大隈光祐`アントワープの絵へ` -18ページ目

京都人

平成19年4月。京都拘置所に移管され1月から約3カ月続いた第二次鑑定(再鑑定)がようやく終了して、一週間が過ぎた。私の五感は相変わらず外界を拒み、左右の房の悪戦苦闘をよそに日中も横になりまどろみ続けていた。ガチャと扉があいた。
「大隈。鑑定の先生が来てるぞ。すぐ支度して出発!」私があわてて「えっ。鑑定は先週でもう終わったはずですが?」と聞き返すと、
「わしもわからん。とにかく来られとるさかい、急いで出ろ。」どうやら拘置所でも予定がなかったらしく少しあわてた様子。
毎週 連行され続けた京都拘置所内のコンクリートむき出しの廊下。何回も通過する大きな鉄格子でできた扉。江戸城の大奥とはこんな感じだったのだろう。検問をいくつか通り抜けると長く広い廊下の片側に取調室がいくつか並んでいた。入ると鑑定が始まったときはあったストーブはもう季節が過ぎて置いていなかった。黒い革の肘掛のついた大きな回転チェアと他の数個のイス。幅があり、収容者と取調者が距離を保つための大きなデスク。ただの小部屋にパイプ椅子があるだけの葛城支所の鑑定が行われた部屋と全く逆だ。しかし、その小さな部屋で行われた第一次精神鑑定には日本の精神医学の最先端の技術が投入されていた。
WAIS-R知能検査、MMPI人格多面検査、SCT、風景検査・・・
そして、史上初の精神鑑定のやり直し、京都の山間部で長く臨床施設病院長を務め、岸本教授より一回り年功な岡江医師によってこの3カ月間、この部屋で毎週1回1時間ずつ実施された。助手の医師の年齢がやっと岸本教授と同じぐらいだった。彼は奈良県立医大の永内助手がやったように私が話すことをすべてパソコンに打ち込んでいくような早業はしなかった。ボイスレコーダーが使われた。2月 再度、知能検査を行うため京都府立らくなん病院に連行された。拘置所から車に乗せられ、かなりの距離があった。
宇治の市外から山間部に道がうねり始めたところにその病院は建っていた。私は即座に平成18年2月、禁断症状のとき警察で連行された丘の上の飛鳥病院を思い出した。似た空気が流れていた。病院の前でバスを待っていると思われる20代半ばの太った男性は目は虚ろで焦点があっていない。病院のロビーでは2人ほどの老婆がゆっくりと徘徊している。やはり飛鳥病院だった。
病院のロビーを入り中に進むと 私は「わあー。」と声を上げ、涙があふれそうになった。
病院の中で私の方を見てにっこり笑っている人がいたからだ。大村刑事と池島係長だった。
「よっ。くまさん。ひさしぶり元気やったか。」と私に近づこうとするにつれ、彼らの顔はたちまち曇って私の前に来て大声に変わった。
「ど、どないしたんや。その顔。歯はどこへ行ったんや。それにその両腕のひどい傷。いったい何があったんや。」
再会・・・。予想していなかった懐かしい人に会い、さらに優しい声をかけられ言葉に詰まった。
たちまち目に泪があふれ前が見えなくなった。
京都拘置所で5感を放棄し無感情になっていたはずの私であったはずだったのに、私は・・。私の時間は一瞬にして昨年11月13日の`法廷の応酬`の場に戻された。
「再鑑定なんてしてもらわなくていいんです。 ただ わ、わたしは常習犯ではありません。私は、私は・・・うっうっうっ 」もうどうしようもなかった。まどろみの下に深い悲しみが隠れていた。
「信じてください!私は常習犯ではないのです。病院なんかじゃなく普通に裁いてっ お願いします うっうっ」過去の一点に止まり、普通の会話すらできなくなっている私・・・
大村刑事まで言葉に詰まった「そうだよな。そうだよな。くまさんは常習犯やない。普通の真面目な人間や。」それだけ言うのが彼もやっとだった。池島係長は「免疫力が低下してるから、傷がなおらへんのやろ。」と心配そうに腕の傷を見ている。その様子を見て、岡江医師が院長室からやってきた。大村刑事と池島係長は私を部屋に残し、岡江医師に「ちょっと。いいですか。」と言って部屋の外に連れ出した。
しばし、時間が流れた。
