大宝蔵院
仏像を納め、私はすぐ次のお寺に向かった。
「今日中に33体集めてしまわなければ・・」しばらく運転し、車を止め、キーを回し、サイドブレーキを引き、降りた。・・・しかしそれは私の頭の中だけだった。私はしばらく歩いただけだった。広い境内の中を・・。そしてふたたび拝観料を支払い、`同じお寺`の境内の中に入って行った。そのころ法隆寺境内では大騒ぎが起きていた。
私は上野の森に来ていた。そこは寺の堂内というより美術館の中のようだった。たくさんの仏像がある。ガラスにぶつかった。私の前方後方すべてが`ガラスの部屋だった。
脱出ハンマーを取りだした。モップをかけている女性がいた。私はその人を避難させた。頭にあるのは昨日見たガラス窓が土砂のように崩ちた光景だった。
「水がこぼれてますよ。拭いてきてください。」女性が不審そうにガラスから離れると同時に私は前方を叩きはじめた。
ガツン ガツン うしろで女性が何か言って、走り去る音が聞こえた。近づく物音が聞こえた。超密度、ガラスはびくともしなかった。
「ガラスが傷ついていたら弁償します。」走ってきた職員に連絡先を教え、私は少し正気に戻った。
「今日中に33体集めてしまわなければ・・・」私は今度こそ車に乗った。
「次っ」カーナビに「寺院」と入力すると「あ」行から検索され`秋篠寺がヒットした。それは奈良市内中心部にある寺だった。私は斑鳩から北上した。そのころ法隆寺からの通報により、西奈署は大捜索を開始していた。私は同じ管内の薬師寺の本堂の中にいた。
奈良市に向かう途中 車窓から見えた薬師寺3塔大伽藍の光景に吸い寄せられたのだ。
「大き過ぎる。運べない・・・・」私は巨大な薬師三尊像を前につぶやいた。
ふたたび、車を運転し観光客でごったがえる奈良市内に来た。秋篠寺を本堂から仏像を運び出した私は苔に覆われた細い参道を本堂参拝のために上がってくる観光客に逆行し、仏像を抱きかかえ、歩いた。ハア ハア ハア ハッ ハア~ 本堂から運び出した20体目をようやく、車へ運び入れた。
「あと13体!」
私はふたたび南下した。
そこは西奈署が署員を上げて、法隆寺の国宝建物を切り文殊菩薩像を盗みだした犯人を捜し回り、検問を張っていた。警視庁は私が法隆寺に教えた携帯番号から住所を割り出し、四谷ビルの前に署員を張り込ませた。私が向かったのはふたたび`飛鳥だった。私はそこでいっきょに33体を集め、お告げの決着を図ろうと思った。
「今日中に33体集めてしまわなければ・・」しばらく運転し、車を止め、キーを回し、サイドブレーキを引き、降りた。・・・しかしそれは私の頭の中だけだった。私はしばらく歩いただけだった。広い境内の中を・・。そしてふたたび拝観料を支払い、`同じお寺`の境内の中に入って行った。そのころ法隆寺境内では大騒ぎが起きていた。
私は上野の森に来ていた。そこは寺の堂内というより美術館の中のようだった。たくさんの仏像がある。ガラスにぶつかった。私の前方後方すべてが`ガラスの部屋だった。
脱出ハンマーを取りだした。モップをかけている女性がいた。私はその人を避難させた。頭にあるのは昨日見たガラス窓が土砂のように崩ちた光景だった。「水がこぼれてますよ。拭いてきてください。」女性が不審そうにガラスから離れると同時に私は前方を叩きはじめた。
ガツン ガツン うしろで女性が何か言って、走り去る音が聞こえた。近づく物音が聞こえた。超密度、ガラスはびくともしなかった。
「ガラスが傷ついていたら弁償します。」走ってきた職員に連絡先を教え、私は少し正気に戻った。
「今日中に33体集めてしまわなければ・・・」私は今度こそ車に乗った。
