大隈光祐`アントワープの絵へ` -23ページ目

70日間戦争

私が8工場に配属されて1カ月、私は気づき始めた。訓練工場からこの工場に配属される受刑者がほとんどいないことを・・・・。入ってくるのは「開罰」=かいばつ=懲罰になって他の工場から懲罰寮に行き、数週間の懲罰房から新たな配属先としてこの工場に配属されてくる人間ばかりだ。私は即座に計算した。「毎年の新規受刑者が3万人、刑務所の数が全国で70カ所、この政務所は大きい刑務所と聞いた。全国の刑務所にここと同じ20工場ずつあるとしても。30,000÷70=1000÷20工場=50÷12カ月。
たしかにこの工場は60名いた。しかし新規受刑者が入って来ない!私は運動場で西本氏に聞いた。
「えっ 知らなかったの くまさん ここの工場に配属されるのはほとんど他の工場で懲罰を繰り返して行き場を失った奴が半分以上なんやで。他は僕のように心臓や血圧に問題のある人間や精神的に問題のある・・」そこまで聞いて私はハッと気づいた。私がここに配属された理由。分類面接・・・・配属前面接・・・私はいずれも狂った・・・質問され・・・・封印している過去を思い出して・・・・・。私は夜中に何度も起こされる。
「くまさん 何うなされとるんや 顔真っ青やないか 職員呼ぼか?」
「いや いいんです。大丈夫です。起こしてすいませんでした。」大声で飛び起きることもあった。
「わっあー すいません。信じてください。」私は涙を流しながら、ひとり雑居房で頭をついて土下座を繰り返している。全員が飛び起きる。
「なんや なんや どないしたんや。」私は何を見たかも覚えていない。しかし、あの飛鳥村 橘寺の本堂にいたのは明らかだった。
「みなさん。申し訳ありません。お騒がせしました。本当にすいません。」または泣いているのを起こされるのもしばしばだった。
「まるで昼間と夜中のくまさんは別人やな。何があったか知らんけど、過ぎたことはどうにもならへん。あまり悩まんこっちゃ。」私はもう悩んでいなかった。たしかに全てを滅私したはずだった。しかし身体が覚えているのだ。そして、2年間のあの地獄のような悲しみや苦しみにまだ疼いているのだ。そういう朝、誰も気を使ってその話題に触れない。私はわざと陽気に
「いやぁ 昨晩(きのう)は〇〇教官に懲罰室に連れていかれて実はホモだった夢を見まして・・・」
などと普段から受刑者を怒鳴り散らし、みんなで悪口を言っている教官をネタにしてその場をごまかした。
「くまさん どないしたんや。」運動場で質問したくせに、自分からボッーとしている私を西本氏は現実に連れ戻した。
「くまさん あれ見てみ。工場の数字がいくつも塗りつぶされた札の跡があるやろ。それが多い奴ほど懲罰で工場を転々として回っている゛悪かどうしようもない奴なんや。」
そう言われて運動場にたむろする人達を見ると各受刑者の服には配属されている工場がマジックで白札が縫い付けてあった。よく見ると、ほとんどの人間の白札の数字がいくつもマジックが黒く塗りつぶされていた。
「わかった?ようするにここは行き場を失った奴らの最終工場ちゅうわけや。ここから懲罰で落ちたらあとは行く工場はないで。教官も引き受けたがらないし、行ってもすぐなんか因縁を付けられて懲罰で落とされるだけや。仮釈放もなく満期日までぐるぐる工場を回る。もしくは大阪の刑務所病院行きやで。だから絶対、落ちたらあかんで。喧嘩をしかけられても絶対相手したらあかんで。まぁくまさんだったら大丈夫やと思うけどな。」
