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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

映画「南山の部長たち」にまつわる話をいくつかご披露。
第3弾の今回はお酒。

 

 

 マッコリは、米や小麦などの穀物を蒸して麹と水を混ぜて発酵させて作る。発酵が終わった酒を濾過して酒粕を除いた透明な酒が清酒で、酒粕が一部含まれている濁った状態のものがマッコリ。韓国の酒税法上では、アルコール13度未満は薬酒、14〜25度で酵母の含有量が1%以下が清酒に分類される。マッコリの中でも、まだ発酵し続けていて米粒が浮いた状態のものはドンドン酒と呼ばれる。

 (『京郷キョンヒャン新聞』2016年9月19日余滴「マッコリの変身」より)

 

 

 私は、1976年に厚岩洞フアムドンから南山ナムサンにちょっと上がったところの店で、床下のカメからすくったマッコルリを飲んだ。たいしてうまくなかった。

 

 実は、私が初めて飲んだこの時期は、米でマッコリを作るのは禁じられ、小麦ととうもろこしを原料として作られていた。私が飲んだのもその手のマッコリだったのだろう。1960〜70年代の韓国は、米不足が深刻だった。

 

 1977年になって、朴正煕パクチョンヒ政権は米のマッコリの醸造を認めるという方針を打ち出した。11月8日の『東亜トンア日報』の1面トップは、このマッコリの記事である。いかに待ち焦がれていたかがわかる。しかし、まだ米不足が解消していたわけではない。独裁政治への民衆の不満解消という政権の思惑もあったのだろう。

米のマッコリ 14年ぶりに復活

来年1月から販売

 

 

 米のマッコリが禁じられたのは1964年。1月24日付の『朝鮮チョソン日報』は、朴正煕が提唱した「糧穀節約汎国民運動」について、このように書いている。

結婚式のお返しにお菓子や夕食を振る舞ってはいけない。マッコリや薬酒を醸す時は米を混ぜてはいけない。列車食堂では「パン」しか食べられず、クッパなど汁物飯には1割以上の麺が入る。一般家庭でもできるだけ粉食と代用食にする。それがこの「運動」だ。

 これによって、米を使ったマッコリの製造が禁じられ、マッコリの原料である米麹の製造もできなくなった。マッコリは、小麦粉80%、とうもろこし20%で醸造された。

 

 

 米のマッコリを禁じた朴正煕大統領だが、実はマッコリを好んだ「マッコリマニア」だったといわれている。

 映画「南山の部長たち」でも、朴正煕がマッコリを飲む場面が出てくる。

 

 マッコリにサイダーをそそいで飲む「マクサ(막걸리+사이다=막사)」の場面が話題にもなった。

 

 

 ここでの大統領のセリフは、

우리 오랜만에 막사나 한잔할까?
이게 막걸리와 사이다의 비율이 중요해.

・・・・
예전 같지 않구만..

久しぶりにマクサでも一杯やるか

これは、マッコリとサイダーの比率が重要だ

・・・・

昔の味じゃないな

 「比率が重要」などと講釈をたれてはいるが、「久しぶり」と言っているから、すでにマッコリにサイダーを入れて飲んだりはしてなかったという設定だ。そして、一口飲んでみてのセリフは「昔の味じゃない」。

 その後に、軍隊での話が出てくる。朴正煕が第5師団長になるのは1955年7月。そのあと金載圭が第36連隊長になっている。まだ、クーデター前の話である。

 

 朝鮮戦争直後の物不足で貧しい時代。不味いマッコリしかない時代には、師団長や連隊長でもサイダーを入れて飲んだりしていたのか。小麦やとうもろこしのマッコリしか飲めないようにしてしまって、大統領自身もマッコリにサイダーを入れて飲んだりしてたのか…などと思った。

 

 ところが、朴正煕は自分だけは米で醸した特製のマッコリを飲んでいたのである。

 

 2009年10月15日の中央チュンアン日報電子版に、「朴正煕大統領がサポートしてくれたマッコリ」というタイトルの記事がある。釜山プサン金井山城クムジョンサンソン東門トンムンハルモニの米麹マッコリがお気に入りだった朴正煕が、「伝統酒をたやしてはいかん」と特別に米で作ることを認めてくれ、この集落では、朴正煕は恩人だとされているというのだ。さらに、このマッコリをKCIAの要員が秘密裏に大統領官邸に運んでいたという。

