大隈光祐`アントワープの絵へ` -19ページ目

ため池

見えなかった。ただ真っ暗な外のすぐそこに横たわっているはずたった。大隈光祐`アントワープの絵ヘそれが私のこの2年間の最大の敵となった。それは私に残された唯一かつ不要なもの=「生」に対する身体の内と自然からの総攻撃であった。
平成19年という年。私は地球60億人のなかで最も孤独だった。家族、友人、知人 私の周りは芸能人でもなければ政治家でもない。まじめな家族人ばかりだった。平成18年2月、事件が連日報道され、私が留置場に勾留されていたころ。みな私の身体を心配した。出所後の生活を案じた。マスコミの災難という友人もいてくれた。私への面会を望んだ。しかし、私はやまと法律事務所を通じて、この遠い奈良への面会を断っていた。
「私は損保マンという正体を隠して取り調べを受けています。損保ジャパンに迷惑をかけたくないので・・大隈光祐`アントワープの絵ヘ」という短い伝言だった。激しい報道。大騒ぎするネット。私という仕事人間を日ごろ知っている周囲は、充分その伝言の意味を納得した。不用意に警察署に来ることを遠慮した。北川刑事は2月に言っていた。
「いいかい。くまさん。捕まった時が最悪なんだけど、あとは良くなる一方だ。人の噂も75日とは言ったもので、本当に3カ月も経つとなんだった?っていう話で何も人は覚えていない。人ってそんなもんだ。くまさんならすぐやり直せるって。・・」しかし・・平成18年夏に続いた再逮捕のニュースで私は突然、孤独になった。主人はサラリーマンでうつ`と周囲に説明していた妻は、過去の友人から断たれた。
私も発信に疲れた。みな注視していた。終わったかと思うと毎月小さく新聞に出る大隈光祐という名前。
いつまでも終わらない えたいの知れない事件。`彼の台風は過ぎ去ったのか?それともまだ{目}の中なのか?再発するかもしれないガン細胞。ただの風邪だと思ってた。しかし、うつるかも知れないインフルエンザだった?!・・・。私に近い誰もが`誰`かが私を看ているだろうと自分に言い聞かせ、マスコミを恐れ、家族を守り、私が出所するまで距離を置こうと心に決めた。私と無関係の`自分の家族を守るため。
そしてさらに1年が流れた。
それぞれの持つ子供は成長し、そしていつしか私の存在は・・・彼らはかぶりを振って・・消えた。
長い勾留は 憶測、疑念 をより深めた。私の沈黙は実は窃盗の常習者という別世界の住人であったことの私の`無言の告白と受け取った。拘置所の職員は、最初、私には乱暴な言葉を使わなかった。東京で騒ぎを起こし、ここ奈良に「わざわざ」やって来て国宝を壊した私を、ドジでうつで迷い傷ついたどこか自分達と同じエリートサラリーマンの成れの果てとして哀れに接してくれた。窃盗、シャプ、傷害・・地元のワルと一線を引いてくれた。私は所内に病身を心配してくれている`眸を常に感じていた。しかし、平成18年10月、私が拘置所再送致で戻り保釈却下となり、保護独房に移り、体形や形相が変わり、奇声を発し、徘徊し、日に日に人間から遠ざかっていく私の姿に`仲間の匂いは感じなくなっていた。ここにいる犯罪者の一員扱いになった。我が家のようこの拘置所に出入りする地元の犯罪者やホームレスたち。
「おやじ。もっとましなめしねーのか。毎週毎週同じ献立食わせやがって!」
葛城拘置所は他の拘置所と違い、毎週 朝 昼 夕 1年中 同じ献立の繰り返しだった。他の拘置所事情を知っていてそれに文句を言う収容者が多かった。
「おまえら。なんでここにいるんや。わかっとんのか。」
応酬する職員。そういう輩の方が職員にとってやはり私より身近で人間に近かった。私は彼らの日常業務の中において、いつまでもここから出所しない「壊れた異邦人」になった。もはや同類の眸はひとつも感じなくなった。各職員が幼少期に培った個人的ヒューマニズム、昨日みたであろう24時間テレビ、道の子犬、老人に席を譲らない若者、踏み潰してしまった蟻・・・そう言った感情のみが私への処遇を支えた。