私とともに部屋に残された看護婦さんが手持無沙汰に「検査。やれそうですか。大丈夫ですか」と声をかけてくれた。私は「なんでもありません。ごめんなさい。やれます。」と答えた。あとから知ったが、このとき部屋の外では大村刑事達は私があまりにも別人のように変わり、憔悴しきっているのに驚き、そのことを医師に訴えてくれていたのだ。既にこの事件で、刑事の誰も役目の外では私を助けようとしていた。
しかし岡江医師はまさに役目中だった。彼らの話を拘置所の誤投薬のせいでこの被告人は情緒不安定になっていると曲解した。岡江医師だけが入ってきた。
「今、聞いたんだけどどうやら君はそうとう`憔悴しとる`ようやね。拘置所の投薬を変えて、抗うつ剤を減らして、ちょっと古い薬やけど安定する調合へ変えてみよう。」
大村刑事の意思は伝わらなかった。彼らはただこの人間から離れていくかつての容疑者をなんとか救いたかったのだ。「どうかよろしく」と。しかし臨床精神科病院長にとっては見慣れた回りの患者のひとりにすぎなかった。私の前歯がなかろうと腕の傷がいつまでも治らず醜く化膿しているのも関係ない。投薬によって相手がどう変化するかがすべてだった。院長にとってここでの治療とは投薬だった。気持ちが落ち着いた私は無表情に戻り、知能検査を受けた。正面に看護婦さんが座り、背後に大村刑事が監視役として座っていた。約1年前の岸本鑑定・・若い女性心理学者が片手にストップウォッチをもって私に向かっていた。
「ハイ。止めてください。ハイ。ストップ。ハイもう一度お願いします。スタート・・・」あの緊張感のある試験と同じテストなのかと疑うほど、この部屋はのどかな時間が流れていた。私に質問しているのも心理学者でなく、一見普通の看護婦だった。私は驚いた。簡単な質問が全く答えられないのだ。これは自分に聞かれているのだろうか?遠くで声がする。「近代オリンピックの最初の開催地はどこですか?」「○△□は?」「×■○は何ですか?」質問が次々読み上げられる。看護婦の声がどこか隣の部屋のささやき声のようにしか聞こえない。頭がモヤっと霧がかかったようになっていて、何ひとつ即答できない。
「はい。いいですよ。だいじょうぶですからね。次の問題に行きます。」
「「1 2 3」だったら「 3 2 1」というように、これからゆっくり数字を読み上げますから逆に答えてください。だいじょうぶですか。」「はい。大丈夫です。」
「8・4・2 はい」
「・・・・2・4・8」 「はい。いいですよ。」
「5・8・4・1 はい 」1・4・・・・・すいません・・もう一度お願いします。
「いいんですよ。答えられなくても。次行きます。7・4・6・9・8 はい」「8・・・・・」
4桁で早くもつまづいた。小学生でも応えられるだろう。私の脳は今、真剣に考えているのだ。全力投球。
そしてわからない。蝶の形をいくつかにバラバラにしてあり、再び組み合わせて蝶の形に戻す幼稚園のジグソーパズルのような型紙合わせすら手が動かない。大隈光祐`アントワープの絵ヘ
・・・・・・
「分からなければ、いいんですよ。」
「いえ・・・もう少し・・・・」脂汗が出るだけだ。
難しいジズソーパズルは得意だったはずだ・・。大村刑事の心配そうな視線を背後に感じた。全てのテストが終わったころ、ぼんやり「アテネ」という答えが脳内に浮かんできた。昨年、発狂して以来、私はもう長い月日、ずっと本一冊も読んでいなかった。ラジオも音声を消してもらっていた。
「おおくまよ。本ぐらい読め。ラジオを聞け。」一番心配してくれるスキンヘッドの50代の職員の人はただ目をつぶって座っている私にいつも声をかけた。私は答えた。
「本には必ず家族が出てきたり、それに関係する言葉が出てきます。ラジオも・・です。そうすると私はもう・・・駄目なのです。家族の今の苦境を考え、辛さに耐えられなくなるのです。」
「大隈よ。檻に入ったらもう何を考えても無駄なんや。外の人間は外の人間でちゃんとやっとる。心配するな。わしなんかこの塀の中にもう30年も閉じ込められているんや。なっ。おおくま。そうやろ。ええから本を読め。」それでも私は活字を見ることができなかった。
