1909年10月ハルビン駅の活動写真の番外編
1909年10月26日にハルビン駅で伊藤博文が安重根によって銃撃される現場を撮影したコプツォフのフィルムが日本に到着したのは、頼母木桂吉が原版の独占契約を結んでから1ヶ月以上経過した翌年の1月5日、伊藤博文暗殺事件からは2ヶ月以上が経っていた。日本国内での一般向けの上映は、さらにそれから1ヶ月近く経ってからのことだった。
1904〜5年の日露戦争以降、日本国内でも写真印刷技術が進み、新聞は数日遅れで写真が掲載できるようになり、写真ニュースの役割も担っていた絵葉書も原版入手から3日〜1週間程度で印刷・販売ができるようになっていた。活動写真も、撮影からかなりの短時間で上映できるようになっていた。さらに、国内はもとより、世界各地での出来事のフィルムが数週間で国外にも販売・配給が可能な体制へと移りつつあった。
そうした中で、コプツォフが撮影した伊藤博文の暗殺映像の日本国内上映が、事件発生から3ヶ月後というのは、かなり時間がかかっている。その間の事情を調べてみたら、伊藤博文の国葬の活動写真に関しても興味深い事情がわかってきた。ここでまとめておこう。
◆コプツォフのロシア上映資料
実は、コプツォフは自身が撮影したフィルムを日本に運ぶ前、1909年の11月から12月にかけて自分の撮ったフィルムをヨーロッパロシアのバクーとカザンで上映する準備をしていた。それが、コプツォフが自分で日本に運搬する12月末から1月初旬にかけて上映されたとの記録が残っている。
この事実は、2015年1月に放送されたKBSの番組取材の中で資料とともに紹介された。1947年に著述され1996年に出版されたV.E.ヴィシュネフスキー『革命前のロシアのドキュメンタリー映画 1907-1916』の中に、コプツォフの映画「伊藤公爵の殺害」が、1910年1月4日にバクー(現在のアゼルバイジャンの首都)で、さらに1月19日にカザンで上映されたとの記述がある。

420. ハルビン駅での伊藤侯爵の暗殺と日本での葬儀(伊藤公の暗殺)
記録映画 300m P.V.コブツォフ 公開:1909年12月22日(バクー) 1910年1月6日(カザン)
撮影(10月13日)P.V.コブツォフ、暗殺の全場面を記録した唯一の目撃者である映画撮影者であり、襲撃、暗殺、そしてその後の遺体の送還や葬儀などのシーンを撮影した。映画は全部で27の撮影シーンで構成されている。伊藤公のハルビン到着、駅での歓迎、伊藤公とロシア財務大臣ココツェフが儀仗兵を閲兵、伊藤公の悲劇的な暗殺、伊藤公の遺体を載せた列車の出発、共犯の疑いがかけられた朝鮮人たちの旅順への送致、伊藤公の遺体が日本の横須賀港に到着…
(日付表記はロシア暦:現行の西暦日付と-13日の差がある)
KBS取材班は、カザンの資料館で見つけた1910年1月18日付の新聞『カザン・テレグラフ』に掲載された映画の広告と内容紹介を番組内で映像とともに紹介している。

KBS番組からのキャプチャー画像
映画の内容を紹介した記事(下段画像)によれば、ハルビン駅で伊藤博文が安重根に撃たれた動画に加えて、その後伊藤博文の遺体が巡洋艦秋津洲で横須賀港に到着する場面から、11月4日に日比谷公園で行われた国葬、その後の墓所での埋葬の様子も写っているとされている。さらに、この記事では、
伊藤公爵の棺の後ろにノギ将軍、トウゴウ、イトウ、カミムラなど
白い服を着た伊藤公爵の妻、ヤマガタ、オオヤマ、イノウエなどの元老
と、乃木希典、東郷平八郎、伊東祐亨、上村彦之丞、山縣有朋、大山巌、井上馨といった有力者の名前もロシア語で具体的に表記されている。
KBSの取材チームは、モスクワのロシア国立映画写真資料文書館で、伊藤博文の国葬のフィルムを確認した。2015年1月13日放送の「時事企画 解放70周年特集’銃撃の瞬間’を誰が隠したか?」のナレーションではこのように紹介している。
軍人たちの行進、伊藤博文の遺家族、勲章を捧げ持つ将軍たち。取材チームがカザンで確認した内容と同じ。コブツォフが撮影した映像に間違いない。
この映像は、NHKが1996年2月17日に放送した「映像の世紀 JAPAN 第11集」でも使われている。場面の順序は入れ替わっているが、これは同一の映像である。
この映像を所蔵するロシア国立映画写真資料文書館のカードには次のように記載されている。