 

 また、2011年10月26日入力の『韓国経済マガジン』には、「朴正煕大統領のマッコリ、味見しますか?」という記事がある。

 高陽コヤン市のペダリマッコリのパクサンビン社長のインタビューをもとにした記事で、1963年8月の幸州山城ヘンジュサンソン大捷碑竣工式で、当時国家再建最高会議議長だった朴正煕に初めて自社のマッコリを提供したという。米麹のマッコリである。その後、週末に金玄玉キムヒョノクソウル市長などと漢陽ハニャンゴルフ場でゴルフをした帰りに立ち寄ってはマッコリを飲んだという。

 青瓦台にも定期的に納品しており、青瓦台御用達のマッコリを作るためだけの特設の醗酵室が設けられていたという。

 

 「マッコリマニア」といわれ、しかも自分だけは米麹から作られた上等で美味しいマッコリを飲んでいた大統領が、果たしてそのマッコリにサイダーを入れて飲んでただろうか。

 

 1970年代から80年代には、貧乏学生や軍部隊の兵隊が、安くてまずいマッコリを飲むときにサイダーを入れていたという。安物のマッコリは炭酸のシュワシュワ感がなく甘味もないためだ。

 朴正煕も、大統領になりたての60年代には、地方の農村視察などで、一般大衆が口にするマッコリを飲まざるを得ないこともあっただろう。そういう時には軍隊時代にやっていたようにサイダーを入れて飲んでみせることもあったのではなかろうか。

 

 上述の『京郷新聞』の「余滴:マッコリの変身」(2016年9月19日)記事では、このようにまとめている。

막걸리는 대중적인 술이다. 박정희 전 대통령은 맥주(비어)에 막걸리(탁주)를 섞은 ‘비탁’, 막걸리와 사이다를 섞은 ‘막사’를 즐긴 서민 대통령으로 알려져 있다. 그러나 쌀을 원료로 한 막걸리를 금지해 시민에게 밀막걸리를 마시게 했던 대통령 자신은 10년 넘게 특별 제조한 쌀막걸리를 마셨다. 게다가 죽기 전 술상에는 양주가 놓여 있었다. 막걸리가 연극정치의 도구로도 이용된 것이다.

 

マッコリは大衆的な酒である。朴正煕元大統領は、ビール(비어)にマッコリ(탁주)を混ぜた「ビタク(비탁)」、マッコリ(막걸리)とサイダー(사이다)を混ぜた「マクサ(막사)」を好んだ庶民大統領として知られている。しかし、米を原料としたマッコリを禁止して市民には小麦のマッコリを飲ませた大統領自身は、10年以上特別に製造した米マッコリを飲んでいた。それに、撃たれた時のテーブルには洋酒が置かれていた。マッコリは劇場政治の小道具として使用されたのだ。

 

 確かに、事件後の本人立ち合いの現場検証写真にはウイスキーの瓶が写っている。
 

 

 映画でも同じウイスキーの瓶が置かれている。

 

 

 これはシーバスリーガル。あの時代に韓国で人気の洋酒といえば、ジョニーウォーカー、ジョニ黒とかジョニ赤だったが、この事件現場の写真が公開されて以降、シーバスリーガルが一番人気になった。輸入洋酒は市販などされていない。しかし、政権幹部や財界にはルートがあるし、お金さえあれば闇ルートで何でも手に入った。一般庶民には手の届かない特権階級でのシーバスリーガル人気の話である。


 1997年12月11日の『朝鮮日報』は、事件現場の現場検証時の詳細なスケッチを掲載している。それには、シーバスリーガル(下図の)は描かれているが、マッコリは描かれていない。サイダーやヤカンもない。

 

 上述の『韓国経済マガジン』では、事件当日にも高陽のペダリマッコリは青瓦台に配達されていたと朴サンビン社長は語っている。このペダリマッコリは、事件前に厨房の外で警護官と運転手が飲んでいたという。

 

 

 今の「マクサ」は、2008年あたりから始まった「流行りの飲み方」ではないかと思う。

 その後、マッカリにソジュ・サイダーを入れた「マクソサ:막소사」などに発展した飲み方で、朴正煕の時代のマクサとは別系統なのではないかと思う。

 