突然、頭に飛び込んでくる活字という悲しみ。家族に関する文字がどこに隠れているかわからないからだ。
結局。今日の知能テストで私の五感はすべて閉じたままだった。長い拘禁は私から知力さえ奪ってしまった。私はどこまで失えば許されるのだろうか・・・。テスト中、ずっと彼が気になっていた。私は合間をみて、振り返り、後ろで腕組みをして下を向いている大村刑事に急いで声をかけた。
「妻にっ。妻の携帯に。私が元気であると伝えてください。それだけお願いします。」つっかえるような言い方だった。このテストが終われば彼と接触できる機会はおそらく2度と来ないだろう。私はまた監視独房に戻るのだ。これは唯一のチャンスだった。
「わかった。かならず伝える。だから・・くまさんも頑張れ。あと少しじゃないか。きっと奥さんに会える。彼女は大丈夫だよ。そんなに心配ばかりするな。」
彼は「彼女は大丈夫だ。」と繰り返した。
テストは終わった。無表情な法務省の背広姿の恰幅の良い2人の職員が私を迎えにきた。大村刑事と池島刑事は敵でも見るように彼らに無言で私を引き渡した。人間をここまで変えた検察処遇への憤り。官への反発心を露骨に見せた。その晩から私は何晩も同じ夢をみた。らくなん病院での知能テスト中に部屋を飛び出し、病院のロビーを抜け、玄関を出て、山間部の道路に沿って流れている川の石橋の下に隠れ、夜になってタクシーに乗り、京都駅に着いたとたん飛び出し、逃げ、新幹線に乗って、飛行機に乗って、家族に会いに行く夢。私は抗うつ剤が減らされ、朝 昼 晩 の度に 何かわからない薬を大目に与えられた。
岡江医師は鑑定医としてよりも、毎回、処方の変更に余念がなかった。彼は京都の赤ひげ先生(白いひげだったが)だった。
「事件のことなんか今更、質問しても覚えてへんやろ。ええ。ええ。供述どおりやろ。」
そのかわり彼は別の質問した。
「君はずいぶん若い時から毎年資格を取ったり、自己啓発に努めとるようやけど、事件を起こしていた最中も何かの勉強をしてた?つまり何か新しい資格にチャレンジしよう思うとった?」
「はい。中国語の2級試験に受かろうと勉強していました。」
この余談のような質問と私の答えが彼の鑑定書・この大事件の判決の骨子となった。
鑑定が終わったはずの1週間後、岡江院長はひとり私を訪ねて京都拘置所にやってきた。
「いや。一応、鑑定はすべて終わったんやけど、君のことがどうしても気になってな。ちょっと寄ってみたんや。」岡江院長は助手も連れず、ひとりでこの片道1時間はかかる京都拘置所まで車を自分で運転してやってきたのだろうか?さすが白ひげ先生。それから言葉を続けた。
「鑑定の結果やけど。わしが決めることやないんやけどおそらく執行猶予やろ。しかし裁判っていうのは面倒やからなあ。これからまだ結審が夏ぐらいまでかかるやろ。たぶん8月やな。ええか。今日来たんは、君にひとつ約束してほしいからや。君は出所したら、仕事のためにすぐ東京に戻ると思うんやけど、今度、通院するときは必ず一つの病院でゆっくり診察を受けなあかん。決して複数通院せんように。病院で君の事分らんかったら、私の名前を出してくれてええ。それだけ言いに来たんや。」私はありがたく胸が一杯になった。
「岡江先生。約束します。私は今度、東京に戻っても2度と複数通院しません。しっかりしたひとつの病院に通い、何かあったら京都らくなん病院の岡江先生のことを話します。」
彼は私を肩をたたき「それじゃあ。もう少しや。がんばって。」と出て行った。この1年半ですべてはもう失っていた。しかしやっと出口が見えた。この医師に再鑑定を依頼するために、昨年12月、保田副検事と榎本裁判長は1日かがりで宇治山間の京都らくなん病院に出向き、それまでの経緯を説明し、事実上の私の助命嘆願をした。再鑑定はかつてないことだった。それほど私をなんとかしたかった。
保田検事は岸本教授と裁判所に対し、再鑑定に向けた捜査資料を準備する一方で鑑定反対意見書を提出し、再鑑定の"目的"を明確にした。うつ病であったら釈放を意味した。組織内で彼ができる唯一の逆わざだった。今度こそ釈放する。仕事人間、順天堂、通院歴、自殺企図・・・。誰が考えても`彼はうつ`以外のなにものでもないと素人は全員考えた。岸本教授さえ、`被告人の解放を黙認した。だれもが暗黙の鑑定結果を期待した。この長い裁判の一刻も早い結審を願った。そして岡江医師の鑑定結果を待った。
