大隈光祐`アントワープの絵へ` -6ページ目

精神医学の権威

拘置所の独房に移され何週間か過ぎた。拘置所には法務省が委託した精神科医師が2週間に一度来所していた。若く快活な病院院長だった。私は當麻病院の菊池院長に診断を受け、事件時に服用していたSSRI剤パキシルに代えてSNRI剤という新しい抗うつ剤トレドミンと睡眠導入剤の処方を受けた。医務部長は少し興奮して菊池医師に「鑑定を実施するのは岸本教授なんです。」と話しかけた。菊池院長も「へー岸本教授。あの先生は今、この世界では日本一の権威だからなあ。」と少しびっくりしていた。新しい薬トレドミンは劇的に効いた。ここ数年これほど体調が良いと感じたことはなかった。私は昼は腹筋したり、掃除したり、運動したりして、夢ではお寺を謝罪して回った。
1カ月が過ぎたある日、その人は来た「鑑定の先生がお見えになるからすぐ出て。」私は1Fに連れて行かれ、3坪ぐらいの小部屋の真ん中に置かれた机をはさんだ奥の席に座らされた。職員がエアコンのスイッチを入れ出て行き、温かい音がし始め、私はひとり部屋に残された。何分経ったろうガチャとドアが開き、蝶ネクタイをした哲学者風の紳士が静かに入ってきた。大隈光祐の”アントワープの絵”-岸本年史教授「私が鑑定をする岸本です。よろしく。」と私の正面に座った。座ったとたん笑みになり私を大きな両眼で見つめ、「私がこんなささいな事件の鑑定をすることは初めて。普通は殺人事件とか・・」私は一瞬、身が堅くなった。それを感じたのか
「あっ。でも君の場合はテレビにあちこち出ちゃっているからな。私も興味あるし。」
(殺人するような人間と職員なしでこの部屋にいることに危険を感じたことはないのだろうか。)
「これから鑑定を始めます。私か私が都合が悪い時は助手が来ます。質問をしていきますが、都合の悪いことは答えなくていいです。でもなるべく話してくれると助かります。」私は「ハイ」と大きく答えた。
と答えるとは岸本教授は私をじっと見て
「昨日遅くまで寝てなくて少し疲れているから、休ませてもらうね。」と言って、うでを組んで、目をつぶってしまった。10分ほど静かな時が過ぎた。これも鑑定だったのだろう。
岸本教授は目を開くと私の祖父母から父方、母方の親戚のこと、年齢、職業、病歴、性格等を詳しく聞きはじめた。私はてっきり事件のことを聞かれるのかと思っていた。意表をつかれ突然、過去の封印を解きながら私は別なことを思い出していた。そういえば私は昔から親戚づきあいが苦手だった。毎、夏休みに福岡の実家に帰っても、たくさんの同世代のいとこと遊ぶのがおっくうだった。年中行事のように毎年、八女に家族を帰らせる父。飛行機までは良かった。福岡で飛行場を降りると、母姉の旦那さん(前歯が出ていて僕が小さい頃しぇーのおじさん(赤塚富士夫)と呼んでいた)がいつも迎えにに来てくれていた。当時の車にはエアコンがなかった。生暖かい、九州の風、私はその温度差に必ずぜんそくになった。そして里帰りには主治医がいなかった。いつも早く東京や大阪に一日でも早く帰りたかった。母方の実家は長者だったらしく、白木村という山に囲まれた盆地で一番大きな屋敷だった。帰るのは八女市郊外の父の実家だったが、母方の実家にも1日か2日はすごさなければならなかった。母方の実家は600坪の八女の大隈家の何十倍もあった。
田圃や山がとにかくいける範囲のところは母方の敷地として思っていて間違いがなかった。子供がちょっとと歩ける範囲ではなかった。私はこの九州の親戚が、特に同世代の従兄弟姉妹たちが苦手だった。夏休みはいつも母の実家に集まっていていつも明るく、親切に「こうすけしゃん。いっしょにこっち来んね。おもしろかよ。」とか「川ば泳ぎに行こ。」とか誘われるのが嫌で、一人で実家の周りの田圃の回りを流れる水の中のかえるを探したり、裏山を探検した。そして従兄が少ない父方の実家に戻れる時間をひたすら待った。私はとにかく東京や大阪の社宅団地の方が好きだった。いわゆる都会っ子だった。まさか中学3年から頭を丸坊主にしてひとりでこの田舎に住まなければいけなくなるとは考えていなかった。岸本教授の声が遠くに聞こえる。
私は九州が辛かったとは答えなかった。「良い人ばかりでした。」と。そういえば私が九州にいる間、毎年、里帰りしていたはずの家族はなぜ九州から遠のいたのだろう。運動会などどんなに練習してもだれも見にきたことがなかった。母は喘息に屈し、育児を他人に任せた自分を無意識に恥じていたのかもしれない。