 マクサの「マッコリとサイダーの美味しい比率は…」などと究極の追求をしてみるのも一興だろうが、やっぱり本当に美味しいマッコリはサイダーやビールなど入れない方が絶対に美味しい。

 

 1980年代の民衆の写真を見ても、マッコリはサイダーで飲むものではなく、勢いで飲むものだったと思う。

 

 

 朝鮮神宮のあった南山を1946〜47年に撮影した写真がある。まだ、鳥居と石段が残っている。

 

DesignerspartySeoul, Korea, 1946-1947photographer Cecil B. White

DesignerspartySeoul, Korea, 1946-1947photographer Cecil B. White

 

 8月15日正午に、ポツダム宣言受諾の天皇の放送があると、朝鮮神宮ではすぐに対応を協議、「神霊昇神儀」を行うものとし、翌日総督府関係官員参列のもとにこの儀式が行われた。要するに、たとえ壊されたとしても、もうそれは「神社にあらず」というかたちにしたのである。

 

 神社の関係者とか総督府の担当者は、日本が戦争に負けた途端に、日本が朝鮮に作った神社は朝鮮の人々の「仕返し」の標的にされると思っていたということだ。

 

 御神体は8月24日に汝矣島飛行場から日本に送り返した。その後、9月7日に旭町の建設業松山吉四郎に発注して朝鮮神宮正殿などの解体・焼却に着手した。しかし、その直後に京城に入ったアメリカ軍は工事の中止を命じた。朝鮮神宮と総督府の関係者が、朝鮮人に壊させるわけにはいかないとアメリカ軍政当局に泣きついて、建物の取り壊し許可を得て工事を再開し、10月7日に本殿の取り壊しを完了した。

(事実関係は森田芳夫『朝鮮終戦の記録 資料篇2』による)

 

 朝鮮神宮取り壊しの事実は、当時まだ京城で発刊されていた『京城日報』にわざわざ掲載させている。「いさぎよさ」を気取った虚勢である。


 朝鮮神宮の建物の主要部分は消滅したが、鳥居や参道の石段はそのまま放置され、米軍政府の管轄下に置かれた。

 

 いち早く反応したのはキリスト教団体である。神社参拝の強要に抵抗していたこともあり、この朝鮮神宮の跡地にキリスト教博物館とキリスト教各派の連合礼拝堂を建設するという計画を打ち出した。

 しかし、この計画はその後立ち消えになったらしい。基督教博物館だけは、金良善キムヤンソン牧師が独力で本殿跡地に建設して運営していた。後述する1959年の国会議事堂建設計画で博物館は消滅したが、収蔵品などは1967年に開館した崇実スンシル大学キリスト教博物館に引き継がれた。

 

 鳥居がそのまま立っていることには反発も強く、解放から1年目の8月には、米軍政長官ホッジ(John R. Hodge)に鳥居撤去の陳情があり、ラーチ(Archer Lerch)がアメリカ軍工兵隊に撤去作業を行わせると言明したとの記事もある。

 

 しかし、実際に鳥居が撤去されたのは、1947年6月6日に「帰属財産」の管轄権がソウル市に移譲されてからのことである。ソウル市は、米軍政庁からの移管を受けて、百数十万ウォンを投入して6月30日から市内57カ所の鳥居と皇国臣民誓詞塔を取り壊した。

 

 朝鮮神宮の鳥居は7月3日に解体された。

 

 デジタルデータで残っている『東亜日報』掲載の写真は、残念ながら判別不能である。

 

 「皇国臣民誓詞」が収められていた各所の塔は取り壊され、保管されていた数十万の誓詞は麻浦マポの刑務所(旧京城刑務所:現ソウル西部地方法院・検察庁)で再生処理された。

 

 1949年6月26日に、李承晩イスンマンと対立していた金九キムグが暗殺された。8月に「金九先生銅像建立推進委員会」は、旧朝鮮神宮の本殿前の広場に金九の銅像を建てることを決議した。しかし、「当局と交渉中」という報道があるだけで、その後について新聞報道がない。李承晩の政敵と目されていた金九の銅像は、この時は建立できなかったのであろう。いま南山の白凡ペクボム広場にある銅像はこの時のものではない(後述する)。

 

