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偏差値大学からイノベーションが生まれてこないのは「教科書は正しくないといけない。」と考えるからかも知れない。

 

パイレーツ・オブ・カリビアン』は珍しくヒットした海賊映画で、過去に製作された海賊映画はヒットしなかった作品が多いらしい。

 

やはり海賊に感情移入できないのかもしれない。

 

どうやらディズニーの本音は、ディズニーシーでの人気キャラクター作りが目的だったみたいで、生成AIでパイレーツ・オブ・カリビアン』について尋ねると。

 

映画を見て、ディズニーのCEOマイケル・アイズナーは「ジョニーが作品を汚している。」と激怒したという。

 

ディズニー映画だからヒットしたけど、ジョニー・デップの作り出したジャックスパロウは、映画の興行収入としては成功できても、子供に愛されるキャラクター作りとしては失敗してしまった。

 

「ルイス・キャロル」で検索すると。

 

小児性愛者の記述がある。

 

数学者のドドソンは、現実を忘れるために、ルイスキャロルとしてアリスを思い描いている。

何かを期待した訳ではなく、『不思議の国』に期待感はなく、ドドソンの現実逃避が目的では、どうしてもディズニーの人気キャラクターとしては弱い。

 

パイレーツ・オブ・カリビアン』は成功して、そして失敗している。

 

やはり学者の空想を、成功、失敗という見方で理解しようとすると、あまりにもナンセンスで「ルイス・キャロルは何が言いたいんだ?」と分からなくなってしまうし、テストで能力を見出そうとすると失敗してしまう。

 

空想は現実逃避でも良いのかもしれない。

 

落下するボールが跳ね返る瞬間があって、それが[ひらめき]かも知れない。

 

床に置いたボールが、突然!跳ね上がることは有り得ない。

 

落下していくエネルギーから、跳ね上がる力は生れている。

 

むしろ[負の思考力]があって[正の思考力]は生れてくる。

 

[ひらめき]や気付きを[正の思考力]だけで理解しようとすると分からなくなってしまう。

 

イノベーションは連想ゲームかも知れない。

 

これから学生は、知識の暗記ではなく、もっぱら生成AIを使って、連想ゲームをしながら、知識と知識を関連付けていくことになるのかも知れない。

 

むしろ学者達の挫折や病気という知識はヒントを得るためには好都合なのに、どうしても日本では「教科書は正しくないといけない。」と考えてしまう。

 

[ひらめき]は、まるで床に置いたボールが、突然!跳ね上がるかのようにイメージしてしまう。

むしろ!

「落下があったから、ボールは跳ね上がるんだ。」と教えた方が分かりやすいのに。

 

学者の空想は、現実には存在しない世界で、現実を忘れようとしている。

 

イノベーションは、そんな学者から生まれている。

 

ほとんどは空想で、SFで、恣意的な作り話で、現実逃避から生れている。

 

そんな学者の心理は教科書には載っていないので、生成AIに尋ねると良い。

 

今日では小学校の教室にタブレット端末があって、生成AIが使える環境にあって、教科書には載ってない周辺の知識を知ることで「学者達はnoで考えているんだなぁ。」と感じて、むしろnoを使う方が分かりやすいのに、日本では「教科書は正しい。」と、yesだけで理解しなさいと教えている。

 

生成AIで、学者の個人的な事情を知ることで「意見は感情的で、恣意的で、そんな答えから考えているんだなぁ。」と感じて、Yesだけでnoは使わない、日本の教育から卒業できるのかも知れない。

 

田淵幸一は「インサイドアウトだ!」と言う。

 

田淵幸一は[答え]が必要で[答え]を探していると。

 

まずイメージがあって、言葉探しをしていて、フッと思い浮かんだのかも知れない。

 

偏差値大学からイノベーションが生まれてこないのは、その先の未来をイメージしてないからで。

ユダヤ人は自分自身のための未来を思い描いている。

 

まずイメージがあって。

 

思い浮かんだ、適当な言葉の類語で検索すれば「これだな!」という単語は見つかって、例文を読むと考える方向性がハッキリしてくる。

 

[インサイドアウトは正しい英語ですか?」と生成AIに尋ねると。

 

裏返しという意味で[アウトサイドイン]も同じ意味らしい。

 

バッティングでの「内から外は、英語でなんて言うの?」と生成AIに尋ねると。

 

英語で“inside out swing”と表現されます。

 

もしかして!

Inside outには元々【裏返し】とか【完全に】という意味しかないらしく、日本製の英語表現かも知れない。

適当な英語がないため、それが今ではアメリカでも通じるようになったのかも知れない。

 

これもイノベーションかも知れない。

 

『ローマの休日』を書いた脚本家トランボは赤狩りで祖国から追放されて『パピオン』のような救いのない絶望的な物語を書いている。

トランボは存在を否定されて、どうしてこんなことになるのか[答え]が必要だったのかも知れない。

今・この瞬間!自分の身に起こっていることに呆然としている。しかし怒りや恐怖という現実感に気持ちは大きく揺さぶられる。そんな心境だったのかもしれない。

トランボにとって『ローマの休日』はおとぎ話ではない。

 

彼は現実を受け入れることができない。

 