「喘息」とは慢性的な肺と口の間にある気道の炎症であり、喘息発作とはアレルギー反応による気道収縮とそれにより引き起こされる激しい呼吸困難症状をいう。 アレルギー物質は排気ガス、食物、花粉等々100種 患者それぞれだが、成人の検査結果では私は「多湿」と「ハウスダスト(塵)」と「カンジタ(カビの一種)」の3つが日常避けて生活するよう指導を受けていたアレルギー物質であった。この夏。この拘置所の独房にはそれが`すべて`揃った。しかも日常社会とは桁違いに。平成18年4月から6月までの第一次拘置期間大隈光祐`アントワープの絵ヘ 私は過去1年にわたる坑うつ剤、睡眠薬依存、その断薬による禁断症状から回復し、数年来でもっとも健康だった。「特別処遇や」と言われ、平成記念病院(警察)で処方されたステロイド系投薬も使用が許された。しかし実は葛城拘置所には定期訪問する内科医さえいなかった。
支所である葛城拘置所は一審中に留置場から移管される短期的勾留管理が主な目的の施設だった。
一審中の事故を防げば良かった。月に2度所内診察の訪れる菊池医師は精神科医だった。発作止めであるステロイド吸入器は所内にも菊池医師が院長を勤める当麻精神病院にも在庫はなかった。たとえ内科医不在でも警察署と拘置所間では処遇の引継ぎは原則行われない。全く別の組織だった。警察が左手で押印させるなら拘置所は右手というような感じ。以後、葛城支所では、ステロイド系発作止めが処方されることはなかった。平成18年2月5日に平成記念病院(警察)で処方されたステロイド系投薬が無くなった私は喘息が悪化していった。私はそのまま留置場に戻り、ふたたび2種類のステロイド系吸入器が処方され、落ち着いた。しかし10月の拘置所再勾留からふたたびステロイド系喘息薬はなくなった。平成19年6月。京都拘置所から葛城拘置所に戻った私はすぐにひどい喘息の発作に陥った。拘置所の北側に広がる農業用のため池から上がる湿気が私のアレルギー反応を引き起こした。私がいる保護独房の右窓は過去何か事故があったらしく柵外側のガラス窓がなくなっており、ビニルシートとガムテープで目張りされていた。昨冬はそこから痛いような冷風が入りこみ、ビニルがばだばたと波打っていた。職員はビニルがはがれるたびに目張りをガムテープで止めてくれた。拘置支所の予算不足は深刻だった。内科医が来所しないだけではない。おせちは高価でも、設備修理はほとんど自力で修繕していた。便器の配管は各房からバルコニーに突き出し、横一本の太いパイプでつながっていた。パイプはつなぎ目はずれ、匂いのする液体が滴り、コンクリートに茶黒くしみを作っていた。葛城拘置支所は奈良少年刑務所を兼ねていた。少年の受刑者はいっこうに落ちないその染みを水とブラシだけでいつも一生懸命こすっていた。`ため池は高い湿度とともになんとも言えない臭気を絶え間なく、独房に送り込んだ。便器付近の床はゴマを撒いたように無数の黒点が模様化し、散在する大きな黒円を取り囲んでいた。私の敷布団の裏側も同じ模様になっていた。敷き布団のはもはや体育館のマットのように湿って重かった。忘れられた物のように布団の洗濯はもう1年3カ月されていなかった。8月の日本は観測史上最高の猛暑となった。
74年ぶりのラニーニャ現象が日本を襲った。
房内は毎日一度づづ温度が上がっていくようだった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ日本記録を持つ山形市で40.8度と74年ぶりに記録更新したのをはじめ、全国各地で40度を超えた。国内で40度以上を3日間連続で記録したことも観測史上はじめてのことだった。
しかし、おそらく、温度計は風のある普通の人たちが生活する普通の街に置かれていたのだろう。