「次っ」カーナビに「寺院」と入力すると「あ」行から検索され`秋篠寺がヒットした。それは奈良市内中心部にある寺だった。私は斑鳩から北上した。そのころ法隆寺からの通報により、西奈署は大捜索を開始していた。私は同じ管内の薬師寺の本堂の中にいた。

奈良市に向かう途中 車窓から見えた薬師寺3塔大伽藍の光景に吸い寄せられたのだ。
「大き過ぎる。運べない・・・・」私は巨大な薬師三尊像を前につぶやいた。
ふたたび、車を運転し観光客でごったがえる奈良市内に来た。秋篠寺を本堂から仏像を運び出した私は苔に覆われた細い参道を本堂参拝のために上がってくる観光客に逆行し、仏像を抱きかかえ、歩いた。ハア ハア ハア ハッ ハア~ 本堂から運び出した20体目をようやく、車へ運び入れた。「あと13体!」
私はふたたび南下した。そこは西奈署が署員を上げて、法隆寺の国宝建物を切り文殊菩薩像を盗みだした犯人を捜し回り、検問を張っていた。警視庁は私が法隆寺に教えた携帯番号から住所を割り出し、四谷ビルの前に署員を張り込ませた。私が向かったのはふたたび`飛鳥だった。私はそこでいっきょに33体を集め、お告げの決着を図ろうと思った。
奇跡の仏像
飛鳥 橘寺 聖徳太子生誕の地。私は奈良市内 秋篠寺から警察の検問を乗り越えるようにこの寺にたどり着きレンタカーを降りた。
藤原京最大の寺院跡地と言われる川原寺を望む小高い丘のうえにその寺はあった。境内の本堂である太子堂は決して広くはない。隣接する伽藍建物もない。私はたしかに普通の損保マンだった。そして平成17年10月末から平成18年1月末のわずか3カ月の間にいくつもの体験をし、偶然と言えないような出来事に遭遇した。
浮かぶ顔
子供だけの寺
急に空いた部屋
シートベルトと死亡事故
代車とワゴン車
読経、咎めない僧侶
浅草寺の観音像とお供え
来ない電車
光るナンバープレート
誰もいない三経院
そして、最も信じられないこと、それはこの太子堂で起きた。わたしは常にそうしてきたように`ひとの集まる`と判断した売店に近い仏像の前に立った。そして、
私が祭壇に手を伸ばし台座に手を触れたとたんその仏像たしかに台座を離れ`自ら`私に向かって倒れてきた。そして私の前に落ち、四散した!!?
私はそこに金縛りになった。本堂の誰も気づいていない。
そして、そのあと私のとった行動 それは`逃亡`ではなかった。私はしゃがみ込み、・・・・そして広い集め始めた。ジャクリーン・ケネディーがそうしたように。砕けた木片を・・・・・・
それは`私の意思ではなかった。21体目となるはずだった仏像に私はようやく止められた。
(不祥 橘寺薬師如来立像。平安時代に作られたというその仏像は、珍しく桜のかえで一本づくりで、本堂内で左右に並ぶ、重要文化財、国宝のなか、なぜか唯一の無指定仏だったと警察で知らされた。)
顔が浮かび始めてから100日あまり。私は逃れられない、掌の上を歩かされたに過ぎなかった。昨年10月末、私はこの飛鳥の地、聖林寺から東京に帰ったつもりであの白い聖堂の中にいたままだったのだ。
私は正気に戻った。
聖林寺ひとのあつまるこうめいなてらからさんざゅうさんのぶったいをあつめなさい・・・
あのあとの私は自分で考えているようで、すべてあの声に呪縛されたままだったのだ。
聖林寺十一面観音 多くの顔 ・・私を死にいざなうもの、堕とすもの、なお生かそうとするもの・・・・
橘寺本堂である太子堂の脇には心の善悪の2面を表すという飛鳥遺跡で有名な「二面石」がある。
ざわめく本堂からわずか十数メートル先にそれはあった。近づくサイレンの音。私は横たわる薬師如来像を眼前に正座してそれを待った。
私は収監された。
