時給4円
拘禁された時の私の年収は1500万円だった。損保マンは総じて給与水準が高かった。特に東京海上はじめ上位3社は総合職の給与水準が昔から高く、不況時にも安定している業種として大学生の就職ランキングが高かった。私も30歳には1000万を超えていた。官僚になれなかったけど「損保は年収が高いから」ととりあえずと入社した東大組も少なからずいた。そういう連中が会社の総務など中枢部で給与体系のしくみを作るので、不況が進んでも、保険代理店を減らしたり、中小損保を吸収合併したり、社内人事評価を厳しくしてみたりしながら、自分の初心を維持しようとがんばっていたので、まんなかは高いままだった。
損害保険とは形がない。物を作ったり、販売している巷のひとから言わせると「ひとのふんどしで商売して高い給与ばかり取りやがって。」と思われる。
「大隈さんは給与が高いからいいよな。」と地方で営業しているとあいさつのように地元の取引先にやっかみ半分に笑いながら言われた。私はその都度こう答えた。
「私達はパチンコ屋ですから。入りと出を調節することだけすれば、不況も関係ないのです。何も作っていません。つまらない仕事です。みなさんの方がよっほど仕事らしいですよ。」と。
そしてそのつまらない仕事をおもしろくするために私は給与のほとんどを使っていた。
給与などどうでも良かった。私にとって仕事とは何か新しい`形`を創ることだった。私は土日の度に書店や文房具屋に出かけた。あるいは会社にいた。
「大隈。夏季休暇ぐらいきちんと取れ。」「正月ぐらい家にいろ。」課長は毎年のように私に言った。
私は損保会社の柱である保険専業代理店や保険研修生への教育をあまり相手にしなかった。そして普段 保険と無関係な人達、「保険屋」と毛嫌いしている人間にあえて保険を売ってもらうことに頭をひとり悩ませ、そして勝手に熱心だった。それは相当力技だった。そのしくみを考えた。私は若いころから同期でもっとも多く営業殊勲賞を取り続けた。本社では6,000名の中から前月最も成果をあげた数十名を全国から選び社内表彰していたが年初から12カ月連続で表彰されたことがあった。一総合職が一年間社内表彰を独占したというのは安田火災の社歴上初めてとのことだった。まして保険資源の少ない地方支社だった。
私は一部の社員たちから「営業の天才」と言われはじめた。本社の営業推進部は私の顔写真をテレホンカードにした。
しかし会社の中枢部 給与を`普通に重視する人たち から私は長い間、異質だった。常に東京から遠く、しかし予算目標は高い店舗に私を配属した。もっともだった。それは会社のためでなかった。私自身のためだった。私は何か創っていないと常に死と生きる意味についてを考えた。
黒澤明の映画「生きる」。市役所の課長。そう。生きるとは創ること。どこであろうと。何が創れるか。それが私のすべてだった。
「ここは刑務所やで。くまさん。何しとんや。」今野氏は言った。
刑務所の時給は4円だった。
関係なかった。
身体が蘇生するにつれて、私はますますむきになって刑務作業の見直しを提言したり、効率の工場を模索し続けた。
決められたことだけを決められた通りこなそうとする同囚、漫然と作業をしてそれが普通で、一生懸命した作業の結果ですよと官に思わせておきたい同囚にとって私という存在は不愉快だった。
私は刑務所でも異質になり始めていた。
御影小学校にいる人たちとボランティアをしながら私が、存在してきたのは損害保険会社ではなかったことを悔いた。ボランティアの人と一緒に毛布の整理をしたり、お茶を配布しながら、大学を出てから10年間、人生を無駄にしたと心から悔いた。その後、未曾有の台風10号で室生寺が倒壊し担当にならなければ確実に安田火災を辞めていただろう。私は`生きるため`に生きる機を逸した。
平成17年正月。スマトラ沖地震に同じアジアの日本人は無関心だった。
「tunami」が日本語の津波の意味で世界共通語になっていることだけが繰り返しニュースやワイドショーで流れていた。いつものように私は眠れず起きていた。すでに毎日もうろうとし自宅にたどり着けなくなり、再会した彼女の家に毎日、睡眠薬でつなぐ朝までの時間をいさせてもらっていた。彼女は別の寝室にいた。私はソファでまどろみ朝を待っていた。夜中のBSで海外のニュースをたまたま見た。英国のチャールズ皇太子が郵便局で緊急募金の整理の手伝いに駆り出されるというニュースが流れていた。この国には世界と同じ時間や血が流れているのだろうか。戦後60年何も変わっていないのでは。動悸がした。
私は阪神大震災の時会社を辞めなかった自分を責めた。
何もしてこなかった時間を一挙に取り戻したかった。
BSニュースを見たのは3時こどろだった。
