仏像の上京
平成18年3月。
報道の騒動はおさまって、警察は全国の寺院に仏像や寺院建物に防犯カメラやセンサーを設置するよう指導を行った。
それは各地元の警察官を小寺院まで訪問させる徹底したものだった。
セコムは過去最高の売上げをあげた。
そしてさらに半年・・・・
独房のなかに監禁されたままの私を仏像ブームが襲った。
保釈却下になった10月。
私の代わりに東京に戻った(上京した)のは仏像だった。
史上初の東京での仏像展。
10月~12月に上野の東京国立博物館で開催された「仏像:一木にこめられた祈り」展。
私を拘禁されたままだった。
そして仏像ブームが起きた。
2006年度のグーグルの検索指数は2月に事件が一時3.00を超え、そのあとから「仏像」の検索指数が私の事件が忘れられるにつれ、代わって、じわじわ上がりはじめ年の終わりにはついに2.00を超えた。

仏像の写真がグラビアの代わり週刊ポストの裏表紙を飾った。「仏像のひみつ」などマイナーな本がベストセラーとして平積みされ書店に並びはじめた。

初めてヤフオクに仏像が出た。
誰も宗教を語っていなかった。
仏像の本に追い出されいわゆる仏教関係の本は書棚から消えはじめた。
心の本が消え始めた。
うつ病の本が急激に増えた。
美術関係本では仏像が日本彫刻の分野から別かれた。
平成19年。
仏像に「イケメン」とか「しょうゆ顔」とか付けられ、アイドル並みに「私の好きな仏像!人気ランキング」などのブログが拡大し始めた。興福寺の阿修羅像にファンクラブができた。
「仏像のひみつ」は版を重ねていた。
さらに仏像はアイドルを通り越し、生身の人間のように扱われ始めた。
大寺院と研究者は手当たり次第に仏像にX線検査をし始めた。
東京での初の仏像展の開催も予定された。薬師寺 そして法隆寺も・・世界遺産ブームが拍車をかけた。
篭仏が体内に発見された運慶の仏像は、仏像なのにクリスティーズオークションに出品され、宗教団体に11億円で落札された。
寺院関係者はこぞって自寺院の仏像の価値を調べようとし、東大寺は世界で始めて人間より先に仏像を守るために免震構造の建物を導入すると発表し世界で驚かれた。
全国の大仏・有名仏の前ではミュージシャンが袈裟姿の若い僧侶とともにコンサートを開いた。
せんと君。なーむくんの登場。
日本より歴史の古いキリスト像やマリア像にこんなことが行われるだろうか?
突然の仏像バブルに大寺院は潤い金銭感覚は麻痺したようだった。
上野の森に私の代わりに戻った奈良の仏像は仏像ブームを起こした。
30年前、飛鳥ブームを起こしたように。
西国33カ寺は2009年から千年ぶりに秘仏公開をしていくことを決めた。
『物や仏を拠り所にしている間は真の仏法は広まらない。』
私の行為の拠り所となった言葉。
わたしは昨年12月9日の自殺未遂の日に見た十一面観音の言葉を翻った。
現実はまったく逆になった。
奈良国立博物館館長による無名仏の評価額は各お寺が、警察に申告したより何倍も高くなった。
そして11月 法隆寺から500万円を超える請求書が独房に届いた。


突然だった。
予想外の高額だった。
私は2月以来独房から法隆寺におわび状を発送し続けた。
「申し訳ございません。私は今、すべてを失いましたが出所したら一生かけて償います。本当に申し訳ございません。」と。何通も何通も・・・・・。
民事上の被請求者は拘置所の中にいる私にではなく`外にいる妻を直撃する。
私は愕然となり、気が狂いそうになった。
胸を刺す冷たい表題に、冷めた挨拶、事務的な金額の羅列が連ねてあるだけだった。
それは警察が10カ月前、教えてくれた被害額180万円より3倍近く多かった。こんなことがあるのだろうか。
信じられない。国宝建物と名刹寺の仏像である。いくらなんでも保険が担保されているはずだった。
事件当時。
「くまさん。法隆寺は保険掛けとったから安心せいや。そう落ち込むな。どうせ台風の度に取り替えている昭和の木材で出来た格子や。出所してからゆっくり払ったらええ。くまさんは普通の真面目な人間やから、お寺さんもそれで許してくれると思うで。」と何度警察で慰められたろう。
起訴状でも被害額は180万円になっていたはず。明らかに私の壊した部分以外も含めた、事件ついでの建物改修工事費用の請求だった。多額の一括請求の裏には法隆寺の過去からのミスが隠されていた。保険の手当漏れ!? どちらかというと私は拘禁されたまま、刑務所に消えてもらいたかった。
ある行事が無事終わるまでは。妻はパートし、必死に住宅ローンを維持していた。すべてがぎりぎりだった。この独房に届いた一枚は家族のほとんど次々失った夢の、それでも なんとか生き延びるため最後の夢の放棄を請求していた。マイホームの売却・・。
世界遺産ブーム、仏像ブーム、増える観光客、・・・
法隆寺にとってこの際、一家族の運命はどうでも良かった。
外交行事の前にトラブルになることは何としても避けたかった。

法隆寺の僧侶組織はお寺のそれというより西の`霞が関 だった。
報道の騒動はおさまって、警察は全国の寺院に仏像や寺院建物に防犯カメラやセンサーを設置するよう指導を行った。
それは各地元の警察官を小寺院まで訪問させる徹底したものだった。
セコムは過去最高の売上げをあげた。

そしてさらに半年・・・・
