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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 2005年10月25日のKBS「바른말 고운말」で、外来語について取り上げられている。前から気になっていた「%」の読みと、複数の読みがある外来語について。

  %の読み

 

  • お前、愛が何だか分かるか? 愛っていうのはな、誰かを90%以上信じることだ。はっきり言って、俺はお前をそんなに信じてない。
  • じゃあ、何%くらい信じてるの?
  • 51%

 私たちがよく目にする単位の一つに%があります。しかし、%を「프로プロ」と言う人もいますよね。「퍼센트ポセントゥ」と「프로プロ」、どちらが正しいのでしょうか?
 結論から言うと、「퍼센트ポセントゥ」と「프로プロ」はどちらも標準語です。では、なぜ多くの人が「퍼센트ポセントゥ」の方だけが正しい表現だと思うのでしょうか? それはおそらく、「テレビジョン」と「テレビ」の関係のように、「프로プロ」を「퍼센트ポセントゥ」の略語だと思っているからでしょう。しかし、「퍼센트ポセントゥ」と「프로プロ」の語源を調べてみると、これが誤りであることが分かります。「퍼센트ポセントゥ」は英語の percent から来た言葉で、「프로プロ」はオランダ語の procent からで、前の pro を取った言葉です。つまり、「퍼센트ポセントゥ」と「프로プロ」は意味は同じですが、語源が異なる外来語なのです。両方の言い方が広く使われているため、どちらも標準語として認められています。

 上の説明にもあるように、韓国では、%を「퍼센트ポセントゥ」ともいうが、「프로プロ」ともいう。100%は「ペップロ」。

 

 一方、今の日本語では、%を「プロ」とは言わない。100%は「ヒャクパー」。ただ、明治期の日本の出版物では、「パーセント」だけでなく、「プロセント」も使われていた。『シーボルト日本交通貿易史』の翻訳などでも「プロセント」が使われている。また、新聞報道でも「プロセント」と書かれたものが結構ある。

 

 

 江戸時代の蘭学の時からかもしれないし、ドイツ語から入ったとする説もあった。

 

小林行昌 講述『商業數學』早稻田大學出版部

 

 朝鮮・大韓帝国にいつ入ったかはわからないが、日本の植民地統治下では「파-쌘트」「퍼센트」「프로샌트」などが使われていた。

 

 ところが、1945年の日本の敗戦後、日本では「プロセント」は使われなくなった。主要新聞のデータベースでも、キーワード「プロセント」は古い記事しか引っかかってこない。

 

 一方、韓国では、解放後、特に朝鮮戦争後「퍼센트ポセントゥ」が増加するのだが、1960年をピークに減少し、%を意味する「프로プロ」の使用の増加傾向が見られる。

 

 その後、英語起源の外来語重視で「퍼센트ポセントゥ」が増えてきた感はあるが、いまだ「프로プロ」の方が多用されているようだ。韓国言論振興財団のデータベースで検索してみると、そのような傾向が見られる。

 ちなみに、北朝鮮の『朝鮮語大辞典(조선말대사전)』(1992)でも「프로プロ」は「記号%の名称」となっている。南北で同じように「프로プロ」が使われている。

 

 

 近代になって同じように入ってきた外来語が、朝鮮半島と日本で違う方向に行ったというのはなかなか面白い現象だ。

 

  複数読みの外来語

 日本語では、同じスペルの外国語を、読みを変えることで意味上・用法上の違いを出すものがある。セカンド/セコンド、ステッキ/スティック、ガラス/グラスなどがそうである。日本語の特徴だと思っていたら、韓国語にもあるという。それが、これである。
 

英語の "CUT" は、つづりが同じでも状況によって発音や表記が異なります。美容院では「커트コットゥ」と言いますが、映画では「コッ」と言うのが正しいのです。英語の "CUT" は、一つの意味だけでなく色々な意味を持つ多義語です。この単語が韓国語に取り入れられた際、いくつかある意味のうち二つの意味で受容されました。
 一つは「髪を切る」という意味で、もう一つは「写真や映画のワンシーン」という意味です。

この二つの意味から、英単語の "CUT" は異なる二つの単語と認識され、美容院では「커트コットゥ」、映画や漫画の場面では「コッ」と区別して使用されています。ただし、「コッ」については「장면(場面)」という韓国語で表現するのがより望ましいとされています。