独房の中は【蒸篭】だった。大隈光祐`アントワープの絵ヘため池から蒸気する湿気と熱波がコンクリートの箱を蒸した。それを換気する逃げ道はなかった。柵窓と反対側の廊下側には鉄の熱い扉があるだけだった。ぜぃぜい ひゅーひゆー ぜぃぜい ヒューヒユー。私の姿は一見すれば健康ランドのサウナ室で両膝に手をつき、じっと動かず、うつむいている下着ひとつの裸の会社帰りの男性と変わらなかった。出口のないサウナ室。24時間サウナ。都内でそんな看板を見たことがある。たしかにそのとおりだった。ぜい ぜい ひゅー ひゅー。両膝を握りしめ、呼吸が出来ないのを絶えた。つめ切りは運動場で行われるため、房から出ない私はつめを切っておらず、痛みを作るのに役立った。脳は2カ所の肉体的苦しみを同時に感じることが苦手であるという仕組みが、この呼吸困難を耐えさせた。気道が生命の要求にもかかわらず、高温多湿になるにしたがいどんどん酸素の通り道を狭めていく。ひーひーぜえぜえ ひーひゅーぜぃぜぃ。本来、平成記念病院でしたように椅子に座って何かにうっぷした体勢を維持するのが、気道を上手く確保できるのだが、この独房には紀州みかんの空ダンボール箱がひとつ机がわりに入れられているだけだった。ダンボールは高さが低く、呼吸できない上半身をうっぷしようと身を預けようとするとすぐ、しゃげてしまう。段ボールはしょせん厚紙でできている。いっかいひしゃげると折り目がくせになり、ふたたびうっぷすることはできなかった。ボートの漕ぎ手、コーランの祈りのように、前のめりに大きく揺れながら呼吸し続けようとする上半身を支えるものは厚く白いコンクリートの壁だけだった。ひゅーひゆーぜいぜえぇぜいぜえー ごっぽ ごっぽ ひゅーぅぅひーぜぃぜぃぜぃぜぃ ゆっくりゆっくり腰を移動しながら便器に移動して両手でしがみつく。
ぜっぜっぜっひゅーひゅー。便座の陶質を抱くとわずかに常温で痰が切れた。ごほっ ごほっ ぺっ ひゅーうー ひゅーうー 痰が切れると数分穏やかな時間が訪れるがすぐ痰は作成され元にもどる。ぜえぜえ ひーひー ぜぃぜぃ。24時間 うっぷした状態。ぜえ ぜぇ ぜえ ぜぇえー
今、身体の姿勢を変えるときっとそのまま呼吸が止まるだろう・・・・。高温の中の呼吸困難は常に意識を混濁させていた。目の玉がしばしば後ろに行きそうになり、落ちそうになる。血液の中の酸素が極端に減るとたびたびこうなるのだ。しかし落とさせてはくれない。力を振り絞り、私は本当に苦しいときだけ見る。
新井薬師からのメモ
「あなたは何も心配ありません・・みんなの為に生きますよ」
いつ寝たのか分からない。うつつの状態。半覚半睡・・・・・・ひたすら吸入器を待つ ヒュウ ぜぃ ヒュウ ぜぃ ぜぃ ぜぃ~。4時間で区切られた命の駅伝・・・永遠の箱根の急坂・・・ぜえぜえぜえぜえ ひゅう~~。夜。BUuuunn・・・・・。身動きできない裸の私に毎晩 敵が襲ってきた。大隈光祐`アントワープの絵ヘそれはため池から檻窓の下にある通気口から毎晩100匹は出入りしているように思われた。ドイツ料理で出てくる白い大きなソーセージ大隈光祐`アントワープの絵ヘそれが彼らから見えた私だった。箱に入っていていつでも食べれる食事。毎晩、廊下と雑居房だけには殺虫剤が撒かれた。この拘置支所の独房は「ため池」の食事の為、人間が飼われているのだ。私はそう納得した。無数の空襲音BPUUuuunn・・。耳に近づいては遠ざかる不快な高周波音の繰り返し。 BpuuuUUUuuun。自分の身体の360度どこからでも聞こえる。音がしない`静けさ`の部分は血を吸っている食事タイムだ。拘置所では21時の就寝時間以降も房内の照明が消えることはない。
収容者を監視する為だ。職員が見回る廊下側は真っ暗になり、房内は天井にはめられたプラスチックケース内の蛍光灯の明りが2本から1本に落ち薄暗くなる。夜間は内外の明るさが逆転する。ぜぃぜぃ ひゅーひゅー ぜぃぜぃ ひゅーゅー。薄暗い独房の中。動けない私からもその大勢の`敵の姿はわずかに見えていた。時間が近づく。私の体内時計。ぜえぜえ ぜぃぜぃ ぜぃぜぃ。私の身体はゆっくり扉の方に向かう。壁をよじ登り、報知器のボタンに指を入れる。「カタッ」と報知板が倒れたことを確認し私は崩れ落ちる。どた。ぜ゛っぜっぜっぜいぜい。そのまま配食口の前に四つんばいになり、待つ。ぜぃ ぜぃ ぜぃ ぜぃ。みてろよ。ぜぃぜぃぜぃ 裸の上半身と太股のあちこちの赤いふくらみを見ながら・・待つ。まもなく カッ カッ と音が近づき扉の中央窓が開く。「ハイ。報知器は?」職員が静かな声で覗いてから「待ってろ。」