大隈光祐`アントワープの絵へ` -20ページ目

刑務所バス

平成20年4月3日。出発の日。1Fに11名が集められ、荷物を一まとめにするようチェックが行われた。
独居から来たのは私だけで知り合い同士で目くばせしたりにやにやしている人が多い。荷物が一つにまとまると自分で持って教壇のある狭い部屋に集められた。
「お前は組にいたから○○刑務所やろな。」「俺は○○刑務所がええな。パンがおいしいんや。」とかひそひそ私語が聞こえる。私は運動場すら平成18年10月~もう1年半出たことがなく、拘置所職員以外の生身の人間の会話を身近に感じるのが久しぶりだった。私は人が存在する雰囲気自体に懐かしさを感じた。
「静かにしろ。これからひとりひとり移管される刑務所を告知するので、呼ばれた者は氏名・生年月日を名乗って立ち上がるように。わかったな。」急に静まりかえる。全員の緊張感が伝わってくる。
拘置所を出入りしている人間は刑務所や処遇などについてびっくりするほど雑知識を持っている(それが正しいか正しくないかは知らない)。それが緊張させるのだろう。
私は何もわからないので、部外者のようだった。結局2名が滋賀刑務所で残りの9名は加古川刑務所というところだった。
「いいか。よう聞け。今から大阪拘置所のルールは全部忘れるんや。刑務所には各刑務所のルールがある。`拘置所では許されてましてん'とか甘えたこと言うても、刑務所じゃ通じへんで!また、それを今、質問されてもわしらはなんも知らん。わしらはお前らを運ぶだけや。刑務所の各職員の言うことがルールや。わかったな!。それでは連行。」バスが来ていた。
受刑者全てに手錠がかけられ職員と受刑者が交互に太い縄が通されていく。一台のバスに乗るすべての人間がひとつのふとい縄で繋がれるのだ。私は一番うしろの補助席に職員に両側をはさまれ座った。窮屈だったが、十分な投薬が行われいてたため私は眠くなった。何時間寝てたのだろう。ざわめきで起きると白い門が見えた。
大隈光祐の”アントワープの絵”私は奈良 京都 大阪 そしていよいよ兵庫県にまで運ばれたのだ。

人間工場

刑務所とは一面、労務施設であり工場の集合体である。衣類は縫製工場、机は木工工場、食事は配食工場など刑務所内で使われるものは原則、刑務所内で作られる自給自足が原則で、一般工場では割り箸作りなど西日本にある民間企業の仕事を請け負っていた。刑務所に到着し、領置物を検査し刑務服に着替え終わると、すぐに訓練工場の教官達による厳しい行進訓練が始まった。犬や猫、動物は最初に飼い主が強いか弱いか判断する。囚人に舐められたら刑務所は成り立たない。訓練工場とは別名'人間工場と呼ばれていた。各人が配属工場が決まるまでの2週間、ここで適性が観察され面接があり、配属される工場が決まる。それまでの間、四六時中 行進動作、所内ルールなどを徹底的に`しつけ`し`虚勢し、まず、この刑務所向きの「人間」を製造するのだ。
「みぎっ ひだりっ みぎひだりっ みぎっ ひだりっ みぎひだりっ」
私は外にでて地面を歩くこと自体2年2カ月ぶりだった。めまいがしながら懸命に地面をけった。
「みぎっ ひだり みぎひだりっ みぎっ びだりっ みぎひだりっ ひじをのばせ 腕をもっとあげろ。」遠近感が出ない。10mぐらい先でもすごく遠く感じる。ペットショップで育てられた動物がいきなり野原に連れ出されたらこんな感じかも知れない。目が痛い。すべてが眩しい。
「みぎっ ひだりっ みぎっ ひだりっっ もっと手を大きくふらんかー ぼけどもーっ」
(これは夢か。)
私は観察独房から出されてまだ8時間あまりしか経っていないのだ。
「みぎッ ひだりッ みぎひだり・・・」どこから現れるのかたった9名の受刑者の列の左右から、警備服や制服を着た若い職員が入れ替わり立ち代り、罵声を浴びせにやってくる。航行する船体に襲い来る戦闘機の群れ。