独房のなかに監禁されたままの私を仏像ブームが襲った。
保釈却下になった10月。
私の代わりに東京に戻った(上京した)のは仏像だった。

史上初の東京での仏像展。
10月~12月に上野の東京国立博物館で開催された「仏像:一木にこめられた祈り」展。
私を拘禁されたままだった。
そして仏像ブームが起きた。
2006年度のグーグルの検索指数は2月に事件が一時3.00を超え、そのあとから「仏像」の検索指数が私の事件が忘れられるにつれ、代わって、じわじわ上がりはじめ年の終わりにはついに2.00を超えた。

仏像の写真がグラビアの代わり週刊ポストの裏表紙を飾った。「仏像のひみつ」などマイナーな本がベストセラーとして平積みされ書店に並びはじめた。

初めてヤフオクに仏像が出た。
誰も宗教を語っていなかった。
仏像の本に追い出されいわゆる仏教関係の本は書棚から消えはじめた。
心の本が消え始めた。
うつ病の本が急激に増えた。
美術関係本では仏像が日本彫刻の分野から別かれた。
平成19年。
仏像に「イケメン」とか「しょうゆ顔」とか付けられ、アイドル並みに「私の好きな仏像!人気ランキング」などのブログが拡大し始めた。興福寺の阿修羅像にファンクラブができた。
「仏像のひみつ」は版を重ねていた。
さらに仏像はアイドルを通り越し、生身の人間のように扱われ始めた。
大寺院と研究者は手当たり次第に仏像にX線検査をし始めた。
東京での初の仏像展の開催も予定された。薬師寺 そして法隆寺も・・世界遺産ブームが拍車をかけた。
篭仏が体内に発見された運慶の仏像は、仏像なのにクリスティーズオークションに出品され、宗教団体に11億円で落札された。

寺院関係者はこぞって自寺院の仏像の価値を調べようとし、東大寺は世界で始めて人間より先に仏像を守るために免震構造の建物を導入すると発表し世界で驚かれた。全国の大仏・有名仏の前ではミュージシャンが袈裟姿の若い僧侶とともにコンサートを開いた。
せんと君。なーむくんの登場。
日本より歴史の古いキリスト像やマリア像にこんなことが行われるだろうか?
突然の仏像バブルに大寺院は潤い金銭感覚は麻痺したようだった。
上野の森に私の代わりに戻った奈良の仏像は仏像ブームを起こした。
30年前、飛鳥ブームを起こしたように。
西国33カ寺は2009年から千年ぶりに秘仏公開をしていくことを決めた。
『物や仏を拠り所にしている間は真の仏法は広まらない。』
私の行為の拠り所となった言葉。
わたしは昨年12月9日の自殺未遂の日に見た十一面観音の言葉を翻った。
現実はまったく逆になった。
奈良国立博物館館長による無名仏の評価額は各お寺が、警察に申告したより何倍も高くなった。
そして11月 法隆寺から500万円を超える請求書が独房に届いた。


突然だった。
予想外の高額だった。
私は2月以来独房から法隆寺におわび状を発送し続けた。
「申し訳ございません。私は今、すべてを失いましたが出所したら一生かけて償います。本当に申し訳ございません。」と。何通も何通も・・・・・。
民事上の被請求者は拘置所の中にいる私にではなく`外にいる妻を直撃する。
私は愕然となり、気が狂いそうになった。
胸を刺す冷たい表題に、冷めた挨拶、事務的な金額の羅列が連ねてあるだけだった。
それは警察が10カ月前、教えてくれた被害額180万円より3倍近く多かった。こんなことがあるのだろうか。
信じられない。国宝建物と名刹寺の仏像である。いくらなんでも保険が担保されているはずだった。事件当時。
「くまさん。法隆寺は保険掛けとったから安心せいや。そう落ち込むな。どうせ台風の度に取り替えている昭和の木材で出来た格子や。出所してからゆっくり払ったらええ。くまさんは普通の真面目な人間やから、お寺さんもそれで許してくれると思うで。」と何度警察で慰められたろう。
起訴状でも被害額は180万円になっていたはず。明らかに私の壊した部分以外も含めた、事件ついでの建物改修工事費用の請求だった。多額の一括請求の裏には法隆寺の過去からのミスが隠されていた。保険の手当漏れ!? どちらかというと私は拘禁されたまま、刑務所に消えてもらいたかった。
ある行事が無事終わるまでは。妻はパートし、必死に住宅ローンを維持していた。すべてがぎりぎりだった。この独房に届いた一枚は家族のほとんど次々失った夢の、それでも なんとか生き延びるため最後の夢の放棄を請求していた。マイホームの売却・・。
世界遺産ブーム、仏像ブーム、増える観光客、・・・
法隆寺にとってこの際、一家族の運命はどうでも良かった。

外交行事の前にトラブルになることは何としても避けたかった。

法隆寺の僧侶組織はお寺のそれというより西の`霞が関 だった。
副都心バブル
3年ぶりに自宅に向かうとそこはコイン駐車場になっていた。
私の自宅の住所は新宿区三栄町で東口から徒歩15分の商業一等地にあったはずだった。
東口から48F建ての損保ジャパン本社ビルを遮るように異様な光沢を放つ、巨大な高層ビルが出来上がっていた。
このビルは私が独房にいる間に建ち始め、その波状したバブルの揺れはあっという間に私の自宅兼ビルを奪った。
副都心線が開通した動脈の上で、新しい大きなビルが生まれ古い小さなビルは消えた・・
5年前、保険制度立ち上げ。