しかし、この3カ月あまりの体験は`始まり`に過ぎなかった。私は出口の見えない、聖堂の入口に立っていた。
藤原京最大の寺院跡地と言われる川原寺を望む小高い丘のうえにその寺はあった。境内の本堂である太子堂は決して広くはない。隣接する伽藍建物もない。私はたしかに普通の損保マンだった。そして平成17年10月末から平成18年1月末のわずか3カ月の間にいくつもの体験をし、偶然と言えないような出来事に遭遇した。浮かぶ顔
子供だけの寺
急に空いた部屋
シートベルトと死亡事故
代車とワゴン車
読経、咎めない僧侶
浅草寺の観音像とお供え
来ない電車
光るナンバープレート
誰もいない三経院
そして、最も信じられないこと、それはこの太子堂で起きた。わたしは常にそうしてきたように`ひとの集まる`と判断した売店に近い仏像の前に立った。そして、
私が祭壇に手を伸ばし台座に手を触れたとたんその仏像たしかに台座を離れ`自ら`私に向かって倒れてきた。そして私の前に落ち、四散した!!?
私はそこに金縛りになった。本堂の誰も気づいていない。
そして、そのあと私のとった行動 それは`逃亡`ではなかった。私はしゃがみ込み、・・・・そして広い集め始めた。ジャクリーン・ケネディーがそうしたように。砕けた木片を・・・・・・
それは`私の意思ではなかった。21体目となるはずだった仏像に私はようやく止められた。
(不祥 橘寺薬師如来立像。平安時代に作られたというその仏像は、珍しく桜のかえで一本づくりで、本堂内で左右に並ぶ、重要文化財、国宝のなか、なぜか唯一の無指定仏だったと警察で知らされた。)
顔が浮かび始めてから100日あまり。私は逃れられない、掌の上を歩かされたに過ぎなかった。昨年10月末、私はこの飛鳥の地、聖林寺から東京に帰ったつもりであの白い聖堂の中にいたままだったのだ。
私は正気に戻った。
聖林寺ひとのあつまるこうめいなてらからさんざゅうさんのぶったいをあつめなさい・・・
あのあとの私は自分で考えているようで、すべてあの声に呪縛されたままだったのだ。
聖林寺十一面観音 多くの顔 ・・私を死にいざなうもの、堕とすもの、なお生かそうとするもの・・・・
橘寺本堂である太子堂の脇には心の善悪の2面を表すという飛鳥遺跡で有名な「二面石」がある。
ざわめく本堂からわずか十数メートル先にそれはあった。近づくサイレンの音。私は横たわる薬師如来像を眼前に正座してそれを待った。私は収監された。
しかし、この3カ月あまりの体験は`始まり`に過ぎなかった。私は出口の見えない、聖堂の入口に立っていた。

第一次精神鑑定
平成18年5月の連休中は鑑定も休診だった。教授も助手も訪問がない。既に4月1日の新保険業法施行から1カ月経っている。私はさらに焦っていた。
(私は正常だ。どんな長い刑期でも構わないのだ。今はとりあえず、早く仕事に戻らないと・・・・)
一週間待っていて、その日にならないと訪問がないことが分からないということは、とてつもなく不安だった。(鑑定は終わったのだろうか?)(まだ続くのだろうか?)
そして鑑定とは淡白だった。取り調べとは全く違う。ただ子供の時からの転校先とそこでの生活、社会人になってからの転勤先と仕事の内容などを聞くだけで、私が保険会社で不採用を前提にする義務的する入社希望者への面接とあまり変わらないように思えた。精神鑑定というのはもっと医学的な通院歴、や病歴、性格診断などを驚くような方法でするものだと予想していた私は、それすら焦りの原因となっていた。連休中に父から書信が届いた。
゛妻が、地方に引っ越し、早朝6:00から総菜屋で時給750円で働き、夜もバイトをし始め、母が食事をあまりしていない。゛ことを報告していた。
私は激しく動揺した!