この日だけは眠れない自分だけの理由が見つかった。朝を待ち遠しく、10時に100円ショップに出かけカゴを何十も買い、募金を呼びかける文書を張り、ひとりで募金活動を始めた。東京都庁、野村ビル、四谷駅、東京駅、新宿駅、国会議員会館、募金が集まりそうな場所にかたっぱしから置いて回った。安心してくれるよう、一万円札、千円札、小銭などをじゃらじゃら入れた。おそらく私はこのころから年末からの事件に向かっていた。パキシルの副作用、影響が出始めていた。興奮・高揚作用だったのだろうか。貯金を残らずカゴに入れ、数百万使った。一週間後、期待して回収に向かった。大半はかごごと消えていた。募金が入ったかどうかもわからなかった。数日後、国会議員会館から呼び出された。
応対してくれたのは藤巻第一会館課長と菅原第二会館課長だった。お茶がやさしく出た。
「すぐに回収しましたから中身はなくなっていないはずですよ。まず確認してください。あなたの気持ちはよくわかりました。募金活動の件は議員会館内でも回覧しますので、スマトラの件はあなたはそんなに心配しないでも大丈夫です。」と言われ、自分のお金が入ったままの箱を返された。そこから日本赤十字に10万円送金した。萩原国際支援室長より「常務 今度どこかでお会いしましょう」とお礼の電話があった。
妻にスマトラでみなしごになった子を自宅に引き取りたいというと、いやな顔をされたが、しばらくして「いいかもね。」と言った。夫を静かにさせたかったのかも知れない。
私は行動の幅が明らかにおかしくなり始めていた。
その年の10月。パキスタン大地震が起きた。自民党員が杉村議員を連れて街頭で形ばかりの募金活動をしている様子がニュースに流れていた。
萩原室長からからカトリーナの活動新聞が届いた。
しかし私は募金をしなかった。そんな余裕はなかった。
自分のまわりに顔があふれていた。私は幻覚を見て、ひとり寺を彷徨い始めていた。
20年5月。四川大地震が起きた。私はそのニュースを刑務所の雑居房で見た。胸がつぶれそうになった。
損害保険とは形がない。物を作ったり、販売している巷のひとから言わせると「ひとのふんどしで商売して高い給与ばかり取りやがって。」と思われる。
「大隈さんは給与が高いからいいよな。」と地方で営業しているとあいさつのように地元の取引先にやっかみ半分に笑いながら言われた。私はその都度こう答えた。
「私達はパチンコ屋ですから。入りと出を調節することだけすれば、不況も関係ないのです。何も作っていません。つまらない仕事です。みなさんの方がよっほど仕事らしいですよ。」と。
そしてそのつまらない仕事をおもしろくするために私は給与のほとんどを使っていた。
給与などどうでも良かった。私にとって仕事とは何か新しい`形`を創ることだった。私は土日の度に書店や文房具屋に出かけた。あるいは会社にいた。
「大隈。夏季休暇ぐらいきちんと取れ。」「正月ぐらい家にいろ。」課長は毎年のように私に言った。
私は損保会社の柱である保険専業代理店や保険研修生への教育をあまり相手にしなかった。そして普段 保険と無関係な人達、「保険屋」と毛嫌いしている人間にあえて保険を売ってもらうことに頭をひとり悩ませ、そして勝手に熱心だった。それは相当力技だった。そのしくみを考えた。私は若いころから同期でもっとも多く営業殊勲賞を取り続けた。本社では6,000名の中から前月最も成果をあげた数十名を全国から選び社内表彰していたが年初から12カ月連続で表彰されたことがあった。一総合職が一年間社内表彰を独占したというのは安田火災の社歴上初めてとのことだった。まして保険資源の少ない地方支社だった。
私は一部の社員たちから「営業の天才」と言われはじめた。本社の営業推進部は私の顔写真をテレホンカードにした。
しかし会社の中枢部 給与を`普通に重視する人たち から私は長い間、異質だった。常に東京から遠く、しかし予算目標は高い店舗に私を配属した。もっともだった。それは会社のためでなかった。私自身のためだった。私は何か創っていないと常に死と生きる意味についてを考えた。黒澤明の映画「生きる」。市役所の課長。そう。生きるとは創ること。どこであろうと。何が創れるか。それが私のすべてだった。
「ここは刑務所やで。くまさん。何しとんや。」今野氏は言った。
刑務所の時給は4円だった。
関係なかった。
身体が蘇生するにつれて、私はますますむきになって刑務作業の見直しを提言したり、効率の工場を模索し続けた。
決められたことだけを決められた通りこなそうとする同囚、漫然と作業をしてそれが普通で、一生懸命した作業の結果ですよと官に思わせておきたい同囚にとって私という存在は不愉快だった。
私は刑務所でも異質になり始めていた。