 ただ、すべての外来語が「커트コットゥ」と「コッ」のように別々に表記されるわけではありません。例えば "PANEL" は、「板」を意味する「판넬パンネル」と「陪審員」を意味する「패널ペノル」と別々に使われることがありますが、外来語表記法では「패널ペノル」のみが正しいとされています。「板」を意味する場合も「陪審員」を意味する場合も、どちらも「패널ペノル」と表記、発音するものとされています。

 韓国語にも、「커트コットゥ」と「コッ」のように、外来語の発音を変えることで意味上の使い分けをする単語があるというわけだ。

 

「マドレーヌ」(2003)・「恋するムービー」(2025)

 

 とはいえ、「PANEL」のケースが示しているように、韓国語の外来語表記法に従って「패널ペノル」が正しいとして、発音を一本化するという方向性が韓国では強いということも事実。このあたりが、日本語の場合と異なっている。日本語の場合は、使い分けをすることが当たり前になっていて、それが好都合だと思われているし…。

 ソウルの地下鉄6号線に孝昌公園前ヒョチャンコンウォンアップという駅がある。この駅から徒歩で7~8分北に上がると孝昌公園が広がっている。ソウル駅の南西側でソウル駅からも歩ける距離にある。もともとは22代王正祖の長男文孝世子ムンヒョセジャの墓所だったが、1940年に墓所を移して公園とされた。当時は、公園の南側一帯には朝鮮鉄道局の官舎があって日本人が大勢住んでいた。

 

 

 1945年、日本の植民地支配が終わると、この孝昌公園には抗日運動の闘士や韓国独立に関わった人々が葬られ、追慕の場となった。
 

 この孝昌公園には「三義士墓域」があって、李奉昌イボンチャン尹奉吉ユンボンギル白貞基ペクチョンギの3人の墓がある。向かって一番左は、安重根アンジュングンの墓域。旅順で処刑された後の埋葬地がいまだ不明で遺骨を移葬できていないため、仮の墓ということになっている。

 

 

 李奉昌は、抗日組織韓人愛国党のメンバーで、金九キムグから資金援助を受けて日本に渡り、1932年1月8日、代々木練兵場での陸軍観兵式からの帰路にあった天皇の馬車の車列に手榴弾を投げた。警視庁正門前で起きたので「桜田門事件」と呼ばれる。手榴弾は天皇の馬車のはるか前方で炸裂し、所期の目的を果たすことなく終わった。

 

 

李奉昌はその場で逮捕され、大逆罪で10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。

 

 

 この年、上海でも日本の要人を狙った襲撃事件が発生した。1932年4月29日の天長節(天皇誕生日)に上海の日本人街虹口公園で行われた祝賀式典会場で、尹奉吉が貴賓席に手榴弾を投げ込み、上海派遣軍司令官白川義則陸軍大将ら二人が死亡、多数が重傷を負った。尹奉吉も金九の韓人愛国党のメンバーであった。のちの1945年9月、ミズーリ艦上で降伏文書に外務大臣として署名することになる重光葵は、この事件当時上海駐在公使として現場に居合わせて負傷し、右脚を切断した。尹奉吉は、軍法会議で死刑判決を受け、金沢の練兵場に押送されて銃殺刑に処せられた。

 

 翌1933年には、上海解放連盟を結成した元心昌ウォンシムチャン、白貞基、李康勲イガンフンらが在中華民国日本公使有吉明の暗殺を企図したとして逮捕される事件が起きた。3月17日、上海の高級料亭「六三亭」で催された宴会に出席する有吉を狙い、爆弾と拳銃で武装して襲撃を企てたが、事前に察知した日本の領事警察は、襲撃グループが待機場所にした中国料理店松江春に張り込んでいて、3名が逮捕された。

『時事写真-昭和八年、上海を中心として』より

 

 彼らは長崎に押送され、11月に無期懲役の刑を宣告されていた。白貞基は熊本刑務所で服役中の1936年に獄死した。

 

 日本人アナーキスト矢田部勇司も関係していたこの事件、在上海日本総領事が本国に送った報告(駐上海日本総領事石射猪太郎「有吉公使暗殺による不逞鮮人一味検挙に関する件」)には、事前に内部からの情報があったとあり、密告者がいたことをうかがわせる記述がある。その後外務省の「在外帝國公使館及公館員被害關係雜件」が発見され、回想録などで「沖」「玉埼オッキ」と言及されていた内通者が、日本人の沖であったとの記述があるとされる(成周鉉「研究者が見た義士・元心昌」)。