「なぜ家にいないのだ!?。この鑑定が終われば私は保釈で帰れるのに・・」
私は会社の従業員たちまで、私の復帰を諦めているのではないかと不安になった。私は妻が東京にいられなくなっている世論の騒ぎを全く知らなかった。
東京のワイドショーは私のビルを`仏像小屋`と呼んでいたのだ。私はそういう現実を何も知らなかった。
5月9日どうしても取れない東京との連絡のため、地元のロータリークラブの恩人が紹介した私選弁護士松岡氏が接見にきた。
入所以来、3回目。面会はほとんどなかった。
「せんせい。鑑定とは一体いつまで続くんでしょうか?どうしたらここから早く出れるんでしょうか?」
「私は鑑定案件を扱ったことがないから知らん!おそらく統合失調症のような`一見しておかしい人間`しか出れないんじゃないか。」
彼の面会室での発言はいつも2,3言だった。すべてにつっけんどんで言葉は一方通行だった。
何を聞いても「私は知らん。」ばかりだった。
`一見しておかしい人間` それは勾留されて3カ月、弁護士より初めて受けたアドバイスらしいアドバイスだった。
「一見しておかしい人間とはどういう人間だろう?ここから出れるという統合失調症とは?」
(私は過去もう何回もの鑑定で真面目に岸本教授の質問に答えてきた。これは取り返しのつかない間違いだったのではないだろうか。)
私は胸がドキドキした。刑事事件の精神鑑定は被疑者に予定を一切、教えない。私はこの鑑定がいつまで続くのか。終わっているのかすら分からなかった。
(今度、もし鑑定があったら絶対`一見しておかしな人にならなければ・・・・・)
トレドミンによりわたしのうつは劇的に改善される一方で、睡眠薬の投薬は事件時の1/5にも満たない。私は不安からまた眠れなくなり始めていた。先の見えない不安。音の一切ない独房で日に日にとぎ澄まされる感覚・・聴覚・・・視覚・・・・。私は投薬されている睡眠薬で眠れなくなり始めた。
カッ カッ カッ カッ
職員が15分おきに棟内の廊下を歩く音さえが耳にひびく。ただでも眠れないのに21:00という社会人では考えられないような早い就寝。雑居房や職員同士のひそひそ会話も廊下を流れて耳に入ってくるようだった。むろんそれは錯覚だった。留置場で禁断症状の間、外国人の収容施設が近くにあるような錯覚に陥り、中国語の行進の掛け声が耳から離れなかったように、私は幻聴症状からまだ、回復過渡期にあった。さらに私の神経は日に日に研ぎ澄まされた。夜中の職員の話声は耳元でするようになり、目をつぶるとそれは平成記念病院で医師と看護婦が私の容体についてひそひそ話していた「あの光景」にフィードバックした。私は病院の病室にいた。
むき出しの便器からは今にも、何か虫などが這い出てくる錯覚に脅え、布団をかぶせて目を一生懸命つぶった。それでも朝まで眠れない。
5月18日鑑定が再開した。しかし私には、やはりできなかった。`一見しておかしな人`というのが。
「本日は何日ですか?」
「17日」
「違います」
「すいません。18日です。」曖昧に日付を回答するのが限界だった。
5月25日鑑定。あいかわらず職務経歴のことを淡々と聞かれ、ようやく事件の日の行動などを聞かれるところまでにたどり着いた。5月31日。 岸本教授が助手だけでなく、20大後半と思われる若い女性を伴って3人で入室してきた。
「今日はいろいろ知能テストや心理テストを実施します。こちらが担当する心理学者の〇〇です。」
「よろしくお願いします。息苦しそうですけど大丈夫ですか。」
私は笑顔を作り、「これは慣れない場所で持病のぜんそくが少し起きているのです。支障ありません。」と応えながら、私は「これだ!」と心の中でひざに手を打った。
(これこそが`一見しておかしな人`になれるチャンスなのだろう。質問におかしな人のふりをするなんて普通の人間には無理だ。でも心理テストならできるかもしれない!)