御影小学校にいる人たちとボランティアをしながら私が、存在してきたのは損害保険会社ではなかったことを悔いた。ボランティアの人と一緒に毛布の整理をしたり、お茶を配布しながら、大学を出てから10年間、人生を無駄にしたと心から悔いた。その後、未曾有の台風10号で室生寺が倒壊し担当にならなければ確実に安田火災を辞めていただろう。私は`生きるため`に生きる機を逸した。
平成17年正月。スマトラ沖地震に同じアジアの日本人は無関心だった。
「tunami」が日本語の津波の意味で世界共通語になっていることだけが繰り返しニュースやワイドショーで流れていた。いつものように私は眠れず起きていた。すでに毎日もうろうとし自宅にたどり着けなくなり、再会した彼女の家に毎日、睡眠薬でつなぐ朝までの時間をいさせてもらっていた。彼女は別の寝室にいた。私はソファでまどろみ朝を待っていた。夜中のBSで海外のニュースをたまたま見た。英国のチャールズ皇太子が郵便局で緊急募金の整理の手伝いに駆り出されるというニュースが流れていた。この国には世界と同じ時間や血が流れているのだろうか。戦後60年何も変わっていないのでは。動悸がした。
私は阪神大震災の時会社を辞めなかった自分を責めた。
何もしてこなかった時間を一挙に取り戻したかった。
BSニュースを見たのは3時こどろだった。
この日だけは眠れない自分だけの理由が見つかった。朝を待ち遠しく、10時に100円ショップに出かけカゴを何十も買い、募金を呼びかける文書を張り、ひとりで募金活動を始めた。東京都庁、野村ビル、四谷駅、東京駅、新宿駅、国会議員会館、募金が集まりそうな場所にかたっぱしから置いて回った。安心してくれるよう、一万円札、千円札、小銭などをじゃらじゃら入れた。おそらく私はこのころから年末からの事件に向かっていた。パキシルの副作用、影響が出始めていた。興奮・高揚作用だったのだろうか。貯金を残らずカゴに入れ、数百万使った。一週間後、期待して回収に向かった。大半はかごごと消えていた。募金が入ったかどうかもわからなかった。数日後、国会議員会館から呼び出された。
応対してくれたのは藤巻第一会館課長と菅原第二会館課長だった。お茶がやさしく出た。
「すぐに回収しましたから中身はなくなっていないはずですよ。まず確認してください。あなたの気持ちはよくわかりました。募金活動の件は議員会館内でも回覧しますので、スマトラの件はあなたはそんなに心配しないでも大丈夫です。」と言われ、自分のお金が入ったままの箱を返された。そこから日本赤十字に10万円送金した。萩原国際支援室長より「常務 今度どこかでお会いしましょう」とお礼の電話があった。
妻にスマトラでみなしごになった子を自宅に引き取りたいというと、いやな顔をされたが、しばらくして「いいかもね。」と言った。夫を静かにさせたかったのかも知れない。
私は行動の幅が明らかにおかしくなり始めていた。
その年の10月。パキスタン大地震が起きた。自民党員が杉村議員を連れて街頭で形ばかりの募金活動をしている様子がニュースに流れていた。
萩原室長からからカトリーナの活動新聞が届いた。

しかし私は募金をしなかった。そんな余裕はなかった。
自分のまわりに顔があふれていた。私は幻覚を見て、ひとり寺を彷徨い始めていた。
20年5月。四川大地震が起きた。私はそのニュースを刑務所の雑居房で見た。胸がつぶれそうになった。
懲罰
「布団を折りたたんだ時、端っこがきれいに揃っているか。」「タオルはしみ一つないほどきれいで、まっすぐかけられているか。」「本は高さを揃えて整然と並べられているか。」「食事をする゛直前"1分以内に石鹸で手を洗ったか。」「食器を洗う洗剤の量はきっちり2滴だったか。」「ぞうきんは畳の目にそって2回づつ拭いているか。」「きちんと絞ったか。」「便所を使用した痕、わずかでも水滴が落ちていないか。」「自分の匂いが残っていないか。」「夜中に寝息がうるさくないか。自分はいびきをかかないか。」「卵やおかずをごはんに乗せて食べたりしないか。」「歯磨きのチューブは常に下の方から絞って奇麗に使っているか。」「夜中に大便に行かないか。」「水は静かに流したか。」「歯ぎしりはしないか。」「みんなが見たくないと思ったテレビを見ようとしないか。」「配膳はきちんと平等にできたか。」「週一回のおしるこの団子の数は同じだったか。」これらは刑務所のルールではない。雑居房で受刑者が勝手に作れ上げた過剰なルールの一例である。刑務所に入っているのは社会のルールを守らない人間というより、学校の校則の時代からむしろルールに過敏でそのルールを意識しストレスを溜めてしまう人間が爆発して入ってくるところだというのは前に書いた。しかも日本の刑務所は欧米の刑務所のように個人ストレスを発散させる機会を全く与えていない。明治時代の旧監獄法のままの処遇であった。