仔羊の讃えうたは -9ページ目

仔羊の讃えうたは

キリスト教に獄中回心した、元・前科者の拙き者です。
獄中回心記を主に、日常生活の中で自分と闘う、人に優しいブログにしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

ジメジメとした暑い日が続きますね。

おまけに、コロナ対策でマスクをするので、その暑さは倍増してしまいます。

私が危惧しているのは、マスク熱中症・・・

あ互いに気を付けたいものです。

 

さて、来月は、私にとって大切にしている、思い出深い月に突入します。

 

今朝、何気に開いた雑記帳の日記に(18年ほど前に拘置所で書いたもの) 

 

「すそ野の開拓!」

 

と、書かれていました。
 

369

 

 



私が丁度、40歳・・・聖書と出合って直ぐのことです。


それまで、持論として批判ばかり述べて来たキリスト教の真実というものを知りたくて、拘置所内で 教誨師 と呼ばれるプロテスタントの牧師先生に面会を申し込みました。


一時間ほどの僅かな時間で、キリスト教を理解するのは困難でしたが、色々とお話しをさせて頂いている最中、突然、先生は私に質問を投げかけられました。


「富士山があれほど高く、美しいのは何故だか考えたことはありますか?」

私は考えた事がないと答えますと、静かにゆっくりと、こう言われました。

 

「裾野が広く、そこに豊かな自然が存在するからですよ。


貴方の裾野はとても大きく感じます。
でも、その裾野は荒れ放題で、色々なものが混雑して到底、山というものにはなってません。

 現在(いま)の日本と同じように自然環境を破壊し、必要のない箱ものを沢山建てると、到底「山」とは言えないものを感じるのと同じです。
その荒れ放題の裾野をひとつづづ整理して、本来の自分の姿に戻り、今からの試練を乗り越えて行けば、貴方は、私には到底及ばない大きく美しい山となれる可能性を秘めています。

応援しています。

必ず大きく美しい大きな山になって下さいね。」

その言葉がいまでも頭の中に焼き付いていますし、私自身の荒れ放題の裾野を片付けて行く時期が、現在来てるように思えてなりません。


私には大きく美しい山になれると到底申せませんが、少しずつ・・混乱した・・こころの整理をしながら・・神さまと・・聖書の・・み言葉を仰ぎ見ながら、一歩一歩、進んで行きたいと思います。
 

 

獄中回心記」は拘置所・刑務所在監中に綴ったものを、私個人の振り返りのために、まとめたものです。
※現在、私のキリスト教信仰基盤となっているものではありますが、変化しているものも、多少ながらございますので、その点ご了承ください。
 
 
シモン、シモン、良く聞きなさい。

サタンは、あなたたちを小麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられたが、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。
それで、あなたが立ち直ったとき、兄弟たちを力づけてやりなさい。

ルカによる福音書 22章 31~32
 

 

貴女に・・・(別れた貴女へ)
 
小さな空に閉ざされた 汚れた壁の中から 初夏の風に乗せて
私の想いを 貴女の胸のなかに贈ります。
 
自己葛藤と確執に汚れた この私の想いは
果てなく遠い 貴女の胸に届くでしょうか。
 
あの朝 私の両腕に 冷たい金属音を聞いた あの日
私は 貴女への想いが真実であったことを 確信しました
空を見上げた 私の遥か向こうの空で 貴女の悲しむ姿が ほんの一瞬
ほんの一瞬ですが はっきりと見えたのです
 
あれから私は 悲しみの 深い深い 奈落の底へと
突き落とされて行きました
 
聞くこと 見ること 全てが 私の胸を砕き
落とす自分の涙さえも 本当の自分の涙なのか
疑いを持つ日が 何日も 何日も続きました
 
しかし それは 私自身の問題だけでは無かったのですね
貴女の心を 私が深く 深く傷付け 夢も希望も
遥か闇の中に砕き散らしていたのですね
 
貴女との思い出は 全て過去のものと遺され
ふたり別々の道を歩かなければならなくなったけれど 貴女との思い出を
貴女との大切な過去の日々を 闇の中に閉ざさないために
 
私の想いを 遠い貴女の胸の中に贈ります
果てしなく遠い 貴女のもとに届くでしょうか・・・
 
2002. 1月 拘置所にて
 
 
 

昨年から、異常気象に加わり、コロナウイルス騒動。

このままでは地球滅亡化する恐れがあるような気配が感じられる暑さですね。

↑ (´・Д・)」アルワケねぇじゃん!

 

 

さて先日、ある方との会話のなかで、

「他人を理解することの難しさ。」

と言う問題が出て来て、熱く語り合いました。

 

私自身の考えで恐縮ですが、他人を理解する早道として、その相手の方の話をよく聞き、その体験を自分自身がしてみます。

 

路上生活者支援をさせて頂いている頃、こんなことが多くありました。

 

 

「路上で眠ること・・・」 の恐怖と寂しさを理解出来るか!?

 

と、ある方に聞かれたことがあります。

 

このような行動は誰しもが体験できるものではありませんし、するものでもありません。

が、小さなころから路上で眠ることで命を繋いで来た私ですから出来たのでしょうが、自らそれを体験しました。

 

「炊き出しに並ぶこと・・・」の恥ずかしさと辛抱強さを理解できるか!?

と聞かれたこともあります。

 

私は炊き出しに並び、自ら体験しました。

私の行動と考えは、ある意味間違っているのかも知れませんが、自分が体験したものでなければ理解は不可能だと思っています。

 

良い悪いは別として、今まで私は人をこのように理解しようと努めて来ました。

 

ところで今、躓いているのが、目の前に苦しむ人がいてもそれに気付かずに、遠くの人たちに熱く支援を送ろうとする人たちの心が理解できないことです。

 

例えば、私はキリスト教会員ですからそれに例えますが、コロナの関係で今は出ませんが礼拝終了時に昼食が出ます。

その昼食に300円なり500円なりで販売していたら、そのお金さえも出せない方々は食べることは出来ないのです。

自然、愛餐という場は消滅してしまいます。

 

 

その反面、遠くで震災などあれば募金を速攻で募ります。

 

人はどう思うかはわかりませんが、これは私の眼には異常で憤りさえ感じます。

 

私が何を言いたく、それに躓いているかというと、

「遠くの人を気遣うよりも先ず、目の前で困っている方がいれば、その人の立場に立って理解してあげて欲しい。」

という強い想いです。

 

こんな単純なことが出来ずして、震災地や飢餓に苦しむ海外に募金や支援金を出したとて、それ自体は尊いものですが単なる自己満足に過ぎないのではないでしょうか。

 

私の言いたいこと・・・

「全世界の平和と慈しみを望み、祈ることは大切。でもそれ以前に、先ず自分の目の前で苦しんでいる方を大切にしようよ。」

です。

 

これが私のいまの苛立ちであり、つまずきであります。

 

こんな悩みから解放されるようにお祈りください。