大隈光祐`アントワープの絵へ` -15ページ目

広報室の沈黙

平成18年7月7日。私は精神鑑定で有罪となり橿原警察署の留置場に戻された。私が長い拘置所独房での鑑定留置から5カ月ぶりに橿原警察留置場に戻ると囚人は一新していた。警察署の職員もかなり人事異動が行われていた。私だけ時間が止まっていた。取り調べ担当の北川刑事も奈良署に栄転し、大村刑事に担当が変わっていた。2月逮捕当時、北川刑事は「取り調べは3カ月。起訴はお寺さんの気持ちもあるけど4,5件。法隆寺と橘寺、東京は浅草寺とそこから一番近い寺を日帰りで現場検証してくる。」
私が「広島は?」と聞くと「警察はそんな暇じゃないし、くまさんの事件だって3カ月もすれば誰も話題にしなくなる。半年後、社会に戻るころには何だったっけって話になってるで。殺人でもどんな大事件もそんなもんや。」と言っていた。大村刑事と再会した。
「よっ くまさん ひさしぶり それにしてもよう痩せたな。北川刑事とまるでくまの兄弟のようだったのに別人のようやで。取調べ残っているのでよろしくな。」彼は北川刑事よりいくつか若い、2月の緊迫した取調室でひとりのとき、禁断症状で震える私によく冗談を言いに来てくれた。
「福山は僕の故郷や、そこから現場検証に回わるから。」北川刑事は「仏像を売っていた訳でもないんだし、そのまますぐに寺に戻っているんだから。広島なんて回ってられるか。5寺が限度。」と言っていた。
5カ月の間に何かが変わっていた。松岡弁護士の面談は相変わらずほとんどなかった。
私をお寺のことが心配だった。しかしそのことを尋ねると「私は知らん。おわびなんかは保釈中に君が自分ですればいい。」の一言だった。
「くまさん立場上、言いにくいんだけど、弁護士とちゃんと打ち合わせしてる?くまさんの運命がかかっているんだからいろいろ打ち合わせしたほうがいいよ。」「弁護士全然、来ないな。呼んで来ないのは私撰じゃないぞ。国選だって日参するのに・・・」。私はそれでも保釈までの我慢だと自分に言い聞かせた。
8月14日 ようやく第一回公判が始まった。松岡弁護士は助手を連れてきていた。突然立ち、検察に向かって大声でどなった。「捜査が長すぎる!早く保釈しろ!」裁判長は検察に向かって「検察は取調べを早くするように。」と促した。この公判が終わったあと私に起訴状が毎週のように何枚も届きはじめた。大隈光祐`アントワープの絵ヘ同部屋の人たちは「くまさん。なんかやらかしとったんですか。」とひそひそ聞いてきた。8月22日 検察庁取調室。保田検事はいきなり曇った顔で早口で私に謝った。
「いや。決して意地悪している訳じゃないから。取り調べを早くするためだから。11月には結審させるから。」私には何のことかわからなかった。そこで保田検事がはじめて私の顔を見て「松岡弁護士と打ち合わせしている?」という聞いた。私が「松岡先生と最後にお会いしたのは公判の日です。」と答えると保田検事はカレンダーの方をちらっと見て「おっかしいな。」と小さくつぶやいた。そして「まあ いいか。」と私の方を振り返り、調書を読み上げ始めた。
橿原警察署内。
「くまさん。また実験台になってもらうからな。」
警察署内では毎週のように「ハイ。大隈光祐○時○分逮捕。」と手錠がかけられるようになった。私の手は
新人が指紋を取る練習に使われた。「だめ。やり直し。こう。」警察の導入した新型の光レーザー指紋コピー機の中で私の手のひらを何回も何回も赤い光がなぞった。取調室「大村さん。何かよくないことが起きているような気がするんですが。」さすがに私も気になった。大村刑事は下を向いたままだった。「い いや ただ再逮捕方式って言って・・つまり取り調べを早くするためなんだ。」「じゃあ 保釈が早くなるってことですか。」私は声が明るくなった。「まあ そうだな。そうなるように僕もがんばるよ。」「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。」その日、私は取調室から留置場に戻されても、久しぶりに饒舌だった。