おそらく、明治時代の「懲役罰」というのはぐれ者ややくざ者同士がムシヨ内で喧嘩したり、大騒動を起こしたりするのを防止するために必要な制度であった。ところが受刑者は変わった。今、刑務所に入っている多くの人間は社会で会社勤めや組織にも属せず、生活能力がなく、社会からはじかれてしまった人たちである。組織として身近に知っているのは上下関係に厳しいやくざの組組織や、店員として勤めたことのあるパチンコ屋、コンビニ、スナックの皿洗い、清掃会社、警備会社などが多い。知っている世の中の規則とは自分のモラルではなく=警察だった。規則に無意味に過剰であった。しかもストレスを発散するお酒もたばこも女性も競馬も何もないのである。一人畳一畳が与えられて生活する共同部屋、雑居房。そこは多くの場合゛男大奥となった。
いい歳をした大人の男性が窓を拭くのが上からが正しいのか下からが正しいかなどを論じ会い、しばしば喧嘩になる。お互いが見ていないようで嫁と姑のように監視し合う。昼でも夜中でも。刑務所では多くの人間がアスペルガー症候群(対人性過敏神経症候群)になる。同房の他人の一挙一動が異常に気になり、ストレスを感じ始める。
寝ている間さえも「あいつ。今を俺のかけ布団の角踏んでトイレに行きおった。明日の朝、注意せなあかんな。」と寝ながら考えている。10人にひとりは完全にアスベスター症に陥った。そして刑務官の一部にもそれはいた。そしてそういう刑務官に目をつけられ、タオルの曲がりを注意された場合、それは現実に「懲罰」になった。昔 始めにルールがあった。それを、守る人がいた。みんな簡単なルールなのでそれを難なく守った。注意することがなくなった。細かいことを注意するようになった。
守る→注意することがなくなる。より細かいことを注意する。→守る→より細かくなる。
刑務官と受刑者の互いの過敏な規則順守へのエスカレート。その長年の蓄積が今の刑務所内のルールとなっていた。「タオルはきっちり1cmの乱れなく揃えてかけておくこと。」なんて文章は刑務所の規則の何処にもない。あえて、言うなら、刑務官の「気分」が規則だった。刑務官には何か`叱ることが自分の日常業務であると考えている人が一部いた。それは単なる刑務所職員としての役割分担かも知れなかった。「二度と刑務所なんか来るな。」という戒めのためと考えているのかも知れなかった。
「おらっ。布団の折り目が畳に揃ってへんぞ。懲罰受けたいんか。ボケ。」一部の職員はいつも怒鳴っていた。それが社会経験の乏しい弱い受刑者、懲罰を怖れる受刑者、満期出所が近い受刑者の過剰なルール意識を直撃した。たまに連帯責任もある。そのため雑居房の中でお互いの不備を監視し合うようになる。この悪循環は嫁と姑の関係に極似していた。しかも部屋から一歩も逃げられないのである。土日曜の免業日は24時間、気に入らない相手と一緒に過ごす訳だ。喧嘩が起らないわけがなかった。
ドンドン ドン 近くの房でけたたましい扉を蹴る音が聞こえる。
「ドア蹴りや。喧嘩や。喧嘩や。今度はどこの房や。」
どっ どっ どっ どっ どこから来るのか、たちまち左右から大勢の職員が駆けてきて、施錠を開け、全員を引きずり出し、連行していく。
「わいは関係おまへんねん。見ていただけですねん。もうすぐ仮釈放でんねん。かんにんしてください。」
半泣きで言い訳する者がいても喧嘩が発生すると、とりあえず房内全員が処遇棟に連行される。
そして半分は帰ってこない。懲罰房へ数週間入れられ、その後、他の工場に移管されるのだ。「懲罰」を受けると仮釈放が難しくなると信じ込まされていた。受刑者が仮釈放がいつかというのは法務省の本面接があって約2、3カ月後なので他人にも分かる。気に入らない人間の仮釈放が近いとわざと喧嘩をふっかけて懲罰に落とす悪質な受刑者もいた。口喧嘩などの場合はどちらか一方が懲罰を免れ、そのまま房に戻って来れることもあった。喧嘩はつまらないことでも起きた。TVのチャンネル・・・プロ野球の勝ち負け・・・・工場で自分の悪口を言った・・・着替えの時、足を踏んだ・・・・・次に多い懲罰の原因 それは訓練のとき言われたとおり「不正配食」だった。
(私にはなぜか分からなかったが)受刑者はいつも腹を空かしていた。
10日にいっぺん房に配られるメニューをノートに書き写し、時々、それを眺めては「明日の主菜は中華春雨か。待ち遠しいなぁ。」とか「なんや、また大根と豚肉の煮物か。いったいどんだけ大根やちくわばっか食わせる気や。」とかぶつぶつ言う。ちなみにメニューは配られて見るだけで、ノートに書き移したりすることは規則違反である。受刑者の不思議なところはタオルを左右きちんと揃えるとかどうでもいいことを異常に気にするくせに、致命的なルール違反は平気でするというところにあった。そして、食器を洗う役割順番、畳を拭くやり方、トイレ掃除の仕方など房長(基本的に雑居房内で一番古株の受刑者)がこと細かく決めておいても、ある日、力の強い人間が入房してきて「わしはそんなルールは知らん。わしのいた房ではトイレを洗うのは〇〇やっとった。」というと「そうですね。それのほうがええやり方ですね。したらそうしましょ。」とコロリと変わってしまうのも不思議だった。つまり、ここに入ってきている多くの人達にとって`ルール=人間の上下関係なのだろう。
