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仔羊の讃えうたは

キリスト教に獄中回心した、元・前科者の拙き者です。
獄中回心記を主に、日常生活の中で自分と闘う、人に優しいブログにしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

父なる神さま。
私はいま、体力的にもとても厳しい現実を突きつけられています。
どうぞ、癒しの恵みを授けてください。

 

いま、「ヤベツの祈り」を祈ります。
どうぞ、ヤベツが求め祈りを聞き入れられたように、私にも求めに応じてくださいますように・・・

 

「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください。」
         歴代誌 上 4-10

 

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が現在、自治会長として地域社会の中で活動の場を与えられています。
宗教的なことには、一切タッチせずに話さえ致しません。
自称・キリスト者である私にとって、それは寂しい反面、色々と勉強になります。
 
ある意味一方的で偏った考えを、キリストに興味を持って居られる方に押し付ける可能性も有り得るので、それを考慮しつつ、このコミュニティの場をまとめるのは大変ですが、私自身の勉強の場ともなっているのが本音です。
 
コミュニティーの人数は僅かですが、そこには既にクリスチャンの方も居られたり、ノンクリスチャンであったり、教会に対して不信感を抱いて居られる方。
または、礼拝に授かりたいけど、精神的な疾患があり行けない方と、さまざまな方が居られます。
 
その中で私が常に心がけて発信しているのは、教派・教団、あるいは、他宗教の方にでも否定的な事を掲げずに分かり易く、且つ日常的な問題の中で聖書をどう読み説いて行くかです。
 
読み解くと言っても人に聖書解釈するほど能力は持ち合わせていない私ですし、聖書解釈を掲げて居る訳では決してありません。自分の過去の生活の中でどうキリストに関わって来たかを聖書の聖句を織り交ぜて祈り、行動して行くか。のみです。
 
今はすでに天に召された、私をキリスト者として育てて頂いた方が良く言われた言葉ですが、

「貴方が、キリストに結ばれて生きる事が、唯一の証しだよ。」

私は、その言葉を大切にはしていますが誠に恐縮ながら、本来聖書の御言葉を人に伝えて行こう等とは考えていません。
 
それは、路上生活されている方々への支援、また、東日本大震災での現地支援ボランティア活動で、強く教えられました。
聖書片手に
「神を信じれば救われる。」
「神さは愛です。」
と、叫んでみても、日常の生活さえままならない人には通じはしないのです。
 
それよりも、対する人とどう関わり、イエスさまならその方とどのような関わりをされるかを祈りの中で行動して行きます。
すると、どうしても伝道と言うよりも先ず、その方に寄り添いつつ、共にどう歩みを起こすかを考えるべきではないかと思います。
 
ただ、私自身はあくまでも、キリストに従うと言う決意を持っていますから、聖書の勉強も、聖職者の方々の訓えも、指導も必要だと痛感しています。
 
そしていつも、ボランティア活動のなかでは、(私の考えでは志願兵)・・・キリストを求め従う志願兵として仕えさせて頂いてました。
そして今からも、誰に何を言われようと断じてそれを変えようと思いません。
 
それは、根本的な深層心理の中で、聖書の御言葉を持って祈りと共に従って行きますが、他人をキリストに導こうと言う気はないのが、私のキリストに学び生きる道です。
 
導かれるのは、神さまであり自分ではないと言う想いが強いです。
自分が、他人を導こうと思えば、そこに驕りが必ず出てきます。
「驕りは、人を傷つけるばかりか、自分にさえ嘘をついて行く道を辿るようになる。」
と言う、自分の想いからの事で、その他の考えをお持ちの方を否定するものではないのでお赦し下さい。
 
ただ、私との関わりの中で、キリスト教の求道に入られた方も数人居られるのも事実ですが、果たしてそれが伝道と言われるかどうかは定かではありません。
 
でも、私にはそのような活き方が一番似合っていると思います。
 
私にとってキリストに活きるとは自己との闘いから始まるからです。
 
前記したコミュニティーにおいても、現実生活のなかでも、私は人に教える立場ではなく、共に神さまの存在を知り、否定的感情論を捨てて、キリストにどう活きて歩みを起こすかを祈りの中で覚えて行きたいものです。

キリストがわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

                 コリント人への第二の手紙 12:9
イエスさま


 

人は誰しも自分の強さを誇りにして生きていると思いませんか?
かつての私も、それを誇りにして生きて参りました。



資力があり、体力もあり、絶対的発言権をも有す、自分に誇りを持っていたのです。


しかし、この誇りは「恐れ」と言う言葉を併せ持つ偽りの誇りだったのです。
絶対的権力を失ったらどうなるのだろうか・・・
お金が無くなったらどうなるだろうか・・・
それは、まさに「恐れ」です。

恐れと言うのは、その誇りを傷つけられては怒り、更に大きな力を持つ他者を妬むと言うもので、それは偽りの強さの誇りにあったと思えてなりません。


このような誇りは必ず、失う「時」が参ります。
過去の私のように、自分の力を誇りにしている人は、このような力を失った弱さに直面すると悲嘆に暮れて絶望します。
そのような弱さに陥らないように、人はあらゆる努力をしますが、いつかは何らかの形で弱さに直面するものです。

良い例が「老化」と「死」です。
これだけは避けられない真実です。

強さをそれまで誇りとして来た人は、その真実に直面したとき、様々な手段を用いてそれを避けて通ろうとします。

それでも尚、防ぐ術を失ったとき、絶望と屈辱を味わうものです。

しかし、自分の弱さを誇るとすればどうでしょう。

その人の人生には、もう恐れるという事は無いのではありませんか。
弱さを誇るというのは、弱さの極致です。



私は9年前、脳梗塞で倒れました。
それまで非道な道を歩み、強さだけを誇りにして来た自分に示されたものであり、神さまの御心なのだと、過激なボランティア活動に徹していたのですが、左半身不随となった病院のベッドの上において、嘆き悲しんだものです。


しかし、自分の価値観・力を投げ捨てて、キリストの慈愛と力に身を委ねた時に、自分の力ではなくキリストの力により生かされているという真実を知りました。


そして、キリストを信じる者とは、キリストに結ばれてキリストの力によって生きて行くのだと言う確信を得たのです。

あれから9年・・・
見た目には、健康な者と変わりない私も、日常生活に色々な支障を来しています。
左半身の重さ。
利き手である左手の不自由さ。
歩くことの不便さ。
辛くも診断された記憶障害。
でも、私は、この現実を深く受け入れ、この自分の現実に、弱さの中の誇りを覚えて大切にしています。

「自分の弱さを誇ること。」

弱さのなかにこそ、真実なる力が発揮されます。
私には弱さこそ、絶大な力です。
大いに自分の弱さを誇りましょう。

事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
                                   ヘブライ人への手紙 2章18節

 

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真に他人の痛みを自分の痛みとして受け入れられるようになること。」
 

それが、私の切なる願いであり、祈りです。

しかしながら、人の心の痛みを自分のものとして受け入れるには限界もあります。

そう、人の心の痛みは、人それぞれだからです。

 

でも、自分の弱さや痛みを乗り越えた者には、他の人に向かって有効な援助ができるものだと信じて止みません。


神さまは、人・ひとりひとりに、それぞれの課題・弱さを与えておられます。

 

それは、決して私たちが、不平や不安をこぼすためでなく、その中に神さまの慰めの御手の業を観るため。


自分と同じような境遇の中に在る人々に対する励ましの意味を持っている事を信じます。


不遇と思えるなかに、神さまの栄光を観ることは、本当に大切な事だと思います。

 

コロナ禍のなかで苦しむ方々、震災地で明日の不安を抱えて居られる方々、みなさんの上に、神さまの祝福と恵みが、豊かに満ち満ちと溢れ、佳き時を過ごされますように。

シャローム♱