大隈光祐`アントワープの絵へ` -8ページ目

最強タッグ

平成18年6月20日。地元の松岡弁護士がバツの悪そうな顔をして面会室にやってきた。「君が仏像を取った寺がどこか教えてくれないかな。検察で教えてくれないんだ。」私は呆れた。被害者を知らない弁護士。
事件から既に4カ月も経過しているのだ。刑事事件は初動が全てだ。もう警察、検察の捜査は終わっている。ということは各お寺は事件後、弁護士から電話すらされていないのだろう。私は先月の新井薬師から直接届いた手紙を思い出した。やはりお詫び状は宗田弁護士事務所で握りつぶされたのだ。
3月4日。逮捕から1カ月してようやく面会室に来て「これは働きすぎでアクシデントだ。直ぐに全寺を回って起訴を一本化するよう動くから。気をしっかり持って!奈良の弁護士としっかり連携してすぐ保釈させるから。」と言っていたのも口から出まかせだろう。梯子を完全に外された。お寺に何か月も連絡すら取られていないのは多分にこの激昂しやすい老弁護士の性格に起因していた。かたや永田町で英国風事務所を構える大学教授まで務める法学博士。方や、部落問題なども残るこの大和地方で反権威の半生を送ってきたような喧嘩弁護士。
共通するのはともに著名で事務所内では絶対権威者であり、事務所のイソ弁に対し絶対弱みを見せられない立場であるという点だ。弁護士事務所とはそういう点だけはやくざの事務所のしくみと同じだ。
先月、2回、松岡弁護士が拘置所の私のところへ怒鳴り込んできた。松岡弁護士はいつもひとりまくし立てた。
「事件数は私が地元検察と相談して決めるんだ。お詫びすれば起訴数が増えるだけだ。君は刑事事件を何もわかってない。」
私は`お詫びをすれば起訴数が増えるだけ`という言葉に社会常識と違う違和感を感じた。
「君の顧問弁護士は刑事案件を扱ったことがないんじゃないか。弁護鑑定をしようだなんて裁判所の心証を悪くするだけなのに。もう我慢できん。」
私は突然やって来く小さな嵐を懸命に鎮めようとした。
「せんせい。せんせい。落ち着いてください。たしかに宗田先生はどちらかというと会社法などの権威で、事件は不慣れなのかも知れません。しかし、私はこのような身になり、私の会社や友人にとって東京で私の様子を知るための唯一の窓口となっていただいています。どうか協力してください。」「・・・・・」不機嫌のまま彼は面会室から出ていった。私は悲しくなった。今、言ったことは自分の`希望にすぎなかった。宗田弁護士が会社や友人の窓口となってくれている気配は全くなかった。そのためやむを得ず地元ロータリー恩師の紹介を受けるまま、地元のこの弁護士も委託せざるえないよう追い詰められたのだ。私は宗田弁護士事務所に事件後すぐ「私の様子がわからない従業員や友人の窓口になって、安心させてあげてください。」といくつかの連絡先を付け、手紙を出していたが、なしのつぶてだった。東京の様子を尋ねる手紙をいくら書いても全く返事は来なかった。自力で届いた友人らの手紙の文面にも宗田弁護士の「そ」の字もなかった。保険業法改正を60日切ったところで私は逮捕され、尚、保険会社成立にこだわった。ネールのみで取り調べを通し、正体を隠し、宗田弁護士事務所に手紙を出し、途方に暮れているだろう会社の従業員や知人と連絡を試みた。
しかし、音信普通だった。
彼の真意はもはや明確だった。事務所の弁護士のいる前で意見した私を決して許さない。平成17年9月28日、私のまわりの風景がおかしくなる直前。団体オーナーにいよいよ追い詰められ満身創痍となった私は宗田弁護士に顧問として後ろ盾を求めた。「私には先生しか頼れる方がいないのです。ご教授ください。」
「大隈さん。利口な弁護士というのは石橋を叩いても渡らないもんだよ。」
「弁護士が川に飛び込まずに誰が困っている人を助けるんですか。それは弁護士ではありません。」
目の前にいる大権威の否定だった。助手の弁護士は下を向いたままだった。以後、直接面談できることはなくなった。いつも不在だった。大隈光祐`アントワープの絵ヘそれでも、私は何回も相談をFAXした。すべて回答はなかった。請求書だけが毎月届いた。平成18年1月27日。奈良に行き逮捕される1週間前。事務員から「これからは東京弁護士会に相談に行って下さい。相談の内容は事前に先生から東京弁護士会によく説明してあるそうですから。」と言われた。私が東京弁護士会に行くと首をかしげられた。「宗田先生からそんな電話は一度もありませんし、第一、弁護士会は顧問弁護士業務の補完業務はしておりません。」と門前払いされた。「このままでは本当に保険会社格上げができない。」私は行き場を本当に失ってしまった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ2月5日、私は橘寺で保険会社設立を止められ、なおこだわっていた。私は留置場で禁断症状が回復するにつれ、焦った。2月末、面会に訪れてくれた地元ロータリークラブの方に何週間も東京と全く連絡の取れない悩みを相談したところ「そないに困っているんやったら、東京とのメールなどの連絡は地元弁護士に頼んだらどないや。心安い弁護士がおるから頼んでやろ。」とおっしゃられ、着手金も建て替えてもらった連携のはずだった。いわば宗田弁護士の不作為に追い詰められ、やむを得ず頼んだ地元弁護士だった。しかし、この老弁護士は実は携帯のメールすら自分でできなかった。奈良時間という言葉がある。待ち合わせの時刻などがあいまいと言う意味だ。手紙の転送を頼んでも、半月遅れ、1カ月遅れの事務所の事務員まかせだった。その事務員もまもなく事務所を辞め、東京との連絡業務の件はそれっきりになってしまった。私から東京の会社従業員への伝言は断たれたまま、そのまま4月1日の保険業法改正日を迎え、留置場にいる私の前を通り過ぎた。
(従業員たちに何と詫びればいいのだろう。しかし、格上げ申請の猶予期間は9月30日だ。保釈時に部下に業務を引き継げばまだ可能性はある。)
しかし今、お寺にお詫びにすら行けていないのだ。その代行すらいないのだ。5月、拘置所から直接地図を調べ出した手紙に対するお返事は新井薬師寺だけだった。私が直接、手紙を書いただけでは容易に身分すらお寺に信じてもらえない。友人の手紙では私を一部では海外の凶悪窃盗団と思われているらしい。
自分でここから出て、直接、お寺にお詫びするしかなかった。彼は永田町からこの激こうしやすい老弁護士を性格を十分理解し、電話で高飛車に和解などの弁護定石を提案したのだろう。当然、反発を予測して。
そして、あの大騒ぎの中にも関わらず、両弁護士は不作為のまま初動はなにもなされてなかったのだ。
捜査のみは確実に進み、終わっていた。私は東京から完全に隔離された。私は明らかに心がすさみ始めていた。独房からの唯一の窓口。弁護士が・・・・人が・・・・信じれなくなり始めていた。

