大隈光祐`アントワープの絵へ` -7ページ目

樹海

大隈光祐`アントワープの絵ヘおそらくこれが私の一番若いときの写真だろう。これ以前の私の写真はない。私を愛し守ってくれた祖母のいなくなった世界は空ろだった。私は大学に入って数ヶ月もすると、まだ六法全書も買わないうちから「人は何のために生きているのだろう?」と悩むようになった。
生きる意味のみひたすら考えた。きっかけは交通事故だった。病院に運ばれ入院し、翌日目覚めた自分は何か前と違う気がした。大学2年になるといよいよ自分がふたりいるという思い込みが強くなった。ひとりの自分は自分でない自分。もうひとりの自分はそれをわかっている自分。つまり本当の自分はいないのでは。私は中央大学の`陶芸部`にいつも登校した。中央大学は広大な山丘に白い学部棟が点在していた。法学部はふもとにひっそり隠れるように建てられていた作陶場から、階段を300段以上登らなければ辿り着かない`山頂にあった。私は慢性的にただ考えつづけ、悩み疲れていた。私は3年でゼミ長に選ばれるまでほとんど法学部棟に通うことはなかった。試験とはただの日ごろの友人関係の結果だった。虚しかった。ひとりになるとぼんやりとなんとなく生きる意味を考え、作陶場に篭り粘土をいじっていた。
私が大学に入ってひとつだけ活動的にしたことがあった。上野の森で見たあの絵。子供のころから「大学に入ればダヴィンチの人力飛行機が試せる。」漠然とそう想い続けていた。やっと見つけたハンググライダー部は先輩部員は3名ほどしかおらずほとんど廃部寸前だった。事故が多かったからだ。東大、早稲田など近隣大学も似たり寄ったりの状況だった。競技人口は全国で1万人をはるかに割っていた。私は1年なのに1年生に次々と声を掛け、手作りのチラシを配り走り回った。7名ほど集まった。サークルの形が復活した。バイト代がたまるとワゴン車にグライダーを積み、富士山の麓の朝霧高原に出かけた。私はひとり夜行列車で新潟の尾神岳に出かけることも多かった。明治大や法政大、学習院など大学のクラブ人数が少ない学生が個人的に集まっていた。私は山頂の霧の山小屋でそうした学生仲間と交流をするのが好きだった。
私にとっての大学とは亡くなった祖母のため以外、意味はなく、陶芸部で土をいじることとダウィンチの代わりに空を飛ぶこと、そして生きる意味を考える場所に過ぎなかった。
大学3年になり、ゼミ長に選ばれた私は法学部にようやく通うようになった。そんなとき、事故は突然訪れた。朝霧高原の合宿で山頂から滑空して着地体制に入ろうとした先輩の機体は突然角度を変え、そのまま垂直に地面に落ちた。電線にひっかかったのだ。やさしい冗談が好きな先輩だった。照れ笑いする先輩。たいしたことないと皆が思った。病院に運ばれると事は次第に深刻になった。首の神経が切れていると医者は言う。まったくそんなふうに見えないのに。頭を固定されベットから動けない先輩の枕元に私は意地になって離れず、冗談を言い続けた。先輩には結婚を約束した彼女がいた。その彼女に先輩は別れを告げた。彼女はだまってそれに従った。私だけが残った。私は来る日も来る日も動けないベットの先輩に向かって冗談を言い続けた。笑わせておくことが私にとって私の義務だった。先輩は大学に復帰したがった。私は大学に車椅子用の舗装を整備し、手すりをつけるよう交渉した。しかし先輩は結局、養護学校に転校しかざる得なかった。先輩から口で書いた手紙が届いた。「・・いつまでも友達でいてください。」と書かれていた。私は無力だった。