と去る。4時間毎。用件はわかっているのだ。私の命は毎日、見回りの職員に握られていた。報知器を押して1時間 房に職員が来くのが遅れれば、呼吸困難により 私は1時間 死の淵に近づいた。私の気道はこの高温多湿のアレルギーの中、常に、空気の通り道を、完全に塞ごうとしていた。本当は非ステロイド系気管支拡張吸入器の使用は8時間おきと処方されていた。しかし、私の気道はそれより早く、完全に閉まろうとした。私はしばしば呼吸困難のためチアノーゼを起こし、職員が駆け込んだ。そのため、医師が慣習上、ひどい発作の患者を安定させるときに行う4時間後の臨時使用が・・見かねた医務部長以下、職員のそれぞれの判断で・・結局・・もはや常時化していた。それは心臓を傷めた。私は主人の帰るのを待つ犬のようにぜいぜいぜいひゅーひゅーと発しながら、じっと配食口を見据えてまさに四つんばいの犬のように職員がもどってくるのを待っている。来た。
「ほら。くまさん。まだやっと4時間たったばかりだぞ。」形式的に言ういつものせりふと気管支拡張吸入器イソへラーとステロイドの錠剤が配食口を通して与えられた。
ぜえ ぜえ シュ シュ ぜぃぃぃーーー すー すー すー 気道は拡張され、一時通常呼吸に戻る。
まだ午前1時ごろだろう。襲撃は2時~3時まで続く。しかし仕方ない。気管支拡張吸入器は非ステロイドの為使用耐性がつきやすく、このころ、もはや30分普通に呼吸できればよいほどまで薬が効かなくなっていた。同時に服用したステロイドの錠剤は喘息で処方されるものではない。精神科医である菊池医師が苦肉の策でチアノーゼ時の頓服として錠剤を処方してくれたものだ。本来、強力な坑炎症剤であったが私が瀕死の呼吸を続けているため、職員は恒常的に提供するようになっていた。どの職員も自分が担当する時間に病死は出したくなかったし、人間としても私を見ていられなかった。吸入投薬により私の身体は30分間はわたしのものだった。私の血を大量に含んだ蚊はいずれも動きが鈍かった。Bu BUUuun BUUuuunn目線の高さに平気で泳いだり、遊覧している。私は反撃した。ノートであたりかまわず叩きまわった。ソーセージの逆襲だ。私は殲滅者の目だった。
「おまえたちは一線を越えた。あれほど我慢し続けているのに。飽食はマナー違反だ。だから・・ため池に返さない。私のように・・帰れないのだ・・」
私は訳の分からないことを発しながら白い壁をたたき続ける。壁につぶされる蚊の跡はまるで人間が出血したかとおもわれるぐらい真っ赤で靴跡ほどの大きさになった。私は動ける間に気が狂ったように蚊をつぶし続けた。大隈光祐`アントワープの絵ヘくそー  もはやここまでか ひゅう ひゅう せぃ せぃ ぜい ぜい ぜえ ぜえ ぜえぜえ~。つぎの反撃は5時か・・。私はまた動かないソーセージとして血を吸われ続けた。5時。しかし蚊の半数は排気口からため池に戻り、残り半分は残っていた。プラスチックの蛍光灯の中に閉じ込められたまま蛍光灯カバーの底のスミで黒いかたまりになっていた。みずから死んでいた。充分な食事を得たあとは光を望み、そして死んでいっていた。外には陽の光がもうすぐあがるのに何でよりにもよって拘置所独房の明りを君達は望んだのだ。私は翌日から蚊を殺すのをやめた。ただ黙って吸われ続けた・・・動けない身体で私は意識を天井のプラスチックケースの黒いかたまりのなかにおいた。
猛暑が過ぎると、孤独な平成19年は時間を急速に早めて過ぎ去った。・・・10月23日再求刑。そして私は瀕死のまま年末12月26日懲役3年の判決を受けた。

ゲコク

平成20年1月。大阪拘置所に移管された私はもはやただ喘いでいる物だった。点呼のため数分間の正座、排尿のための移動、配食口の出し入れだけが私が出来る1日のすべてだった。延々と胸の中心で製造されつづける黄色い粘液と収縮した気道はもはや口から入る吸入器の噴射すら阻んでいた。肺が小さな穴から必死に空気を出し入れしようと横隔膜とともに24時間激しく上下するため背骨がきしんで痛む。