「くずやったら行進ぐらいまともにせんか 指先はぴったりつけまっすぐに!と言ったろうが!どいつもこいつもぼけなすばっかりや みぎ ひだり みぎひだり  みぎ ひだり みぎひだり・・・・・おどれ どこみとんじゃ!」誰かよそ見したのかも知れない。気がつくと私のすぐ横にも刑務官がおり、さっきから鼓膜が破れるのではないかと思うぐらい大きな罵声が耳元でし続けていた。
「なにやっとんのじゃ!ねぶいんか おのれは!ほんまにねかしてやってもええんやで。どうなんじゃ!」
私は初日からさっそく受刑者から'やすしと呼ばれる鬼教員の集中攻撃を浴びはじめていた。
「おまえみたいにとろいやつはのお~ どっこの工場の先生にも相手されんでぐるぐるぐるぐるあちこちの工場をたらいまわしにされて、しまいには廃人になるんじゃ わかっとんのか。」
つまり今後、配属先の工場責任者である部長級刑務官にいんねんをつけられ懲罰で落とされ、次行った工場でまた懲罰で落とされ、それが繰り返す。と予告してくれているのだろう。それより私は背中がきしんだ。足の感覚はもはやなかった。しかし苦痛感はなかった。私の目は徐々に陽の光に慣れてきて、芝生や果てしなく遠くにある山波に注がれていた。2年2カ月振りに私を覆っているであろう大空を頭上に感じていた。
「いち!」「にっ!」「さん!」「し!」「ごおー!」「ろく」声が小さい!やり直しっ!「いーち!」「にぃー!」 「さんっ!」「しい!」「ごおーおー!」「ろく」小さい!やり直しっ!何回やらせるつもりだろう。全員喉が裂けるような大声を出し続けているにもかかわらず点呼すら終わらないのだ。なお、悪いことにこの日配属された9名は私以外若い30代だった。
(おっさん、ええかげんにさらせや)私は周囲の殺気を感じた。
しかし声が思うように出ない。当たり前だった。私は平成18年11月に独房で発狂して奇声を発した以外はこの2年間、大きな声を出したということがなかった。しかも平成19年3月の京都拘置所での自殺未遂大失敗で喉を痛めた私はそれ以来ずっとかすれた小さな声しか出なくなっていた。
私は何回も ろく を言った。私は普通の声すら失っていることに気づいた。
「こいつ ほんまに出いへんのか 刑務所にきて声もでいへんなんてどうしょうもないやっちゃな つぎ ー」 刑務教官はようやく許してくれた。
私はこんご2週間 この班の足をひっぱる奴として刑務官たちと そして同囚から目をつけられた。
(2週間後に配属される工場がどこか。)
これは囚人たちにとって今後の刑務所生活を決する、最大関心ごとだった。どの工場が快適に刑務所生活が過ごせるか彼らには仲間などから充分な予備知識が備わっていた。それらは半分当たっており、半分間違っていた。そしてこの訓練期間中、教官の命令にすばやく従い、一番きびきびと対応できた者だけが高い評価を受け、希望の工場に行けるものと配属された同囚の全員が信じていた。また、そう思わせておくのは刑務所の職員にとっても訓練工場の目的上、道理にかなったことであった。私はその後、知るのだが、刑務所生活で多いタイプの人間は実は一般の人以上にルールにうるさい人間だった。学生時代の校則を今だに覚えていて文句をつけたり、社会マナーの悪い人間を許せなかったり、他人との 上下関係を異常に気にした。
だらしない人間を嫌い、あいまいを嫌った。成人向け雑誌が住宅地で売られていることが許せなかった30代半ばの男性は自販機に爆弾を仕掛け、販売主をこの世から消そうとして懲役7年で服役していた。社会ルールと心地よい適度な距離感が保てず、ルールに過敏であり、自ら鬱憤をためていた。そしてよく爆発させた。彼らはルールの存在意味を考えない。弱者や高齢者に対する配慮などない。そしてそのルールの先鋒にいるのが警察であり、特別に意識し、憎悪した。これら刑務所の多数のタイプを占める人間と私はのちに、この刑務所内で激しい生存闘争をすることになる。
