」という本を手に取った。