預けた当初を除き、私の家族はぷっつり私に会いに来ることはなかった。私は田舎での親戚づきあいや従兄たちは相変わらず苦手だった。家族と遠方に離れひとり預けられている私を気を使われ「光祐ちゃん。光祐しゃん」と変に気を使われるのが嫌だった。放っておいてほしかった。しかし預けられた親戚とは上手く暮らした。父は「父方のおば(姉)のところへおまえを預けた。」と言い、母は「そちらではなく自分の姉のところにいつでも行きなさい。」と言った。結局私は福岡のこの親戚が集中する村々の父方と母方の両家に"あいまい"に預けられた形になった。それを岸本教授に一言で上手く説明できそうになく私は一切話さなかった。私はただ「母の姉の家に預けられました。」とだけ答えた。それは正確ではなかった。実は私が九州で多く過ごしたのは父の姉の家だった。父の姉は小学校の先生であっさりした性格だった。久恵という船小屋温泉の近くの田圃の中の小集落にある2階建ての普通の住宅に住んでいた。叔父さんはどこかの県立高校の教頭先生で、単身赴任だった。階段を上がって2階の左右に2部屋あり、一人娘で5歳ぐらい年上の美人の従姉の部屋の隣の6畳部屋が僕の部屋だった。おばさんは1階の小部屋にこもっていつも生徒の答案などを付けていた。叔母は母と違い医師の言葉の呪縛はなかった。
私に吸入器を渡し「ひどかときだけ自分で使わんね。」と言った。おかげで私は日々の喘息の発作から解放された。自分で呼吸をコントロールできた。息ができる日が格段に増えた。叔母は私を大人として認めてくれた最初の人だと感謝した。従姉はエレクトーンの先生になる準備中と言っていたが、あいまいな花嫁修業中といった感じだった。この家ではそれぞれが自分の生活を持っていた。僕に干渉することもなかったし、3人とも他人に接しなれた人だったのだろう。おばは僕が近くの川で釣ってきたわけのわからない色も混ざった小魚を煮付けにしてくれたし、餌のウジ虫を冷蔵庫に冷凍していても嫌な顔ひとつしなかった。
僕がさんまがマイブームになって「僕だけ毎日さんまにして。」と言ったら、僕だけ毎日さんまを出してくれた。母だと通じないような冗談もおばには通じた。教師として生徒に接し慣れていたのかも知れない。従妹である隣部屋のネイちゃんとも気があってよく話し込んだ。私はここが過ごしやすかった。「九州に来て良かったのでは。」と私は思った。互いを干渉しない家族。ただひとつだけみんな異常に干渉しているものがあった。小さな白い室内マルチーズ犬だった。両耳をうさぎのようにくくられていてサンリーと呼ばれていた。僕は生理的に犬が苦手だった。小学校2年と時、学校の帰りに毎日なでていたコリーの檻に手を入れ人さし指をかまれてからだ。また犬の毛が喘息のアレルギーを対象として防御反応しているのかも知れなかった。サンリーは僕をよそ者と判断しただろう。自分を苦手とするものが判るのかもしれない。僕が家の中で動く度に猛烈に吠えた。「かまないから大丈夫よ。」とおばもねいちゃんも毎回、すくんでいる私の足元からサンリーを引き離しながいら言うのだか、それから2年サンリーは私を室内で攻撃し続けた。1年も経つとどういう訳か2階の私の部屋に来ておしっこをするようになった。私はサンリーを嫌い、サンリーは私を嫌っていた(のだろう)。結局、おばはサンリーを選んだ。私は久恵に住むことができなくなった。一方、母方の叔母は`ひとつの家としては喘息の発作を起こす私を預かる責任をもつことは拒んだ。ただ「遠慮せんで泊まりにこんね。」とだけ言った。私は遠い九州で居場所を失った。私は父から高校から11キロはなれた八女市のさらに奥の祖父母の実家に住むよう告げられた。大隈光祐の”アントワープの絵”私は岸本教授に預けられた家を母方の叔母の家と答えた。それはウソではなかった。現に中学校の目の前にあったおば夫婦の家は子のいない2人暮らしで僕が訪問するのを喜んでくれた。おじさんは飛行場に迎えに来てくれていたしぇーのおじさんだった。小学校の校長先生だった。おばさんも小学校の先生だった。僕の仮の部屋も用意してくれていた。友達とおそくまで遊んだときはしばしばこちらの家に泊まった。私は2つの家に預けられていると思った。しかし、2つの家とも預かってはいなかったのだ。私は祖父の実家に行かざる得なかった。そういう複雑な話は鑑定では一切、しなかった。ふと気づくと鑑定中だった。岸本教授が最後に私に聞いた。
「親戚になんていうか精神的な病気のような人はいなかった?」