そしてその頂点にあるのが社会では警察だったのだ。力の弱いものは力の強いものに自分の飯やおかずを進んで与えた。または強いものは賭けごとと称して、弱い者かせおかずを奪った。刑務所の医療的配慮が不正配食を助長した。糖尿病になる人間はもともと食い意地が張った人間が多い。にもかかわらず、刑務所側は血糖値の高い食欲旺盛な年代の麦飯の量をB食と称して2/3減らし分配していた。それが高齢者や弱者から強者への不正配食を生んだ。私は、可哀そうだが、どんなにほしそうな顔をされても残したおかずは残飯として捨てた。私が食事をあまり食べないのに、美味しいハンバーグさえ人にやらずに残飯にしているとしてのは食堂で噂になった。「大隈。えらいやんか。奴への配食断ったんはお前が初めてや。」私を褒める人間もいた。そうではなかった。私は2年間の独房生活でほとんど食事をしていなかったので、食べ物を受け付けなくなっていたのだ。
食べれないのだ。この2年間は私の闇だった。いやもしかしたら人類の闇、だからそれを人に言う訳にも行かなかった。不正配食は一度やると相手が期待してしまう。刑務官は食事中巡回して、柱の影から不正配食をチェックしていた。懲罰の半分は不正配食だった。それもある。ただ。私は半年間、おかずを捨て続けた。わたしが捨て続けていたもの。それはこの2年間の闇だったのだ。京都拘置所の洞窟のような配食口から入ってくる食べ物。それをそのまま返す自分。左右の唸り声。せめて人間である間に死にたいという希望。そのしみついた習慣。その暗いしぐさにやくざ級の人間ですら「そのハンバーグ。放かすならくれ。」とは誰も言えなかった。陽気にはしゃぐ私、冗談を言う私、たまに見せるとてつもない暗さ、夜中にうなされ、起こされる私 すべてが私だった。
いい歳をした大人の男性が窓を拭くのが上からが正しいのか下からが正しいかなどを論じ会い、しばしば喧嘩になる。お互いが見ていないようで嫁と姑のように監視し合う。昼でも夜中でも。刑務所では多くの人間がアスペルガー症候群(対人性過敏神経症候群)になる。同房の他人の一挙一動が異常に気になり、ストレスを感じ始める。
寝ている間さえも「あいつ。今を俺のかけ布団の角踏んでトイレに行きおった。明日の朝、注意せなあかんな。」と寝ながら考えている。10人にひとりは完全にアスベスター症に陥った。そして刑務官の一部にもそれはいた。そしてそういう刑務官に目をつけられ、タオルの曲がりを注意された場合、それは現実に「懲罰」になった。昔 始めにルールがあった。それを、守る人がいた。みんな簡単なルールなのでそれを難なく守った。注意することがなくなった。細かいことを注意するようになった。
守る→注意することがなくなる。より細かいことを注意する。→守る→より細かくなる。
刑務官と受刑者の互いの過敏な規則順守へのエスカレート。その長年の蓄積が今の刑務所内のルールとなっていた。「タオルはきっちり1cmの乱れなく揃えてかけておくこと。」なんて文章は刑務所の規則の何処にもない。あえて、言うなら、刑務官の「気分」が規則だった。刑務官には何か`叱ることが自分の日常業務であると考えている人が一部いた。それは単なる刑務所職員としての役割分担かも知れなかった。「二度と刑務所なんか来るな。」という戒めのためと考えているのかも知れなかった。
「おらっ。布団の折り目が畳に揃ってへんぞ。懲罰受けたいんか。ボケ。」一部の職員はいつも怒鳴っていた。それが社会経験の乏しい弱い受刑者、懲罰を怖れる受刑者、満期出所が近い受刑者の過剰なルール意識を直撃した。たまに連帯責任もある。そのため雑居房の中でお互いの不備を監視し合うようになる。この悪循環は嫁と姑の関係に極似していた。しかも部屋から一歩も逃げられないのである。土日曜の免業日は24時間、気に入らない相手と一緒に過ごす訳だ。喧嘩が起らないわけがなかった。
ドンドン ドン 近くの房でけたたましい扉を蹴る音が聞こえる。
「ドア蹴りや。喧嘩や。喧嘩や。今度はどこの房や。」
どっ どっ どっ どっ どこから来るのか、たちまち左右から大勢の職員が駆けてきて、施錠を開け、全員を引きずり出し、連行していく。
「わいは関係おまへんねん。見ていただけですねん。もうすぐ仮釈放でんねん。かんにんしてください。」