 

 

 1945年、植民地支配が終焉を迎えると、日本内地に埋葬されていた「三義士」の遺骨の奉還運動が起きた。

 

李奉昌義士の遺骨は殉国志士遺骨奉還会を東京で組織して、浦和刑務所の埋葬場から東京に運び安置し、尹奉吉義士の遺骨もすぐに奉還できるように進めている

 これには、大逆罪で服役していて釈放され、居留民団の団長になっていた朴烈パクヨルや、上記の六三亭事件で服役していて釈放された李康勲が中心になって関わっていた。

 

 金沢に仮埋葬されていた尹奉吉の遺骨は、1946年3月9日にやっと所在が確認されて棺に収められた。

『京郷新聞』1987年8月10日掲載 姜徳相が発見した写真

 

 1946年6月に三人の遺体は朝鮮に戻り、7月7日に国民葬が執り行われ孝昌園に埋葬された。

 


 大韓臨時政府で要職を歴任し、解放後、李承晩と大韓民国初代大統領の座を争った金九は1949年に暗殺された。 6月26日に暗殺された金九の国民葬は、7月5日に東大門のソウル運動場で大々的に執り行われ、その後孝昌公園に埋葬された。

 

フル動画は「動く現代史」で「김구」で検索すると閲覧できる

 

 しかし、李承晩イスンマンは政敵だった金九の業績全てを否定したため、金九を評価することはタブー視された。朴正煕政権以降はそれなりに再評価は進んだが、評価は一部にとどまっていた。1998年、金大中キムデジュン政権になると白凡ペクポム(金九の号)記念館建設委員会が発足し、大統領金大中が記念館の建設支援を約束した。記念館建設の募金運動が始まり2000年6月に起工式が行われ、2002年10月に大統領金大中夫妻も出席して白凡記念館が開館式が行われた。

 

左:1975年 右:2023年

 

1909年10月ハルビン駅の活動写真の番外編

 

 1909年10月26日にハルビン駅で伊藤博文が安重根アンジュングンによって銃撃される現場を撮影したコプツォフのフィルムが日本に到着したのは、頼母木たのもぎ桂吉が原版の独占契約を結んでから1ヶ月以上経過した翌年の1月5日、伊藤博文暗殺事件からは2ヶ月以上が経っていた。日本国内での一般向けの上映は、さらにそれから1ヶ月近く経ってからのことだった。

 

 1904〜5年の日露戦争以降、日本国内でも写真印刷技術が進み、新聞は数日遅れで写真が掲載できるようになり、写真ニュースの役割も担っていた絵葉書も原版入手から3日〜1週間程度で印刷・販売ができるようになっていた。活動写真も、撮影からかなりの短時間で上映できるようになっていた。さらに、国内はもとより、世界各地での出来事のフィルムが数週間で国外にも販売・配給が可能な体制へと移りつつあった。

 

 そうした中で、コプツォフが撮影した伊藤博文の暗殺映像の日本国内上映が、事件発生から3ヶ月後というのは、かなり時間がかかっている。その間の事情を調べてみたら、伊藤博文の国葬の活動写真に関しても興味深い事情がわかってきた。ここでまとめておこう。

 

◆コプツォフのロシア上映資料

 実は、コプツォフは自身が撮影したフィルムを日本に運ぶ前、1909年の11月から12月にかけて自分の撮ったフィルムをヨーロッパロシアのバクーとカザンで上映する準備をしていた。それが、コプツォフが自分で日本に運搬する12月末から1月初旬にかけて上映されたとの記録が残っている。

 

 この事実は、2015年1月に放送されたKBSの番組取材の中で資料とともに紹介された。1947年に著述され1996年に出版されたV.E.ヴィシュネフスキー『革命前のロシアのドキュメンタリー映画 1907-1916』の中に、コプツォフの映画「伊藤公爵の殺害」が、1910年1月4日にバクー(現在のアゼルバイジャンの首都)で、さらに1月19日にカザンで上映されたとの記述がある。

 

