「口に入るものは人を汚さない。口から出るものこそ人を汚すのである。」
マタイによる福音書 15章11節
私たちにとって何が清く何が汚れているのかを問われている箇所です。
現在もそうですが、厳格な宗教社会に生きるイスラエルの人たちにとって、これは大きな問題なようです。
が、本来、ここで解かれる「汚れたものもの」「清いもの」とは、神との関わりのなかでの問題となるものではないかと、私は思います。
私の勝手な解釈で申し訳ありませんが、短的に言えば、神さまの目から見て忌み嫌われ,退けられるものが「汚れているもの」であり、そのような汚れがなくて、神に受け入れられるものが「清いもの」だと言えるのではないでしょうか。
宗教に熱心な人たちは、自分を清くするために最大限の努力をします。
このように、自分の努力で清くなった宗教者たちは熱心であればあるほど厳しく、清くない人たちを批判・中傷・軽蔑して退け、断罪します。
イエスさまの時代の律法学者やファリサイ派の人たちは、その典型ともいえます。
本来神さまとの関わりの問題である清さと汚れが、人を差別し、拒否して断罪する根拠になってしまっています。
現在ではそうした宗教的な差別は殆ど無くなっていますが、しかし現代社会でもなお、人種や身体的な障害・職業的な問題などで人を判断し、差別し、交わりを拒否することは多々あります。
だからこそ、この御言葉を真剣に聴かなければならないのではないでしょうか。
「口に入るものは人を汚さない。」
私は人が何を食べようが、身体にどのような特色や障害があろうとも、身体の外から入ったり見えたりするものは、人間の価値を低くしたり、神さまとの交わりを妨げたりは一切しないものだと信じています。
「口から出るもの」・・・それこそ人を汚すものではないでしょうか。
口から出るもの。
すなわち、それは「言葉」です。
言葉は心から出てきます。
自分は清い、立派だと自負する人が他人を軽蔑し、差別する言葉を発する時、それはその人の傲慢な心から出ているのではないかと思われます。
その傲慢な心こそが神さまが最も嫌われる「汚れたもの」だと言えるでしょう。
人間の悪は口であれ、行動であれ、全ては心から出ていて、それこそが人間を神さまの清さと栄光に値しないものにしていると思われてなりません。
「心から出て来るものが良いものだけ。」
という人は皆無ではないでしょうか。
カップの外側だけを清めて内側を清めず、ジュースなどを飲むという行為は愚の骨頂です。
人間は外面の行為を立派にすることにより心を清めることは出来ません。
外面を立派にすればするほど、心は自己中心の傲慢という悪に陥ります。
それは、自分自身の永年の悪の世界での体験でした。
人間の心を清めることが出来るのは神さまの御霊だけです。
御霊から出て来る信仰と愛と希望だけが清いのであり神さまに喜ばれ、人を完成に近づけます。
イエスさまのこの御言葉は私たちに語りかけます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」と・・・。