私はサラリーの半生を頭金に都心にちいさなこの古いビルを買った。
この商業もできる自宅ビルは万一の時、家族に残されるはずの唯一の将来の礎だった。
私は知らなかった。
平成18年8月 新宿区を中心に東京で土地バブルが発生したことを・・・・
彼は顧問料に執着したように私の残された都心一等地のこの土地にこだわっていた。
まったく音信不通だった宗田弁護士が、突然9月に動き出した。
「息子さんの弁護の件で・・」彼が永田町へ呼び出したのは長野に住んでいたなんと76歳の老父だった。
事務所にファイルされていた私の身分や日本赤十字への募金など社会貢献していたことを示す資料をいまさら老父に渡した。
平成18年10月事件から既に8カ月が経っていた。
同時に会社の従業員に電話し「大隈さんの弁護をしております顧問の宗田と申しますが・・・・」と私が役員業務を行っていたことを示す資料を要請した。
従業員達は事件から8カ月過ぎて、突然かかってきた顧問と名乗る弁護士の出現に当惑した。
しかし私を救う決断をした。
長すぎる。
従業員の心配。
オーナーも 一瞬 人間に戻った。
このままネイル販売業のままにしておけない。
遊び終わった水がかけられていない、地面に落ちている花火。
会社の危機を招くかもしれない保険法人の資料を提出することを決断した。
彼の単なるポーズ活動とも知らずに。
小田急不動産を通じて、新宿の売却広告を出されていると知ったのは老父の手紙からだった。
私には一切、通信が無いまま。
すべての書信を無視しつづけている彼が一瞬動いたのは、父と新宿ビル売却を話し合うためのきっかけを作るためだった。
私が広告を知ったときには既に住専処理の権威である彼の紹介による、完璧な売却への布陣が小田急不動産とデベロッパーを中心に構築されていた。
父はバブル時代に一攫千金を夢見て、大隈家の財産をすべて株式運用・ワラントに投じ失敗した。
銀行員だったため人並より若干高く支給される毎月の老後年金だけで生活していた。
父は宝くじが当たったようなこの話に有頂天になった。
宗田弁護士は老人に活力を与え、巧みに主人公の役を与えた。
自身は終始`アドバイスをしただけだった。
それでも年金生活者の老父は信奉し懸命になった。
高額な売却金額を聞き、妻は私の逮捕以来、初めて、我に返った。
事件以来、死に物狂いで朝6:00前から夜間まで働き続けていただけだった。
いっこうに楽にならず・・・そして、老父に「結論」だけ求められた。
妻の生活に選択の余地はなかった。
こうして老父と妻はみごとにおぼれるものの藁に捕まった。
すべて彼のシナリオ通りだった。
私は老父と妻に書信し、必死に「売却したら終わり。」ととどまるよう懇願したが、高額な売却金額はもはや父と妻から冷静さを失わせた。5年以内短期売却税率も知らない老いた父と純朴な地方出身の妻。
彼は都心一等地の土地を動かしたいだけなのだ。
独房からの郵便はあまりにもこのバブル話にあまりに無力だ。
私はただの遠くの部外者だった。
もはや「売却金をどちらが受け取るか。」骨肉の話に変わっていた。
主導権を握る攻撃側の老父と地方で1日も休めず守勢の妻。
「○○さんは光祐が思っているほど金銭的に困っていないのよ。思い込みよ。彼女は悠々自適よ。」
老父を止めてくれると期待した母まで幻を語りだし、姑になっていた。
独房の病身の私は妻の権利を守るのが精一杯だった。
このシナリオを書いた脚本家に書信した。
「妻にすべてを。妻を守ってください。先生が頼りです。お願いします。」と。敗北宣言だった。
彼から拘置所に初めて応答があった。それはすべてを思い通りに運んでいる君主の余裕の回答だった。
「私を馬鹿にしたものはすべてを失うんですよ。分かりましたか。」彼の声が聞こえてくるようだった。
そのころ、私は殆ど動けなくなった。
所長が
「今日は特別に面会時間を15分から30分に延長するから。」と伝えてきた。
ぜぇぜぇ ぜぇ ぜぇ
久しぶりの階段を職員「大丈夫か。ゆっくりでええで。」の声を背に降り、面会室に入ると そこにぞろぞろとオールスターが入ってきた。
不動産会社、土地開発会社、司法書士 狭い面会室はいっぱいになった。
「宗田先生のご紹介で押印をいただきに参りました。」
異様な取引光景だった。
今度は・・・私が選択の余地がなかった。
私があくまでも売却しないよう書いた最後の手紙に対して、押印をしなければ妻へのわずかな送金を打ち切る「地獄に落ちる。」と震える字で届いた父の手紙。
認知が入り始めていた老父はもはや役柄をまっとうするために何をするか見当がつかなかった。
彼は把握していた。長野に住む老父が私のビル土地の管理をしていることを。
3月、全く音信不能の弁護士、遠く隠れた妻、唯一面会に来てくれた老父に「私は給与のほとんどを仕事に投じて生きてきて家を買い、貯金もありません。妻を助けて。当面、新宿3階建てビルを毎月50万円~100万円くらいで賃貸不動産屋に貸して、その中から8万円のローンを支払い妻に2、30万円ほど援助してほしい。」と頼んだ。
「そんな面倒くさい手続きは老人にはできない。自分で出所してから考えろ。年金から貸しておくから。だがその代わり不動産は任せられん。女は足元見られる。」