背中と肩だけで息をして両目は落ちくぼくだ。断食中の力石のほうがリンゴをかじれるだけうらやましいと思った。私は入所そうそう、白目をむいてしばしば意識混濁となった。私はひたすら待っいてた。夜も昼も自分の呼吸と戦いながら。奈良で近畿弁護士一覧を貸してもらい、あてもなく何通も出した手紙のうち大阪や京都の弁護士の先生から返事が転送されてきた。いずれも「業務多忙によりお引き受けできません。」など、簡単なワープロの返事だった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ私は途方にくれた。3月9日、2カ月ぶりに面会があった。
吸入をあてがわれ1Fに下った。大阪弁護士会から来たという年功の先生が研修中という女性の先生を伴って面会室にいた。私は控訴を願い出た。
(私はもうほとんど動けない。あんな絞首台を作ることは不可能だ。糸ももう無い。)
(せめて半年でも早く出れれば、生命保険で妻を助けられる。)
しかし、結局、引き受けてもらえなかった。私に「拘置所内での控訴取下手続き」のやり方を説明しながら「ところで強盗は何年だったっけ。」と隣に確認する弁護士に「5年です。」と本を開きながら答える研修生の女性は(早く楽になりなさい。)と目で軽くうなずいたように見えた。その日、房に帰った私は扉の報知器を押し、職員に,さっき言われたとおり申し出て、書類をもらい日付を書き署名した。
翌早朝、ガチャと扉が開き、若い狐目の職員が「今日から受刑者!」と大声で言ってまたすぐ扉を閉めた。拘置所内で手続きをして自分で受刑者になることを'ゲコク'というらしい。
数日後、実刑者となるため1Fの処理場に運ばれた。各自が目張りのある並んだ椅子部屋で食事を与えられたあと、出てきたその日受刑者になると思われる20名ほどの人たちは病棟で見た人たちより一層がらが悪くなった。運動に一回も出なかったから一層、健康な受刑者とのギャップが大きいのだろう。
「○○ ○○ 罪名 ○○ 刑執行日 ○月○日 懲役2年未決日数○日 いいな。」ひとりひとり台の前に呼ばれ、刑期が読み上げられ確認が取られていく。人生の時間をささげる地獄への儀式。
「はい。」と大声で返事をするホームレスのような初老の人。うなだれてしぶしぶうなずく人。返事をしない20代のやくざ風の若者 「○○ ○○罪名 暴行 懲役7年未決○○日! 分かったのか。」・・・「分かったのか。」ふてくされた顔で「自分は・・よく分かりません。」私は最後にぜいぜいと車いすに乗せられ、ベルトコンベアのように受刑の手続きを進められた。私の右目は長い呼吸困難のため瞳が上方を向いたまま固定され、上の方しか見れなくなっていた。きっと以後の彼らの関心はどこの刑務所に送られるかに移るのだろう。
房で私はふたたび呼吸困難から意識混濁に陥った。脈拍数が尋常ではなかった、鼓動はたまに短く止まった。血液中の酸素濃度は著しく減り、職員は指先の色を見て、顔を見合わせた。死が近づいていた。私は病棟に移つされた。心電図のエコーが検査され、強心剤が投与され2年ぶりに床を感じない厚い布団のベットに横になり、平成18年2月の平成記念病院以来の医学治療を受けた。数日間、注射と点滴が施され、わたしは生還した。大隈光祐`アントワープの絵ヘ生還して独房に帰って1週間、こんどは激しいふるえと高熱がわたしを襲い始めた。解熱剤を申請し飲んだあと、熱が下がると今度は全身には赤い斑点が出現し始めた。それは除々に膨らみ始め膿を出し始めた。親指に開いた大島の噴火口。血液がすごい速さで流れている。海女の箱めがねで見ているよう。大小の噴火口は左右対称に動脈の流れの上に出来ていた。職員に申し出ると顔をそむけ「なんでもっと早く言わなかったんだ」と連絡を取り始めた。私は診療日でない土日も病棟に連行され、全裸になり白い化膿止めを塗られた。毎日、大量の抗生物質が投与された。赤い斑点は膨らんだまま固まり、むらさきにかわった。下血が出始めた。私は身体の中身が長い長い呼吸困難による酸素不足から開放されて、この場所にある悪の空気を一挙に内臓に取り入れたために、壊れはじめたのではないかと感じた。

大阪拘置所

