仔羊の讃えうたは

仔羊の讃えうたは

キリスト教に獄中回心した、元・前科者の拙き者です。
獄中回心記を主に、日常生活の中で自分と闘う、人に優しいブログにしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

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彼が担ったのはわたしたちの病 
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
  旧約聖書     イザヤ書 53:4

 
悩みは笑いにまさる。
顔が曇るにつれて心は安らぐ。
  同書        コヘレトの言葉 7:3
 
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心に傷や暗闇を持たない人は、憂いや優しさが、余りないのではないかと私は感じます。

現に、過去に傷を負い、悩み苦しみ、現在を生きている方に私は魅力を感じますし、他人の心の痛みが凄く分かる方が多いのは現実社会で良く見掛けます。

 
そもそも、キリストの救いは、イエスさま自身の傷による救いだと想い、信じています。

その救いの恵みは、自分自身が深く傷付いたときに初めて、活き活きとしたものとなり、心に沁みこんでくるものではないでしょうか。

 
私自身もそうでした。
約19年前、自分が犯したある罪の重さに打ちひしがれ、苦しみ嘆き、自分の「死」を考えたばかりか、人をも殺してやろうと命を狙ったものです。
 
幸いにも身柄を拘束されて、今度は孤独な拘禁生活を送らざるを得なくなったとき、どう表現すべきか、荒ましい罪責感と自己嫌悪に陥りました。
 
その時に出会ったのがイエスさまなのです。
 
イエスさま自身が負われた傷により、私自身の罪が癒され、赦されているのを痛感しました。
 
その体験があるゆえに、その後の7年半に渡る孤独で永い刑務所生活の、自分との闘いにも耐えられたのです。
 
この私自身が負った傷ゆえに、現在、私は、本当に小さいものですが、人の心の痛みが分かるようになりました。
 
そしていま、イエスさまには到底及びませんが、微力ながらも心に傷を持ち、悩み苦しんでいる人たちの心に寄り添い、その人たちの心の悲鳴に耳を傾けられるようになったのです。
 
人の心の痛みを癒せるのは、お金という薬ではなく、人の心だと言うのが私の結論です。
 
いま、心に傷を負い苦しんでいる人・・・
「自分はダメな人間だ!」とか、

「自分は生きる価値のない人間だ!」とか

 
思うことは全くないですよ。
 
その心の痛みや苦しみは、あなた自身にしか分からないとても大切な宝ものです。
いつかきっと、その痛みが人の心を癒すものとなるはずです。

それは自分にとって大きな宝物となるのではないでしょうか。

 
優しさとは、人に憂いと書きます。
 
どこまで、他人の痛みを自分自身の痛みとしてもつことができ、心に憂いを持つことで、人は優しくなれると言うことではないでしょうか。

 

今を精一杯生き抜きましょう。

 

自分が、自分自身を信じてあげないと誰が信じてくれますか・・・

 

あなたにしか出来ない・・・あなたの道が、きっと、きっと、備えられているはずです。
天におられます 私たちの神よ
私の半生はことごとく罪に穢れ 自分の欲求だけを満たし
人を傷つけ 満足して参りました
 
目の前にある 大きな愛にも気付かず
ひとりこうして償いの日を待つ今 やっと私自身の罪の重さと
罪の深さに気付きました
 
イエスさま
 
どうか 愚かなる私を
私の過去の 全ての罪をお赦しください
 
現在の この苦しみの時を 神の み恵による試練の時とするならば 
主であるイエス・キリストが示された
愛と信仰と赦しにより
乗り切れるはずだと信じます
 
どうか 罪深い私に 神さまの僕となれますように
そして そして
イエスさまの名により こころ満たされず さまよう人たちを
救える人となるべき道を 私に示してください
 
そして 私が 過去に関わって来た 全ての人が
幸せになれますように 心豊かになれますように お祈りいたします。

アーメン      
2001年 7月13日 拘置所にて



この祈りは日付けから思うと、聖書と出会ってから4か月ほど経ったときに書かれたものだと思います。
当時、私は聖書が無ければ一日を過ごすことが出来ないほどでした。
明け方に目を覚ますと聖書を開き、消灯後、小さな灯りの中でも、担当官から注意を受けても聖書に接していました。

 

「わたしは口を大きく開き、渇望しています。
あなたの戒めを慕い求めます。」
詩編119-131


正にこの、み言葉のように、神さまの戒めを慕い求めていました。
 

ある本の中で、こんな例え話しがありました。
 

ある日大雨が降りダムが崩れ始め、洪水となり町に襲いかかります。
日ごろ、祈りを重点視するキリスト教の信者さんは、避難勧告をも聞かずに、お祈りを以て救われると信じて疑わずお祈りをしています。
水はだんだんと溢れ、床下から床上まで押し寄せて来ます。
 
これは危険だとばかりに、ボート救出に向かった消防隊員に信者さんは言います。
 
「私は祈りをしているから良い!」 と・・・
 
やがて屋根の方まで水に浸かりはじめ、今度はヘリコプターより救出しようと試みますが、お祈りが有るから自分は助かると言い張り、それを無視し、最後には死んでしまいました。
 
そして、天国の門番であるペトロに尋ねるのです。
 
「私はあんなにお祈りしていたのに、なぜ助けてくれなかったか!」と・・・
すると、ペトロは応えます。
 
「それは、間違いです。何度も助けようと手段を取りました。最初は避難勧告・次はボート・次はヘリコプター・・・それなのにあなたは無視をしてたのですよ。」

 
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さて、この例え話であなたはどのような事を考えるでしょうか。
私流に言わせて頂ければ、例えば、お祈りだけを以て病気が治るとするならば、全国各地に病院を建てずに教会を建ててお祈りしてろ!って事です。
 
お祈りをしても叶わないものは叶わないのです。
*それは何故かと言う疑問の声が聞こえて来そうですが、この話しになると今回の趣旨と違って参りますので掲げないことをお許しください。
 
私は、お祈りを決して否定するものではなく、むしろお祈りを以て、自分の心と身体の全てを神さまに委ね、例え祈りが叶わず、困難が来ても、必ず救われる事を信じてそれを受け入れる勇気が必要ではないかと言っているのです。
 
良く過去を振り返り、思う事は有りませんか。
 
その時に困難と思った事でも、今となれば良かったと思える事が・・・。

苦しみは素直に受け止め、祈りを以て生活をしていると、きっと失ったものよりも倍以上なものを、神さまは備えてくれるなだと言うのが、私のキリスト信仰の原点です。
 
確かに私は、ある特定の方に愚痴や嘆きを凄く言っています。
 
しかし、根本的な部分では神さまを信じ、例えこの身体がぶっ壊れても、祈りのなかで聞いたみ声に聞き従い、実行に移す努力を惜しまずにいます。
 
私自身の実生活は本当に苦しく辛い事が多いのですが
、喜びを以てそれを甘んじて受け止め従って行く事で、真の喜びを得られるものであると信じているのです。
 

祈りは、神さまと自分との対話の時です。
祈りが叶わずとも、喜びをもって神さまの声を真摯に聞きつつ、素直にそれに従いたいものです。
 
この拙きプログを読んで下さる全ての人の上に神さまの祝福と恵みが豊かにありますように。