私はここがあの保護独房に比べてどんなにいい工場だろうと思っていた。ところが刑務所ではここが墓場だという。では私のいたあの2年間は何だったと言うのだろう?。ホロコーストを起こしたのは天災でも地震でもない。人間・・・・・。人間こそ最も恐ろしいのだ。刑務所という施設が人間が考えて人工的に造った苦痛を与えるための施設だとすれば、私の過ごした精神異常者が入れられている拘置所の保護観察独房は正に人間という悪魔が偶然造り出した、死の施設だった。私はこの最低と西本氏がいう工場の受刑者たちが草木があり、風が吹く場所でたむろしているのをみて、彼とは全く別の感想を抱いた。そして
喧嘩を売られたのはその西本氏だった。そしてそれはじわじわと私も巻き込んだ。運動会が雨天で中止になった。受刑者をかろうじてまとめていたものが消えた。しかも゛当日中止という最悪の形で・・・・。
運動会まで、8工場をまとめていたのはある意味、A班の西本氏だった。しかし若い受刑者やひと癖ある受刑者はB班の方がはるかに多かった。部長刑務官の指示に従い、応援歌の練習をしたり、運動場で綱引きや100m走の練習を率先してみんなにやらせていたのも西本氏だった。しかし彼は若い受刑者たちがいつもしているシャブの話、女の話などに決して加わらなかった。それが大半の特に若手の人間たちには不満だった。
「お高くとまりやがって。」
「おやじの顔色ばかり見やがって。」(そんなことは全然なかったのだが・・・・。)
刑務所の特徴、嫁と舅のように干渉しあう受刑者、アスベスター症候群、そしてもうひとつがこれ、誰かが誰かの悪口を言い始めると雪崩のようにいっせいに回りの人間も同調し、一緒になってその人間の悪口を言い、存在を否定し始める。高校野球、オリンピック、プロ野球が終わり、運動会が中止になり、懲役の関心ごとがなくなった10月、西本氏への嫌がらせや追い出しが露骨に始まった。それはA班とB班の主導権争いとなっていった。刑務所で気に入らない相手を倒す方法・・それは殺したり、怪我をさせることではない。
「懲罰」にして工場から「消す」ことだった。
いくつも工場を渡り歩いている受刑者の集まりである8工場は気に入らない相手への不満を直ぐに爆発させる受刑者が特に多かった。そして気に入らない相手を「懲罰」に落とすためなら、平気で自ら鉄砲玉になり、作業中に突然相手に不正交談や口喧嘩をしかけて、喜んで「懲罰」に落ちた。
「満期上等」という言葉がある。
つまり懲罰を繰り返して仮釈放がなくなっても娑婆で窃盗などを繰り返してその日暮らししている連中は刑務所に満期までいた方がいいという人間すらいるのだ。若い者達は食堂で大声でこれ見よがしに言い始めた。
「この工場は官の犬が一番いばっとる。犬なんかと口きくなよ。しょんべん臭さが移るで。」
工場には「開罰(=懲罰房に入ったあと新らたな工場に配属されること)」の受刑者が毎週新入りで入場して来る。新入者に「西本氏と口をきくな。」とくぎを刺しているのである。ただ西本氏は工場の作業に精通し、教官も普段のまじめな西本氏を知っているため゛おやじの前で喧嘩を吹っかけたりしても、簡単に「懲罰」に落すのは難しい。しかし、職員には交代の時間があった。`おやじも1日中、工場の受刑者の監視をしているわけではなかった。事務処理や休憩のため、1日のうち何度か若い刑務官に工場の監視を任せ交代していなくなった。その時間が狙われた。
若い刑務官の前で騒ぎや喧嘩をすれば理由のいかんを問わず、喧嘩両成敗で、双方が「懲罰」に落ちる。
鉄砲玉はその時間になると、しばしば因縁をつけ、仕掛けて来た。客観的に見て彼はよく耐えた。相手が何を言っても無言で通し、あるいは謝る理由もないのに相手に頭を下げ続けた。私は運動場でなるべく西本氏と一緒に過ごすようにした。