KBS番組からのキャプチャー画像
東京における伊藤公の葬儀
白黒 映画 第1部
撮影技師 П.В. コプツォフ
制作 ブラザース・パテー社
ヴィシュネフスキーの著作には「(コプツォフが)遺体の送還や葬儀などのシーンを撮影した」とあり、この所蔵カードにも撮影技師 P.V.コプツォフ」とあることから、KBSの番組では、この伊藤博文の東京での国葬のフィルムは、コプツォフが日本に渡って撮影したものとしている。つまり、コプツォフは、ハルビンで安重根による伊藤博文銃撃映像を撮影し、その後の東京での伊藤博文の国葬までの一連のフィルムもコプツォフが日本で撮影したと断定したのである。ロシア国立映画写真資料文書館副館長R.M.モイセーエワも、このKBSの見解を追認して、コブツォフが撮影したフィルムの一部がパテ兄弟社の映画「伊藤侯爵の葬儀」に使用されたとしている(ロシアと韓国の対話フォーラム挨拶)。
しかし、コプツォフが伊藤の遺体の横須賀到着から国葬までを日本で撮影したというのはどう考えても無理がある。伊藤博文の遺体が、巡洋艦秋津洲で横須賀に運ばれることが公表されたのは10月29日、遺体が横須賀に到着したのは11月1日早朝。スケジュールの公表以前にコプツォフがハルビンを出て日本に向かったとしても、11月1日に横須賀港でカメラを回すことは不可能だ。それに、この時期、頼母木桂吉のフォルム買付交渉も行われていて「十一月五日に至り一萬五千圓位ならば譲渡を得べき見込みありと傳へ來り」(後月山人『鳴呼伊藤公爵』)とある。つまり、コプツォフが日本で伊藤博文の国葬を撮影するのは時間的にも状況的にもあり得ない。
◆伊藤博文国葬の活動写真
では、このロシアに現存する伊藤博文の国葬の映像はどのように撮られたものなのか。
伊藤博文の国葬を撮った活動写真については、東京神田の梅屋庄吉のエム・パテ商会が撮影したものがあったことが知られている。日比谷公園の国葬会場での活動写真の撮影許可が出なかったため、国葬の前日に公園内の松本楼にカメラを隠しておいて、当日の朝、梅屋庄吉とカメラマンの男沢粛が燕尾服にシルクハットという格好で会場に潜入して撮影したという男沢粛の回想談が残っている(車田譲治 著『国父孫文と梅屋庄吉 : 中国に捧げたある日本人の生涯』六興出版 1975)。宮内省 の職員に制止されてフィルムを没収されそうになったが、未撮影のフィルムを渡して撮影フィルムを持ち出したという。この映画は11月27日から神保町の新聲館などで上映された。エム・パテのこの国葬の活動写真上映に関しては12月1日付の『都新聞』がこのように伝えている。
神田新聲舘の活動寫眞は去る二十七日より開演し史劇愛と罪と云ふ最長尺物の外數種日本演劇には人の親及び喜劇寫眞の間違の外に伊藤公爵の靈柩到着と國葬の實況電氣舞踊もありて相變らず每夜盛況なりと
日比谷公園での伊藤博文の国葬会場の参列者には、洋装喪服のドレスコードがあって、和装の正装の人が入場できなかったというエピソードも伝えられている。ところが、ロシアに現存する伊藤博文の国葬の葬列の画像を見ると、沿道には洋装の喪服姿の女性もいるが、大半は和服姿の女性や男性、それに子供の姿も多い。明らかに、国葬会場内での映像ではなく、霊南坂の官邸から日比谷公園に向かう途中の道筋で撮影されたもの。となると、これはエム・パテの映像ではないということになる。