やはり私は私ではなく、生きている価値のない人間とつくづく思った。ダヴィンチももうどうでもよかった。私が考える私という存在はもはや私でなくなっていた。私は、自分を消すことに決めた。ある日の夜中。中古10万円のマイカー サニーダットサンの後部に部屋中のものを詰め、家中のアルバムからこっそり自分の写っている写真や赤ん坊の時の写真をすべて抜き取り、自分という存在がこの世に存在した証を一切周りから家から持ち出した。そしてそのまま、富士の樹海の小道に車のままどんどん入っていき、道がどんどん狭くなり両側の草木がフロントガラスに覆いかぶさって前が見えなくなったところで車を荷物ごと捨てた。大隈光祐`アントワープの絵ヘ
大隈光祐`アントワープの絵ヘ私はどんどん樹海の奥に歩いて入っていった。コケに覆われた穴に落ち、落ち葉に隠れた枯れ枝につまずきころんだ。そのまま寝た。夜は何も見えなかった。それでも歩き続けた。4日目にもとの道路に出た。何も食べず、何日も放浪した。静岡県立中央図書館でフロイトの『精神分裂論』という一冊の本に出会った。一人の少女の症例。そこに'私の現在の症状'が詳細に'客観的に'解説されていた。私はひとりではなかった!。私は孤独感から立ち直った。僅かに生きる勇気を得た。清水市というところに行き、月3万の長屋住宅を賃貸し、静岡市街に行き、高卒と偽って履歴書を書き、麻布が本店の日本料理屋に就職した。別の人間になって生きていこうと思った。私には働く仲間ができた。私達従業員は毎日のように仕事が終わると静岡の繁華街に出て安い居酒屋で酒を酌み交わした。私は静岡で働くようになり生きることについて考える時間が少なくなっていった。ただ毎日、忙しく生き、夜飲んだ。心が辛くなかった。
(このままここで一生過ごそう。)
しかし、別世界での新しい生活は長くは続かなかった。静岡市街では麻布ではやるような値段だけ高く、量の少ない飾り料理、は受け入れられなかった。オープンして何か月たっても客はまばらだった。東京からオーナーが店舗の様子を見に来た。そして・・・閉店が決まった。仲間はバラバラになった。私は・・・
フロイトとの出会い・・・・そして一時的にしろ仕事に生きたことで希死感が薄らいでいた。ふと私はある女性のことを思い出した。何も話してこなかった。そして私は大学に戻ろうと決意した。

初恋

私にとって女性とは僕を追いかける異生物に過ぎなかった。小中学校で身体の小ささから女子達に「キャーかわいい」「くまちゃーん」と追い掛けまわされ、意味もわからず囲まれた。私は学校にいる単なるペットにだった。九州で頭を丸坊主にした中3はいっそう童顔になったが、福岡の女子は大阪の女子より個人的には私に優しく接し、やがてみな思春期になり、異性を意識し、私に無関心になっていった。
大学のサークルに入った文学部の彼女を誰もが気にした。今で言えば蒼井優を三つ編みにして清楚にしたような子だった。いつも文庫本を読んでいた。一部の同級生は彼女に本気で恋し、先輩達は露骨に彼女の美しさを話題し、アプローチしようとした。しかし彼女は変わりものだった。周りの自分への関心に全く気付かなかった。そして大学一年、最初のクリスマスが来て、彼女が選んだのは`異生物の私だった。私は生まれて初めて女性に映画を見に行こうと言われた。デートに誘われた。「ソフィーの選択」という難解な映画を見に銀座の小さな映画館に連れていかれた。おそらく彼女が読んだ本なのだろう。そのあと鳩居堂に行き、買い物をした。彼女は足が速かった。そしてよく転びそうになり照れ笑いした。なにかいつもの彼女の行動に私が付き合わされているだけのようだった。不二家で食事をした。私は女性とふたりきりで向き合うのは初めてでなにを話していいのかわからなかった。そのあと数寄屋橋の交差点で別れる時、唐突に彼女が僕に手を伸ばしてきた。握手をしようということらしい。