420. ハルビン駅での伊藤侯爵の暗殺と日本での葬儀(伊藤公の暗殺)
記録映画 300m P.V.コブツォフ  公開:1909年12月22日(バクー)  1910年1月6日(カザン)
 撮影(10月13日)P.V.コブツォフ、暗殺の全場面を記録した唯一の目撃者である映画撮影者であり、襲撃、暗殺、そしてその後の遺体の送還や葬儀などのシーンを撮影した。映画は全部で27の撮影シーンで構成されている。伊藤公のハルビン到着、駅での歓迎、伊藤公とロシア財務大臣ココツェフが儀仗兵を閲兵、伊藤公の悲劇的な暗殺、伊藤公の遺体を載せた列車の出発、共犯の疑いがかけられた朝鮮人たちの旅順への送致、伊藤公の遺体が日本の横須賀港に到着…

(日付表記はロシア暦:現行の西暦日付と-13日の差がある)

 KBS取材班は、カザンの資料館で見つけた1910年1月18日付の新聞『カザン・テレグラフ』に掲載された映画の広告と内容紹介を番組内で映像とともに紹介している。

 

KBS番組からのキャプチャー画像

 

 映画の内容を紹介した記事(下段画像)によれば、ハルビン駅で伊藤博文が安重根に撃たれた動画に加えて、その後伊藤博文の遺体が巡洋艦秋津洲あきつしまで横須賀港に到着する場面から、11月4日に日比谷公園で行われた国葬、その後の墓所での埋葬の様子も写っているとされている。さらに、この記事では、

伊藤公爵の棺の後ろにノギ将軍、トウゴウ、イトウ、カミムラなど
白い服を着た伊藤公爵の妻、ヤマガタ、オオヤマ、イノウエなどの元老

と、乃木希典、東郷平八郎、伊東祐亨、上村彦之丞、山縣有朋、大山巌、井上馨といった有力者の名前もロシア語で具体的に表記されている。

 

 KBSの取材チームは、モスクワのロシア国立映画写真資料文書館で、伊藤博文の国葬のフィルムを確認した。2015年1月13日放送の「時事企画 解放70周年特集’銃撃の瞬間’を誰が隠したか?」のナレーションではこのように紹介している。

 

軍人たちの行進、伊藤博文の遺家族、勲章を捧げ持つ将軍たち。取材チームがカザンで確認した内容と同じ。コブツォフが撮影した映像に間違いない。

 この映像は、NHKが1996年2月17日に放送した「映像の世紀 JAPAN 第11集」でも使われている。場面の順序は入れ替わっているが、これは同一の映像である。

 

 

 この映像を所蔵するロシア国立映画写真資料文書館のカードには次のように記載されている。


KBS番組からのキャプチャー画像

東京における伊藤公の葬儀

白黒 映画 第1部

撮影技師 П.В. コプツォフ

制作 ブラザース・パテー社

 ヴィシュネフスキーの著作には「(コプツォフが)遺体の送還や葬儀などのシーンを撮影した」とあり、この所蔵カードにも撮影技師 P.V.コプツォフ」とあることから、KBSの番組では、この伊藤博文の東京での国葬のフィルムは、コプツォフが日本に渡って撮影したものとしている。つまり、コプツォフは、ハルビンで安重根による伊藤博文銃撃映像を撮影し、その後の東京での伊藤博文の国葬までの一連のフィルムもコプツォフが日本で撮影したと断定したのである。ロシア国立映画写真資料文書館副館長R.M.モイセーエワも、このKBSの見解を追認して、コブツォフが撮影したフィルムの一部がパテ兄弟社の映画「伊藤侯爵の葬儀」に使用されたとしている(ロシアと韓国の対話フォーラム挨拶)。

 

 しかし、コプツォフが伊藤の遺体の横須賀到着から国葬までを日本で撮影したというのはどう考えても無理がある。伊藤博文の遺体が、巡洋艦秋津洲で横須賀に運ばれることが公表されたのは10月29日、遺体が横須賀に到着したのは11月1日早朝。スケジュールの公表以前にコプツォフがハルビンを出て日本に向かったとしても、11月1日に横須賀港でカメラを回すことは不可能だ。それに、この時期、頼母木桂吉のフォルム買付交渉も行われていて「十一月五日に至り一萬五千圓位ならば譲渡を得べき見込みありと傳へ來り」(後月山人『鳴呼伊藤公爵』)とある。つまり、コプツォフが日本で伊藤博文の国葬を撮影するのは時間的にも状況的にもあり得ない。