ふたたび飛鳥へ

それは奇妙な人事だった。損保会社の総合職は一店舗4年前後で転勤を繰り返す。私は人事異動時期を迎えていた。私は医師会で導入した個人年金の新しい募集方式「口数方式」の成功により、本社の商品開発業務部関係に来春異動になるだろうと支店、地区本部などに実しやかに含められた。そんなとき、突然、奈良支店橿原支社でひとりの総合職が突然奇病に侵された。大隈光祐`アントワープの絵ヘ
その彼は健康そのものだった。普通は更年期の人間にまれに発生するという顎関節症という発声が上手くできない病気に突然罹り、会社に出社しなくなり、1カ月以上が経過していた。会社からどんなに連絡を取っても音信不通だった。橿原支社は近畿地方のへそに位置し関西2府4県中、安田火災近畿本部で最も年間予算が多い営業店だった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ倒れた総合職はそのなかでも多くの代理店、予算を一人で担当していた。これ以上、空白を開けるわけにはいかなかった。近畿本部長は即戦力となる総合職を新宿本社人事部に求め、検討の結果、西の果て長崎支店にいて来春、異動リストになっていた私が急きょ赴任することになった。安田火災には当時、700以上の支店支社があり、総合職は約6千名いた。日本にはいったいいくつの市町村があるのだろう。その確率は?
私は社会人になって以来、飛鳥と子供の頃の話を人に話したこともなかった。小学6年ここへの訪問から望郷も想いを持ち続けていたこと。ここをきっかけに始めた33カ所巡礼満願直前の九州行きは幼心の傷だった。だから妻にさえ飛鳥のことは封印していた。誰も知らない想いだった。偶然というには簡単すぎた。不思議なことに、私が着任すると同時に、奇病にかかっていた総合職は病気が恢復し、支社に復帰した。
ふたりの出社は同日だった。連絡が取れなかった彼は何事もなかったかのように突然朝出社していた。会社は初めての事態に頭を抱えた。結局、私がそのまま橿原支社の副長として赴任することになり彼は子会社へ去った。彼の苗字は`神事と言った。彼は去るとき「私の先祖は神官だった。」と私に告げた。私は飛鳥に呼ばれたのだ。大隈光祐`アントワープの絵ヘ
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まさか私が損害保険会社の社員としてこの橿原の地を担当することになるとは。
私はふたたび飛鳥村に戻ってきた。大隈光祐`アントワープの絵ヘ
大隈光祐`アントワープの絵ヘ・・・・・・・そして平成10年9月。草建以来千三百年を経て 国宝室生寺は台風7号により倒壊した。入社以来はじめて大きなアクシデントに遭遇した。損害保険の付帯は長年正規金額のわずか10%しかされてなかったのだ。火災保険というのは比例てん補といってたとえば1000万円の時価価値のある建物に100万円分しか保険をかけていない人には、火災で罹災して損害が100万円出たとしても、その建物の価値だけ保険料を納めてこなかったという理由で100万(損害額)×100万円(かけていた保険金額)/1000万円(本当の価値)=1/10=10万円しか保険金は支払われない。比例てん補の原則=掛け金の下の平等である。しかし、室生寺は1千年以上前に建立された建物である。誰が正確に鑑定できたというのか。私はたった一人、損害保険会社による全額復興を主張し、社内で孤立していく。大隈光祐`アントワープの絵ヘ
大隈光祐`アントワープの絵ヘ
大隈光祐`アントワープの絵ヘ私は鑑定人と交渉し、五重の塔の時価評価額をなるべく下げてもらうように交渉した。そうすることで分母が少なくなり、復旧のめどが立つからだ。しかし、時価評価は約130億円になった。保険付帯は30億円だった。寺院や信者に負担をかけずに損害保険会社が室生寺を復旧する。これは私の意地だった。私は橿原の会社に出社せずに毎日、奈良市内にある奈良市立図書館に籠った。五重の塔について調べた。損害保険会社の従来の規定では寺院の塔の評価は一層当たり20億以上と内規があった。しかし、室生寺の五重塔は東大寺などに比較して小さかった。大隈光祐`アントワープの絵ヘ私は本社サービスセンターを説得するために室生寺の五重の塔が他の大寺院の塔と違い、むしろ石塔に近い高さであり、従前の層別評価はおかしいと主張しプレゼンを行った。「東大寺の五重の塔は45m、法隆寺は31m、それに対して室生寺は16mしかない。むしろ石塔に近い高さだ。階層により保険金支払基準となる時価額を決めてきた、今までの損害保険業界の査定の仕方は疑問がある。文化財も通常建物と同様、延べ床面積を基準にこれを機に変更すべきだ。室生寺は国宝であり、損害保険会社が全面復興を支援するのは社会的責務である。」と。私の本社への主張は認められた。結果、安田火災海上による復旧が始まった。わたしは、故郷に対する義務をはたした。
そして私は、東京に転勤となった。
そこで私は飛鳥から返礼をもらうこととなる。それは長い「生きる意味」を考える悩みからの解放だった。
しかしそれは私が5年後に引き起こすこの事件の始まりだった。