その結果、私はすべてのテストをめちゃくちゃに答えた。理科、算数はわざと間違った。低能者のふりをした。続いている不眠と投与されている新抗うつ剤トレドミンによる強引な覚醒によるもうろうとした思考は私の`模範回答を助けた。心理テストは翌日も続いた。川・山・田・道・家・木・人・花・動物などの絵を描くときは思いっきりアンバランスに書いた。続いてロールハッシャテスト。
独房に監禁され続けている今の私が家族と会社のためにできる唯一のことだった・・・・
私は必死だった。保険会社設立。この心理テストの結果に妻や会社やすべての運命がかかっているのだ。私は大学入試より緊張していた。質問に対して時間をかけて、おかしな回答を一生懸命考え・・・・答えた。
うしろで、あいかわらずいつものように岸本教授が目をつぶり、終始、腕を組んで口をへの字に結んでいた。私は満足だった。(これでやっと`おかしな人`ができたと思う。ここから早く出れる)・・・・・それは逆であったのだが・・。
私は長い拘禁での精神鑑定で被験者によく現れるガンサー症候群に陥っていたのだ。
「ガンサー症候群」とは拘禁反応の一種(仮性痴呆)。的外れな応答傾向が特徴。しばしば他の解離症状も示し、心因の存在を示唆する環境において認められる。
現実の苦しみから逃げようとする願望から生じる一種の朦朧状態or解離性ヒステリー状態を指す。
現実?との区別が困難な場合もある。
松岡弁護士の唯一のアドバイスはガンサー症候群への誘導だった。真面目に質問に答え続けていた私の精神をみごとなまでに狂わせた。
6月。勾留延長の通知が届いた。3カ月で終了の予定だったらしい精神鑑定が1カ月延長になった。
鑑定延長は被告人のためだ。私にとっては客観的に良いことだった。しかし松岡弁護士は代理人として突然弁護活動を始めた。この1カ月の鑑定延長に激怒し、裁判所に抗議文を送った。
「岸本教授は不謹慎にも精神鑑定実施中にいねむりをしている。直ちに長引いている鑑定を止めろ。」と。
私は5月に松岡弁護士に鑑定の様子を聞かれた際「岸本教授はいつもお疲れのようで、助手の医師の先生に質問を任せて、こっくり々していますよ。」とちょっと話しただけだった。
松岡弁護士は、私の`そのちょっとした話を元に教授に対する一大公式抗議文を作成し、裁判所に送った。
彼はすべての人に対して喧嘩の人だった。鑑定が延長になった最後の1カ月。私は本当におかくしくなった。全くまた眠れなくなった。夜中は便器に布団をかぶせ何も出て来れないようにした。私は布団を頭からかぶり耳に入ってくる雑音をふせいだ。私の精神は独房4カ月で壊れた。最後にCT脳波を測定するために私は奈良県立医大精神医学講座教室に連行された。拘置所の医務部長と職員 運転者 計3名が同行した。
大和川のさくらはもう散っていた。季節が流れていた。私は車の中で光に反応し少し興奮状態になった。自分から同乗する職員に話しかけたりした。
(これでようやく保釈で出れる。家族や会社を助けられる。まだ間に合う。)
奈良県立医大付属病院。白衣の永井医師がエントランスで私たちを迎えた。連れていかれた部屋。そこは日本の精神医学界を支えるNASAの司令室そのものだった。部屋中を取り囲む何十台ものパソコン。