仕事と家族の夢を見た。そのころ、外の世界では事件のその後がふたたび新聞に小さく繰り返し何回か掲載されていた。
`大隈光祐 再逮捕`
`東京の寺院も自供`
`大隈光祐 本日再々逮捕`
`窃盗常習犯として・・・`
私はそんな外の様子をまったく知らなかった。
数日後、友人や会社の部下からの手紙が一変するまでは・・
・・・常習犯と知り、同情が怒りに変わった。金輪際連絡しないでほしい。・・・
・・・当初の事件だけと信じていたのに過去から常習的に窃盗を繰り返していたとは・・・
・・・社内で・・私まで・・・疑われます。今後は・・
私はやっと再逮捕方式というのを理解した。保田検事のあの一瞬曇った顔。私の事件は、北川刑事の当初予定した主要5寺を捜査送検して1事件として処理する予定から、全寺捜査のうえ2,3寺ずつ任意に分け起訴し、6事件あったこととして都度、逮捕する方針に変わっていた。それは公判でも裁判長の発言を受けた奈良検察庁トップの直接の指示だった。私の出会った檻のなかの囚人誰もが犯罪そのものが生活の糧だった。窃盗常習犯、車上あらし、空き巣、ゴト師、やくざ・・警察はそのそうとうの数の悪さ=犯罪のうち数件をランダムに捜査し、供述を取り、書類を作り、送検し、彼らは釈放されていた。
犯罪が多い東京はもっと回転が速いらしい。殺人事件のその後の流れぐらいしか一般の人は興味がない。
私は警察・検察の手続きに無知過ぎた。私は留置場にいるまま「前科6犯」になった。でも・・・・・・ 
保釈になれば、せめて周囲の誤解だけは解こう。わかってくれるはずだ。
保険業法が4月1日に施行された。もう半年過ぎようとしていた。申請猶予期日は9月30日!。
(保険会社はもうできないかもしれない。)私は諦め始めていた。
もう少しの我慢だ。そしてお寺にお詫びして回って、・・・仕事を引き継き・・・・私は楽になる。
昨年。平成17年10月。事件前。私は若いころから加入している自分の生命保険の受取人を妻に切り替えた。ぬぐい払っても払っても周期して訪れる死への渇望が私を襲っていた。そんな中、生命保険の切り替えは私ができる数少ない打ち手だった。そして・・・今。起訴され、留置場に戻された私は執行猶予になったとしても社会に戻って実刑者だった。保釈時の死の方法のみを日夜考えた。できれば妻に多くのお金を遺してやりたい。それには保釈中に「事故」で自殺することだった。自殺は生命保険上、免責3年経過後は病死に準じて死亡保険金が支払われる。しかし交通事故や旅行先の事故での死亡であれば災害保険金としてさらに自殺の何倍も支払われる。だが、保険会社は不審死には絶対保険金を支払わないのも事実であった。
少しでも疑問があれば警察の検死結果に対してさえ、独自調査として何年も支払いを渋る業界体質を私は知っていた。まして刑事犯の保釈中の死亡である。留置場の中、囚人と冗談を言いながらも、私は保険会社の社員としてあらゆる場面を想定し、災害死亡を考え続けていた。絶対疑われない事故死。初見で調査対象になれば終わりだ。保険会社で支払いのための調査とはイコール=棚ざらしにしまうこととになりかねないからだ。遺族の強い意志や主張が持続すれば、保険金を受け取れることができるだろうが純粋な妻にはとても期待できない。首吊り以外で確実な死、しかも事故死は簡単なようで難しい。溺死は有効だった。私はつりを好んだ。しかし死体が発見されなければ保険会社は行方不明を主張し7年間保険金を渋るだろう。
