こんばんは
大西ひろゆきです。


徳川幕府は鎖国を唱えながら、国境や領土の観念をあいまいにするところがあった。ことに松前口と呼ばれる蝦夷地(北海道)や北蝦夷地(樺太)など北辺の地は、19世紀にロシアの影響力が浸透するに及んで、松前藩の力では先住民族のアイヌ人、ニブヒ(ギリヤーク)人、ウィルタ(オロッコ)人との関係を円滑に処理できなくなっていた。

 この難しい局面で樺太に出張し、日本の主権を守ろうとした幕吏こそ堀織部正利煕(おりべのしょう・としひろ)なのである。

ペリー来航と同じ嘉永6(1853)年にロシアの東洋艦隊司令長官プチャーチンが長崎に入港すると、幕府は筒井政憲(まさのり)と川路聖謨(としあきら)を送って談判させた。同じころ、樺太の久春古丹(クシュンコタン、後の大泊(おおどまり))に露艦1隻が投錨(とうびょう)し、兵が上陸し駐屯地をつくった。そこで幕府は目付の堀と勘定吟味役の村垣範正(のりまさ)(のちの遣米使節)を巡見使に任命し、ロシアの南下政策に直面する蝦夷地を松前藩から公収すべきか否かを検討させた。松前藩も樺太の西岸は北緯50度、東岸は48度まで支配権を及ぼし、清国も南樺太が日本領であることを事実上認めていたようだ。

プチャーチンが樺太現地での国境画定を希望してきたので、幕府は堀らを樺太までさらに出張させた。ところが欧州のクリミア戦争に追われるロシアは、久春古丹の守備隊を撤退させ、プチャーチンの樺太行きも取りやめになった。


当時の徳川幕府の失態は基本が鎖国、しかし外国圧力に屈する形で外交譲歩を繰り返した。


堀織部正利煕達が未来に向けて大いに働いてくれました。

一か月に渡って堀織部正利煕は、樺太を調査した。

そして、数多くの提案や実績を掘達は残した。

『領土を捨て置きにしていない証拠をきちんと見せておき外国の干渉に口実を与えないように工夫すべきだというのだ。』


『将来の領土と国境の画定に備えた実際の対応策も忘れていない。樺太の先住民族はロシアに服従していないので、将来の正式領有に備え来春早々から本格的に道路を切り開き、郵便や糧米の運送に障(さわ)りが出ないように措置を講ずるべきだと主張する。領土の実効支配を口先で御題目のように繰り返すだけでは、不法な国や外国人の野心を覆すには十分ではない。』


『堀達は、アニワ湾の久春古丹から西海岸の白主(シラヌシ)を経由して来知志(ライチシカ)に至った。北緯48度30分である。こうして堀の調査探検以来、北緯50度を日露の境界として分ける考えが日本側で浮上する。』


ロシアの侵攻への守護神として八幡宮を勧請(かんじょう)して引き返した。』


自民党の我々も反省しなければならない、100年以上も前に尖閣諸島問題も含めて、
先達が色々警鐘をならしているのも拘わらず、口だけの支配に徹していた。

いま多少中国ともめても、観測施設でもいいから作るべきでしょう。


そして堀織部正利煕が残した事実が、北方領土はもとより樺太の北緯50度以南は日本領土の
証拠となっている。

ロシアはロシア正教に働き掛けをして必ず、国境に教会を建てます。

神が国境を守って貰う為だ。


堀織部正利煕は八幡宮を勧請(勧請とは神を依りしろにおろす事)をされた事は
興味深い事です。




感謝



大西宏幸







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