平成20年4月に入った。この拘置所に来て約3カ月。4階に移されて2カ月が過ぎた。私は1ヶ月前の3月9日ゲコクし、その日受刑者となった20名のなかから、たったひとり4舎4階に移され、独房のまま実刑受刑者となった。刑期が始まった。私の房は廊下のちょうど中心 職員お立ち台の目の前だった。
初日、私を受け入れた担当者の電話の声が房のなかまで漏れ聞こえてきた。
「・・・大隈ですか・・・はい・・今のところ大丈夫です・・・音もOKです・・わかりました・・注意します・・」
'音 とはたぶん房で大声を出して暴れたり、奇声を発して迷惑を掛けていないか という隠語だろう。と推察された。私は裁判でいわゆる精神病患者ではなく完全責任能力が有る正常者と判断され実刑に服しているのに処遇はあいかわらず観察独房のままだった。周囲左右はおそらく今までと同じように精神疾患者なのだろう。ひとつしかない湯船には行く度に汚物が浮遊しており、それ丁寧にあみですくってから入浴した。
病棟に行って以来、私の喘息は落ち着いていた。ステロイド系の吸入器と発作止め吸入器が投与され上手くコントロールされていた。社会にいるときと同じ処方である。受刑者になった以上刑務作業が毎日あった。
といってもこの棟の作業は精神疾患者でもできる簡単な作業だった。かつおぶしを細かくしたような木屑がふくろいっぱい入っており、その中から、だまになった木屑を除外するという作業だった。ひとふくろに制限時間もなかった。収容房からは中庭しか見れない。さんかくに囲まれている。ここから見える風景は灰色コンクリートの蜂の巣。煙を上げない煙突・・・管制塔? 冬の灰色の空・・。辿り着いた降車場、まるでモノクロの世界 アウシュビッツ・・・。一体どれぐらいの人数収容されているのだろう。何百人?いや何千人はいそうだ。向かいの横幅数百メートルはあろう屋上にはたくさんのふとんや衣料が干してあり、受刑者たちが小さく動いている。遠くで行進する掛け声や怒声が聞こえる。
大隈光祐゛アントワープの絵゛

目を下すと、色彩がついた唯一の風景。中庭の真ん中に桜の木。前に桜を見たのは平成18年の4月だった・・・。あのとき私は外界がいきなり春になっていたのでびっくりした。高田川の両岸が桜並木になっていた。水面とともにきらきら眩しく、私はこれほど美しい桜は見たことがないと思った。あれからどれぐらい月日が経ったろう。何度、死にかけ生き続けているのだろう。枯れた木だと思っているような街路木にふと桜が咲いていて「なんだ 生きてる木なのか。」と思ったことが何度かある。この建物の中には死刑執行する場所があると聞いた。この桜は大阪拘置所に収容されている終身囚が生を年に一度確認する鏡なのかも知れない。
桜は自分の生き死にを自分で決められない。こんな場所なのに毎年咲かなければならない。決して咲きたい場所に移ることはできない。私も同じ。・・・でも桜の方が人に何かを与えているだけましだ。私はこの巨大な建物で蘇生され、そして、死んだ木・・長年、人の尿や便を吸い込み変色してしまった和式便座に座りながら一本の桜しか見れない。 
「このまま下血が止まらずゆっくり死ねたら楽だろうに・・」と自分の下に目を落とし、便器の中の赤い血を見る。私は一日何回も尻から血が流れ始めていた。
あの斑点は約15cmおきに全身のリンパ節に添うようにみにくく痕が残り、午後になるとむらさきに変色した。皮膚がうすくなり、たたくと「コンコン」と骨にひびいた。指の動きはスムーズでなくカクカクと動いた。
精神病者向けの作業であったが、2年ぶりの仕事であり、私はわずかに生きがいを感じはじめていた。ふつうは木屑からだまを見つけるのに、菓子箱のふたに木屑をひとつかみずつ入れ、へらを使って感触で分別していた。しかし、これでは膨大な時間がかかる。私は一計を考えた。少し高い位置から風を興しながら屑を落とすとだまだけが真下に落ちきれいに分別することができた。どんなささいでも`仕事とは死から逃れさせるこの世の力。大学を出てから変わらない。
翌朝「はい。今日移管ね。すぐ荷物まとめて。」と扉が開いた。
いよいよどこかの刑務所に移送されるのだ。