 

◆伊藤博文国葬の活動写真

 では、このロシアに現存する伊藤博文の国葬の映像はどのように撮られたものなのか。

 

 伊藤博文の国葬を撮った活動写真については、東京神田の梅屋庄吉のエム・パテ商会が撮影したものがあったことが知られている。日比谷公園の国葬会場での活動写真の撮影許可が出なかったため、国葬の前日に公園内の松本楼にカメラを隠しておいて、当日の朝、梅屋庄吉とカメラマンの男沢粛が燕尾服にシルクハットという格好で会場に潜入して撮影したという男沢粛の回想談が残っている(車田譲治 著『国父孫文と梅屋庄吉 : 中国に捧げたある日本人の生涯』六興出版 1975)。宮内省 の職員に制止されてフィルムを没収されそうになったが、未撮影のフィルムを渡して撮影フィルムを持ち出したという。この映画は11月27日から神保町の新聲館などで上映された。エム・パテのこの国葬の活動写真上映に関しては12月1日付の『都新聞』がこのように伝えている。

神田新聲舘の活動寫眞は去る二十七日より開演し史劇愛と罪と云ふ最長尺物の外數種日本演劇には人の親及び喜劇寫眞の間違の外に伊藤公爵の靈柩到着と國葬の實況電氣舞踊もありて相變らず每夜盛況なりと

 日比谷公園での伊藤博文の国葬会場の参列者には、洋装喪服のドレスコードがあって、和装の正装の人が入場できなかったというエピソードも伝えられている。ところが、ロシアに現存する伊藤博文の国葬の葬列の画像を見ると、沿道には洋装の喪服姿の女性もいるが、大半は和服姿の女性や男性、それに子供の姿も多い。明らかに、国葬会場内での映像ではなく、霊南坂の官邸から日比谷公園に向かう途中の道筋で撮影されたもの。となると、これはエム・パテの映像ではないということになる。

 

 

 今回、資料検索を繰り返す中で、男沢粛が撮ったものとは別のフィルムが撮影され上映されていたことが判明した。京都の横田永之助の横田商会が、伊藤博文の柩が横須賀に到着するところから国葬の日の日比谷の沿道の様子を撮ったフィルムを、いち早く11月10日から京都南座で上映していた。国葬から6日で活動写真を劇場で上映したというのは、当時としては驚異的なスピードである。

 

 1909年11月13日の『大阪朝日新聞京都付録』に次のような記事がある。

南座今囘の活動寫眞呼びものは伊藤公爵の國葬である、明治の元勳が國葬の大盛儀、東京で行はれしを座して京都に觀られるとは有難い御代である、橫須賀着柩の模樣は甚だ鮮明に出て靈柩通過の際は或る一種の靈氣に打たれるやうな氣がする、葬儀當日は雨天でもあつたし寫眞は少しく薄ボンヤリしてゐるが、日比谷のあたり儀仗の兵整列して百官靜かに付き隨ふ狀は、寫眞薄さがゆゑに殊に嚴肅を覺えて淚一入に多い

 横田永之助は、パリの万国博覧会に京都府出品委員の1人としてパリに派遣され、この時に世界の映像市場で最大のシェアを占めることになるパテ兄弟社と、フィルム提供について正式の契約を交わしていた。1909年に横田商会が撮影し、いち早く京都南座で上映した伊藤博文の国葬関連の映像も、パテ兄弟社の提供網で国外にも供給されたものと思われる。それが、ロシア国立映画写真資料文書館のカードに「制作:パテ兄弟社」と記載され、買い取って所有していたP.V.コプツォフの名前が撮影技師という肩書きとともに記録されて保管されていると推測すると、それなりに筋が通る。神田のエム・パテ社もパテ兄弟社のパテを冠してはいたが、こちらは無断借用したものだったという。ロシアに現存する伊藤博文の国葬のフィルムは、京都の横田商会が撮影・上映・販売したものであろう。

 