「くまさん。俺はどんな目にあってもこんなところで懲罰になって落ちる訳にはいかんのや。妹が待っているんや。妹は俺のことで旦那から以前よりひどい仕打ちを受け取るんや。本当につらい目に合うているのは
俺やない。外にいる人間や。たしかに切れそうになるときがある。もう我慢できへん。なぐったろと。そしたら、くまさん。今のように話相手になってくれないか。くまさんのそのどんな相手でも気にしない、自然のまま過ごしている姿はうらやましい。俺の支えなんや。」
私は何も言えなかった。私は、そんなりっぱな人間ではない。
・・・・佛さまは何も気にしていません。みんなの為に生きますよ。・・・・・
新井薬師寺の手紙が脳裏をよぎる。西本氏に守るようにくっついている私の存在はある意味B班の血の気の多い連中にとってもっとも邪魔な存在となった。しかし、私はシャブの話も女の話も、よく乗った。しかし、一方私がひとりでいるとき、そこには誰も近づきがたい゛暗さが漂っていた。2年間の長すぎた保護独房の闇の世界は私に見えないマントを与えていた。私を襲ってくる鉄砲玉はいなかった。私は何をするか反応が分からない薄気味悪さがあったのだろう。私に鉄砲玉で来る人間は結局、ひとりもいなかった。
A班トップの西本氏や私を懲罰で落としにくいとなるとA班とB班はお互い気に入らない同士を意識し始めた。喧嘩やもめごとが絶えなくなった。`おやじに対し毎日のように「〇〇が不正配食やっとりまっせ。」「部屋の私物箱に違反物を隠しとるんです。」などのつまならい中傷やつげ口が横行した。・・・
A班とB班は雑居房が混合していた。実はA班が気に入らない隠れB班仲間やその逆、また世の中の揉め事が好きなだけの受刑者たちの存在が、事態をなお複雑、深刻化させた。落としあいになった。毎週「懲罰」で工場から人が消え始めた。運動会前60名いた工場の人数は47名にまで減った。出口が見えない生き残り闘争だった。何とかしなければならなかった。

飛び火

70日戦争は雑居房にも起きた。いやむしろ職員の監視から離れる雑居房が主戦場だった。毎週のように周囲の部屋で騒ぎが発生し、懲罰者が出て、連行されていった。私のいる雑居房も戦争と無縁ではなかった。
A班の人間は私を含めて4人。B班は3人だった。しかし、A班の65過ぎの懲役5年の横領罪の男は別名みんなにねずみ男と呼ばれ、強い側ならどちらにでも味方するという風見鶏だった。力は均衡していた。
私の房は官の基本的ルールを守り、他のことはなるべく干渉せず自分の時間を静かに過ごそうと主張するA班の私と共同生活の場として皿を洗う人間、床を拭く人間、朝起きて窓を開ける人間、どんなこと些細なこともルールを作ってきっちり過ごそうと主張する、B班の金氏という全く性格の異なるA班とB班のふたりの主張のバランスで成り立っていた。不思議なのは真っ向から性格の違うふたりなのに我々は互いに人間として、尊重し合っていた。金氏は山口組の6代目とも幼馴染という、神戸の金融会社社長だった。若いころから在日として差別を受けないようつっぱって生きて、喧嘩三昧、世間的にはあこぎなこともして貯めたお金を元手に金融屋を始め、死に物狂いで働いて豪家を建て、自分では「「なにわ金融道」のモデルは実は俺や。」と言っていた。大規模な架空土地売却事件に関わった共犯として東京で最高裁まで争ったここでは珍しい受刑者だった。刑期は2年半だった。B班で恐れられていた。