父は物腰は柔らかかったが老人特有の頑なさが生じており、たった面会時間15分で不動産活用の話をするのは難しかった。不動産収入は凍結された。妻は東京のマスコミへの恐怖心から全てを老人に任せ、ただ働き続けた。
その家族関係すら彼は売却に利用した。
私からの書信に応じず、不動産の収入はストップ。
兵糧攻め。
おそらく彼は売却広告を出したときに既にこのラストシーンを描いていたのだろう。
説明もほとんどなかった。宗田弁護士の印籠で押印を取るだけ。
パンくい競争で100m走ってきて、すぐ東京のゴールに戻るため面会室を出て行った俳優達。
これば明らかに常軌を逸した不動産取引だ。
ひとりの脅迫なら分かる。全員が静かな脅迫者だった。パーフェクトな布陣。
「すいません。ぜぇ ぜぇ ぜぇ。速達を ぜぇ 3通出したいのですが・・」2Fへの山登り。房にたどり着いた私は特別願箋を願い出た。
奈良の拘置所で病人を襲った、この東京から突然来た場違いなバブルの嵐を、同席した所長もさすがに異常と感じたのだろう。即日、発送の許可が出た。
「売却は待ってください。最低でも代替物件を手当てしてくれなければ家族は困ります。」小田急不動産、司法書士、開発会社に手紙を送った。
新幹線と同じスピードで届くように願って書いた。
返事は無かった。
彼らにとって私はもはや用済みだった。私は自社ビルを失い、そのかわり、ようやく人並みの弁護活動を得るのだろう。と思った。
「私は光祐氏の弁護士ではありません。念のため。」と唖然とする書信があったのは数日後のことだった。
やはり一瞬の弁護活動はポーズだった。3月と同じように・・
彼に人の血は流れているのだろうか。
顧問料、紹介料も充分すぎるほど得た。彼のやりたい`仕事は終わった。
私は東京に帰る場所を失った。
出所後の収入の道も完全に途絶えた。
それは妻も同じだった。
東京に帰ることはもはやないだろう。
ふたりの別れのときが近づいていた。
私の自宅の住所は新宿区三栄町で東口から徒歩15分の商業一等地にあったはずだった。
東口から48F建ての損保ジャパン本社ビルを遮るように異様な光沢を放つ、巨大な高層ビルが出来上がっていた。

このビルは私が独房にいる間に建ち始め、その波状したバブルの揺れはあっという間に私の自宅兼ビルを奪った。
副都心線が開通した動脈の上で、新しい大きなビルが生まれ古い小さなビルは消えた・・
5年前、保険制度立ち上げ。
私はサラリーの半生を頭金に都心にちいさなこの古いビルを買った。
この商業もできる自宅ビルは万一の時、家族に残されるはずの唯一の将来の礎だった。
私は知らなかった。
平成18年8月 新宿区を中心に東京で土地バブルが発生したことを・・・・
彼は顧問料に執着したように私の残された都心一等地のこの土地にこだわっていた。
まったく音信不通だった宗田弁護士が、突然9月に動き出した。
「息子さんの弁護の件で・・」彼が永田町へ呼び出したのは長野に住んでいたなんと76歳の老父だった。
事務所にファイルされていた私の身分や日本赤十字への募金など社会貢献していたことを示す資料をいまさら老父に渡した。
平成18年10月事件から既に8カ月が経っていた。
同時に会社の従業員に電話し「大隈さんの弁護をしております顧問の宗田と申しますが・・・・」と私が役員業務を行っていたことを示す資料を要請した。
従業員達は事件から8カ月過ぎて、突然かかってきた顧問と名乗る弁護士の出現に当惑した。
しかし私を救う決断をした。
長すぎる。
従業員の心配。
オーナーも 一瞬 人間に戻った。
このままネイル販売業のままにしておけない。
遊び終わった水がかけられていない、地面に落ちている花火。
会社の危機を招くかもしれない保険法人の資料を提出することを決断した。
彼の単なるポーズ活動とも知らずに。
小田急不動産を通じて、新宿の売却広告を出されていると知ったのは老父の手紙からだった。
私には一切、通信が無いまま。
すべての書信を無視しつづけている彼が一瞬動いたのは、父と新宿ビル売却を話し合うためのきっかけを作るためだった。
私が広告を知ったときには既に住専処理の権威である彼の紹介による、完璧な売却への布陣が小田急不動産とデベロッパーを中心に構築されていた。

父はバブル時代に一攫千金を夢見て、大隈家の財産をすべて株式運用・ワラントに投じ失敗した。
銀行員だったため人並より若干高く支給される毎月の老後年金だけで生活していた。
父は宝くじが当たったようなこの話に有頂天になった。
宗田弁護士は老人に活力を与え、巧みに主人公の役を与えた。
自身は終始`アドバイスをしただけだった。
それでも年金生活者の老父は信奉し懸命になった。
高額な売却金額を聞き、妻は私の逮捕以来、初めて、我に返った。
事件以来、死に物狂いで朝6:00前から夜間まで働き続けていただけだった。
いっこうに楽にならず・・・そして、老父に「結論」だけ求められた。
妻の生活に選択の余地はなかった。
こうして老父と妻はみごとにおぼれるものの藁に捕まった。
すべて彼のシナリオ通りだった。
私は老父と妻に書信し、必死に「売却したら終わり。」ととどまるよう懇願したが、高額な売却金額はもはや父と妻から冷静さを失わせた。5年以内短期売却税率も知らない老いた父と純朴な地方出身の妻。
彼は都心一等地の土地を動かしたいだけなのだ。