「じゃあね。大隈くん。メリークリスマス。」そして僕らは別れた。その日から僕は彼女が気になり出した。彼女は作陶場に来ることはまれだった。たまに来ても女子と一緒なので意識しないように私はひとり粘土をこねていた。中央大学の広大な構内にある各学部は独立した白い現代建造物であり、正門から見上げると丘の上に立つ法学部と彼女のいる文学部は敷地の中央にある大学図書館や生協・学食堂等が収容されている巨大なエントランスの左右に数百メートルは離れて建っていた。学部が違えば学生同士は出会う可能性はほとんどなかった。ある日。彼女と図書館で偶然会った。やはり文庫本を読んでいた。ふたりはクリスマス以来しゃべった。彼女はよく笑った。作陶していないとき、私は気が付くと図書館に来ては、知らず知らず彼女を探ていることが多くなった。この大学に通うには京王線多摩動物公園駅で降り、山道を20分ほど歩き構内に入る道とJR豊田駅からバスに乗って来るふたつの方法があったが、新宿方面から通う学生のほとんどは山道を登る通学路を使った。
(彼女は赤いセーターにチェックのスカートでエントランスに入ってくる。)私はその姿を見かけるためにエントランス2Fの窓からよくぼんやり外をながめていた。
夏、陶芸部の合宿があった。夜、私はまたひとり、旅館の近くを散策していた。奥に入ったあるところで土をもりあげ造ったような登窯が炊かれていた。大隈光祐`アントワープの絵ヘちょうど攻め焚きの時間だった。満天の星空の下、たくさんの小窓から火が漏れ噴出し、幻想的な光景だった。しばらく見とれていた私はふいに駆け出し、飲み会の続く合宿先旅館にもどり「ちょっと。」とだけ言って先輩に取り囲まれている彼女を引っ張り出した。ふたりで火を眺めた。彼女は「きれい。」と言った。私は彼女を今度は(自分の方からデートに誘おう。)と心に決めた。私にとって女性とのデートとは`クリスマスイブの日に映画を見て食事をする`ことだった。彼女が私の一生の定義を決めた。大学2年「自分から誘おう」とは自分が決めたことなのに夏が過ぎると彼女を避けた。10月ごろになると自宅近くの公衆電話を行ったり来たりする日が続いた。12月が近づくにつれ、私の心臓はささいなことでどきどきするようになった。
せりふをノートに書いて電話ボックスに入った。役に立たなかった。出たのはお母さんだった。彼女は母子家庭だった。私はお母さんと世間話になった。やっと彼女に代わってくれた。その年のイブの映画は私の選択だったので知的レベルが相当落ちた。グレムリンだった。・・・・・
大学3年。私を消滅させることに失敗し、静岡に住み、店が閉店になり働く仲間を失った私はまたその年の暮れ、彼女をクリスマスにデートに誘う義務感からだけ東京に戻った。彼女はもう三つ編みをしていなかった。髪を長く広げウエーブがかかっていた。少し大人に見えた。大学4年。東京に戻った私はまた生きる意味を日々悩み始めていた。そんなとき、ハンググライダーの日本代表選手に「本場オーストラリアの世界チャンピオンのもとに行ってみないか。」と誘われ、承諾した。メンバーは中央大学を中心に4名で構成しシドニー郊外のビルの家に行った。親子はともに世界チャンピオンで国民的英雄だった。自宅の前は所有する湾だった。彼らは日本の学生を歓待した。楽しかった。しかし私はひとり離脱した。美術館を尋ね、陶器の窯出しの仕事をしているという毛深い男性と仲良くなり意気投合して自宅に泊めてもらい、気が付くとイーストシドニー工芸大学というところで学生と一緒に粘土をこねていた。もちろん無断入学だった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ教授も学生も私に寛大だった。オーストラリアという国そのものが私に寛大だった。夜は学校の仲間と踊りに出かけた。樹海、ふたりいる自分、先輩の後遺障害 私はこの遠い作陶場にいったんすべて置いて帰ろうと思った。オーストラリアから日本に帰って暫くして彼女が婚約したことを知った。相手は大学の若い教授との話だった。4年のイブ。それでもふたりは映画を見て、軽くお酒を飲んだ。