 朝鮮戦争休戦後、李承晩は「大統領は4年任期で2期まで」という憲法の規定を、初代大統領に限り適用しないように憲法を変えようとした。3期目をねらったのである。1954年11月の国会採決では賛成が135で、成立に必要な2/3に0.333…だけ足らなかった。しかし、これを「四捨五入すれば135が2/3となる」と詭弁を弄して、自身の3選出馬を可能にした。
 

 1956年5月の大統領選挙で、李承晩は3選を果たした。
 この年の8月15日、南山の旧朝鮮神宮跡地で李承晩大統領の銅像の除幕式が行われた。銅像の工事は、大統領選挙前の前年10月にすでに始まっていた。

 

 台座を含めると高さが25m弱(6階建ビル程度)、総工費は2億600万ウォン。今の貨幣価値に換算すると日本円10億円前後であろう。南山の中腹に突出した巨大な建造物であった。

 

 1959年になると、この朝鮮神宮跡地に国会議事堂を建設する計画が持ち上がった。

 大統領銅像の前の34000坪に建坪24000坪の国会議事堂を70億ウォンの予算を投入して1963年までに建設するというものである。

 1959年4月22日付けの『京郷新聞』は、前日に参道の階段を爆破処理するために工兵隊が準備作業をしているという記事とともに参道石段の写真を載せている。この時に石段は撤去された。

 

 起工式は、5月14日に李承晩大統領の巨大な銅像の前で盛大に行われた。

 

 


 

 1960年3月15日の大統領選挙で、4選を目指した李承晩は当選を果たした。しかし、選挙時の露骨な介入と不正が問題となり、抗議運動が広がった。4月19日に大統領官邸へ向かおうとするデモ隊と警察部隊が衝突し、警察の発砲で186人の死者を出した。李承晩は、4月26日に大統領辞任を表明し、5月29日にハワイへ亡命した。

 

 李承晩政権が崩壊すると、すぐに南山の銅像の撤去が決定された。

 撤去作業は、8月17日から始まり、数日間で銅像は台座から取り外された。同時に、ここに予定されていた国会議事堂の建設も中断し、結局議事堂新築は白紙化された。


 

 国会議事堂に変わって浮上してきたのが文化施設の建設と公園化案であった。

 

 下の地図は、実業之日本社のガイドブック『韓国』(1985年)に添付されている地図の一部だ。1980年代中盤の南山の旧朝鮮神宮跡地の配置がわかる。1985年の地図なので86年に設置された李始栄イシヨンの銅像はない。しかし、ちゃんと存在していた安重根アンジュングンの記念館が描かれていない(下のには私が描き入れてある)。そういえば、この頃のツアーガイドさんは景福宮の一番奥までは行かなかった。閔妃ミンビ殺害の碑と絵のある場所の手間でUターンすることになっていた。

 

それぞれの来歴を新聞記事でみていこう。

 

①1963年7月に旧参道石段を上がった下段のスペースに「南山野外音楽堂」が完成した。

 

②1965年の1月にソウル市の南山図書館が開館した。

 

 

 小公洞ソゴンドンにあったソウル市立図書館(南大門ナムデムン図書館)を南山に移したものである。


 

 京城府立図書館は、1922年10月に明治町2丁目(現在の明洞ミョンドン)の漢城病院跡に開館した。1927年5月に長谷川町旧大観亭テグァンジョン跡に移転し、1928年6月に完成した社会館の2階を閲覧室とした。

 

 ちなみに、図書館が移転したあとの建物は、朴正煕大統領の与党共和党コンファダンの中央党舎として使われた。その後1972年に共和党は南山図書館の道路を挟んだ向かいにビルを買ってここを党舎とした。1979年に朴正煕が殺害され、全斗煥チョンドゥファンが権力を握ると、共和党は党の資産を全斗煥の与党民正党ミンジョンダンに無償で譲渡した。ただ、中央党舎はイメージがよくないと民正党はソウル市にこれを売却して図書館に改修させた。これが現在の龍山ヨンサン図書館である。

 

③植物園などの市民公園化に着手されたのは1967年のことである。

 