独房からの郵便はあまりにもこのバブル話にあまりに無力だ。
私はただの遠くの部外者だった。
もはや「売却金をどちらが受け取るか。」骨肉の話に変わっていた。
主導権を握る攻撃側の老父と地方で1日も休めず守勢の妻。
「○○さんは光祐が思っているほど金銭的に困っていないのよ。思い込みよ。彼女は悠々自適よ。」
老父を止めてくれると期待した母まで幻を語りだし、姑になっていた。
独房の病身の私は妻の権利を守るのが精一杯だった。
このシナリオを書いた脚本家に書信した。
「妻にすべてを。妻を守ってください。先生が頼りです。お願いします。」と。敗北宣言だった。
彼から拘置所に初めて応答があった。それはすべてを思い通りに運んでいる君主の余裕の回答だった。
「私を馬鹿にしたものはすべてを失うんですよ。分かりましたか。」彼の声が聞こえてくるようだった。
そのころ、私は殆ど動けなくなった。
所長が
「今日は特別に面会時間を15分から30分に延長するから。」と伝えてきた。
ぜぇぜぇ ぜぇ ぜぇ
久しぶりの階段を職員「大丈夫か。ゆっくりでええで。」の声を背に降り、面会室に入ると そこにぞろぞろとオールスターが入ってきた。
不動産会社、土地開発会社、司法書士 狭い面会室はいっぱいになった。
「宗田先生のご紹介で押印をいただきに参りました。」
異様な取引光景だった。
今度は・・・私が選択の余地がなかった。
私があくまでも売却しないよう書いた最後の手紙に対して、押印をしなければ妻へのわずかな送金を打ち切る「地獄に落ちる。」と震える字で届いた父の手紙。
認知が入り始めていた老父はもはや役柄をまっとうするために何をするか見当がつかなかった。
彼は把握していた。長野に住む老父が私のビル土地の管理をしていることを。
3月、全く音信不能の弁護士、遠く隠れた妻、唯一面会に来てくれた老父に「私は給与のほとんどを仕事に投じて生きてきて家を買い、貯金もありません。妻を助けて。当面、新宿3階建てビルを毎月50万円~100万円くらいで賃貸不動産屋に貸して、その中から8万円のローンを支払い妻に2、30万円ほど援助してほしい。」と頼んだ。
「そんな面倒くさい手続きは老人にはできない。自分で出所してから考えろ。年金から貸しておくから。だがその代わり不動産は任せられん。女は足元見られる。」
父は物腰は柔らかかったが老人特有の頑なさが生じており、たった面会時間15分で不動産活用の話をするのは難しかった。不動産収入は凍結された。妻は東京のマスコミへの恐怖心から全てを老人に任せ、ただ働き続けた。
その家族関係すら彼は売却に利用した。
私からの書信に応じず、不動産の収入はストップ。
兵糧攻め。
おそらく彼は売却広告を出したときに既にこのラストシーンを描いていたのだろう。
説明もほとんどなかった。宗田弁護士の印籠で押印を取るだけ。
パンくい競争で100m走ってきて、すぐ東京のゴールに戻るため面会室を出て行った俳優達。
これば明らかに常軌を逸した不動産取引だ。
ひとりの脅迫なら分かる。全員が静かな脅迫者だった。パーフェクトな布陣。
「すいません。ぜぇ ぜぇ ぜぇ。速達を ぜぇ 3通出したいのですが・・」2Fへの山登り。房にたどり着いた私は特別願箋を願い出た。
奈良の拘置所で病人を襲った、この東京から突然来た場違いなバブルの嵐を、同席した所長もさすがに異常と感じたのだろう。即日、発送の許可が出た。
「売却は待ってください。最低でも代替物件を手当てしてくれなければ家族は困ります。」小田急不動産、司法書士、開発会社に手紙を送った。
新幹線と同じスピードで届くように願って書いた。
返事は無かった。
彼らにとって私はもはや用済みだった。私は自社ビルを失い、そのかわり、ようやく人並みの弁護活動を得るのだろう。と思った。
「私は光祐氏の弁護士ではありません。念のため。」と唖然とする書信があったのは数日後のことだった。
やはり一瞬の弁護活動はポーズだった。3月と同じように・・
彼に人の血は流れているのだろうか。
顧問料、紹介料も充分すぎるほど得た。彼のやりたい`仕事は終わった。
私は東京に帰る場所を失った。
出所後の収入の道も完全に途絶えた。
それは妻も同じだった。
東京に帰ることはもはやないだろう。
ふたりの別れのときが近づいていた。
再精神鑑定
9月。松岡弁護士がはじめて各お寺に「突然失礼します。大隈の弁護をしております・・・・」と私の素性を明らかにした被害確認のための文章を発送したのは、なんと事件からもはや7カ月も経ってからだった。お寺側ははじめて事件を起こしたのが、普通のサラリーマンだったことを知った。既に今年3月末には警察が全寺を回り、窃盗団か常習犯まがいとして被害届けが取られ、各寺から「厳重に処罰してください。」と各住職より署名捺印が取られ、検察方針も決まり15寺全件が起訴された後だった。この郵便が10月に始まる本公判のための法律事務所の`形づくり`のためにすぎないことは明らかだった。この老弁護士にとって`弁護とは裁判所との関係であり`法廷への出席だった。その他は眼中になかった。私も含めて。