(鑑定)要旨
『被告人は、これまでうつ病と診断されてきた。しかし、平成12年の精神科初診以降も、仕事に大きな支障はなく、むしろ業績を上げ、資格取得に向かって勉強し、自己啓発に努めるなど、興味や活動性の減退はなかった。「抑うつ気分、興味と喜びの喪失、及び易疲労性」の持続といったうつ病の診断基準を満たしていないし、臨床経験からも内因性うつ病とはその病像が異なっている。したがってうつ病という診断には疑問が残る・・・・・。』            
鑑定書の中間部分は、投薬変更により、如何に被告人の病状が回復していったかと、それぞれの薬の詳しい解説に多くのページが割かれていた。それはうつ病として間違って投薬されていた患者の治療報告書といえるものだった。その原点になったのは、らくなん病院に行った際、私の取り乱した様子と大村刑事たちが訴えた話がきっかけであったことはたしかだった。私はその後、鑑定の度に岡江院長より「どうや、かげんは?少しはええか。」と聞かれた。私はその度に(何も体調に変化はなかったのだが)社交辞令で「はい。おかげさまでとてもいいです。」と答えた。私の身体は昨年末11月に独房で発狂し、大量の抗うつ剤を投与されて以来、増やしたり、減らされたり、薬を変えられたりしても、結局、何も感じなくなっていた。
京都拘置所の独房に移管されたあとは、ただ過去の記憶に遡りながらまどろんで横になり続けているだけだった。もはや、身体が薬が作用する五感の範囲を超越し、別な世界に入っていた。彼は私が「とてもいいです。」と応えた日も、満足できないらしく、投薬は鑑定期間中変わり続けた。つまり治療日記であった。
モルモットだった。
ただ・・・結論だけは、唐突に、普通の医師以上に裁判の判断に踏み込んでいた。
(鑑定)結論
『被告人は適用障害と睡眠薬依存症に罹患しており、行為の是非善悪を弁別するの能力及びその弁識にしたがって行動を制御する能力が著しく減弱していたに過ぎず、刑事責任を減免する要素は見受けられない。』
私はこれを読んだとき、白ひげ先生の応援する球団はきっと阪神で、鑑定書の仕上げを書いている途中、後半から急に逆転負けしたのだろうと推察した。
あるいは別人が最後の部分だけ加筆したのだろうか?`
・・・減弱していた。」で一般の鑑定書は終わる。主観は入れず刑事判断は裁判所にゆだねる。のが普通だった。しかし  
『に過ぎない~ 要素は見受けられない。』の一文は鑑定の内容と関係なく、かつ決定的に判決を拘束するワンフレーズだった。しかもこれは弁護側鑑定なのである。弁護側鑑定書が刑事責任の減免を否定したのであれば裁判所は採用せさせる得ない。保田検事すら、後日、私を訪問した際「驚いた。」と言った。
彼が鑑定したのは`事件時の私でなく、間違って抗うつ剤を投与されている(と考える)患者の治療とその変化だった。鑑定書は自分の治療がいかに成功したかという裁判所への報告書だった。そして、なにより彼は「京都人」だった。鑑定終了後の私への訪問と私にかけた言葉はただの京都の`ぶぶ漬け`だった。
裁判長や検察官など素人によるうつ病だろう判断に追認を求めるような再鑑定の実施と依頼。
氾濫し始めたメンタルクリニックや心療内科、若輩の医師たちが安易に`うつを大量生産し続けている現実社会。臨床医としての東京への警鐘だった。
「うつ病は働けない!」
これが臨床医の権威として長年のゆずれない一線だった。この`弁護'側鑑定書は私が有罪になる最大の証拠となった。裁判所の釈明権行使は重罰への箍となった。私は鑑定書が独房に届いても何も感じなかった。
ショックもなかった。ただ出所までの期間を計算し、家族と復帰するのは物理的に不可能になったことだけは悟った。私がもう発狂することはなかった。その日も同じように私は過去の世界の中に入って行った。