「大隈くん。就職おめでとう。でも私は大隈くんがサラリーマンになるのは意外だった。」と彼女は言った。カシミアのマフラーと"チップス先生さようなら"という本が彼女の最後のプレゼントだった。私は彼女の結婚について何も語らなかったし彼女もしゃべらなかった。
・・・・・
私は武蔵境にある安田火災独身寮の食堂でソファを独占し、毎日、あびるほど酒を飲んだ。1.5リットルのワインを毎日空けた。1時間の昼休みも研修センターの前にある独身寮の食堂にひとり戻り、食堂のおじさんから「おおくまくん。大丈夫?」と言われながらも、缶ビールを買って飲んだ。そして午後、また研修センターに戻った。人事部の検討資料となる研修試験の結果は同期155名中断トツの155番だった。私は試験に必要な保険約款すら持参しなかった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ私はもうどうでもよかった。翌昭和63年4月 私は最果ての支店北北海道支店旭川支社に新人総合職として配属となった。
東京に戻るのは11年後となる。

平成17年。私は病身を彼女にぶつけていただけかも知れない。学生時代の気持ちを利用して・・・。私は家にたどり着けなくなった。風に乱れ始めたカイト、倒れる直前の駒のように家路から軌道が大きくぶれ始めた。川越市、越谷、私が目を覚ますと電車はその鼓動を完全にとめ、蛍光灯がまぶしいコンテナに過ぎなかった。越谷の駅の付近にはビジネスホテルもなく、私は身体を持たれるようにダンボールを背広に巻いて券売機の下で始発までまどろんだ。ここが新宿駅だったら朝には無一文になっていただろう。私はタクシーで寝たまま帰宅するようになった。埼玉まで1万円かかった。そんな月日が続くとさすがに「毎日、タクシー代使うぐらいなら外泊していいわよ。」と妻は言った。私はビジネスホテルやインターネットカフェを転々とするようになった。陶芸部の同級生の結婚式で彼女に再会した。彼女はほとんど昔のままだった。
片手に文庫本を持っていた。彼女は14年前に離婚していた。英語力を生かし都心の外資系企業の管理職になっていた。子供もなく都内で一人暮らししていた。彼女は僕に「私は14年間時が止まったまま。」と言った。僕は彼女の時間を取り戻してあげたかった。彼女は「家族がほしい。」とも言った。それは僕には出来なかった。なおさら彼女を大切に扱おうと思った。離れないように思った。しかし病んでいるのは`私の方だった。`男ですらなかった。部屋に上がり、冷蔵庫を開け、酒を浴び、アイスクリームを食べ続け、
毎日、朝まで眠らない私に彼女はついに倒れ、入院した。その見舞いに行った病院ですら私は新たに睡眠薬を入手した。
平成18年2月4日(土)
私はマンションの玄関の鍵を空け、机の上に置いてあるきれいにラッピングされた'それを見つけた。私の夜中の不眠行動に耐えれなくなり実家にしばらく帰ると言い残した彼女が置いていったものだった。私に住まいを乗っ取られたのだ。しかし靴を脱いであがる暇さえ、狂った私の思考にはもはやなかった。`バレンタインなど目もくれなかった。私の頭にあるのは奈良にあるであろうたくさんの゛仏像だけだった。
私はそのチョコレートを机のうえに放置したまま、新幹線に乗った。そして、翌日 平成18年2月5日(日)。私は飛鳥村橘寺本堂内で現行犯逮捕された。チョコレートは置かれっぱなしになった。

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