私は毎日、保釈中つりに行って溺死してどうやって死体を発見されるかを留置場の中で考え続けた。
釣りざおを埠頭に固定し、つり糸を衣服にひっかけ飛び込めばいいかも知れない。私はやっと保釈中の死に方を心に決めた。私は心が少し楽になった。それでもやはり、損保マンである私が保釈中に事故死することは一見不可能に思われた。だがここに私がネイルサロン経営者と称して檻の中に存在していることに対して、息を潜めて、成り行きを注視している会社があった。ほかならぬ損保ジャパンだった。
損保ジャパンはトップレベルでこの事件にあきらかに動揺していた。
平成18年2月14日。同じ日の一見ことなるふたつの新聞記事。経済面と社会面。大隈光祐`アントワープの絵ヘ大隈光祐`アントワープの絵ヘ私の事件とちょうど同時にあるスキャンダルが起き始めていた。大量の総合職が処分された。そして、この処分とは別に極秘に 私の会社役員として登録してもらっていた同期総合職はひそかに人事部に都内の某ホテルの一室に呼ばれ、退職を強いられた。役員たちは怖れ、必死だった。ワイドショーが連日騒いでいる仏像事件と損保ジャパンが結びつくことを。私が本当の身分を供述し始めることを・・
私は検事取り調べでひとつだけ隠し通したことがあった。それは私が実は`損保マンであると言う事実だった。そしてそれは私に関するあらゆる報道・ネット上の憶測からさえも見事に免れていた。
(当時のワイドショー、ネット記事より)
・法隆寺や浅草寺らから仏像盗んだネールサロン経営・大隈光祐(43)容疑者逮捕・・・・
・ネールサロン経営、大隈光祐容疑者(43)が、奈良県警の調べに対し ..
・「ネールサロン経営大隈光祐容疑者(43)」ってのがまたこう不思議なマッチングだよな。盗んできた仏像が林立するネールサロン事務所ってのも一度見てみたい・・・・ネールサロンが溢れていた。
一方、私のせいで仏像は壊れていた。修理代を弁償しなければ。しかし松岡弁護士はお寺との交渉に関することは一切しないと断言している。
(私がしなければ。)
しかし私は檻のなかだった。私は故意に仏像を壊した訳ではなかった。まさに個人賠償責任保険の典型的な支払対象だった。しかしこれは刑事事件で私は犯人であった。それは明らかに`典型ではない。それはよりいっそう私の法的賠償責任性を高める事実だったが、保険会社の担当者は事件の犯人からの檻の中からの請求なんて、泥棒に追い銭なんてと早々に「無責」で処理を進めるだろう。しかし違った。ためしに妻や保険代理店経由で弁償に関して問い合わせを入れると、予想に反し渋るどころか親切丁寧に事故受し、本社火災新種サービスセンター直送で、専用の請求用紙まで送付されてきた。まるで私からのコンタクトを待ちわびていたかのように。大隈光祐`アントワープの絵ヘ結局、報道によってまちまちだった寺数も正確だった。
広報室の高い情報把握力。新宿は連絡が取れない私からの檻からのメッセージ=事故報告という形にせよ 企業的に センシィティブに反応をした。大隈光祐`アントワープの絵ヘ3月 経済専門雑誌ではさらに損保ジャパンに組織的な違法販売があるのではないかと指摘し始めていた。引き続き大手損保会社で起きそうなこのスキャンダルに経済各紙は紙面を割き始めていた。もしわずか2カ月前、全国中を騒がせ、犯人は精神鑑定送致になり、ようやく世間が忘れかけている法隆寺国宝破壊、浅草寺観音隠匿事件の犯人が実は報道されているネイルサロン経営者でなく損保ジャパン元総合職であり、現在、同社最大シニア団体を小規模保険会社に格上げすべく、霞ヶ関において損保ジャパン戦略の最前線に携わっている人間であることが明らかになったら・・・
