犯した罪は自分が負うもの。 | 仔羊の讃えうたは

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キリスト教に獄中回心した、元・前科者の拙き者です。
獄中回心記を主に、日常生活の中で自分と闘う、人に優しいブログにしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。
正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。

    エゼキエル書 18章20節
 
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私の生い立ちは、言葉では言い表すことが出来ない苦しみがあり、悲しみがあった。
幼年期における母親の失踪。
実父や実兄からの情け容赦のない虐待。
食事さえも満足に与えられず、学校給食だけが頼りと通学した日々・・・

そんな生活から逃れたい一心に、家出を繰り返した時代・・・

そうした現実生活のなかで、私はいつも両親が悪い、兄が悪いと憎しみばかりを抱いて来たのである。

実母の居所も分からなくなり、実父も、そして実兄も死去し30数年経た現在でも、私は得てしてそうした想いに囚われてしまうことが多々有るのが現実である。

いや、そればかりではない。
私を取り巻く環境、関わる人たちに対しても、悪いと断定してしまうのだ。

それは正しく、自分自身の責任を他に転嫁してしまおうとする気持ちが働いてしまうのである。

私がこうして服役生活を科せられているのも、元を正せば両親のせいであり、家庭環境のせいであり、自分を取り巻く環境のせいである。

ある意味、こうして自分の責任を他人に転嫁することは楽である。

私は永年、そう思い信じることで、現実生活の悲しみや苦しみから逃れようとして来た。
だけど、そこから何を学び得て来たのだろうか。
いつも同じ場所で、同じような試練に遭遇し、躓いては人の責任・環境の責任にして来ただけなのである。
結局は、堂々巡りの闇の中をさ迷って来ただけではないだろうか。

何に対しても責任転嫁を図ろうとして来た自分を問わなければ何も変わらないと訓えてくれたのが、上記に掲げた聖句である。

自分の物の見方や考え方を改め、この現実生活の全てを自分自身の責任として重く受け止めるとき、今まで観えなかった大切なものが観えて来るのではないかと痛感して止まない。
新しく生まれ変わるにはそれしか手段がないようにも思えて来る。

自分の周りの環境にしても然り・・・自分が先ず変わることが大切だろう。

私に大切なものは、、自分の生い立ちに決して甘えることなく自分の責任はしっかりと受け止めて行くことだろう。
そしてそこから、新しい自分の人生が始まるのである。

決して後悔や、自分の心を傷つけることなく、悔い改めて進むのだ。
この道は、私自身が選択して、自分のこの足で歩んで来た道なのだ。
誰を責めることができようか。
誰を恨むことができようか。
2005/03/12 刑務所 独居室にて