「くまさん 今日運動場でちょっと話聞いてくれへんか。」私はなぜかこの人物に好かれ、何かと相談ごとなどを持ちかけられた。彼は他の人間とはほとんど口を利かなかったが、不思議な威圧感があった。私も惰性で生きてきた結果ここにいる多くの他の人間とは一味違う修羅場の半生を生きてきたにしかない彼の雰囲気が好きだった。しかし、70日間戦争のあおりは私と彼の関係ですら緊張させた。金氏は腰が悪くコスセットを着けていて、かがんでするトイレ掃除ができなかった。そのため、彼の順番の日はみなが交代で房のトイレ掃除をしていた。これはルールに厳しい彼の自尊心を考え、他の房には内緒だった。ある日、作業から房に夕方帰ってくると金氏が言いだした。
「おれがトイレ掃除を人にやらせている。と工場で噂になっている。誰かこの房の人間がゆうた以外に考えられへん。犯人は誰や。どうせA班の奴やろ。」それまで和気あいあいとしていた私たちの房まで回りの房と同じように少しピリピリするようになった。それからしばらくして・・
それは私のひとことで始まった。
房には72歳の老人がいた。窃盗グセが抜けず結局この歳で刑務所にきたのだ。が夜中よくトイレに行った。そして老人のため、しばしば決められたルール通りできないことがあった。たとえば゛夜中の小便は寝ている人間に音がうるさくないようしゃがんですること゛という房でみんなで決めたルールがあった。しかし、たまに忘れて立ったまま小便をした。また手洗いも石鹸を使うのを忘れた。それが注意しても何回か続いた。それを薄目を開けて金氏が見ていた。
「おどれ。ええかげんにせえや。わざとやっとるんやろ。房から放り出せ。」私は言った。
「金さん。そんなささいなことで目くじらだけないでいいじゃないですか。お年寄りなんだから。」
「なんやて。年寄りやからってルール守らんでええんか。だいたいこのじいさんは許してもらえる思うてわざとやっとるんや。ほうり出しや!」ネズミ男がすかさず金氏に相槌を言う。
「そうやな。あしたみなでおやじに別の房に移してもらうよう言いに行こ。そうしましょう。」私はひとり抵抗した。
「金さんっ。ルールっていうのは弱者を守るためにあるんです。規則がないと力の強いものが弱い者のものを搾取したりしてしまうのを防止するためにあるんです。前から言おうと思っていましたが、どうもここにいる人達はみんなルールというものを履き違えている気がします。官の作った規則を過敏に守ろうと房毎に厳しい自主ルールを作って、それにストレスを勝手に感じて、衆人環視し、他の房では喧嘩の原因になっている。団子の数が少々平等じゃなくてもいいでしょ。食事を競争みたいに早く食べる必要はないんです。早く食べるから回収が早くなってまた早く食べなければいけない。その悪循環です。老人には辛いのです。老人がたまに規則を忘れて立ち小便したぐらいで、そんなに目くじらを立てて言わなくても・・・・・・
そこまで言って金氏の顔が真っ赤を通り越して、真っ黒になっていることに気付かず私は、刑務所に入って思っていたことを話してしまった。
彼は完全に娑婆で追い込みをかけるやくざの顔になっていた。
「くまさん。いや おおくま。ようわしに向かってそないなこと言うたな。`目くじら`ってみなの前で恥かかせてくれたな。見損なったで。くまさんだけはわしの気持が分かってくれてると思うとったけど、これでしまいや。縁起りや。おどれがこのきたないじいさんをこのまま房に置きたいと言うなら、このじいさんの面倒はみんなお前がみろ。こんどなんかやったらほんまにおどれごと追い出したる。」金氏のあまりのすごみにみな固まっている。正座の姿勢で小刻みに震えている人間もいる。ネズミ男はしきりにうなずき相槌を打っている。わたしはまっすぐ彼の目を見返していた。
「いいでしょう。このおじいさんの面倒はこれから全部私が見ます。」