私ははっとして、初めて自分の言葉を話した。
「祖父は酒乱か認知症のようだったと思います。」
一回目の鑑定は拍子抜けするほど短かった。正味20分ぐらいだったろう。

大隈家13代目

高校2年の終わりに私は筑後市からさらに山奥の八女の実家に引き取られることになった。私はかやぶきと日本瓦の日本式家屋を連結したような広い実家の中心20畳以上の広間にぽつりとひとつ座机と布団が整然(ぽつり)と置かれ`私の部屋`として与えられた。敷地の中を小川が流れ、祖母は野菜を洗い、生ごみをそこに捨てていた。家の中に大きな蓄音機があったが普通のレコードは聞けず使えなかった。広間の天井には祖先の絵や写真、絵か写真か判別できない顔がずらりと並べて飾ってあり、大きな仏壇が部屋の隅にあった。
祖父の話では私は大隈本家である大隈盛宗之祐から13代目であるということだった。ちいさい頃から九州に来て正月など大勢が親戚が集まる度に「光祐しゃんは大隈家の跡取りやけん・・・」と周囲から言われ、私にはそれが苦痛だった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ
大隈光祐の”アントワープの絵”
私は仏壇や天井の先祖の写真や絵をなるべく見ないようにした。子供のころに怖かった妖怪、幽霊・・都会から来た私にはそれらを思い出し、薄気味悪く、怖かった。正月などに親戚が集まる以外、この屋敷は誰もいない畳の空間が連なるだけ。祖父と祖母のふたり暮らしだった。祖父は昼間は普通だった。夕食を食べ7時のニュースが7時20分か40分に終わると家じゅうの電気を消して、祖父たちは寝た。私も電気を付けることを禁じられ、寝るように言われた。本をこっそり読もうと電気を付けると「どたどたどた」と祖父が1分後には増築した寝室からかけてきて私をいきなり蹴った。目つきが昼間と違い尋常ではなかった。
「何ばしちょるかー。電気代がもったいなかろうが。」
広い真っ暗な部屋で祖先の顔を見ながら寝れないのに目をつぶって、なんとか寝れるようになった。普通に寝ているときでも、ときどき祖父が大声を発しながら、夜中に部屋に入ってきて暴れた。祖母も負けずに大声を出しながら僕をかばった。翌日は何でもなかったような寡黙な祖父がいた。祖母はいつも僕のことを心配してくれていた。
「こうちゃんのぜんそくが治りますように。」といつも呟いていた。
私の成績は高2の学年360人中27位をピークに3年で急激に下がり始めた。中間テストや期末テストの前、自宅で夜、自分の部屋で勉強できる同級生がうらやましかった。
「蛍光灯一本の電気代っていくらなんだろう。一本あれば勉強できるのに。」学校の教室の蛍光灯の数、人のいない店の蛍光灯、ネオンの蛍光灯の本数を数えては嫉妬を覚え、執着した。夏になると大きな蚊帳がつるされた。その独特の緑のにおい。その闇の中、高校3年生なのに音楽も聞けず、普通高校なのに受験勉強もできず、ただ虫の鳴き声を聞きながら寝なければいけないのは辛かった。八女高校は地域にある唯一の県立進学高校と言って良く、多くの生徒が西南大学など大学に進学した。校内が受験モードになり友達が大学進学の話などをしているのを教室で聞くのがさらに辛くなった。私は高校2年の時にいったん大学に行くつもりで勉強を始めたが実家の闇の中でもはや進学はあきらめかけたいた。大隈光祐の”アントワープの絵”大隈家の実家はおじおばからも遠く、誰も助けには来てくれなかった。
「蛍の光、窓の雪なんて嘘ばい。」と真っ暗の中で読めない教科書を広げて思った。
12月になった。久恵のおばが久しく訪ねてきた。私が7時30分に寝かされていること、受験生なのに部屋の電気を夜つけることを祖父に禁じられていることを祖母から聞いた教師でもあるおばはびっくりして祖父にすぐやめるよう説いた。祖父は納得した。私はその日から受験勉強できるようになったが、もうなんとなくやる気がなかった。そのまま進路が決まらないまま卒業式を迎えた。家族は結局、最後まで来なかった。私が高校で得たものは親友や友達と3年間で33cm延びた身長だった。私は4年ぶりに東京の家に戻った。大隈光祐の”アントワープの絵”すぐに転地療養の結果をあざ笑うかのようにひどい喘息の発作が続き、お茶の水の日大病院に入院となった。九州にいる間、自分で吸入器を使っていたため発作に対して耐性がついてしまっていたのだ。体質回復のための入院は長引いた。私はベットで絵ばかり描いていた。「大学は行った方が良い。」と仲良くなった看護婦さんは夜間の見回りでお菓子をくれながら言った。屋上で胃がんを手術しないで直している50代の人も「大学に言っとけば良かったとよく考えるよ。」と僕に話した。僕は退院後、同じお茶の水にある駿河台予備校というところに通い始めた。大隈光祐の”アントワープの絵”しかし私が興味があったのはお茶の水に乱立する美術学校だった。また絵ばかり描き、受験勉強に身の入らない私を両親は千葉県にある駿河台予備校の寮に入れた。まだ八女から帰って家族の元に戻り一年目だった。