半泣きで言い訳する者がいても喧嘩が発生すると、とりあえず房内全員が処遇棟に連行される。
そして半分は帰ってこない。懲罰房へ数週間入れられ、その後、他の工場に移管されるのだ。「懲罰」を受けると仮釈放が難しくなると信じ込まされていた。受刑者が仮釈放がいつかというのは法務省の本面接があって約2、3カ月後なので他人にも分かる。気に入らない人間の仮釈放が近いとわざと喧嘩をふっかけて懲罰に落とす悪質な受刑者もいた。口喧嘩などの場合はどちらか一方が懲罰を免れ、そのまま房に戻って来れることもあった。喧嘩はつまらないことでも起きた。TVのチャンネル・・・プロ野球の勝ち負け・・・・工場で自分の悪口を言った・・・着替えの時、足を踏んだ・・・・・次に多い懲罰の原因 それは訓練のとき言われたとおり「不正配食」だった。
(私にはなぜか分からなかったが)受刑者はいつも腹を空かしていた。
10日にいっぺん房に配られるメニューをノートに書き写し、時々、それを眺めては「明日の主菜は中華春雨か。待ち遠しいなぁ。」とか「なんや、また大根と豚肉の煮物か。いったいどんだけ大根やちくわばっか食わせる気や。」とかぶつぶつ言う。ちなみにメニューは配られて見るだけで、ノートに書き移したりすることは規則違反である。受刑者の不思議なところはタオルを左右きちんと揃えるとかどうでもいいことを異常に気にするくせに、致命的なルール違反は平気でするというところにあった。そして、食器を洗う役割順番、畳を拭くやり方、トイレ掃除の仕方など房長(基本的に雑居房内で一番古株の受刑者)がこと細かく決めておいても、ある日、力の強い人間が入房してきて「わしはそんなルールは知らん。わしのいた房ではトイレを洗うのは〇〇やっとった。」というと「そうですね。それのほうがええやり方ですね。したらそうしましょ。」とコロリと変わってしまうのも不思議だった。つまり、ここに入ってきている多くの人達にとって`ルール=人間の上下関係なのだろう。
そしてその頂点にあるのが社会では警察だったのだ。力の弱いものは力の強いものに自分の飯やおかずを進んで与えた。または強いものは賭けごとと称して、弱い者かせおかずを奪った。刑務所の医療的配慮が不正配食を助長した。糖尿病になる人間はもともと食い意地が張った人間が多い。にもかかわらず、刑務所側は血糖値の高い食欲旺盛な年代の麦飯の量をB食と称して2/3減らし分配していた。それが高齢者や弱者から強者への不正配食を生んだ。私は、可哀そうだが、どんなにほしそうな顔をされても残したおかずは残飯として捨てた。私が食事をあまり食べないのに、美味しいハンバーグさえ人にやらずに残飯にしているとしてのは食堂で噂になった。「大隈。えらいやんか。奴への配食断ったんはお前が初めてや。」私を褒める人間もいた。そうではなかった。私は2年間の独房生活でほとんど食事をしていなかったので、食べ物を受け付けなくなっていたのだ。
食べれないのだ。この2年間は私の闇だった。いやもしかしたら人類の闇、だからそれを人に言う訳にも行かなかった。不正配食は一度やると相手が期待してしまう。刑務官は食事中巡回して、柱の影から不正配食をチェックしていた。懲罰の半分は不正配食だった。それもある。ただ。私は半年間、おかずを捨て続けた。わたしが捨て続けていたもの。それはこの2年間の闇だったのだ。京都拘置所の洞窟のような配食口から入ってくる食べ物。それをそのまま返す自分。左右の唸り声。せめて人間である間に死にたいという希望。そのしみついた習慣。その暗いしぐさにやくざ級の人間ですら「そのハンバーグ。放かすならくれ。」とは誰も言えなかった。陽気にはしゃぐ私、冗談を言う私、たまに見せるとてつもない暗さ、夜中にうなされ、起こされる私 すべてが私だった。
闘鶏
刑務所の受刑者にとって一番の関心ごと。それは年中行事である。春のソフトボール大会。
、秋運動会、そしてクリスマスに行われる紅白歌合戦。この3つ。
それは職員についても同じであった。1500名が社会から隔離された状態で1分一秒決められたスケジュールをこなす閉鎖された世界。それは所長以外すべての職員・受刑者にも共通した毎日だった。私的な会話はほとんどできない。多くの刑務所職員は刑務所に隣接された官舎と刑務所を往復するだけの毎日である。
緊急にそなえ、待機も多い。ある刑務官は言った。
「おまえらは懲役の期間だけここにいればいい。娑婆に戻って好きなことができる。でも俺たちは幹部を除けば一生ここにいるんだ。だからお前たちは少しの間、職員に怒鳴られたりしたって気にするな。その職員だってうっぷんが溜まっているのさ。」と。同じようなことを葛城拘置支所で言われたことがある。
「おれはここに30年拘禁されているのと同じだ。」と。