わたしはそれから夜中、何度もおじいさんを連れてトイレに同行した。一度でもミスが許されないので最初は一睡も出来なかったが、そのうちこの老人の用便に行く時間帯が分かるようになりわたしは仮眠をとることができた。汚れたパンツを他の部屋の人間とみなと一緒の洗濯袋に入れることも金氏は許さなかったので、私が毎日、脱がせ、汚れをチェックして汚れているときは職員を呼んで特別洗濯に出した。特別洗濯というのは本来、下着に下血があったりした場合、伝染病を予防するための制度であったが、これも受刑者と一部職員により過敏に運用され、汚れた下着を個別に出すしくみに変わってしまっていた。
私は汚れていない自分のパンツもたまに「僕も汚しちゃいました。」と偽って、おじいさんと一緒に特別洗濯に自分のパンツを出した。おじいさんのプライドを傷つけないためだった。金氏はあの日以来、私と口を利かなかった。そして金氏は執拗にじいさんを攻めた。強いものになびくのは刑務所の雑居房の特徴である。私は孤立した。彼は盗みグセもあった。房の他人のチリ紙を無断で使った。それでも、私は老人を守り続けた。
「なんでそこまで守ってやるんや。そんなくぞしじい。」
「おおくまっ。おまえは一体何なんや。」結局、老人は工場で作業中に不正交談で懲罰に落ちた。作業中に身体がぶつかった相手に奇声を発したのが理由だという。激こうしやすい老人だったのだ。
私は結局、彼を守れなかった。
「くまさん。ちょっとええか。」暫くして、金氏は自分の家族のことや韓国の祖先のことを私に話すようになった。実は韓国では年寄りは敬われるという。私たちは以前にも増して親しくなった。その後、房の仲間8人のうち5人は喧嘩で懲罰に落ち、2人はある日、突然房から消えた。島根県にある別の刑務所に移送されたのだ。金氏もそのひとりだった。結局、最後まで生き残ったのは最初の同房8人のうちわたしひとりだけだった。

紅白歌合戦

加古川刑務所は山口組の本部のある神戸市の隣市にある。車で30分ほどである。受刑者の多くは、神戸 三宮、尼崎 なんば などから入所している。いわば阪神関西の夜の繁華街をしのぎとして、住処とする人たちが多かった。だから、ほとんどのものがカラオケ好きだ。運動会はあれほど全工場が練習したにも関わらず雨天で中止になった。残る年間行事は、12月クリスマスごろ行われる工場対抗紅白歌合戦大会が残るだけたった。各工場で歌の上手い人間を選び、12月20日 体育館で1500名の全受刑者の前で歌い、工場同士が競い合う。春のソフトボール大会、秋の運動会とともに年間3大刑務所行事の最後だった。
私は`工場を代表して紅白歌合戦に出ることを申し出た。もう、いいかげんA班とB班の抗争にうんざりしていた。そして私は自分に`試したい`ことがあった。刑務所でおおきな声を出すことは点呼以外は許されない。私は運動場でも会話に参加する程度だった。運動会の練習ではまだ声がかすれ戻っていなかった。私の声帯は京都拘置所で一回つぶれた。
(目は見えるようになった。私の`声ははたして普通に戻っているのだろうか。)
工場で当然予選があると思った。工場での自分の試練。しかし意外にも私が「できれば出場したい。」と言って他に出たいと言う受刑者はなせがいなかった。全員 `自分が一番カラオケが上手い と思っている連中ばかりである。私は2年間の影があったし、ひとりを好んだ。あまりにも意外な人間が立候補すると奇妙な候補の空白現象が不思議に起こるものである。しかもA班とB班は闘争中で主要メンバーはけん制しあっていた。私は抗争に直接関わっていなかった。誰も私と競って出場しようと結局、言いださなかった。