事件直後、お寺との和解折衝を頼んだ私の家族に対し、松岡弁護士は「私は弁護士で、子どもの使いじゃないんですから。私が動くとしたら最低1千万円は持って歩かないと格好がつきません。ご用意できますか?」と脅して、一切、初動をしてくれなかったと聞いた。検察官ですら法隆寺の現場を訪れたと聞いた。私はその話をのちに聞いて、彼はこの事件を本当に把握していたのだろうかと疑問を持った。被害がない寺がほとんどなことは当時新聞にも広く載っていた。あるいは事件は初動が大切で和解して法隆寺`1事件にできるはずと高飛車に言った東京の宗田弁護士に対する強烈な反発心、ライバル意識、イソ弁への立場が初動を一切放置させたのだろうか。
それでも、郵便にはいくつものお寺から、返事と温かいお言葉が添えられていた。被害はほとんど0円~10万円だった。保険が付帯されていた。
「くまさん。悪い。ニュースでは全部くまさんがこわした事になってるんやけど実は警察がほとんどは傷つけたんや。」と北川刑事は正直だった。捜査のため、いったん東京の500K 仏像十数体を奈良の橿原署にワゴン車で一晩で運んできた為、浅草寺の観音像その他の像が若干破損したらしかった。
そもそも都内を数キロ車で移動しただけで仏像がそんなに壊れるわけはなかった。しかし私が持ち出さなければ破損することもなかったのだから私が壊したに等しかった。
8、9月は何回も再逮捕が続いた。私はそれより会社のメール管理を法律事務所がきちんとしてくれているかが心配だった。9月30日の保険会社格上げ申請の関東財務局2次期限で頭がいっぱいだった。
私はその後、この身に起こる恐ろしい運命に気づいていなかった。松岡弁護士の訪問はなくなった。
(保釈までの我慢だ。耐えるのだ。大丈夫だ。)
9月末 松岡弁護士は完全に音信不通になった。警察から呼び出ししても無駄だった。
保釈却下の書類が何枚も届く。大村刑事に聞くと「罪状認否も終わっていないのに保釈申請なんて聞いたことないな。申請料ほしさだろ。」と呆れて言った。
電報を何通か打ったらようやく彼は訪問してきた。10月4日だった。私が「なぜか保釈却下の書類がやたらに届くのですが気になりまして・・」と言いかけるや否や、席をガタンと立ち、「私は忙しいんだ。君とそんなことをくだらない話している暇なんかない!私を留置場や拘置所なんかに呼ぶな。君とは今後、手紙でしかやり取りしたくない。」と言って出て行ってしまった。しかし手紙すら読まれていないのだ。裁判資料が勝手に届くことについての質問がなぜくだらないのだろう。
10月13日 初犯の私は前科6犯の゛窃盗常習者゛として保釈却下が決定した。
10月17日 私は面接室で松岡弁護士に激しく罵倒された。何かあったのか、入ってきたとたん`突然の八つ当たり`だった。
「だいたい君がネール機械販売なんて訳の分らないこと言っているから、保釈にもならなかったんだ。もし刑務所に行きたくなければネールなんかじゃなくて損保業でのストレスのことを詳しく紙にまとめて書いて事務所に送れ!。君とは話はしたくないから。そうしなきゃ刑務所行きだ!。」そう大声で一挙に言うと松岡弁護士は部屋を出て行った。私はうっぷした。
(なぜこれほど屈辱を与えられなければならないのか。)
この8カ月我慢し続けてきた。取り調べにも一生懸命に協力した。ほとんど無い記憶も刑事さんと相談して被害届けを付け合わせながら一生懸命供述調書を作った。弁護士が来ないのも保釈までの辛抱と我慢した。
その結果がこれだ。保釈にもならず、妻も会社もすべて守れず、あげくに密室で刑務所行きだと罵倒される。刑務所が怖いのではなかった。外で待っていた人たちただただ申し訳なかった。ついに守れなかった・・・・・。私はうっぷして泣いた。職員に呼ばれるまで面会室でただ泣き続けた。
11月7日(火)松岡弁護士から書信が届いた。
『君にはそろそろ見切りをつけたいと思います。13日の法廷で陳述書を提出するので、`この間話したこと`をまとめておいて下さい。ワープロにするので近日取りに行きます。』
これだけ書いてあるだけだった。私は職員の人に相談した。
「来週の月曜日 13日の公判は何が行われるのですか? 陳述書とは何ですか?便せんもありませんし。」公判の内容さえ知らない収容者。若い優しい職員は文面をみて
「これはひどい。ひどすぎる!。ちょっと待ってて。詳しい職員の人を連れてくるから。」
主任職員がやってきた。
「とりあえず日がないな。便せんがないのか。まず特別購入願せんを書いて便せんを手配しよう。それからボールペーンを部屋に入れよう。」
私は日中の一定時間以外は段ボール箱以外のすべての衣類、筆記具、ノート、が部屋から回収される、特別保護観察の状態にあった。
陳述書を書くため、その日は20時の就寝時間一時間前まで筆記具を独房に入れることが特別に許可された。
「松岡弁護士が便せんに書けと言う`この間話したこと`とは「ネールなんかじゃなくてて損保業でのストレスのことを詳しく紙にまとめて書いて送れ!」・・・`しか考えられなかった。
ネール業で通すというのは最初に依頼したときの約束のはず。
私の守りたいもの。黙秘権すら否定された。
しかし私には考えている暇はなかった。月曜は法廷なのだ。段ボール箱は真ん中がへこみ、ボールペンがすぐ刺さってなかなか進まない。私は保険会社設立のことは書かず、ストレスっぽいことをなんとか書き上げた。翌日、松岡弁護士が陳述書を取りにきた。満足そうだ。私は思い切って気になっていることを尋ねた。