経済メディアとしてこれほど興味をそそられるネタはないだろう。損保ジャパンの名前がネイルサロンというキーワードからそのまま置き換わり、ネット上に氾濫するのも必至だった。訂正を兼ね、おもしろおかしく新たな憶測記事が出るのは想像に容易だった・・。その数はネット上だけで480記事あった。米国ネット上でも「ネイル経営者がなぜ仏像を?」と英文記事が流れていた。本当の身分が判れば、公表せず、隠ぺいしていたとさえ言われるかも知れない。経済面で注目されている今、刑事面でも損保ジャパンの名前が出るのはもはや致命的だった。取り調べは終わったのか?終わっていないのか?余罪があるのか?それともないのか?西の警察署の中でおきている取調室内での予測できない展開に対する漠然とした不安、苛立ち、広報室は沈黙し、一部の役員は最悪の事態を想定した。5月25日、金融庁は損保ジャパン全店に対しついに業務停止命令を発動した。平野社長は辞任した。理由は提携する第一生命の架空契約の存在だった。6月末には、架空契約作成にかかわった600人近い総合職が処分された。本社ぐるみの指示であったのにやはり犠牲になったのは前線の社員だった。とりあえず、起きている問題のけじめを急いでつけた。それでも役員はある記憶によりすっきりしなかった。私の存在は喉に刺さったままの小さな棘だった。そして・・・8月13日。ようやく公判が始まった。一度騒がれた事件。後日談よろしく、マスコミの記者たちが義務的に法廷の席を占領し、一応、手帳を開き 何か新事実は?とペンを構えた。
「起立!」
静寂が訪れた。
裁判長は私に「職業は?」と問いた。(この裁判はのちに法曹史上、異例な事態が続き、裁判官も1名から3名に増員されることになるのだが、このときはまだ榎本裁判長ひとりだった。)
私は大きな声で「ネイル機械の販売です。」と答えた。私は`偽証した。記者たちのペンは止まったままだった。事件が過去になった瞬間だった。損保ジャパンは安心した。しかし、彼らは臆病だった。なお、念のため判決を待った。さらに1年半が過ぎた。
そして判決。ただちに損保ジャパンの顧問弁護士から「検討の結果、今回の事故は無責と判断します。」との書面が届いた。わかりやすい会社だ。それゆえ、たとえ保釈中であっても、自殺と疑わしくても、そこに死への可能性があった。保釈中の溺死。しかも死体が回収されれば必ず災害保険金があわただしく支払われる。私の読みは正しかったろう。しかし計画が実行されることはなかった。私は保釈却下され、その後、妻は保険料が支払えなくなり、生命保険契約は消滅した。生命保険の名義変更は結局、無駄だった。

法廷の応酬

平成18年10月11日。罪状認否法廷日。私が罪を認めるかわりに保釈を認められるはずの日。私の再出発の日。私はこの日を半年間待ち続けた。ようやく会社に戻り、家族を助け、お寺にお詫びに回れるのだ。
そして・・・楽になる。この日、この事件の担当者である保田副検事は研修のため欠席だった。
午前中、私はひさしぶりに松岡弁護士の訪問を突然受けた。私はただ半年間、松岡弁護士に「保釈」中になんでもやるよう言われ続けていた。前置きはなかった。
「残念だったな。保釈は無理だった。運が悪かったな。」
私は言葉を失った。
「・・・・せ せんせい なんで・・」
松岡弁護士は無機質な目でそういう私の狼狽を観察していた。
「午前中裁判長と直接かけあったんだが、裁判長が上しかみてないから話にならん。」(この人はいつも人の悪口で意味不明だった。)
「先生はお寺へのお詫びでもなんでも保釈中に君がやればいい とおっしゃいました。だから私は保釈を待ち続けました。」そこまで言うと松岡弁護士は言葉を遮り、