今回、資料検索を繰り返す中で、男沢粛が撮ったものとは別のフィルムが撮影され上映されていたことが判明した。京都の横田永之助の横田商会が、伊藤博文の柩が横須賀に到着するところから国葬の日の日比谷の沿道の様子を撮ったフィルムを、いち早く11月10日から京都南座で上映していた。国葬から6日で活動写真を劇場で上映したというのは、当時としては驚異的なスピードである。
1909年11月13日の『大阪朝日新聞京都付録』に次のような記事がある。
南座今囘の活動寫眞呼びものは伊藤公爵の國葬である、明治の元勳が國葬の大盛儀、東京で行はれしを座して京都に觀られるとは有難い御代である、橫須賀着柩の模樣は甚だ鮮明に出て靈柩通過の際は或る一種の靈氣に打たれるやうな氣がする、葬儀當日は雨天でもあつたし寫眞は少しく薄ボンヤリしてゐるが、日比谷のあたり儀仗の兵整列して百官靜かに付き隨ふ狀は、寫眞薄さがゆゑに殊に嚴肅を覺えて淚一入に多い
横田永之助は、パリの万国博覧会に京都府出品委員の1人としてパリに派遣され、この時に世界の映像市場で最大のシェアを占めることになるパテ兄弟社と、フィルム提供について正式の契約を交わしていた。1909年に横田商会が撮影し、いち早く京都南座で上映した伊藤博文の国葬関連の映像も、パテ兄弟社の提供網で国外にも供給されたものと思われる。それが、ロシア国立映画写真資料文書館のカードに「制作:パテ兄弟社」と記載され、買い取って所有していたP.V.コプツォフの名前が撮影技師という肩書きとともに記録されて保管されていると推測すると、それなりに筋が通る。神田のエム・パテ社もパテ兄弟社のパテを冠してはいたが、こちらは無断借用したものだったという。ロシアに現存する伊藤博文の国葬のフィルムは、京都の横田商会が撮影・上映・販売したものであろう。
◆バクーとカザンでの上映
コプツォフは、10月26日にハルビンで撮影したフィルムの売却交渉を頼母木桂吉と進める一方で、撮影当初からヨーロッパロシアでの上映を計画していたようだ。
コゝフツオフが哈爾賓に來遊したのであるが、自分はコゝフツオフだけでは興味が少いから寫眞を撮らうとは思はなかった然るに間もなく伊藤公爵の來遊と云ふことになった公は親露主義の人でもあり、何か重大なる會見があるのだらうと思つて、實は興味を持ってその寫眞を撮らうと思い高い足場を作ってプラツトオームで待った。汽車が着いたとき なんでもこの寫眞を完全に撮って露西亞人に見せてやろうと、他の事は考へずに撮影機のハンドルを廽はして…
(『京城新報』1910年2月13日掲載 国技館観覧記)
その結果、バクーとカザンで、自分の撮影した10月26日のハルビンの映像を上映したが、『カザン・テレグラフ』の記事によれば、そこでは伊藤博文の遺体の横須賀到着から日比谷公園での国葬の映像も使われていたと思われる。伊藤の遺体の横須賀到着から国葬・埋葬の映像は、パテ兄弟社のルートで販売された横田商会の映像が使われたのではなかろうか。
コプツォフは、ハルビンに来る前はヨーロッパロシアのロストフで活動写真を撮影・上映していた。ドン川東側のロストフはボルゴグラードからヴォルガ川沿いにカザンとつながっており、バクーとは軍用道路の道筋でつながっていた。

バクーとカザンでの上映の下準備ができると、コプツォフ本人は、極東ロシアに戻り、1月3日にフィルムの原版を持ってウラジオストクからモンゴリア号に乗船して5日に敦賀に上陸した。ウラジオストクからの乗船の前に、ハルビンのボルトスムート劇場での上映の手はずを整えた。1910年1月4日にバクーで、1月11日からハルビンで、そして1月19日にカザンで上映された。バクーとカザンでは、横田商会が撮影した伊藤博文遺体到着から国葬までのフィルムと抱き合わせで上映された。ただ日本ではもちろん、ハルビンでも伊藤博文国葬のフィルムの上映は一切やっていない。日本やハルビンでの上映権は横田商会が持っていたためであろう。
コプツォフ自身、ハルビンで撮影したフィルムだけでは観客は納得しないかもしれないと思っていたのだろう。それもあって、バクーとカザンでは横田商会の国葬フィルムと抱き合わせで上映し、それができない日本での上映には、自らが講演者として登壇するために日本にまでやってきて両国国技館での上映から京都南座での上映までほぼ2ヶ月間日本に滞在したものと考えられる。
◆エピローグ
こうした経緯で、バクーとカザンで使われた伊藤博文の国葬のフィルムがロシア国立映画写真資料文書館に残されることになった。コプツォフがハルビンで撮影した伊藤博文銃撃現場の映像が残されていないのは不可解だが、頼母木桂吉との間で交わした契約条件
その條件はコプツエフ氏所有資産を擔保とし若し原版以外に一本たりとも同寫眞の頒布を見たる曉は同氏の抵當資産を没收する契約
(12月1日付『東京朝日新聞』)
この契約内容に沿って残さなかったとも考えられる。
ただ、コプツォフ自身は、手元には自分が撮影したフィルムを残しており、それが1935年になってハルビンのニコライ・コプツォフのところから発見された。その一部が1941年に制作された映画「ニュース映画発達史 躍進のあと」に収録されて、今日まで伝わっている。
1909年の安重根による伊藤博文の暗殺に関する貴重な活動写真のフィルムは、このような数奇な運命を辿って今日まで伝わってきているのである。
ちなみに、伊藤博文の国葬から10年経った1919年3月、朝鮮の高宗皇帝(李太王)の葬儀が国葬として京城で行われた。しかしこの国葬では、活動写真の撮影が禁じられた。スチール写真は内地からも押しかけて盛んに絵葉書が出たのだが…。なぜ活動写真の撮影を禁止したのかはわからない。

ところが7年後、1926年に純宗皇帝(李王)が逝去して国葬を行なった時には、一転して朝鮮総督府が積極的に国葬の活動写真を撮って植民地統治のための懐柔の手段として利用している。

(抜粋版)
現代でも日本では「国葬」が極めて政略的で国民を惑わす手立てとして使われているし、その映像もその時代の統治層の思惑に左右されて利用されるということなのだろう。