◆バクーとカザンでの上映

 コプツォフは、10月26日にハルビンで撮影したフィルムの売却交渉を頼母木桂吉と進める一方で、撮影当初からヨーロッパロシアでの上映を計画していたようだ。

コゝフツオフが哈爾賓に來遊したのであるが、自分はコゝフツオフだけでは興味が少いから寫眞を撮らうとは思はなかった然るに間もなく伊藤公爵の來遊と云ふことになった公は親露主義の人でもあり、何か重大なる會見があるのだらうと思つて、實は興味を持ってその寫眞を撮らうと思い高い足場を作ってプラツトオームで待った。汽車が着いたとき なんでもこの寫眞を完全に撮って露西亞人に見せてやろうと、他の事は考へずに撮影機のハンドルを廽はして…

(『京城新報』1910年2月13日掲載 国技館観覧記)

 その結果、バクーとカザンで、自分の撮影した10月26日のハルビンの映像を上映したが、『カザン・テレグラフ』の記事によれば、そこでは伊藤博文の遺体の横須賀到着から日比谷公園での国葬の映像も使われていたと思われる。伊藤の遺体の横須賀到着から国葬・埋葬の映像は、パテ兄弟社のルートで販売された横田商会の映像が使われたのではなかろうか。

 

 コプツォフは、ハルビンに来る前はヨーロッパロシアのロストフで活動写真を撮影・上映していた。ドン川東側のロストフはボルゴグラードからヴォルガ川沿いにカザンとつながっており、バクーとは軍用道路の道筋でつながっていた。

 

 バクーとカザンでの上映の下準備ができると、コプツォフ本人は、極東ロシアに戻り、1月3日にフィルムの原版を持ってウラジオストクからモンゴリア号に乗船して5日に敦賀に上陸した。ウラジオストクからの乗船の前に、ハルビンのボルトスムート劇場での上映の手はずを整えた。1910年1月4日にバクーで、1月11日からハルビンで、そして1月19日にカザンで上映された。バクーとカザンでは、横田商会が撮影した伊藤博文遺体到着から国葬までのフィルムと抱き合わせで上映された。ただ日本ではもちろん、ハルビンでも伊藤博文国葬のフィルムの上映は一切やっていない。日本やハルビンでの上映権は横田商会が持っていたためであろう。

 

 コプツォフ自身、ハルビンで撮影したフィルムだけでは観客は納得しないかもしれないと思っていたのだろう。それもあって、バクーとカザンでは横田商会の国葬フィルムと抱き合わせで上映し、それができない日本での上映には、自らが講演者として登壇するために日本にまでやってきて両国国技館での上映から京都南座での上映までほぼ2ヶ月間日本に滞在したものと考えられる。

 

◆エピローグ

 こうした経緯で、バクーとカザンで使われた伊藤博文の国葬のフィルムがロシア国立映画写真資料文書館に残されることになった。コプツォフがハルビンで撮影した伊藤博文銃撃現場の映像が残されていないのは不可解だが、頼母木桂吉との間で交わした契約条件

その條件はコプツエフ氏所有資産を擔保とし若し原版以外に一本たりとも同寫眞の頒布を見たる曉は同氏の抵當資産を没收する契約

(12月1日付『東京朝日新聞』)

この契約内容に沿って残さなかったとも考えられる。

 

 ただ、コプツォフ自身は、手元には自分が撮影したフィルムを残しており、それが1935年になってハルビンのニコライ・コプツォフのところから発見された。その一部が1941年に制作された映画「ニュース映画発達史 躍進のあと」に収録されて、今日まで伝わっている。

 

 1909年の安重根による伊藤博文の暗殺に関する貴重な活動写真のフィルムは、このような数奇な運命を辿って今日まで伝わってきているのである。

 


 

 ちなみに、伊藤博文の国葬から10年経った1919年3月、朝鮮の高宗コジョン皇帝(李太王)の葬儀が国葬として京城で行われた。しかしこの国葬では、活動写真の撮影が禁じられた。スチール写真は内地からも押しかけて盛んに絵葉書が出たのだが…。なぜ活動写真の撮影を禁止したのかはわからない。

 

 ところが7年後、1926年に純宗スンジョン皇帝(李王)が逝去して国葬を行なった時には、一転して朝鮮総督府が積極的に国葬の活動写真を撮って植民地統治のための懐柔の手段として利用している。

 

 

(抜粋版)

長いバージョンはこちら

 

 

 現代でも日本では「国葬」が極めて政略的で国民を惑わす手立てとして使われているし、その映像もその時代の統治層の思惑に左右されて利用されるということなのだろう。