「私は`保釈`なんて一度も言った覚えはない!」と部屋に響く大声で突然怒鳴った。私は涙が出そうになるのをこらえるのに必死だった。絶望。私がこの日が近づくにつれ漠然と抱き、無意識のレベルで まさかと自分で否定していた。拘置所へそしてまた留置場へ孤独な日々。彼の面談はほとんどなかった。何を尋ねても「私は知らん。保釈中に君が自分ですればいい。」だった。7月、拘置所から橿原警察署の留置場に戻ってきたとき、囚人も一新し同部屋はパチンコ屋専門のゴト師集団のひとりと婦女暴行3人(6人で3人和解)の20代の2人だった。
「また来たのかよっ。」と言いながら、毎日のように訪問に来る国選弁護人に会うため交互に檻を出ていく彼らを「いってらっしゃい。」と見送る妬み、虚しさ。私は国選弁護士というのがうらやましかった。
「くまさん、手紙で依頼したら。きっと忘れられてるんですよ」と言われ、遠慮がちに書き続けたこの人への手紙。それでも面会依頼は無視され面会はなかった。あまりに来ない面会に留置場の職員もたまりかねて「警察からも弁護士を呼び出せるから。」と言って電話をかけに行き、しばらくすると、顔を紅潮させて戻ってきて「用があるなら手紙をかけだとよ。」と吐き捨てるように私に言い、「目と鼻の先なのにあんな高慢な弁護士は見たことがない。解任しろっ。」とどかどか出て行った留置場の署員・・
 それでも何日か後にやってきた彼に「保釈のことが心配で私にやれることは何かありますか。」と話し始めるなり「そんなくだらないことでこの私を呼んだのか。私は忙しいんだ。他に話がないなら失礼する。」と出て行ってしまった。それでも保釈までの我慢だと自分に言い聞かせてきた。妻はバイトで必死に働き大村刑事の携帯に「主人はあと何日ぐらいかかりますか。」と問い合わせてきていた。
この弁護士は遠くの妻をまったく無視し、事務所の電話にも出なかったのだ。友人や知人も同じだった。
保険業法が私の不在のまま施行になり、従業員は指示を仰ぐ悲鳴に近い文章をメールに打ち、それはそのまま何日もやまと法律事務所に放置された。今、この法廷直前の面会室で消えかかってるのは私ではなく私の大切な家族、私の会社の運命だった・・保釈金融資制度・・・多くて500万・・・・保釈・・・・そしてお寺にお詫びして回って、・・・楽になる。生命保険金を妻が受け取る。はずだった。私はどうすればいいんだろう。とにかく家族を助けなければ・・・・。なんとかしなければ。弁護士が消えた面会室で私は得体の知れない急速な動悸に襲われていた。そのまま午後の法廷の時間になった。罪状認否法廷は次のスケジュールを決めて5分程度で終わるはずだった。
「それでは次回公判日は・・・」
私は立ち上がり、突然 裁判長に襲いかかった。ざわめく法廷。一斉に立ち上がりかける拘置所職員。
裁判長はそれらを目で制した。私は裁判台の真っ正面に立った・・・・
「お、お願いです。裁判長。保釈、保釈だけは・・・。お願いします。今、妻が必死に働いて家を支えています。助けてやってください。保釈だけは・・・」声が続かない。すかさず、保田副検事の代わりに出席していた小柄の首席検事が私を口撃する。
「奥さんの実家もあるでしょ。支援はあるでしょ。」
「妻の実家も決して裕福ではなく、支援は無理です。貯金もありません。時給で早朝から夜中まで2つのバイトをする妻は私が出て、助けてやるしかないのです。」
「兄弟は?知人は?」検察との応酬はしばらく続いた。
「お願いです。裁判長!お願いします。」私は膝に手をつき涙声になった。裁判長は不適切発言に制止をしなかった。ただうなずきもしなかった。ただ私をじっと見ていた。
(妻を助けたい。)・・・ただそれだけ。