鑑定が終わり、私は奈良葛城支所の監視独房にふたたび戻された。鑑定書を閲覧したのか、職員たちの失望は明らかだった。その日から、私に対し、家族の話や出所の話を再び誰もしなくなった。私は申し訳ない気持ちだった。甲子園にせっかく送り出した選手が期待に反して、1回戦で敗退して地元に帰ってきたような拘置所内の雰囲気を感じた。週2回の所内回診日が来た。菊池医師「なんや。古い薬ばっかりやな。ここにはないで。」私はすぐ鑑定前の抗うつ剤の投薬に戻された。
(きっとあの薬は白ひげ先生が若かったころ、よく患者に使っていた薬だったんだろうな。)
私はふとそう思った。そのころ鑑定結果という敵矢を受け、検察庁では初犯窃盗にして過去最高の求刑が作成されつつあった。

求刑のやり直し

平成19年6月13日。検察側求刑とその主旨が朗読された。
大隈光祐`アントワープの絵ヘ

<論告要旨>
 事実関係・・・・・
 被告人は、仏像を窃取する行為の違法性を充分認識し、本件を敢行するに当たって、ためらいや葛藤の末に犯行に及んでおり、本件犯行を決意する当初から、是非善悪を弁別する能力を有していたことが認められる。
被告人は平成17年始めころから眠れない日々が続いて病院に行くようになった。そして、病院でうつと不眠症と診断され、投薬を受けたが、しばらくして効き目が無くなってきたので、他の病院に行ったり、通信販売で睡眠薬等を手に入れるようになった。同年10月ころ、夢の中に何度も同じ顔の仏様がでてくるようになって、本屋で仏像の写真集を見ると、夢で見た仏様の顔が奈良県桜井市にある聖林寺の十一面観音像にそっくりだったことから、何かあるのかと思って同月終わりころ、同寺へ行き、十一面観音像の前に座ったところ「人の集まる高名なお寺から仏像33体を集めれば、悪化する苦しみから救われる。仏は人の心の中にある」という声が聞こえてきた。薬を沢山飲んでいたとはいえ、盗みが悪いことであるのは分かっており、盗みをしないでおこうと思えば出来たもので、東京に戻ってからも、仕事もあったし、仏の前で聞こえたように思った声も聞き違いだろうと思って無視していたが、身体が限界になって、仏像を集めれば、身体が楽になったり、仕事を続けられるという気持が勝って盗みをする決心を・・
法隆寺は、世界最古の木造建築を含め、7世紀以降19世紀にいたる各時代の優れた木造建築が集中して保存されていて、その多くの建物が国宝に指定され、平成5年には世界遺産への登録がされており、西室も、奈良時代に建立された後、消失により鎌倉時代に再建され・・・・
「国宝に指定されている建物の格子をのこぎりで切断して壊し、取り返しの付かないことをしており(法隆寺としては)許すことが出来ません。厳重に処罰してください。」と延べ、厳罰を望む一方・・・・・
多数の被害寺院において嘆願書が提出されていることなど・・・・・
<結論>
『被告人は、自ら犯した罪の重大さを理解しており、いたずらに寛刑に処することは、かえって被告人を更に苦しめることになるだけであると思科する。』
被告人を
    懲役6年
    に処するのを相当と思科する。
89条第3項の適用。それは捜査手続き上のはずだった。弁護鑑定結果でバランスを取る予定だった。しかし、6年以下の求刑に出来なくなった。法に拘束された。それがジレンマ、苦悩が最後の締めくくりに現れていた。
大隈光祐`アントワープの絵ヘ

`いたずらに寛刑に処することは、かえって被告人を更にくるしめることになるだけである・・・・
このような求刑理由は法曹史上初めてではないだろうか。
保田副検事は私の方に顔を向けなかった。
「君のやったことは事件的にはたいしたことじゃないだけど、今日もまだTVに写っちゃてるからな。ここにもマスコミが来ちゃっててさ。」
「君があの建物を国宝や世界遺産と認識していたかが問題だ。あんなに目立つ看板あったの見えなかったの。」
「大丈夫か?顔色真っ青だぞ。」
「具合どうだ?辛くなったら直ぐ言えよ。」
私に語りかけていた1年半前の彼の姿はなかった。しかし、論告文を読みながら彼は別のことを考えていた。保田副検事は検察組織の中で私を救うことをまだ諦めていなかった。もはや彼ひとりが人間だった。