何が入っているか分からないような液体の試験管の山。私が部屋に入ってきてもパソコンを黙々と見つめ続けるたくさんの白衣の若い医師たち。その画面に映し出されて医師たちが釘付けになっているのはすべて゛ブレイン 脳の断面図ばかりだった。そこはまさに白い巨塔の中枢だった。そして1カ月後・・ようやく、鑑定は終わった。
平成18年7月7日 鑑定主文が裁判所に提出された。岸本教授は精神医学の分野の日本の第一人者と呼ばれる医学博士である。その権威に対し松岡弁護士は裁判所を通じ、居眠り抗議文を送った。
岸本教授にしてみればおそらく生まれて初めての経験だったろう。私は面会室で「こっくり々していますよ。」と一言しゃべっただけだった。一方、私は`一見しておかしな人、として知能テストを事実上、拒絶した。そのふたつのことが鑑定結果を導いた。
岸本教授は公式な抗議文に対し、私を`解離性障害(=長期拘禁による精神異常状態)`にする以外、`密室での鑑定が真面目に行なわれたと裁判所に抗弁する術を失っていた。その鑑定主文に「今でも死にたいと考えている?」と本気で心配していた彼はいなかった。
鑑定主文
・・・・犯行以前、被疑者はうつ病に罹患しているものの、犯行当時においては大うつ病性エピソードを満たすものではなく・・・・減弱する事由は認めない。
=朝、熱があり風邪で学校を休んだが、日中は風邪でなく、結果として「ずる休み」だった。
保田副検事の世論を納得させて起訴猶予で釈放するシナリオは崩れた。
(私は正常だ。どんな長い刑期でも構わないのだ。今はとりあえず、早く仕事に戻らないと・・・・)
一週間待っていて、その日にならないと訪問がないことが分からないということは、とてつもなく不安だった。(鑑定は終わったのだろうか?)(まだ続くのだろうか?)
そして鑑定とは淡白だった。取り調べとは全く違う。ただ子供の時からの転校先とそこでの生活、社会人になってからの転勤先と仕事の内容などを聞くだけで、私が保険会社で不採用を前提にする義務的する入社希望者への面接とあまり変わらないように思えた。精神鑑定というのはもっと医学的な通院歴、や病歴、性格診断などを驚くような方法でするものだと予想していた私は、それすら焦りの原因となっていた。連休中に父から書信が届いた。
゛妻が、地方に引っ越し、早朝6:00から総菜屋で時給750円で働き、夜もバイトをし始め、母が食事をあまりしていない。゛ことを報告していた。
私は激しく動揺した!「なぜ家にいないのだ!?。この鑑定が終われば私は保釈で帰れるのに・・」
私は会社の従業員たちまで、私の復帰を諦めているのではないかと不安になった。私は妻が東京にいられなくなっている世論の騒ぎを全く知らなかった。

東京のワイドショーは私のビルを`仏像小屋`と呼んでいたのだ。私はそういう現実を何も知らなかった。
5月9日どうしても取れない東京との連絡のため、地元のロータリークラブの恩人が紹介した私選弁護士松岡氏が接見にきた。
入所以来、3回目。面会はほとんどなかった。
「せんせい。鑑定とは一体いつまで続くんでしょうか?どうしたらここから早く出れるんでしょうか?」