狭い風呂の脱衣場ですら競争だった。体格のいい者は弱い者を押しのけ、他よりも一秒でもはやく着替えようとした。職員達もけしかけた。「早く着替えろ!もたもたすんなー ケツになるなよー。」それは即ち  ケツになればひどい工場に行かすぞ という暗諭であり、裸体の囚人同士の場所取り争いを加熱させた。ホーロー流し台を巨大にしたような浴槽の回りの定位置にタオルと石鹸を片手に全裸でしゃがむ。入り口に 指揮台があり制服の職員がメガホンを構える。「にゅよーくはじめ!」と響くと同時に色とりどりの刺青 をした背中が一斉に湯水を浴び始める。飛び交う職員の怒声「節水じゃー。湯を無駄にするな。洗面器は定位置にきちんと置け!」
(これは夢か)とまた思う。気がつくと一番、怒られ続けているのは私だった。「きさま。洗面器は蛇口の前にきちんと置いて浴槽に入れ。出ろ。」「よー見てみ。石鹸のあわがタイルに残っとるやないかっ。もう一度浴槽から出ろ。全部やり直しじゃ。」私は既に落伍者だった。
いかに職員と同囚の苛立ちが限界になる前についていくかだけが私の課題だった。これが評価期間でもあるとの囚人たちの心理が、おそらく私を彼らの暴行から守っていた。
雑居房は4名だった。私はこの刑務所で70番となった。番号があるのに囚人は全員名札をつけさせられていた。インターネット時代に囚人同士に名札をつけ、部屋に放り込む当局の無関心さに少し不満を感じた。声がでないということは自分の房にもスムーズに入れないということだった。私は房に入るため何回も「ななじゅうばん」を繰り返し、刑務官が叱り疲れ諦めて、ようやく4人は房に入ることを許された。その晩、食後から就寝までのわずかな会話自由な時間 雑居房ではひとりのレゲイによる大麻に関する講義があった。大麻がいかにタバコなどより安全、無害で、人生を幸福にし、世界中で吸われているか語られた。彼によるとカナダの国旗は大麻を称える象徴で、オランダ国民全員は大麻で世界一幸せだった。優れた音楽のすべては大麻なしでは生まれなかった。ノーベル賞もオリンピックの記録も大麻のおかげだった。彼によれば芸能人だけじゃなく文化人も政治家もTVに映るような著名人はすべて大麻を吸っていた。そのおかげで順調に仕事をしていた。タモリが笑っていいとも皆勤なのさえ彼によれば大麻のなせるわざだった。私は大麻に関心した。というよりロンブー似の彼に関心した。私が部屋の角から「じゃあぺ・ヨンジュンも?」名前をあげて聞くと「もちろん。」とそんなことも知らないのかというあきれ顔で私を見た。そして結局、そんな大麻を取り締まっている警察はいかに無知で常識知らずで、そのせいで自分は箪笥を改造したり、地下室を作ったりいかに大麻を販売し広めるのに苦労しているかを語った。それを聞いていた背中に大きな錦鯉が泳いでいる中川家似が「ハハ」と鼻で笑って「大麻なんてシャブの気持ちよさに比べれば・・」と語りだし、今度は延々とシャブについて語りだす。喉仏まで刺青を入れ、耳には大きな星印の墨がある一番若い20代の薬丸氏似が「どっちもいいですよ。」と私に笑いかける。そんな講義は一日で終わりかと思った。しかし翌日も続いた。昔やくざで足を洗ってからは強盗や引ったくりで暮らしているという40代の男は「あのばばあさえいなければ。」と引ったくりのあと逃げる途中でぶつかって警察に捕まった一般人の文句を今だに言い続けていた。反省とは無縁の世界。雑居房にはそれぞれ私物箱が用意され、4桁の番号を合わせるタイプの鍵がついていた。私が「この鍵開けれますか?」と自分の鍵を渡すと難なくに開け、みんなビックリし、それからはこの房は開鍵講義の日々となった。結局、その技術をいつまでも習得できない人間は私だけだった。初日、入浴が終わると数名が医務部へ連行された。