順天堂大学病院

11年ぶりの帰京・・・・私は日本最大予算の支店 東京の主幹支店の営業課へ課長代理(次席)として赴任した。東東京支店は千代田区を中心とした東京の東部エリアを管轄し、支店は上野にあった。私は今度は飛鳥からふたたび子供時代に通った上野に戻ってきたのだ。まさに安田火災の営業現場の東京の最前線だった。ただその営業課の課長にはよくない噂があった。部下にパワハラをして過去、何人か社員が辞めていると・・・。私が着任したときも女子一般職が他店に異動させられていたばかりだった。支店長は何も言わなかった。営業成績がよかったからだ。
しかし、わたしと新支店長が代わって新たに着任した。私は新支店長から何か課長について課内で問題が発生したら、内々すぐ報告するよう、含められていた。初めは問題なかった。普通の人物に見えた。しかし、半年後・・・・課長は私に対してもパワハラを始めた。別室に個別に私を呼び、「会議中に自分の発言を笑っていた。」「接待のときくちゃくちゃと食べる音が大きかった。」とか「自分を心の中で馬鹿にしている。」など身に覚えのないことで説教を何十分も受けながら、足蹴りされ、電話の受話器で私の頭をなぐった。明らかに被害妄想だった。支店長に言われていたが、私は3カ月耐えた。彼にも家族がいるだろう。しかし他の一般職も別室に呼ぶようになったので、私は案じ、被害を支店長に報告した。過去は明らかになった。人事部問題となった。社内調査、事後報告、私が仕事と思う、「創造」とは違うきわめて大企業的な些細な問題に私は巻き込まれた。私は不眠症になった。
大隈光祐の”アントワープの絵”-順天堂大学病院それまでは生きることは=悩むことだった。
絶えずが傍らに死があり仕事や何かに没頭していないと常に憂鬱さが私を占めていた。順天堂大学病院は週刊誌とかの格付け日本一で安心できる病院だったし、診察券を持っていても怪しまれず メンタル科は、いわゆる精神科とうたっていなかったので、なんとか受診する気になった。私はかなり遠慮がちに私の体調を医師に聞かれるがまま少し話した。正直な気持の2割ぐらい話した。たったそれだけで私の人生の悩みはもらったいくつかの薬を飲んで2週間もすると消えた。アモキサンとハルシオン。スキップして歩いた。今まで、あんなに辛くて午前中 人と話したくなかった癖もなくなった。・・別な人生になった。(気がした)もし、課長に暴力を受けなければ、こんなところに来たがどうかはわからない。
私は彼に感謝すらした。しかしそれは生きる悩みからのあくまで薬での誤った逃避の始まりに過ぎなかった。