「9月にお寺に発送していただいた文書のお返事のことですが、その後お返事いかがでしょうか?」
「あれから戻っていない。」
「先生。被害のなかったお寺などは返信用封筒もなく、連絡もなければ、返信しないか、忘れてしまっているのだと思います。先生から一度、お電話をしていただき、返事のないお寺の被害の有無を確認していただけないでしょうか?」これが先生の癇に障った。
「だいたい弁護士からの郵送物を無視する寺なんて私を馬鹿にしている。私は一切相手にする気はない!」
この人は常に癇癪の固まりだった。全てに苛立った。先生は部屋を立って出て行った。
11月10日。松岡弁護士がワープロにした「陳述書」に捺印を取りにきた。無言だった。
彼が用事があったのは私ではなく私の人差し指だけだった。週明けには裁判中、最も重要といわれる弁護法廷であるのに、結局何の打ち合わせのないまま、彼は私から書類を受け取るとそそくさと部屋を出て行った。法廷での弁護士からの質問すら分からない。まったく先の見えない裁判だった。
11月13日弁護法廷。
「これだけ?各病院の診断書はまだ揃っていないのですか。」
裁判長はいきなり小声で不機嫌そうに言った。検察庁の調べで私の通院している病院はすべて判明していた。第一次鑑定のため順天堂病院のカルテは検察庁が取り寄せていたので、残りの5つの病院のカルテは弁護士側が取り寄せ、本日提出するよう、公判前整理が実施されていたのだ。裁判長はカルテを揃えて、史上初の「再鑑定」を裁判所で実施する決意だったのだ。それがこの拘禁をされ続けるサラリーマンを東京に返すことができる裁判所のできる唯一の方法だった。やまと法律事務所は怠慢だった。松岡弁護士は言った。
「村島医院は届いたのですが他はまだ・・・次回までに必ず揃えます。」裁判長の予定では本日で審理をいったん止め、再鑑定を実施する予定だった。そのスケジュールすら老弁護士により・・・狂った。
「弁護側はカルテを次回法廷までに提出するように。」裁判長は念を押した。
・・・・再鑑定・・・・・それは精神鑑定をもう一度、新たな医師でやり直すことだった。
裁判がさらに半年延びることを意味していた。裁判長は知らなかった。私が普通の独房でなく保護観察独房に監禁され続けていることを。
・・・・あなたは何も心配いりません。みんなの為に生きますよ・・・・
私は房でひとりまた、読んだ。でも・・・
私はもう限界だった。(保険会社への夢は終わった。従業員と何千名もの加入者はどうなるのだろう。せめて妻だけは早く助けなければ。)
事件直後、お寺との和解折衝を頼んだ私の家族に対し、松岡弁護士は「私は弁護士で、子どもの使いじゃないんですから。私が動くとしたら最低1千万円は持って歩かないと格好がつきません。ご用意できますか?」と脅して、一切、初動をしてくれなかったと聞いた。検察官ですら法隆寺の現場を訪れたと聞いた。私はその話をのちに聞いて、彼はこの事件を本当に把握していたのだろうかと疑問を持った。被害がない寺がほとんどなことは当時新聞にも広く載っていた。あるいは事件は初動が大切で和解して法隆寺`1事件にできるはずと高飛車に言った東京の宗田弁護士に対する強烈な反発心、ライバル意識、イソ弁への立場が初動を一切放置させたのだろうか。
それでも、郵便にはいくつものお寺から、返事と温かいお言葉が添えられていた。被害はほとんど0円~10万円だった。保険が付帯されていた。
「くまさん。悪い。ニュースでは全部くまさんがこわした事になってるんやけど実は警察がほとんどは傷つけたんや。」と北川刑事は正直だった。捜査のため、いったん東京の500K 仏像十数体を奈良の橿原署にワゴン車で一晩で運んできた為、浅草寺の観音像その他の像が若干破損したらしかった。そもそも都内を数キロ車で移動しただけで仏像がそんなに壊れるわけはなかった。しかし私が持ち出さなければ破損することもなかったのだから私が壊したに等しかった。
8、9月は何回も再逮捕が続いた。私はそれより会社のメール管理を法律事務所がきちんとしてくれているかが心配だった。9月30日の保険会社格上げ申請の関東財務局2次期限で頭がいっぱいだった。私はその後、この身に起こる恐ろしい運命に気づいていなかった。松岡弁護士の訪問はなくなった。
(保釈までの我慢だ。耐えるのだ。大丈夫だ。)
9月末 松岡弁護士は完全に音信不通になった。警察から呼び出ししても無駄だった。
保釈却下の書類が何枚も届く。大村刑事に聞くと「罪状認否も終わっていないのに保釈申請なんて聞いたことないな。申請料ほしさだろ。」と呆れて言った。
電報を何通か打ったらようやく彼は訪問してきた。10月4日だった。私が「なぜか保釈却下の書類がやたらに届くのですが気になりまして・・」と言いかけるや否や、席をガタンと立ち、「私は忙しいんだ。君とそんなことをくだらない話している暇なんかない!私を留置場や拘置所なんかに呼ぶな。君とは今後、手紙でしかやり取りしたくない。」と言って出て行ってしまった。しかし手紙すら読まれていないのだ。裁判資料が勝手に届くことについての質問がなぜくだらないのだろう。
10月13日 初犯の私は前科6犯の゛窃盗常習者゛として保釈却下が決定した。
10月17日 私は面接室で松岡弁護士に激しく罵倒された。何かあったのか、入ってきたとたん`突然の八つ当たり`だった。