会社や従業員を守りたい。・・・・・それはもう諦めかけていた。裁判長は無言だった。実は、この公判で奈良地方裁判所はもはや独自判断で保釈を出せなくなっていたのだ。松岡弁護士はまだ罪状認否法廷が終わらない段階でいくつも保釈申請をした。国選弁護士ですらしないことだった。そしてそれが却下されると、激こうして大阪高等裁判所に保釈準抗告を行った。わたしがやたら届く書類について面会に来ない彼の代わりに大村刑事に尋ねると、「申請料ほしさだろ。おかしなことする弁護士だな。」と大村刑事は首をかしげた。大阪高等裁判所は罪状認否前の申請なので、当然却下の「決定」を下し、追起訴方式になっている資料などを見て89条第3項を追認する形で「却下決定書」を発した。
刑法89条第3項
=『被告人が"常習として、長期3カ年以上の懲役又は禁錮にあたる罪を犯したものであるとき』
下級審はいったん下された上級審の決定書に抗えない。当然、権利保釈が当然と言える事件が手続のマジックにより裁量保釈さえ難しくなっていたのだ。まだ・・・裁判長はじっと見て何も答えなかった。
「被告人は静粛に。」と制止もしなかった。彼はこの私の不適切発言が「狂気」から発せられたものなのか、「真実」から発せられたものなのかを見極めようとしていた。そして裁判長はこの哀れなサラリーマンを救うため唯一下級審のできること 裁判官の釈明権を使い、異例の「再鑑定」の実施を行うことを心に決め始めていた。そうしなければこの被告人はあまりに哀れだった。

発狂

平成18年11月 保釈却下の精神不安定との判断から保護独房に移された私は、しばらくして 発狂した。私にはパートする妻の姿が伝わってきた。テレパシーだった。助けなければ・・・。起床とともに布団を房の中心に縦にして積み上げ、そこの周りをぐるぐるぐるぐる回り始めた。番号を呼ばれるときだけサッと正座し、またすぐ立ち上がりぐるぐる布団の周りを回る。回るのを休止するとたちまち脈が200を超え、汗が吹き出てくる。皮膚の溝から出る普通の汗ではない。皮膚のひだの頂点からでる防御汗だ。とまることが出来ない。物理的に出来ないのだ。ただ回る。回り続ける。朝から夕まで。保護独房は一般独房より1畳分狭い。そしてたまに布団から軌道をそれ洗面台まで行くと、気が狂ったかのようにひたすら歯を磨いた。口からは血が流れた。それを数十分すると、はっと気が付いたようにまたぐるぐる布団の周りを回り続ける。1日数えられないぐらい歯を磨く。血を流す。配食が入ると手でつかみ2,3口に入れそのまま返し、・・・また回り続ける。たまに職員か房の前を通るのを見つけると指を突きつけながら、大声で何か意味不明なことをしゃべりまくった。
口の周りには白い泡がかにのようにぶくぶく出ていた。
それでも何か大声で奇声を発しながら、あるいは終日無言で、私は部屋の真ん中に置かれた布団を踏まないよう、ぐるぐるぐるぐる朝から夕方の点検まで回り続けた。就寝時刻になるとピタッと回るのを止め、死んだように朝まで目を開けなかった。目を開けたとたんふたたび回りだす。それはハツカネズミそのものだった。私は日に日に痩せていった。週2日廊下の先の浴室へ引き釣りだされる私の体重は5K単位で減っていった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ小さくくもった浴場のなかに浮かぶ鏡で見た私の顔はまさにムンクの叫び。白い廃人がそこにいた。
「・・・これが自分・・・」
一瞬我に返ったが、房に帰るとまた発狂した。
50Kを切ると医師は体重減少を食い止めるためにトレドミンを増やし、ついに3倍量にした。
「これ以上の坑うつ剤の投与はできない・・・もう限界だ。」と菊池医師は言った。
私の体重は39Kgになった。
私は突然動きが緩慢になり、そして序々に動かなくなった。