「行事」は懲役にとっても、いやむしろ職員にとって日頃のハメを外せる唯一の年中行事だった。嘘かまことか「どこの工場が勝つかで職員同士でカケをやっとる奴も多いんやで。」という受刑者もいた。
「これがあるから勤まるんだ。」と公言する工場担当の職員もいるらしかった。
たとえば運動会、各工場を管轄する部長職員`おやじは3カ月も前から受刑者たちに朝礼の度に檄を飛ばした。「いいか。おまえらは何かを目指すと言うことを人生で、今まで一度もしなかった者も多い。ただなんとなく、覚せい剤をやって、なんとなくSEXをして、なんとなく万引きして、なんとなく寝泊りして、そういう生活もたしかに楽しいだろう。世の中は今、リーマンショックちゅうやつで大不況や。君たちが出所しても就職は難しいかも知れない。だか、ここにきた以上、何かに一生懸命になったということを体験してほしい。それが社会に戻って、一介のラーメン屋のオヤジ、大工、交通整理の旗振りなんでもいい。何かをやった時、苦しいとき、「なんでこないなこと一生懸命して得があるんや、窃盗してシャブやってた方がよっほど楽しいやんか。」と迷ったとき、きっと君たちの何かの支えになるはずや。だから運動会や。(強引な話の急展開に苦笑があちこちからもれる。)運動会に勝つ!〇〇工場には絶対負けない。それが今、一番大事なことや。わしがいうてることを「何、あほみたいなことぬかしているねん。勝手に盛り上がれ。としらけて聞いている奴もおるかも知れん。そういう奴にはわしもそれなりの対応をする。わかっとるな。〇〇工場にだけは負けたらあかんで。あそこさえ破れば優勝も夢やない。成せば成るや。と言うわけで今日の昼休みからストレッチングをする。やりたいもんだけでええ。(目はそう言っていない。)今日の食後からやるもんは工場に集まれ。
これは「運動場での休み時間は当然、運動会の練習をする。」宣言に等しい。おやじは`昼休みも練習する゛と今、朝礼で宣言したのだ。耳を澄ますと隣の7工場からも同じような教官の檄が聞こえた。悪いことに8工場は運動場の脇にあった。運動時間は30分毎の工場交代制だった。嫌が応でも他の工場の練習風景が作業中に窓から見えた。本番用の玉入れ持ち出してきて練習する工場、ひたすらマラソンのように走り続ける工場、筋肉トレーニングを受刑者に強いている工場。私は闘鶏や闘犬をイメージした。それを見るたびに`おやじは西本氏以下立ち役達を集めて「あんな練習してな何の役に立つんや。本番でへばるだけや。わしらは応援合戦で勝つ。」と言って、毎食後、応援歌の練習を食堂で繰り広げた。
「はよ食え〇〇。みんな歌いたくってうずうずしとるやないか(嘘だ)。食い終わったら直ぐ始めるぞ。西本、大野、・・・・・立ち役達が前に呼ばれる。「走っれっ 8こーじょう たまよーりともはやーくー。一位でゴールしろ・・・」昔のアニメ エイトマンを替え歌にした応援歌を全員で合唱する。なぜか歌詞の合間に「来んかい。来んかい。」という合い手を岸和田だんじり祭り調子で今野が入れ、みんなも続いた。
私は未だに声がうまく出なかった。(視力さえ戻ったのに何故?)
8工場が特別な訳ではなかった。この工場はこれでも淡白な方だった。他の工場の練習ははんぱではなかった。作業中、運動場では高校野球さながらの応援歌練習や、三三七拍子、ウサギ跳びなど猛烈な特訓が繰り広げられていた。それは運動会の前日まで3カ月続いた。そして当日・・・・・・・。運動会は雨天のため中止になった。受刑者には運動会で配られる予定だったキャラメルコーンだけが配布され、雨の降る中、受刑者たちはそれを急いでほおばった。また刑務官が受刑者を怒鳴り散らす日々が再開した。雑居房も喧嘩がひどくなった。年中行事は閉鎖された刑務所という空間で受刑者同士が干渉し合うことから少しでも関心をそむけさせ、暴発やいざこざを起こさせないためにも、1分刻みのルーティーンワークを毎日続ける職員にとっても、刑務所にとって不可欠なサイクルだったのだ。練習を続けてきた運動会中止という受刑者と刑務官の目に見えないうっぷん、エネルギー、それはおのずと次の行事、年末に行われる工場対抗「紅白歌合戦」に向かうこととなった。この行事は所長以下、外部の関係者や東京から歌手も呼ぶ本格的な加古川刑務所最大の「年中行事」だった。私はこの歌合戦に工場を代表して出場することになる。
、秋運動会、そしてクリスマスに行われる紅白歌合戦。この3つ。それは職員についても同じであった。1500名が社会から隔離された状態で1分一秒決められたスケジュールをこなす閉鎖された世界。それは所長以外すべての職員・受刑者にも共通した毎日だった。私的な会話はほとんどできない。多くの刑務所職員は刑務所に隣接された官舎と刑務所を往復するだけの毎日である。
緊急にそなえ、待機も多い。ある刑務官は言った。