「目をつぶってお互い一切しゃべるな。呼ばれた者は来い。」診察ではなかった。症状を聞くようなこともない。これは何かの手続きだった。ただ自分の番号を言って白衣の前に座り、立って、一礼して、房に戻どされた。その晩、私には大量の投薬があった。夜間、「ゴツ!」という異様な大きな音で目が覚めた。私が倒れ、房のはしのコンクリート柱のかどに後頭部をぶつけ、天井を見ていた。
そのままふらふらと反対かどにある半分ガラス張りの便所に向かい、私はまたくずれ落ちた。
朝まで吐き続けた。3人は唖然としていた。この日から、私には睡眠薬が投与されていた。また あの 'ベゲタミン だった。ただちに投与が止められた。翌日から訓練は模擬工場内で行われた。昼休み、食堂で私に関してのある噂が流れ出していた。

赤ん坊

訓練が行われている模擬訓練工場内には食堂が併設されていて12:00から30分の間だけ、囚人同士の会話が許されていた。TVを見たり、新聞を読むこともできる。
「俺達のなかに何年も独房に監禁されていた奴がいるらしい。」
「えっ ほんまか。」
少し離れたところから声が聞こえる。
「ほんまやって。きっと対人恐怖症ってやつや。今朝やって・・・見ててびっりしたで。」「えっほんま。」「ほんまやって。みててみな。」何人かのかたまりが私の方をちらっとみて、その振り向きの流れがウエーブのように食堂内を流れた。その日のメニューはカレー、プリン、サラダだった。
「やっぱムショのカレーはうめいな。」「俺はぜったい配食工場に行く。」たのしそうに会話している。
私は涙が出てきた。あわてて拭いた。TVではチベット紛争があり国際社会が中国政府をどう制裁するかというニュースばかりが流れている。そういえば今年はもう北京オリンピックだった。キャスターは見覚えのある顔だったがみな白髪がめっきり増えていた。私の髪はなぜか黒のままだった。私は太陽の光による色素老化が止まっていたのだろう。浦島太郎のように。コマーシャル・・0120○○○の○○○!今すぐお電話を!画面いっぱいに電話番号と化粧品の値段。健康食品・・まるで真夜中のテレホンショッピングのようなCMが続く。
四角い箱のなかで目まぐるしく変わる原色の光の絵の紙芝居。私はまたとめどなく涙が流れだした。すぐ拭いた。隣に座っている左右の腕に全くアンバランスを欠いた錦の刺青を入れた外車荒らしの30代のいしだ一成似が顔を寄せ「兄さん。今朝、教官が話しているとき泣いていたでしょ。どないしたんですか。あいつは整列の仕方教えとっただけやったじゃないですか。うしろにいても嗚咽が聞こえてとったで。みな兄さんが頭おかしいって噂しとるで。」そうだったのか さっきの視線・・・。私は自分でもどうしようもなかった。なにを見ても、なにを聞いても、涙が止まらなくなるのだ。それがどうだからではなかった。
光 色 緑 風 人がそばにいる気配 声 そしてこのとてつもなく広い空間 距離感 窓から見える空 その存在のすべてに私のからだが反応した。勝手に涙が出続ける。止めないと嗚咽が出始める。本当は大声で泣きたかった。悲しいのではない。うれしいのでもない。ただ泣きたいのだ。私はわかった。なぜ赤ん坊が生まれてすぐおぎゃーおぎゃーと泣き続けるのかを。10カ月真っ暗な子宮のなかにいて突然この光の中に放り出され、泣くしかないのである。赤ん坊が泣く理由について、罪多きこの世に生まれ出た悲しみなんて宗教的もっともらしい理由を聞いたことがあるが、そんなことではなかった。光がなければ色はない。つまり世界とは色だ。暗闇から光のある世界に放り出されると色に五感が激しく化学反応するのだ。私は白黒の世界から生まれた。その日、私は夜中も自分の鳴き声でよく目をさました。訓練期間中なので、誰も文句を言わないだけで、布団のなかで明らかに全員目を覚まし怒っていた。明日もきっとまたこのことが噂になるのだろう。と思い、私は目をつぶった。とても遠い天井を感じながら。