受刑者の多くは唄への自信があり過ぎるか、カラオケへの思い入れが強すぎた。もし、他の誰かが出場すると申し出てちょっと歌い比べたとたん、私は一笑され候補除外されていたであろう。工場内の抗争は私という意外な男の歌合戦代表出場への話題で少し風向きが変わった。私は運動場や食堂ですれ違う全員にそのつど聞かれた。
「ほんまに上手いんか。」
「勝つ自信はあるんか。」
「ちょっと歌ってみい。」私はその都度答えた。
「まあまあです。本番まで楽しみはとっといてください。」カラオケの上手い人にって仲間内で`まあまあというのは=とても自信がある と同じ意味である。しかし私は本当にまあまあ聞ける程度だったのだが・・・・。受刑者たちは驚くほど歌謡曲をすべて知っていた。わたしが知っている曲は数曲だった。私は何もかもはぐらかした。
本当に勝てるのか?何人かが私のレベルを調べようと食堂や運動場で強引に歌わせようと試みた。
しかし私は食堂でいつも永山氏と将棋を指していたし、運動場では西本氏とランニングをしてきっかけを与えないよう注意した。
「大隈は本当に歌がそんなに上手なんやろか?」
「東京もんやからきっと相当うまいんやろ。」
「噂では以前、歌舞伎町で歌ってしのぎを稼いどったこともあるらしい。」工場は私の噂でもちきりになった。A班とB班のいざこざや闘争は本番日が近づくにつれて落ち着きを見せた。12月15日 運動場でおやじに呼ばれた。
「今日、午後から紅白歌合戦の練習がある。頑張ってくれよ。」
「ハイ わかっています。行ってきます。」
私は刑務所内にある教育ルームに連行された。年配者から若者まで、各工場から自信満々のいかにも毎日スナック通いをして歌に自信がありそうな連中が集まっていた。旅館やバーでたまに見た雇われ歌手みたいな黒光りした顔ぶれが多い。(日焼けや土方焼けというのがあるが、歌焼けみたいなのもあるのだろうか?)
ペーパーが配布され身長・体重・胸囲を書かされる。本番当日、舞台で着るスーツを刑務所がわざわざ準備するのだ。当日は所長も出席し、外部来賓者も来る。受刑服で出させるわけにはいかないのだろう。ネクタイまであった。
「書いた人から歌を2曲選んでひとり5分程度歌って練習してみろ。MDを作成するのでキーを合わせたいものは申し出ろ。」
みるとカラオケの機械とやくざな歌などふさわしくない歌を省いてコピーで綴った曲本が置いてある。
紅白歌合戦はカラオケではない。20工場の各代表が曲の一番だけを歌詞を見ずに歌わなければならない。みんな持ち歌があるらしく本も見ずに、すぐ歌いはじめ職員にキーの調整を細かく申し出始めた。めちゃくちゃうまい。音合わせの練習なのにこぶしを入れて悦に入っている受刑者もいる。普段、受刑者に厳しい口調の職員も大会準備のため、受刑者の注文に応じてキーを一生懸命調整している光景に違和感があった。各受刑者も自分の工場の名誉と責任を一身に背負ってきているため、注文に遠慮がない。
「もうちょい高く。いやちょっと高すぎやね。もう一回下げてみてくれませんか。」
実は、私が歌詞を見ずに通しで歌える歌謡曲 それは一曲しかなかった。チャゲ&飛鳥の「SAY YES」この曲ならなんとか無難に終われる自信があった。無い!曲本にこんな有名な曲が載っていないなんて。私は歌詞が覚えられそうなほかの短い曲を急いで探した。みんなもう選び終わって練習も終わりかけている。私は焦った。それが悲劇を呼んだ。あった!石原裕次郎の`嵐を呼ぶ男
「俺らはドラマー やくざなドラマー 俺らが怒れば嵐を呼ぶぜ 喧嘩代りにドラムを叩きゃ 恋のうさもぶっとぶぜ。」たった48文字。日本一短いと思われる曲。万が一声が出なくても声量もさほど要らない。