「私は鑑定案件を扱ったことがないから知らん!おそらく統合失調症のような`一見しておかしい人間`しか出れないんじゃないか。」
彼の面会室での発言はいつも2,3言だった。すべてにつっけんどんで言葉は一方通行だった。
何を聞いても「私は知らん。」ばかりだった。
`一見しておかしい人間` それは勾留されて3カ月、弁護士より初めて受けたアドバイスらしいアドバイスだった。
「一見しておかしい人間とはどういう人間だろう?ここから出れるという統合失調症とは?」
(私は過去もう何回もの鑑定で真面目に岸本教授の質問に答えてきた。これは取り返しのつかない間違いだったのではないだろうか。)
私は胸がドキドキした。刑事事件の精神鑑定は被疑者に予定を一切、教えない。私はこの鑑定がいつまで続くのか。終わっているのかすら分からなかった。
(今度、もし鑑定があったら絶対`一見しておかしな人にならなければ・・・・・)
トレドミンによりわたしのうつは劇的に改善される一方で、睡眠薬の投薬は事件時の1/5にも満たない。私は不安からまた眠れなくなり始めていた。先の見えない不安。音の一切ない独房で日に日にとぎ澄まされる感覚・・聴覚・・・視覚・・・・。私は投薬されている睡眠薬で眠れなくなり始めた。
カッ カッ カッ カッ
職員が15分おきに棟内の廊下を歩く音さえが耳にひびく。ただでも眠れないのに21:00という社会人では考えられないような早い就寝。雑居房や職員同士のひそひそ会話も廊下を流れて耳に入ってくるようだった。むろんそれは錯覚だった。留置場で禁断症状の間、外国人の収容施設が近くにあるような錯覚に陥り、中国語の行進の掛け声が耳から離れなかったように、私は幻聴症状からまだ、回復過渡期にあった。さらに私の神経は日に日に研ぎ澄まされた。夜中の職員の話声は耳元でするようになり、目をつぶるとそれは平成記念病院で医師と看護婦が私の容体についてひそひそ話していた「あの光景」にフィードバックした。私は病院の病室にいた。
むき出しの便器からは今にも、何か虫などが這い出てくる錯覚に脅え、布団をかぶせて目を一生懸命つぶった。それでも朝まで眠れない。
5月18日鑑定が再開した。しかし私には、やはりできなかった。`一見しておかしな人`というのが。
「本日は何日ですか?」
「17日」
「違います」
「すいません。18日です。」曖昧に日付を回答するのが限界だった。
5月25日鑑定。あいかわらず職務経歴のことを淡々と聞かれ、ようやく事件の日の行動などを聞かれるところまでにたどり着いた。5月31日。 岸本教授が助手だけでなく、20大後半と思われる若い女性を伴って3人で入室してきた。
「今日はいろいろ知能テストや心理テストを実施します。こちらが担当する心理学者の〇〇です。」
「よろしくお願いします。息苦しそうですけど大丈夫ですか。」
私は笑顔を作り、「これは慣れない場所で持病のぜんそくが少し起きているのです。支障ありません。」と応えながら、私は「これだ!」と心の中でひざに手を打った。
(これこそが`一見しておかしな人`になれるチャンスなのだろう。質問におかしな人のふりをするなんて普通の人間には無理だ。でも心理テストならできるかもしれない!)