④安重根記念館が開館したのは1970年9月。現在の記念館は、2010年にリニューアルオープンしたもので、位置は同じだが建物は完全に建て替えられている。

 安重根の銅像が最初に南山に建てられたのは1959年4月。ちょうど旧朝鮮神宮跡地で国会議事堂の新築工事が始まった時期である。この時は、安重根像は、南山といっても「外れたところ」に建てられた。安重根の銅像を建てる計画自体は早くから進められており、交通部の了解を得てソウル駅前に建てられるということになっていた。ところが銅像が完成した後に、設置場所が白紙化された。やむなく代替の場所探しに奔走し、京城神社跡に開校していた崇義スンウィ女子中学の裏手の斜面に銅像が建てられ、1959年4月末に除幕式が行われた。

 1966年になって、朴正煕政権からの特別資金と有志からの寄付によって、新しくできた南山の野外音楽堂の東側に銅像を移設できることになった。さらに、ここに安重根の遺品などの展示施設の設置の計画も具体化した。 

 

 1970年9月2日に安重根記念館が開館した。建物の前に立っているのがここに移されていた銅像である。

 この記念館の前には旗を手にした銅像があったのだが、2010年にリニューアルされた現在の記念館とその周辺には見当たらない。

 

⑤金九の銅像は、上述のように暗殺された直後にこの場所に立てようとする動きがあった。しかし、それは実現しないまま、李承晩の銅像がこの場所に建てられた。そして、政変で李承晩の銅像が倒された9年後に、金九の銅像がここに建てられたのである。

 銅像だけでなく、南山のこの一帯が、金九の号である「白凡」にちなんで「白凡広場」と命名された。

 

 いま、南山でソウル市内に向かって手を挙げているのは、大韓民国初代大統領李承晩の銅像ではなく、大統領の座に就くことなく凶弾に倒れた政治指導者の銅像なのである。

 

⑥国立中央図書館は、1974年に南山のこの場所にあったオリニ(子供)会館に移転した。オリニ会館は、1970年に新たにビルが建築されて7月25日に開館した。

 

 国立中央図書館の前身は、朝鮮総督府図書館で、解放後はそのまま蔵書資料などを引き継いで国立の図書館となった。もともとの場所は、現在のロッテショッピング駐車場のところで、現在はその駐車場の一角にプレートが設置されている。

 

 

 1973年から図書館の移転計画が持ち上がった。当時、広津区陵洞のゴルフ場跡に1973年5月5日にオープンしたオリニ大公園に隣接する場所に新築・移転が決まっていたオリニ会館の建物を図書館に転用することになった。

 

 その後、1988年に瑞草洞ソチョドンに建設された現在の国立中央図書館に移転し、建物はソウル市教育庁の科学展示館として使用されている。国立中央図書館は、朝鮮総督府図書館時代からの蔵書資料などもデジタル化してインターネット公開している。

 

⑦1986年、独立運動家の李始栄の銅像が金九の銅像の横に建てられた。

 

 

 

 以上が、解放以降、1980年代までの旧朝鮮神宮跡地の動きである。

 1990年代に入ると、南山の復元計画が活発になり、さらに大きく南山の姿が変わってきている。

 

 


追記:国立中央図書館の部分を修正(2021年2月1日)

映画「南山の部長たち」にまつわる考察。その2

 

 「安家アンガ」で、朴正煕パクチョンヒ大統領と車智澈チャジチョル警護室長を殺害した金載圭キムジェギュは、実際にはどのような経路でどこに向かったのか。

 

 事件が起きた時、「安家」には陸軍参謀総長の鄭昇和チョンスンファが金載圭を訪ねてきていた。金載圭は、鄭昇和を自分の執務室のある가棟に招き入れ、そこで第2次官補と食事をして待ってくれるよう伝えた。

 銃撃後、金載圭は鄭昇和を自分の公用車に乗せて秘書官の朴興柱パクフンジュを伴って事件現場を離れた。合同捜査本部の発表では、この時の金載圭はワイシャツ姿で靴を履いていなかったという。宴席のままの姿で、車の中で、秘書官朴興柱が携行していた予備の上着と靴で身なりを整えた。

 秘書官はいつも予備の上着と靴を持っていたわけではなく、たまたま持っていたらしい。

 

 映画の中のKCIA部長キム・ギュピョンは、いつの間にか上着を着て車に乗っている。ただ、靴は履いていなかった。

 

 この時点で、鄭昇和は、まだ金載圭が朴正煕と車智澈を撃ったことを知らない。ただならぬことが起きて大統領が死んだと伝えられていただけである。

 

