日本の4つの端を歩いてつなぐ旅 -ON THE ROAD EDGES-  -7ページ目

日本の4つの端を歩いてつなぐ旅 -ON THE ROAD EDGES- 

2024年で15年目。31回の旅で本土最南端の鹿児島県佐多岬から最西端の神崎鼻を経て関門海峡を渡り安芸の宮島、天橋立、石見銀山や木曽路、松島を歩き、本州最後の県青森の八戸駅まで歩きました。

4月19日の日曜日、水戸城跡を訪れました。この日は母の月命日。もう半年が過ぎ去ったのか、まだ半年なのか。そのあと始めた「親父の健康維持を目的とした日本100名城めぐり」も27城を数えます。

 

二の丸角櫓

 

多くの「城跡」が公園として維持管理されているのと異なり、この水戸城跡は多くの学校施設を抱えています。そのために「お城」としての雰囲気を保つことが困難で、苦肉の策として各所にカモフラージュを施しているように見受けられます。

 

大手門

 

「大手門」から続く「水戸城跡通り」には白壁が続き校舎が巧妙に隠され、現在一番の見どころになっている「二の丸角櫓」への小径も人口竹垣で囲われあたりが見通せないようになっていました。

 

 

もっとも、第9代藩主・徳川斉昭が、藩士の教育と優秀な人材育成を目的として創設した「弘道館」の地のため、現代の学校が多く寄り合うのも当然のことかもしれません。

 

 

弘道館内の売店で御城印を買い求め、館内を見学しているときのことです。「水戸徳川家略譜」を見ていた親父が、

「つなえだ(綱条)は高松に行かされたんだよな」

どこの記憶のひだに織り込まれていたものか、親父のこの方面の知識には感服します。

 

日本100名城 27/100

水戸城

 

先週の土曜日は、埼玉県寄居町の鉢形城跡を訪れました。

 

四脚門

 

鉢形城歴史館で御城印を買い求め、公園のフィールドマップをいただいてから歩きます。

鉢形城は北条氏の本城である小田原城の支城。甲斐から侵入してくる武田氏や、三国峠を越え来る上杉氏を抑える重要な役を担っていました。しかし秀吉による小田原攻めの折、鉢形城も北国軍5万の軍勢に包囲され、3千5百の戦力で1ヶ月の籠城戦ののち開城したと資料にはあります。

 

葉桜のエドヒガン

 

そんな多くの血を吸ってきたであろう城跡。私はどこに行っても壮絶な戦には思いが向かわず、ただただ平和な今日の情景を楽しむばかりです。花を落としたカタクリ、葉桜となった大きなエドヒガン、広い曲輪に群生するたんぽぽ、城下をゆっくりながれる荒川。

 

 

この日、ことに私の記憶に残ったのが大きな樹木の一本一本でした。エドヒガンをはじめカラマツ、トチノキ、モミ。樹齢はいかほどかと想像される大木が青空に枝を伸ばしていました。

遠くから、SLの放つ汽笛が聞こえてきました。

 

角馬出

 

日本100名城 26/100

鉢形城

 

四連休三日目の日曜日は、和歌山城を訪れました。

 

 

御三家、紀州徳川家の居城和歌山城、潤いの葵の御紋。石垣が多く残る城内ではツツジの若い花が開き始め、すべての木々から柔らかい緑の葉がふきだしています。桜の花が散ると同時に緑に覆われる日本の春、まぶしい季節です。

 

 

市営駐車場から歩きます。西の丸広場で開催されているフリー・マーケットを通り抜け、「鶴の渓」で涼しい風をもらい新裏坂へ。登り口に城内Mapを配布しているボランティアの方がいたので話を伺うと、「新裏坂」より「表坂」の方が傾斜がゆるく、足元に不安がある方にはこちらのほうがおすすめだと。

 

鶴の渓

 

親父と私は動物園を通り抜け大きな石垣を回り込み表坂へ。ボランティアの方の説明通り、段差が低くその上一段一段が広く造られ歩きやすくなっていました。さらに、要所要所スロープが設置され親父には優しい坂に感謝です。

 

 

それでも時折ベンチや石垣に腰を預け、脚をいたわりながら登っていき天守下ノ段へ。いいお天気の日曜日にもかかわらず観光客はそれほど多くはなく、私たちはのんびりとした気分で和歌山城の連立式天守をしばし見上げます。

 

追廻門

 

天守二の門への登り口で入場料を支払い御城印を買い求めます。昭和33年に再建されたという天守内部は板張りではなく現代の建物。靴を脱ぐことなく観覧できます。二階には鎧兜や様々な形をした槍が展示され、

「あんなもんで殴られたらたまったもんじゃないな。昔は残酷だよね」

なかなか興味深く、親父と二人長い時間をかけて観て回りました。

 

 

中でも私が惹かれたのは紀州藩士に伝わる鎧。

 

「縹糸威縦矧桶側二枚胴具足(はなだいとおどし たてはぎ おけがわ にまいどう ぐそく)」

 