[答え]が必要なのも。

考え続けるのも、現実を受け入れることができないからで。

 

学者も同じかも知れない。

 

ユダヤ人に学者や芸術家が多いのも、現実を受け入れることができない。

 

ユダヤ人には[答え]が必要で[答え]を探している。

 

[答え]にはイメージが必要で・・・。

イメージから連想が働いて、組み立てているのかも知れない。

 

映画の脚本家は不幸なら不幸なほど面白い本が書けるという。

 

トランボには[答え]が必要で。

 

『ローマの休日』を見てると、トランボには、イメージはあるのかも知れない。

 

何度も何度も書き直している。

 

しかし、肝心な映画の結論がハッキリしない。

 

「ハッピーエンディングは正しい英語ですか?」と生成AIに尋ねると。

 

「ハッピーエンディング」は、英語では “happy ending” と言います。この表現は、小説や映画などの物語が都合よく幸福な結末で終わることを指します。

 

トランボにとってハッピーエンディングよりも大切なものがあるみたい。

 

そんな心理を想像してみれば良い。

 

同じように学者の背景を知ると、面白い想像ができて。

 

学者の背景を知ると、何が重要で、何を言いたいのか感じ取れるはず。

 

そして、そのプロセスから思考力が見えて面白いはず。

 

偏差値大学からイノベーションが生まれてこないのは、その先の未来をイメージしてないからで。

 

ユダヤ人は自分自身のための未来を思い描いている。

 

ユダヤ人やトランボは[希望の地][安住の地]を求めている。

 

[ひらめき]や気付きも。

追い詰められた感情に背中を押されている。

 

彼らはハッピーエンディングのためにも。

[希望の地]や[約束の地]

それがどんな所か、まずイメージが必要なのかも知れない。

 

満たされた思いからは[ひらめき]も気付きも生まれてこないのかも知れない。

 

もっと[負の思考力]に注目しても面白いのかも知れない。

深夜のNHKラジオで北山修の曲を聞きながら「女性に、もてたんだろうなぁ。」と思う。

しかし精神科医としては、どうなんだろう?

 

「患者の心理が理解できるのか?」

 

「医師を育てるのに模範解答を求めるテストで良いの?」

 

『ローマの休日』を書いた脚本家トランボは赤狩りで祖国から追放されて『パピオン』のような救いのない絶望的な物語を書いている。

トランボは存在を否定されて、どうしてこんなことになるのか[答え]が必要だったのかも知れない。

今・この瞬間!自分の身に起こっていることに呆然としている。しかし怒りや恐怖という現実感に気持ちは大きく揺さぶられる。そんな心境だったのかもしれない。

 

トランボにとって『ローマの休日』はおとぎ話ではなく。

彼は現実を受け入れることができない。

 

[答え]が必要なのも。

考え続けるのも、現実を受け入れることができないからで。

 

「どうして・・・。」

「なんで自分なんだ。」

 

[答え]を必要として。

考え続けている。

 

医師には、患者のそんな[負の感情]に共鳴する感受性が必要で、優等生指向のテストに疑問を感じる。

 

現実を受け入れるためには[答え]が必要で、教科書で暗記しただけの知識では弱い!

 

トランボは自分の気持ちを癒やすことができない。

 

オードリー・ヘップバーン(王女)がローマ市内にいて誰か気付くはずなのに、誰も気付かない。

トランボは怒りや恐怖という現実感を忘れたい。そっとしておいて欲しかったのかも知れない。

 

『ローマの休日』は結論のハッキリしない終わり方をしている。

 

トランボにはハッピーエンディングよりも大切なものがあって『ローマの休日』は、トランボにとって、おとぎ話ではない。

 

彼は赤狩りで追放されている。

 

そんな事情を知ることで、トランボの心情にピントが合ってくる。

 

やはり!

理解するためには、個人的な事情を知ることは必要。

というよりも!

個人的な事情を知ることで、感情は、生生しいリアリティーを伴って伝わってくる。

 

田淵幸一は「インサイドアウトだ。」と言うけど、どうすれば、それができるのかまでは思い浮かばない。

ホップ・ステップまでは、いっても最後のジャンプまで行きつかない。

 

もう少し執着心があれば思い付いたのかも知れない。

 

それは案外[負の思考力]が欠けていたのかも知れない。

 

トランボには、

[答え]が必要なのも。

考え続けるのも。

現実を受け入れることができないからで。

 

「どうして・・・。」

「なんで自分なんだ。」

 

[答え]を必要として。

考え続けている。

 

最後のジャンプは[負の思考力]なのかも知れない。

 

「北山修は女性に、もてたんだろうなぁ。」と思う。

しかし精神科医としては、どうなんだろう?

 

「患者の心理が理解できるのか?」

 

「医師を育てるのに、優等生指向で良いの?」

 

「もっと[負の思考力]に注目した方が良いんじゃないの。」

 

やはり!

教科書には限界があって、周辺の知識がないと理解できないのかも知れない。

 

小学校の教室にはタブレット端末があって、生成AIが使える環境で、そんな周辺の知識や他人の感情に共鳴する子を見て、教諭は「この子は医師に向いている。」と感じると。

タブレット端末が、日本の優等生指向という矛盾を補ってくれるのかも知れない。