やくざな歌が省かれているはずの曲本になぜこれが載っているかわからなかったが、ラッキーだった。
きっと裕次郎だからだったのだろう。私は急いで歌詞を覚え、
「大隈 練習お願いします。」番号を言った。
機械から伴奏が流れ出した。
「俺らはドラマー やくざなドラマー 俺らが怒れば嵐を呼ぶぜ 喧嘩代りにドラムを叩きゃ 恋のうさもぶっとぶぜ。」
・・・・・・・
・・・・・・・
職員「それで終わり?」
「ハイ」
職員「じゃあ 本番の日は2番まで歌って。」
「えっ でも この曲は・・・・・」「いいから2番までだ。それじゃあ短すぎる。じゃあみんな工場に戻るぞ。各自が選んだ曲の歌詞は念のため房にコピーをあとから入れるから。以上。」
えっ 私は落雷にあった。この曲は決して短い曲ではなかった。一番と二番の間にはとてつもなく長い・・・・・セリフ・・・・があったのだ。歌詞のコピーを房に入れるなら入れると最初に言ってくれれば曲はいくらでもあったのに・・・。きおつけ 前へ進め! いち に いち に いち に・・・
工場に帰ると食堂や運動場で私はみんなに聞かれた。
「なにを歌うんや。大先生。」
「・・裕次郎。」そこまでしか言えなかった。まさかあの曲とは。どんなに曲名を聞かれても「まあ」しか言えなかった。
「裕次郎か。選曲もさすがや。万人受けするし、審査員もバッチリや。これで8工場優勝間違いナシや。おう。」
勝手に曲を各自想像し、口ずさんだりしながら、工場はは熱気が出始めていた。裏切り。私は自分から思いついたこととは言え、歌ったあとのこれらの人のことを考えると、背筋に寒いものを感じた。工場の熱気は日に日に高まっていった。
・・・・・・・
本番の日。刑務所で着るとは思わなかった。3年ぶりのスーツ、そしてネクタイ・・・・。プロ級の唄が会場内に続いた。5番目。いよいよ私だ。舞台裏から舞台中央に進み出た。歌いだした・・・・・唄うというより会場中にひびく大声が私の口から出び出した。今までの誰より大きな声だった。私が自分の声に驚いた。(私の声はいつの間にか完全に戻っていた。)入所したときは声すら出なかったのに・・・。
短いその歌詞を唄ったあと、振りをつけてセリフを大声で語り始めた。2番まで間奏でしかたなく・・
このやろう かかってこい (私は突然、会場に向かって拳を構えた。)
最初はジャブだ      (両拳を小刻みに打ち出す。)
ほら右ストレート     (会場に受刑者、職員に向かって思いっきり拳を突き出した。)
おっと やりやがったな  (パンチを受け、私はのけぞる。) 
倍にして返すぜ。 
フックだ。ボディだ。ボティだ。チンだ。ええい 面倒だ。このへんでノックアウトだぁ。
私は会場中の受刑者とそして取り囲む職員に向かってパンチを繰り出し、キックをし、カウンターを繰り出し、急所を蹴り上げた・・・
2年間で尽きかけた生命・・・赤ん坊・・・・そして蘇生・・・。抗争への苛立ち、私はやはり人間だった・・・そして今たしかに生き還った・・・私は身体の復活を全身で会場の1500名全員にぶつけた。この歌のセリフと歌に込めた。・・・
それまで静かに各工場の代表者の`上手すぎる熱唱を退屈そうに聞いていた1500名の受刑者が舞台にいっせいに集中した。そして花火のように爆笑が破裂した。会場中が大爆笑に包まれ続けた・・・・・。
私はこれほど大勢の笑いを一度に聞いたことは生まれて初めてだった。受刑者全員が私の「生命」の甦りを祝福してくれていた。これはもう紅白`歌`合戦ではなくなった。この一瞬、この歌の間、ここは刑務所でなくなった。歌い終わった。というより私の舞台からの一人対刑務所全員への`格闘と生命の謳歌は終わった。拍手と歓声のなか、私は何事も無かったかのように所長と来賓者にゆっくりおじきして舞台を降りた。席に戻ろうとすると受刑者たちが私の身体に触れたり、肩をたたいた。見つかれば懲罰行為だった。みんなそんな事すら忘れていた。
