私のつまずき。 | 仔羊の讃えうたは

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キリスト教に獄中回心した、元・前科者の拙き者です。
獄中回心記を主に、日常生活の中で自分と闘う、人に優しいブログにしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

昨年から、異常気象に加わり、コロナウイルス騒動。

このままでは地球滅亡化する恐れがあるような気配が感じられる暑さですね。

↑ (´・Д・)」アルワケねぇじゃん!

 

 

さて先日、ある方との会話のなかで、

「他人を理解することの難しさ。」

と言う問題が出て来て、熱く語り合いました。

 

私自身の考えで恐縮ですが、他人を理解する早道として、その相手の方の話をよく聞き、その体験を自分自身がしてみます。

 

路上生活者支援をさせて頂いている頃、こんなことが多くありました。

 

 

「路上で眠ること・・・」 の恐怖と寂しさを理解出来るか!?

 

と、ある方に聞かれたことがあります。

 

このような行動は誰しもが体験できるものではありませんし、するものでもありません。

が、小さなころから路上で眠ることで命を繋いで来た私ですから出来たのでしょうが、自らそれを体験しました。

 

「炊き出しに並ぶこと・・・」の恥ずかしさと辛抱強さを理解できるか!?

と聞かれたこともあります。

 

私は炊き出しに並び、自ら体験しました。

私の行動と考えは、ある意味間違っているのかも知れませんが、自分が体験したものでなければ理解は不可能だと思っています。

 

良い悪いは別として、今まで私は人をこのように理解しようと努めて来ました。

 

ところで今、躓いているのが、目の前に苦しむ人がいてもそれに気付かずに、遠くの人たちに熱く支援を送ろうとする人たちの心が理解できないことです。

 

例えば、私はキリスト教会員ですからそれに例えますが、コロナの関係で今は出ませんが礼拝終了時に昼食が出ます。

その昼食に300円なり500円なりで販売していたら、そのお金さえも出せない方々は食べることは出来ないのです。

自然、愛餐という場は消滅してしまいます。

 

 

その反面、遠くで震災などあれば募金を速攻で募ります。

 

人はどう思うかはわかりませんが、これは私の眼には異常で憤りさえ感じます。

 

私が何を言いたく、それに躓いているかというと、

「遠くの人を気遣うよりも先ず、目の前で困っている方がいれば、その人の立場に立って理解してあげて欲しい。」

という強い想いです。

 

こんな単純なことが出来ずして、震災地や飢餓に苦しむ海外に募金や支援金を出したとて、それ自体は尊いものですが単なる自己満足に過ぎないのではないでしょうか。

 

私の言いたいこと・・・

「全世界の平和と慈しみを望み、祈ることは大切。でもそれ以前に、先ず自分の目の前で苦しんでいる方を大切にしようよ。」

です。

 

これが私のいまの苛立ちであり、つまずきであります。

 

こんな悩みから解放されるようにお祈りください。