 この時の金載圭の車の移動経路が11月6日付の『朝鮮日報』の号外に載っている。

 

 当時の道路状況に今日の地図上の目印をまじえてルートをたどると次のようになる。

 

 「安家」から紫霞門チャハムン路に出て内資洞ネジャドンの交差点(現在の地下鉄景福宮キョンボックン駅)方向に下る。光化門クァンファムンの前を右折して世宗路セジョンノに入り、光化門交差点を過ぎてコリアナホテルの前の三叉路を清渓川チョンゲッチョン方面に左折。まだ清渓川は覆蓋されたままで道路であった。広橋クァンギョ朝興チョフン銀行(現在の新韓シナン銀行)の前に三一サミル高架道路(清渓高架道路)への進入口があった①。

 ここから高架道路に上がって右車線を行って南山1号トンネル方面に向かう。退渓路テゲロと交わるところに右への出口があって②、大韓赤十字社の前に出る。その先のドラマセンターの角を左に入って行くとKCIAの南山庁舎に行ける。

 そこをそのまま直進すると、南山ケーブルカーの駅の前を通る南山循環道路になる。南大門ナムデムン方向の分岐を厚岩洞フアムドンの通りに入る。今のヒルトンホテル前の道路であるが、この時はまだホテルの場所はスラムのままだった。この厚岩洞の通りの右側に兵務庁ビョンムチョンがあった。解放直後に、植民地時代の金千代会館を国防部クッパンブにして、それがその後兵務庁になったものである。

 この通りを真っ直ぐ行くと龍山ヨンサン高校の正門がある。植民地時代の「龍山中学」である。ここを直進すると米軍基地のゲートがあって一般車両は進入禁止。

 しかし、政府や国家機関、外交関係の車両などで通行許可ステッカーがあれば基地内を通行できた。金載圭の乗ったKCIAの車両にもステッカーが貼ってあった。③から米軍基地の中に入り、三角地から梨泰院に通じる道川のゲートを出て、右折して陸軍参謀本部(陸本ユッポン)に到着した。参謀本部に隣接して国防部がある。

 いまは向かいに戦争記念館があるが、この当時は戦争記念館の場所も米軍基地だった。

 

 

 合同捜査本部の11月6日の発表文では、31高架道路方面に向かっていることを察知した鄭昇和が、どこに向かうのかと金載圭に尋ねたとなっている。地図で言えば、①の手前であろう。

 

 1979年10月26日は金曜日である。時間はまだ午後8時前。映画では、周りに車がないかのようになっているが、実際には退勤ラッシュの時間帯である。特に、市庁前から南大門、ソウル駅、漢江大路方向はかなり渋滞する。KCIAの部長車といえども先導車なしには渋滞の中を周りの車を蹴散らして走るわけにもいかない。

 三角地の参謀本部・国防部に行くにしても、31高架道路から南山を回って厚岩洞、そこから米軍基地を突っ切るのはよく使われたルートだった。

 他方、31高架道路は南山のKCIA庁舎に向かうルートでもあった。

 

 行く先を尋ねられた金載圭は、KCIAの南山庁舎に行くと答えた。しかし、鄭昇和は、国防部に隣接する参謀本部の方が非常事態への対処には適しているとして、参謀本部に向かうべきだと主張した。朴興柱もそれに同調し、金載圭も参謀本部に向かう決断をした。

 すなわち、②の手前で、南山庁舎ではなく三角地の参謀本部に向かうことを決断し、②の地点で左折せずに直進して三角地へ向かうよう指示した。午後8時5分には参謀本部に到着した。ほぼ20分で到着している。

 

 映画では、5車線の道で停車し、そこでUターンしている。しかし、実際の経路ではこんなに道幅のある道は通らないし、Uターンする必要もない。それに金曜日の午後8時にこんなに空いている道はソウル市内にはない。

 

 しかし、まぁ、そこは映画だから…。

 

 

 三角地の作戦司令室で金載圭は翌日未明に逮捕された。事件現場に居合わせた生存者である秘書室長金桂元キムゲウォンが、事後処理の過程での各閣僚や軍部首脳の動静を見極めて、金載圭が銃撃したことを告げたことが転機となった。

 

 1980年5月24日に西大門拘置所で金載圭の絞首刑が執行された。