その結果、私はすべてのテストをめちゃくちゃに答えた。理科、算数はわざと間違った。低能者のふりをした。続いている不眠と投与されている新抗うつ剤トレドミンによる強引な覚醒によるもうろうとした思考は私の`模範回答を助けた。心理テストは翌日も続いた。川・山・田・道・家・木・人・花・動物などの絵を描くときは思いっきりアンバランスに書いた。続いてロールハッシャテスト。
独房に監禁され続けている今の私が家族と会社のためにできる唯一のことだった・・・・私は必死だった。保険会社設立。この心理テストの結果に妻や会社やすべての運命がかかっているのだ。私は大学入試より緊張していた。質問に対して時間をかけて、おかしな回答を一生懸命考え・・・・答えた。
うしろで、あいかわらずいつものように岸本教授が目をつぶり、終始、腕を組んで口をへの字に結んでいた。私は満足だった。(これでやっと`おかしな人`ができたと思う。ここから早く出れる)・・・・・それは逆であったのだが・・。
私は長い拘禁での精神鑑定で被験者によく現れるガンサー症候群に陥っていたのだ。
「ガンサー症候群」とは拘禁反応の一種(仮性痴呆)。的外れな応答傾向が特徴。しばしば他の解離症状も示し、心因の存在を示唆する環境において認められる。
現実の苦しみから逃げようとする願望から生じる一種の朦朧状態or解離性ヒステリー状態を指す。
現実?との区別が困難な場合もある。
松岡弁護士の唯一のアドバイスはガンサー症候群への誘導だった。真面目に質問に答え続けていた私の精神をみごとなまでに狂わせた。
6月。勾留延長の通知が届いた。3カ月で終了の予定だったらしい精神鑑定が1カ月延長になった。
鑑定延長は被告人のためだ。私にとっては客観的に良いことだった。しかし松岡弁護士は代理人として突然弁護活動を始めた。この1カ月の鑑定延長に激怒し、裁判所に抗議文を送った。
「岸本教授は不謹慎にも精神鑑定実施中にいねむりをしている。直ちに長引いている鑑定を止めろ。」と。
私は5月に松岡弁護士に鑑定の様子を聞かれた際「岸本教授はいつもお疲れのようで、助手の医師の先生に質問を任せて、こっくり々していますよ。」とちょっと話しただけだった。
松岡弁護士は、私の`そのちょっとした話を元に教授に対する一大公式抗議文を作成し、裁判所に送った。
彼はすべての人に対して喧嘩の人だった。鑑定が延長になった最後の1カ月。私は本当におかくしくなった。全くまた眠れなくなった。夜中は便器に布団をかぶせ何も出て来れないようにした。私は布団を頭からかぶり耳に入ってくる雑音をふせいだ。私の精神は独房4カ月で壊れた。最後にCT脳波を測定するために私は奈良県立医大精神医学講座教室に連行された。拘置所の医務部長と職員 運転者 計3名が同行した。
大和川のさくらはもう散っていた。季節が流れていた。私は車の中で光に反応し少し興奮状態になった。自分から同乗する職員に話しかけたりした。
(これでようやく保釈で出れる。家族や会社を助けられる。まだ間に合う。)
奈良県立医大付属病院。白衣の永井医師がエントランスで私たちを迎えた。連れていかれた部屋。そこは日本の精神医学界を支えるNASAの司令室そのものだった。部屋中を取り囲む何十台ものパソコン。
何が入っているか分からないような液体の試験管の山。私が部屋に入ってきてもパソコンを黙々と見つめ続けるたくさんの白衣の若い医師たち。その画面に映し出されて医師たちが釘付けになっているのはすべて゛ブレイン 脳の断面図ばかりだった。そこはまさに白い巨塔の中枢だった。そして1カ月後・・ようやく、鑑定は終わった。
平成18年7月7日 鑑定主文が裁判所に提出された。岸本教授は精神医学の分野の日本の第一人者と呼ばれる医学博士である。その権威に対し松岡弁護士は裁判所を通じ、居眠り抗議文を送った。
岸本教授にしてみればおそらく生まれて初めての経験だったろう。私は面会室で「こっくり々していますよ。」と一言しゃべっただけだった。一方、私は`一見しておかしな人、として知能テストを事実上、拒絶した。そのふたつのことが鑑定結果を導いた。
岸本教授は公式な抗議文に対し、私を`解離性障害(=長期拘禁による精神異常状態)`にする以外、`密室での鑑定が真面目に行なわれたと裁判所に抗弁する術を失っていた。その鑑定主文に「今でも死にたいと考えている?」と本気で心配していた彼はいなかった。
鑑定主文
・・・・犯行以前、被疑者はうつ病に罹患しているものの、犯行当時においては大うつ病性エピソードを満たすものではなく・・・・減弱する事由は認めない。
=朝、熱があり風邪で学校を休んだが、日中は風邪でなく、結果として「ずる休み」だった。
保田副検事の世論を納得させて起訴猶予で釈放するシナリオは崩れた。