この後、法曹史上異例の`検察側求刑のやり直し`がされることとなる。

面会

平成20年6月。松岡弁護士は事件発生から1年4か月経っても、まだ法隆寺に訪問するどころか電話一本もかけようとしなかった。一方、私の書き続けたお詫び状は法隆寺管主の手元にただ溜まっていっただけだった。和解も、何も、進展がないまま私は独房監禁され続けていた。私は第二次精神鑑定でも有罪となり、刑務所行きが確定し、独房の中であえぎながら4時間おきに気管支拡張吸入器で生かされ続けていた。
そんなある日、突然職員が興奮ぎみに房にやってきた。
「1Fに今、保田検事がお見えになって君に面会に来られている。急いで出て。さあ急いで。」
おそらく取り調べ以外で検察官が裁判中の被告人を内々に訪ねて面会に来るなどこの拘置所で初めてのことだったのだろう。職員数人が緊張気味に私に同行して1Fに降りた。
小部屋が用意された。
法廷以外での1年4カ月のふたりだけの再会。
裁く者と裁かれる者。かたや検察庁、かたや大企業、同じように大きな組織内で生きている者どおしの微妙な空気が部屋に流れた。
変わり果てた私。それをなんとも言えない目で彼はしばし見つめた。目が潤んで見えた。
「身体は大丈夫かい。」
「はい。」
そう言うと彼は、軽く頭を下げた。
「再鑑定の結果には驚いた。すべて誤算続きの裁判だった。まさか松岡弁護士が和解交渉すらしていないとは知らなかった。なぜ彼はまったく本件で動かなかったのだろう?お寺なのに。私が法隆寺は直接電話をした。法隆寺に「嘆願書」を出すよう頼んだ。法隆寺は承諾した。再求刑で栽判はまた3カ月伸びるが、その間に嘆願書を取りつけてくれれば、私は上司に掛け合って、稟議を出し、君を執行猶予で救い出す。大丈夫。きっと奥さんに会える。もう少しだ。気をしっかり持って。」
(平成18年9月の「大隈光祐氏の1日も早い更正を願ってます。」という浅草寺からの文書以来、寛永寺、新井薬師、定泉寺、橘寺、浄土寺、海龍寺、成願寺・・・多くのお寺から助命「嘆願書」が裁判所に届けられていた。私を監禁し続けていたのは「厳罰を求める。」との方針を続ける法隆寺の問題だった。)
部屋を出ていく私に検事は今度は深々と頭を下げた。私を連行するためドアの外にいた職員はそれを見て驚き、私は階段を上がりながら涙が落ちた。被告人のため嘆願書の提出の依頼を被害者にした善意の検察官もおそらく法曹史上、前例がないだろう。一方、松岡弁護士は「法隆寺は弁護士である私を馬鹿にしている。私は決して行かない。」と頑なに示談を拒み、もはや久しく面会すらできなくなっていた。裁判所についに今までのことが白日になり松岡弁護士は解任され、国選弁護人が新たに選任された。しかし、選任された国選弁護人に弁護資料が引き継がれることはなかった。引き継いだ国選弁護人も「法隆寺にも代理人がいるから嘆願書を出すかどうかは先方に任せよう。」と言い、結局、国選弁護人も法隆寺に行くことはなかった。彼の県弁護士会での立場は絶大だった。前途ある彼は私より同じ町内の最も大きな法律事務所の所長である松岡氏に気を遣った。3度、保田検事の思惑は外れた。保田検事は稟儀を上げるため、嘆願書の到着を待ち続けた。それとなく取り付けや到着の確認を弁護士に電話でした。しかし、まさか自分が嘆願を依頼したとは立ち場上、検事も言えなかった。組織人としての限界だった。それでも新たな弁護士も頑なに法隆寺に訪問しなかった。結局、この事件で弁護士が法隆寺や浅草寺を訪問することは最後までなかった。法隆寺がしびれを切らし「嘆願書」を自ら送ってきたのはなんと再求刑の前日だった。保田検事の上司への稟儀は間に合わなかった。再求刑のため、栽判は半年延びていた。異例の再求刑は意味がなかった。組織内で捜査権はもはや主任検事の決済に移っていた。形だけ半年短く宣告された。6年が5年6カ月になった。求刑が半減されない限り、89条の3項により私の懲役3年以上は確定した。新聞は再求刑という異例の事態とそのための勾留期間の長期延長とその期間の矛盾に何の疑問も抱かず、それをまた短く事実だけ報道した。