鎧をつなぐ青い(縹色)糸が、「防具」という無骨な戦の道具に生き生きとしたさわやかさを与えています。展示物はいつもさっぱりと観て回る私にしては珍しく、足を止めて長い時間見入っていました。

 

 

そのあと、「もう疲れた」ということで三階には上がらずに天守を後にしました。

 

駐車場への帰り道、

「和歌山城で25個目。四分の一だよ親父」

「あぁ」わかってるんだかわかってないんだか、気のない返事の親父でした。

 

日本100名城 25/100

和歌山城

 

金曜日に有休をとり月曜日に代休をふり当てての四連休、親父と一緒に遠出をしました。金曜日は降りしきる雨の中京都まで移動し、4/4土曜日は「天空の城」竹田城跡を訪れました。

 

 

山城の郷に車を停め、タクシーを拾って「竹田城跡バス停」まで連れて行ってもらいます。山城の郷より先の狭い山道は一般車の乗り入れが禁止され、20分程をかけて歩くか、バスもしくはタクシーを利用することになります。バスの場合、万一座れないとおやじの脚への負担が大きいので、タクシーを利用することにしました。下山もいいタイミングで来合わせたタクシーに乗り込み、行きは800円、帰りは竹田の街を経由して山城の郷まで2,600円でした。

 

 

竹田城跡バス停から先は舗装されたゆるい登り道。ふだんは目にとまらない木々や時折咲いているミツバツツジを見ながら、親父のペースにあわせてゆっくりと登っていきます。それでも音を上げ始める親父に、100メートルごとに立つ標識は励みになります。

「親父、あと200メートルだ」ハッパをかける私に、

「もっと上まで車で行けるようにすりゃぁいいのになぁ」ガンバレ親父。

 

 

 

傾斜がゆるやかだったため、まずまず体力を残しながら料金収受棟の建つ竹田城跡入口に到着。大休止ののちに階段を上がっていくと、枯れた色合いの重厚な石垣群が現れてきました。さらに一段上がると、見渡す限り山の頂を無数の石垣が埋め尽くしています。これが竹田城です。北千畳には満開を過ぎた散り際のソメイヨシノ。遥か眼下には竹田の街や高速道路のアーチ橋、「虎臥城大橋」が見渡せます。

 

 

 

石造りの階段をやっとのことで上っていく親父。ありがたいことにベンチが各所にあり、私はたびたび休むよう声をかけます。しかし親父は休み方が下手で、二三分座っただけで「さぁ行くか」と腰を上げようとします。「もっと座ってて」何度諫めたことでしょうか。

 

 

石垣群の中でも天守台はひときわ大きく威厳があります。さらにそこから眺める南千畳につづく石垣はこのお城の一番の見どころ、はるか下界を背景に累々と石が積み上げられています。ひとたび低い雲が立ち込めれば、まさしく「天空の城」となる眺めです。

 

 

タクシーで山城の郷に戻った私は御城印を買い求め、疲れ果てた親父は大好物の缶コーヒーでカロリーを補給していました。

 

日本100名城 24/100

竹田城

 

高気圧と低気圧が交互に日本列島を通過する春。雨天予報の土曜日はお城めぐりをあきらめ富山への移動にあて、日曜日は桜満開の高岡城跡を訪れました。

 

築城当時の石垣

 

朝八時、小竹藪駐車場に車を停め歩きます。桜の季節のこと、すでに駐車場はほぼ満車です。仰ぎ見れば今日が満開、ぼんぼりのような白い塊を枝先につけた木々が高岡古城公園を埋め尽くしています。

 

 

開店準備をしている出店の並びを通り抜け、真っ赤に映える朝陽橋を渡って本丸広場へ出ます。ここも満開の桜がぐるりを取り囲み、カメラやスマホを向ける人が多くいました。

 

 

広場の片隅に立つのは二代目当主前田利長公の銅像。まだ陽があたらずに寂し気です。

「息子か。おやじはいねぇのか」

うちの親父様は前田利家のことを言っています。しかし、今朝薬を飲んだことも覚えていないのに、戦国武将のことになるとびっくりするぐらいの知識と記憶力を発揮します。年を取るとこんなものなのかもしれません。

 

 

本丸広場を後にする頃、空一面を覆っていた低い雲がほどけ青空が広がってきました。春の訪れを感じさせるカタクリも数輪咲いています。

 

 

遺構の少ないこの公園、私は築城当時から残る石垣にカメラを向けます。石垣と桜と青空と新緑、日本の美しい季節が始まりました。

公園を一回りし、三の丸茶屋で御城印を買い求めます。小竹藪広場では、シートを広げ早めのランチをとるグループ、サッカーボールを蹴る親子、小さな女の子も楽しそうに走り回っています。

 

 

東京への帰り道。富山、新潟、長野、群馬と車窓を流れる桜はどこも満開で、親父と二人ぜいたくなお花見となりました。

 

日本100名城 23/100

高岡城