「だいたい君がネール機械販売なんて訳の分らないこと言っているから、保釈にもならなかったんだ。もし刑務所に行きたくなければネールなんかじゃなくて損保業でのストレスのことを詳しく紙にまとめて書いて事務所に送れ!。君とは話はしたくないから。そうしなきゃ刑務所行きだ!。」そう大声で一挙に言うと松岡弁護士は部屋を出て行った。私はうっぷした。
(なぜこれほど屈辱を与えられなければならないのか。)
この8カ月我慢し続けてきた。取り調べにも一生懸命に協力した。ほとんど無い記憶も刑事さんと相談して被害届けを付け合わせながら一生懸命供述調書を作った。弁護士が来ないのも保釈までの辛抱と我慢した。
その結果がこれだ。保釈にもならず、妻も会社もすべて守れず、あげくに密室で刑務所行きだと罵倒される。刑務所が怖いのではなかった。外で待っていた人たちただただ申し訳なかった。ついに守れなかった・・・・・。私はうっぷして泣いた。職員に呼ばれるまで面会室でただ泣き続けた。
11月7日(火)松岡弁護士から書信が届いた。
『君にはそろそろ見切りをつけたいと思います。13日の法廷で陳述書を提出するので、`この間話したこと`をまとめておいて下さい。ワープロにするので近日取りに行きます。』
これだけ書いてあるだけだった。私は職員の人に相談した。
「来週の月曜日 13日の公判は何が行われるのですか? 陳述書とは何ですか?便せんもありませんし。」公判の内容さえ知らない収容者。若い優しい職員は文面をみて
「これはひどい。ひどすぎる!。ちょっと待ってて。詳しい職員の人を連れてくるから。」
主任職員がやってきた。
「とりあえず日がないな。便せんがないのか。まず特別購入願せんを書いて便せんを手配しよう。それからボールペーンを部屋に入れよう。」
私は日中の一定時間以外は段ボール箱以外のすべての衣類、筆記具、ノート、が部屋から回収される、特別保護観察の状態にあった。陳述書を書くため、その日は20時の就寝時間一時間前まで筆記具を独房に入れることが特別に許可された。
「松岡弁護士が便せんに書けと言う`この間話したこと`とは「ネールなんかじゃなくてて損保業でのストレスのことを詳しく紙にまとめて書いて送れ!」・・・`しか考えられなかった。
ネール業で通すというのは最初に依頼したときの約束のはず。
私の守りたいもの。黙秘権すら否定された。
しかし私には考えている暇はなかった。月曜は法廷なのだ。段ボール箱は真ん中がへこみ、ボールペンがすぐ刺さってなかなか進まない。私は保険会社設立のことは書かず、ストレスっぽいことをなんとか書き上げた。翌日、松岡弁護士が陳述書を取りにきた。満足そうだ。私は思い切って気になっていることを尋ねた。
「9月にお寺に発送していただいた文書のお返事のことですが、その後お返事いかがでしょうか?」
「あれから戻っていない。」
「先生。被害のなかったお寺などは返信用封筒もなく、連絡もなければ、返信しないか、忘れてしまっているのだと思います。先生から一度、お電話をしていただき、返事のないお寺の被害の有無を確認していただけないでしょうか?」これが先生の癇に障った。
「だいたい弁護士からの郵送物を無視する寺なんて私を馬鹿にしている。私は一切相手にする気はない!」
この人は常に癇癪の固まりだった。全てに苛立った。先生は部屋を立って出て行った。
11月10日。松岡弁護士がワープロにした「陳述書」に捺印を取りにきた。無言だった。
彼が用事があったのは私ではなく私の人差し指だけだった。週明けには裁判中、最も重要といわれる弁護法廷であるのに、結局何の打ち合わせのないまま、彼は私から書類を受け取るとそそくさと部屋を出て行った。法廷での弁護士からの質問すら分からない。まったく先の見えない裁判だった。
11月13日弁護法廷。
「これだけ?各病院の診断書はまだ揃っていないのですか。」裁判長はいきなり小声で不機嫌そうに言った。検察庁の調べで私の通院している病院はすべて判明していた。第一次鑑定のため順天堂病院のカルテは検察庁が取り寄せていたので、残りの5つの病院のカルテは弁護士側が取り寄せ、本日提出するよう、公判前整理が実施されていたのだ。裁判長はカルテを揃えて、史上初の「再鑑定」を裁判所で実施する決意だったのだ。それがこの拘禁をされ続けるサラリーマンを東京に返すことができる裁判所のできる唯一の方法だった。やまと法律事務所は怠慢だった。松岡弁護士は言った。
「村島医院は届いたのですが他はまだ・・・次回までに必ず揃えます。」裁判長の予定では本日で審理をいったん止め、再鑑定を実施する予定だった。そのスケジュールすら老弁護士により・・・狂った。
「弁護側はカルテを次回法廷までに提出するように。」裁判長は念を押した。
・・・・再鑑定・・・・・それは精神鑑定をもう一度、新たな医師でやり直すことだった。
裁判がさらに半年延びることを意味していた。裁判長は知らなかった。私が普通の独房でなく保護観察独房に監禁され続けていることを。
・・・・あなたは何も心配いりません。みんなの為に生きますよ・・・・
私は房でひとりまた、読んだ。でも・・・
私はもう限界だった。(保険会社への夢は終わった。従業員と何千名もの加入者はどうなるのだろう。せめて妻だけは早く助けなければ。)