「おまえらは懲役の期間だけここにいればいい。娑婆に戻って好きなことができる。でも俺たちは幹部を除けば一生ここにいるんだ。だからお前たちは少しの間、職員に怒鳴られたりしたって気にするな。その職員だってうっぷんが溜まっているのさ。」と。同じようなことを葛城拘置支所で言われたことがある。
「おれはここに30年拘禁されているのと同じだ。」と。
「行事」は懲役にとっても、いやむしろ職員にとって日頃のハメを外せる唯一の年中行事だった。嘘かまことか「どこの工場が勝つかで職員同士でカケをやっとる奴も多いんやで。」という受刑者もいた。
「これがあるから勤まるんだ。」と公言する工場担当の職員もいるらしかった。
たとえば運動会、各工場を管轄する部長職員`おやじは3カ月も前から受刑者たちに朝礼の度に檄を飛ばした。「いいか。おまえらは何かを目指すと言うことを人生で、今まで一度もしなかった者も多い。ただなんとなく、覚せい剤をやって、なんとなくSEXをして、なんとなく万引きして、なんとなく寝泊りして、そういう生活もたしかに楽しいだろう。世の中は今、リーマンショックちゅうやつで大不況や。君たちが出所しても就職は難しいかも知れない。だか、ここにきた以上、何かに一生懸命になったということを体験してほしい。それが社会に戻って、一介のラーメン屋のオヤジ、大工、交通整理の旗振りなんでもいい。何かをやった時、苦しいとき、「なんでこないなこと一生懸命して得があるんや、窃盗してシャブやってた方がよっほど楽しいやんか。」と迷ったとき、きっと君たちの何かの支えになるはずや。だから運動会や。(強引な話の急展開に苦笑があちこちからもれる。)運動会に勝つ!〇〇工場には絶対負けない。それが今、一番大事なことや。わしがいうてることを「何、あほみたいなことぬかしているねん。勝手に盛り上がれ。としらけて聞いている奴もおるかも知れん。そういう奴にはわしもそれなりの対応をする。わかっとるな。〇〇工場にだけは負けたらあかんで。あそこさえ破れば優勝も夢やない。成せば成るや。と言うわけで今日の昼休みからストレッチングをする。やりたいもんだけでええ。(目はそう言っていない。)今日の食後からやるもんは工場に集まれ。
これは「運動場での休み時間は当然、運動会の練習をする。」宣言に等しい。おやじは`昼休みも練習する゛と今、朝礼で宣言したのだ。耳を澄ますと隣の7工場からも同じような教官の檄が聞こえた。悪いことに8工場は運動場の脇にあった。運動時間は30分毎の工場交代制だった。嫌が応でも他の工場の練習風景が作業中に窓から見えた。本番用の玉入れ持ち出してきて練習する工場、ひたすらマラソンのように走り続ける工場、筋肉トレーニングを受刑者に強いている工場。私は闘鶏や闘犬をイメージした。それを見るたびに`おやじは西本氏以下立ち役達を集めて「あんな練習してな何の役に立つんや。本番でへばるだけや。わしらは応援合戦で勝つ。」と言って、毎食後、応援歌の練習を食堂で繰り広げた。
「はよ食え〇〇。みんな歌いたくってうずうずしとるやないか(嘘だ)。食い終わったら直ぐ始めるぞ。西本、大野、・・・・・立ち役達が前に呼ばれる。「走っれっ 8こーじょう たまよーりともはやーくー。一位でゴールしろ・・・」昔のアニメ エイトマンを替え歌にした応援歌を全員で合唱する。なぜか歌詞の合間に「来んかい。来んかい。」という合い手を岸和田だんじり祭り調子で今野が入れ、みんなも続いた。
私は未だに声がうまく出なかった。(視力さえ戻ったのに何故?)
8工場が特別な訳ではなかった。この工場はこれでも淡白な方だった。他の工場の練習ははんぱではなかった。作業中、運動場では高校野球さながらの応援歌練習や、三三七拍子、ウサギ跳びなど猛烈な特訓が繰り広げられていた。それは運動会の前日まで3カ月続いた。そして当日・・・・・・・。運動会は雨天のため中止になった。受刑者には運動会で配られる予定だったキャラメルコーンだけが配布され、雨の降る中、受刑者たちはそれを急いでほおばった。また刑務官が受刑者を怒鳴り散らす日々が再開した。雑居房も喧嘩がひどくなった。年中行事は閉鎖された刑務所という空間で受刑者同士が干渉し合うことから少しでも関心をそむけさせ、暴発やいざこざを起こさせないためにも、1分刻みのルーティーンワークを毎日続ける職員にとっても、刑務所にとって不可欠なサイクルだったのだ。練習を続けてきた運動会中止という受刑者と刑務官の目に見えないうっぷん、エネルギー、それはおのずと次の行事、年末に行われる工場対抗「紅白歌合戦」に向かうこととなった。この行事は所長以下、外部の関係者や東京から歌手も呼ぶ本格的な加古川刑務所最大の「年中行事」だった。私はこの歌合戦に工場を代表して出場することになる。