「これから厳粛な審査に入ります。」との放送のあと、来賓の演歌歌手が自分の歌を2,3曲歌った。
優勝は15工場だった。拍手が起きる。そのあと放送があった。
「本日、予定には無かったのですが、審査員満場一致でぜひにということで`特別賞を発表したいと思います。5番8工場!大隈さん。」
割れるような大きな拍手が起きた。たたかれる身体。会場の舞台に上がるまで鳴りやまない。所長満面の笑顔「おめでとうこざいます。」「ありがとうございます。」私は静かに会釈した。照明で明るい舞台 そこから私は本日はじめて冷静に会場を見渡した。
1500名の受刑者と会場を取り囲んでいるおそらくほとんど全職員。
「これが刑務所・・・・・・」私は静かに見まわした。
(佛様はみんなの幸せを祈っています。あなたは何も心配いりません。みんなのために生きますよ。)
新井薬師寺からいただいた平成18年5月の手紙を私は全員に向けてつぶやいた。翌日から8工場の雰囲気は一変した。私は作業時間以外は常に大勢の受刑者に囲まれた。作業中、目のあった者はウインクや満面の笑顔を私に向けた。70日戦争は終わった・・・・・。他にも変わったことがあった。私のいる雑居房への配食の量が異常に増えた。配食口から配食工場の受刑者が房の中の私を見つけると、職員に見つからないように、
「日本の刑務所が受刑者に予定にない特別賞を出すなんてたぶん明治以来始めてやで。」
「あんたは、自由って何やったか思い出させてくれた。」
「娑婆でぜったい弟にしてください。」など色々声をかけてきた。また何人かの職員は個人的な話を私に話するようになった。・・・・・・・・。それからまもなく・・・・・法務省の本面接に突然連行された。
「安田火災・・・損保ジャパンか 一流大学生が憧れる大企業のエリートにこんなところで会えるとは驚きです。本当に雑居房にいたんですか。よくまあ懲罰もゼロで無事に・・・」年功の法務省の監察官は書類を見て驚きながらそう言った。それから1カ月あまりして、私はある早朝突然ガチャと房のドアが開き、私は言われた。
「大隈。いよいよや。今日は作業には出なくてええから。」
出所2週間前の受刑者が各工場から集められる第二名誉寮に移管された。ここに来て10カ月半経っていた。予期せぬ速い日であったため西本氏に別れの言葉を言うことはできなかった。結局、前日まで例の衛生長永山氏には将棋で勝てなかった。彼は私を相手に゛将棋をしていた゛のではなかったのだ。彼は私を無法者たちから守ってくれていたのでないだろうか。と思った。各工場から第二名誉寮に集められた受刑者は歌合戦の一件で全員、私のことを知っていた。私は全員に゛兄貴゛と呼ばれた。出所日 私が食べたいと一言口に出したミスタードーナツをなぜか出所者の家族が用意していて、私たちを出迎えてくれ、全員でドーナツとジュースで乾杯をした。事件から3年1カ月。あの生き地獄さながら、死と隣り合わせの2年間の保護独房生活。そして恐れていたはずの刑務所。一年近い雑居房での生活。私は刑務所でひさしぶりに゛人間たちと会い、話し、驚き、笑い、夜中うなされつづけ、そして生き返った。最初に歩いた。赤ん坊に戻った。長く消えなかった傷が癒え始めた。徐々に全身のみにくい斑点が消え、皮膚に血色が戻った。文字が書けるようになった。知力が戻った。作業で視力が回復した。そして最後に自分の声が戻った。人間に戻った。
私は刑務所で蘇生した。
そしてひとり東京に戻った。