仔羊の讃えうたは -6ページ目

仔羊の讃えうたは

キリスト教に獄中回心した、元・前科者の拙き者です。
獄中回心記を主に、日常生活の中で自分と闘う、人に優しいブログにしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。
正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。

    エゼキエル書 18章20節
 
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私の生い立ちは、言葉では言い表すことが出来ない苦しみがあり、悲しみがあった。
幼年期における母親の失踪。
実父や実兄からの情け容赦のない虐待。
食事さえも満足に与えられず、学校給食だけが頼りと通学した日々・・・

そんな生活から逃れたい一心に、家出を繰り返した時代・・・

そうした現実生活のなかで、私はいつも両親が悪い、兄が悪いと憎しみばかりを抱いて来たのである。

実母の居所も分からなくなり、実父も、そして実兄も死去し30数年経た現在でも、私は得てしてそうした想いに囚われてしまうことが多々有るのが現実である。

いや、そればかりではない。
私を取り巻く環境、関わる人たちに対しても、悪いと断定してしまうのだ。

それは正しく、自分自身の責任を他に転嫁してしまおうとする気持ちが働いてしまうのである。

私がこうして服役生活を科せられているのも、元を正せば両親のせいであり、家庭環境のせいであり、自分を取り巻く環境のせいである。

ある意味、こうして自分の責任を他人に転嫁することは楽である。

私は永年、そう思い信じることで、現実生活の悲しみや苦しみから逃れようとして来た。
だけど、そこから何を学び得て来たのだろうか。
いつも同じ場所で、同じような試練に遭遇し、躓いては人の責任・環境の責任にして来ただけなのである。
結局は、堂々巡りの闇の中をさ迷って来ただけではないだろうか。

何に対しても責任転嫁を図ろうとして来た自分を問わなければ何も変わらないと訓えてくれたのが、上記に掲げた聖句である。

自分の物の見方や考え方を改め、この現実生活の全てを自分自身の責任として重く受け止めるとき、今まで観えなかった大切なものが観えて来るのではないかと痛感して止まない。
新しく生まれ変わるにはそれしか手段がないようにも思えて来る。

自分の周りの環境にしても然り・・・自分が先ず変わることが大切だろう。

私に大切なものは、、自分の生い立ちに決して甘えることなく自分の責任はしっかりと受け止めて行くことだろう。
そしてそこから、新しい自分の人生が始まるのである。

決して後悔や、自分の心を傷つけることなく、悔い改めて進むのだ。
この道は、私自身が選択して、自分のこの足で歩んで来た道なのだ。
誰を責めることができようか。
誰を恨むことができようか。
2005/03/12 刑務所 独居室にて

白い壁の 傷跡に あの日の出来事 映し出す
人を恨まず わが身を恥じて こころの扉を開けよう
あぁ・・・笑い忘れた道化師が 想い誘う この独居室(へや)で
こころの傷跡 涙に癒す

 

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小さな空を往く雲に あなたの面影 偲べば
苦労の涙も 拭いてはやれず 今はどうしているのか
あぁ・・・踊り忘れた道化師が 想い誘う この独居室(へや)で
あなたと二人で 夢に踊る
 

29


高い壁の向こうには 忘れたはずの 夢がある
君の瞳に 見つけた明日を いつかこの手に つかもう
あぁ・・・涙流してキズ癒す 想い誘う この独居室(へや)で
わが身育てる 夢の城

      2001 / 10 拘置所・独居室にて

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 

 ヨハネによる福音書 13:14節
 
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足を洗うと言う行為はこの場合、その人の最も弱い部分・弱点・汚れた所に関与しなさいと言われると思われます。

時が良くても悪くても、その人の生涯の最後の日まで隣人として継続的な関わりを持つ必要性を説かれてるのだと思えてなりません。
私は、路上生活者の支援を5年余りさせて頂きました。

冬季の寒さが厳しい時期には、路上生活をされている方々に、オニギリや、毛布・カイロ等を渡して歩く。
そうした行為はとても大切ですが、それは単に一過性のものに過ぎず継続性はないのです。

 
それよりも重要視しなくてはならない大切なことは、一日でも早く自立し、どんなに小さくても自分の家を持って頂くことです。
そのためにも、自立支援に向けた相談にあたることを優先していたものです。

 
ボランティアとして活動させて頂いてたのですが、時には過酷な状況に追いやられました。

病気になれば病院まで付き添い、入院すれば面会に行き、話し相手となって差し上げる。
それだけに及ばず、天に召された時は、その方の信じる宗教に合った葬儀が出来るように手配して見送って差し上げるのです。

 
そこには宗教的勧誘は一切有りませんでした。
でも、これこそ、この聖句の説かれる足洗いの重大点ではないかと思うのです。

 
さて、その関連で「仕合せ」となります。
辞書を紐解くと「幸せ」とはトップに書かれていないのはご存知でしょうか。

 
{「仕合せ」を「幸せ」とも書く。}

と、なっています。
先に掲げました、「足洗い」は人に仕えること。
即ち「仕合せ」とは、己を低くして、お互いがお互いを尊重し、仕え合う所で、仕合せが生まれるものと痛切に感じます。
 
極論、いつもいつも、「自分が・自分が」と言っている間は仕合せには決してなれない。
ということです。

 
人間的な「愛」には永続的では有りません。
昨今の全国の離婚率を考えてもそうでしょう。

新婚ホヤホヤで、人の羨む家庭で有っても、お互いに年を重ね皺(しわ)が多くなり、相手の短所ばかり目立って来た時、新婚の時のようにパートナーを愛せますか?

 
それよりも、同じ価値観の上で、お互いに仕え合ってこそ、永遠の仕合せは掴めるのではないでしょうか。
みなさん!! 仕合せになりましょう!!

笑顔で今のひと時を過ごしましょう。
あなたの笑顔こそ、宝なのです。
あなたの笑顔を大切にしてください。