私は再び、家族から離された。4人一部屋の寮だった。私はあいかわらず真剣に大学に行く気がなかった。
私は同室の人間を喫茶店、ゲームセンターや映画に誘ったり勉強の邪魔ばかりした。そんなとき、突然、祖母が亡くなった。心臓発作だった。お葬式で祖母は私が大学に行くよう願っていたと叔母が言った。
私はものこころが付いてから初めて泣いた。激しく泣いた。私を祖父から守り、いつも私の身体を祈っていた。唯一の人だった。祖母は世界中で私を一番愛してくれている人だった。私は長い喪失感に襲われた。同室の人間「くまちゃんなんか変わったな。」と言った。祖母が亡くなって数ヶ月後、私は中央大学法学部に入学した。

お寺からの手紙

精神鑑定は週一回 各一時間のペースで4回目を終え、拘置所内で`順調に進んでいた。ただ淡々と私の育った場所、学校、友人などのことを年次づつに聞かれ、私はそれに表面的に答え、それがパソコンに打ち込まれていった。鑑定以外の時間、1週間168時間のうち167時間はそのために収監されているだけだ。
それは逮捕まで24時間仕事していた私にとって、時間が止まったような異時元の世界だった。携帯すら使えない。それはこの現代に拘置所に収容された者だけが感じる、外界との強烈な落差の苦痛だった。
(家族は今何をしているのだろうか?)
(従業員は私の指示無しでは何もできないのに)
「今も死にたいと思っていますか?」
「きちんと寝れてる?」
助手の永井医師と岸本教授は明らかに独房にひとり置かれている`うつの私の行動を案じていた。私には複数の抗うつ剤と睡眠薬が投与されていた。私はそのころ毎晩、同じ夢を見た。どしゃぶりの雨の中、法隆寺の境内の玉砂利に土下座している自分。
(早くここを出たい。出てお寺にお詫びにお詫びをして、一刻も早く家に帰らなければ・・・・)という気持ちから見ていた夢だったのかもしれない。
(家族ははたして東京に無事いるのだろうか。)
(なんとか会社に連絡を取らなければ・・・保険業法施行は4月1日なのに・・・・)
私の焦りは募った。一方、初めて私が処方された抗うつ剤 SSRI剤 トレドミンは劇的に私に合った。大隈光祐`アントワープの絵ヘ私がそれまで飲んできたアモキサン、パキシル、プロザックどれよりも・・・・。逆に睡眠薬はハルシオン、ベゲタミン、マイスリーより効き目が薄かった。それでも平成18年4、5月という月は禁断症状も一段落し、この数年とその後始まる地獄の数年の中で私の心身が、唯一 まともな月だったろう。私はここ(拘置所)にひとり入れられてから、東京都地図を、地元で面会に来た人に頼んで差し入れしてもらい、住所を調べ、各お寺に手紙を書いて過ごした。年功の職員は地図を探しながら手紙を書いている私を覗き込みながら「おまえみたいなマジメなやつは初めてや。必ず更生できるからもう少しがんばれ。」と励ましてくれた。はっきり番地までわからないところもお寺なら届くと期待した。
大隈光祐の”アントワープの絵”
5月28日、職員が「お寺から手紙が来てるぞ」と少し興奮気味に手紙を配食口に入れ、私の捺印を取りながら言った。
「大隈の気持ちが通じたんだな」おそらく女性の字だった。(出所後、大僧正直筆だったことを知る)
  お手紙拝見しました。
  佛さまはすべての人の
  本当の幸せを願って居ます。
  だからあなたも何も
  心配いりません。
  みんなのために生きますよ。
と綴られていた。一緒に同寺の根本大僧正が書かれた冊子。それに、おそらく息子さんが小学校で書いた「作文」が封筒の中に入っていた。
「さくらの木」2年〇組 〇〇`僕の家はお寺です。・・・・ 
それはお寺の中での秋の掃除の一風景を子供の気持ちで素直に書いたもので、この子が感受性が高く育てられている様子がよく伝わってきた。私はさくらの花を想像した。私は涙が出た。少なくともこの独房にいる私が‘みんなのために生きる`なんてことは考えられなかった。
私は焦っていた。